日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

2020年「命の言葉」



2021年12月26日
降誕節第1主日
マタイ2:1~12
 
   4つの福音書のうちイエスさまの誕生の物語を記すのはマタイとルカです。彼らはただイエスさまの誕生を記しただけでなく、誰が礼拝しに来たかを記しています。それが重要なことだったからです。
 マタイは東方の占星術の学者が、占星術の知見によってユダヤ人の王の誕生を知って拝みに来たと記します。占星術を含め占いや魔術の類は律法によって禁止されています。彼らは「ユダヤ人の王」ということで、エルサレムにやってきて宮殿に参内します。ヘロデは驚いたでしょうが、祭司長たちや律法学者たちに預言について尋ねます。彼らはミカ書5:1を答えます。けれども、誰もベツレヘムに行こうとはしません。ユダヤ民衆はローマからの独立のために武装蜂起する集団を期待していましたが、ユダヤの指導層はローマやローマからユダヤの王権をもらっているヘロデとうまくやって甘い汁を吸っていたので、本音では現状維持を望んでいたようです。勿論ヘロデも。
 占星術の学者たちは宮殿で教わったとおり星に導かれてベツレヘムを目指し、幼子イエスにたどり着き、宝物を献げて礼拝しました。
 律法に定められた祭儀を執り行う祭司も、律法を民衆に教える律法学者も、救い主イエスにたどり着かず、律法で禁じられた占星術を使う者が独り子なる神を礼拝する者となりました。占いすらも信仰へ導くために用いる神を賛美します。
2021年12月19日
待降節第4主日
ヘブライ1:1~6
 
  ヘブライ人への手紙1:1~6は11項目にわたって神の御子イエス・キリストについて証しています。
 今日はその中で「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」ということについて、御心をたずねるように導かれています。
 神の栄光とは何でしょうか。一般的な用法で「栄光への道」とか「栄冠」というと、スポーツで厳しい練習を積んで強いライバルたちと戦って勝利を掴み取り、人々の称賛を受けるようになることを連想します。
 けれども神はどのようにして栄光ある者となられたか、天地とあらゆるものを創りだし、動きを与え、命を与えることによって栄光を示されました。神の栄光とは万物を愛し与えることです。そしてまた、そのような愛が神の本質でもあります。
 したがって、御子が神の本質の完全な現れであるとは、神の愛がイエス・キリストにおいて完全に現れているということです。6節にあるように神は御子イエス・キリストをこの世に送りました。神からどんどん離れて戻れなくなってしまった人を引き戻し、世界が壊されていくのを食い止めるためです。神の独り子であるイエス・キリストが自らの命を犠牲にすることによって、私たち人の罪を赦し、人々の中に神の愛を回復させるためです。あなたがイエス・キリストに示されている神の愛を受け入れるなら、今、あなたのクリスマスが、世界の歴史上ただ一つのクリスマスが、あなたの内に起こります。
 クリスマスを新エルサレムである教会で共に祝いつつ、各々がキリストの命を味わいましょう。
2021年12月12日
待降節第3主日
イザヤ書40:1~11
 
  イザヤ40章の冒頭の2節はヘンデルの「メサイア」2番、テノールの独唱"Comfort ye"で始まる部分です。歴史的にはバビロン捕囚の民に対する解放の告知です。神への背きの罪故に捕囚となっていたユダは刑期が満了し、苦役から解放されます。
 解放を告げ知らせる使者が遣わされます。使者の語る言葉が人間から出る言葉であれば、草花のようにいくら美しくてもやがて枯れて消えてしまいますが、神の言葉は永遠に残ります。
 さて、この使者はただ言葉を語るだけでしょうか。行為としては言葉を語るだけなのかもしれません。けれども5節には「主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」とあります。「肉なる者は共に」です。私たちは皆主の栄光の現れを見ます。主の栄光の現れとはヘブライ人への手紙1:3によれば「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」だと記されています。従って使者が示すのは刑の終了の告知だけでなく、神の本質の現れであるキリストを見せることです。
 キリストに先だって、洗礼者ヨハネが遣わされました。彼はやがて人々の間に姿を現すイエス・キリストの言葉を先取りして神の国の福音を宣べ伝えました。彼はキリストを指し示す役割を果たしました。実は、今日、私たちキリスト者一人一人も洗礼者ヨハネと同じ役割を与えられています。すなわち、イエス・キリストを証しすることです。私たちが誰かにイエス・キリストを証し、その人がそれを受け入れるなら、その人の内にキリストがおいでになります。こうして私たちもまた、その人にとってのキリストの先駆者となります。なんと大きな恵みではないでしょうか。
2021年12月5日
待降節第2主日
エレミヤ書36:1~10
 
  エジプト王ネコ2世がヨアハズに代えてユダの王としたのがヨヤキムです(王下23章、代下36章)。彼の治世の間にバビロニアからネブカドネツァルが攻めてきて彼は捕らえられバビロンへ連行されました。
 ヨヤキムの第4年=B.C.606年、エレミヤに主から「これまで語ったことを書き記せ」との命がありました。それは、その書の言葉を聞けばユダの家は「悪の道から立ち帰るかも知れない。そうすれば、私は彼らの罪と咎を赦す」ためでした。エレミヤが口述した言葉をバルクが記録し、神殿で朗読しました。次いで王の書記官の部屋で朗読しました。役人たちは王に伝えなければならないと言って巻物を預かりました。けれども王がどう反応するかわかっていたので、エレミヤとバルクに逃げるよう指示しました。王はエレミヤの預言を聞くとその書を火にくべて燃やしました。主はエレミヤにもう一度すべて書き記せと命じ、再びバルクが記録しました。こうしてユダの王ヨヤキムはエレミヤが述べた主の言葉に従わず、バビロニアによって捕らえられてしまいます。
 エレミヤは一貫して、バビロニアに逆らわずバビロニアに服従するように説いていましたが、ユダの中にはエジプトを頼ろうとする者が多く、B.C.586年エルサレムが破壊されるときに多くの者がエジプトに逃亡し、エレミヤとバルクも彼らによってエジプトに連れて行かれました。それでも、主はユダを見捨てることをしません。バビロン捕囚の後、北の国(ペルシャ)がバビロニアを滅ぼし、ユダが解放されることをエレミヤは望みをもって預言しています。
2021年11月28日
降誕前第4主日
(待降節第1)
イザヤ51:4~11
  
 今日からアドヴェントに入ります。イエス・キリストの降誕を待ち望む季節です(教団の4年サイクルの教会暦では10月下旬から降誕前に入って創造から始まる神の救いの業を振り返って来ました)。11月もまもなく終わり、12月に入るとベートーヴェンの第9の演奏会が各地で開かれます。第1楽章、第2楽章。第3楽章、第4楽章とオーケストラが重厚な響きを聴かせてくれますが、独唱者が「友よ、こんな調べてはない!」と否定します。「心地よく喜びに満ちた歌を歌おう」というのです。
 さて、イザヤ書51章にはシオンへの帰還という小見出しが付けられています。章や節や小見出しは元々聖書にはないものですが、読者の便宜のために、聖書学者や出版社が付けたものです。シオンへの帰還というのは、バビロンで捕囚となっているユダの民がエルサレムに帰ってくるという預言です。
 ユダの民は、戦いに敗れて数十年の捕囚生活をしています。そこには唯一の神にいけにえを献げて礼拝するための神殿もありません。聖歌隊による賛美もありません。家々で、あるいは近所で集まって、律法の書を読み、祈るのみでした。礼拝において制約があり、それが彼らの立場を物語っていました。
 私たちはどうでしょう?思う存分神を賛美できていますか?神に向かって心地よく喜びに満ちた歌を歌っていますか。そうでないなら、私たちも何かに捕らえられているのでしょう。けれども、神はあらゆる制約から私たちを解放して、喜びの歌を歌いながら神の国に迎えてくださいます。
2021年11月21日
降誕前第5主日
サムエル記上16:1~13
 
 サムエル記上10章ではサムエルがサウルに油を注ぎます。サウルを「神の嗣業の民の指導者」=イスラエルの王、にするためです。イスラエルの王の職務は神の民を正しく導くことでした。ところがサウルはやがて神を離れていきます。そこでサムエルは次の王となる人物としてまだ少年だったダビデに油を注ぎます。
 サウルもダビデもサムエルから油を注がれた後、聖霊が彼らに降ります。サウルは預言者の一団の中に入り、神の霊が激しく降り預言する状態になり、彼を知る人々が驚きました。ダビデもサムエルから油を注がれると「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」と書いてあります。
 サムエルという人は祭司であり、また先見者(預言者の前身)であり、最後の士師でした。神が選ばれた器に対して、サムエルが油を注ぐと神は聖霊を降されます。
 新約では油注ぎは洗礼になっています。ヨハネがイエスに洗礼を授けると聖霊が降りました。パウロがエフェソの人々に洗礼を授け、手を置くと聖霊が降りました。洗礼と聖霊が降る順序は逆になる場合もありますが、人が行う聖礼典(水による洗礼)と神が行う火と霊による洗礼(聖霊を降すこと)は互いに密接な関係にあります。水の洗礼は神の民に加えられることであり、聖霊が降るのは神に相応しく仕える者となるための賜物です。聖書が霊感によるのも、私たちを神に仕える者として十分に整えるため(Ⅱテモテ3:16,17)です。 
2021年11月14日
召天者記念礼拝
出エジプト記6章2~13節
 
 「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」(7節)
 神はアブラハム、イサク、ヤコブの3代に神として現れ、豊かな祝福を与えました。彼らが祝福されたのは、地上の全ての人が祝福を受けるためでした(創世記12:3)。アブラハムは神の名前は聞きませんでしたが、モーセは神に名を尋ね、ヤハウェ(有る)という名を教えていただきました(3:14)。この段落で「主」と書いてあるところには神の名「ヤハウェ」の文字が書いてあり、それを「主」と読み替えています。
 祝福の源となるべきイスラエルでしたが、紀元前16世紀頃にはエジプトで奴隷の身分となっていました。神はモーセを遣わしてイスラエルをエジプトからカナンの地へ導き出しました。それは40年もかかる苦労の連続でしたが、その期間を通して彼らは神の民となるべく訓練されていきました。この大昔の中東の出来事が私たちに関係してきます。
 私たちの人生の旅もまた様々な苦労の連続でしょう。闇夜を灯りも持たずに歩くような者かも知れません。けれどもイエス・キリストが共に歩んでくださると明るくなります(ルカ24:32)。クリスチャンになると苦労がなくなるわけではありませんが、希望が与えられます。
 私たちと共に生きてくださる方は「有る」つまりこの世界のあらゆるものの根源であるお方であり、私たちのために祝福を用意しています。私たちはキリストと共に永遠の命を与えられ、既に世を去った先達も共に、神の民として神を主と仰ぎほめたたえるのです。
2021年11月7日
降誕前第7主日
ヤコブ2章14~26節 
 
 アブラハムは75歳の時に、神から旅立つように言われ、旅を始めます。神は度々彼に「あなたと子孫を祝福する」「この土地を与える」と約束しましたが、子供は生まれません。後継ぎとして番頭のような存在のエリエゼルや、サラに仕えるハガルに産ませたイシュマエルを後継ぎに考えました。ところが神はアブラハムと妻サラの間に生まれる子が跡を継ぎ、子孫が空の星ほどになると言います。妊娠出産は考えられない年齢でしたが、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)と記されます。アブラハム100歳、サラ90歳の時イサクが生まれ、神の約束が実現します。
 この創世記15:6について、手紙の著者(イエスの弟ヤコブと伝承される)は、アブラハムがイサクをモリヤの山で祭壇の上に献げるという行いによって義とされたのだと主張します。
 パウロは「行いによってではなく信仰によって義とされる」(ローマ3-4章)と言うのでヤコブと対立するように見えますが、パウロが否定するのは「律法の行い」であり、ヤコブが強調するのは「愛の行い」で、これはパウロも重視していますし、ヨハネは「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(手紙Ⅰ3:18)と勧めます。
 これは私たちの生活の中で、どのようなライフスタイルを形づくるかに関わります。信じることは生活の中に現れるべきです。義=神との正しい関係は、目先の現実を超える神の約束を信じ、隣人愛に生きることです。難しい?アブラハムは義と認められた後も多くの過ちを犯しました。それでも彼は義とされていたのです。神と贖い主キリストを信頼しましょう。
2021年10月31日
降誕前第8主日
創世記4章1~10節 
 主がカインの献げ物には目を留められなかった理由は書いてありません。金城学院で長く宗教主事を務められた原栄作先生は、そもそも誰一人として神に受け入れられる資格など持っていない。だからアベルの献げ物が受け入れられたのは神の恵み、自由な選びだと言われます。
 ところがカインはアベルと自分を比較して、激しく怒って顔を伏せます。神はカインに言います。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。人間のことをギリシア語でアンスローポス(顔を上げて生きるもの)と言いますが、彼は顔を伏せ、神を見上げようとしません。神はカインに「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と警告しますが、神を仰ぐことをしなかった彼はアベルを殺してしまいます。どんな時にでも神を仰ぐことは大切です。
 こうして神から目を背けアベルを殺したカインですが、神はなおもカインを求めておられます。神はアダムに問うたようにカインにも問います。「お前の弟、アベルはどこにいるのか」。彼は知らないとシラを切ります。アダムは神の命に背き神との関係に亀裂を作ってしまいました。カインは人と人との関係を壊し(しかも相手を抹殺し)てしまいました。神はカインに彼のしたことの帰結を告げます。アベルの地によって大地は呪われ、カインは放浪者になると。
 ここに至って事の重大さを悟ったカインは血の復讐を恐れますが、神は彼が誰からも殺されることがないように、あるしるしをつけてくださいました。こうしてカインは大きな罪を犯した後に神に受け入れられる者となりました。 
2021年10月24日
降誕前第9主日
創世記2:4b~9, 15~20
 
  創世記には二つの創造物語が記されています。1章では「光あれ」という神の言葉から始まって、人が生きる環境が整えられゆき最後に人が創られる話です。人は神さまにかたどって創られ、地を従わせ、すべての生き物を支配するものとして創られます。2章は人が創られることによって他の動物が生み出され、自然環境が整っていく話です。一見矛盾するようですが、この世界には人間にはどうしようもない自然の力が働いている一方で、里山や家畜といった人間が関わることによって保たれている環境もあります。1章の「治める」「支配する」という言葉は2章では「耕す」という言葉で表されます。また神さまが創った動物は人によって名前が付けられました。
 2章のクライマックスはもう一人の創造です。他の動物と違い、神によって鼻に命の息を吹き入れられた人(アダム)の体からもう一人が創られました。「イシュ(男)から取られたからイシャー(女)と呼ぼう」という言葉はこの二人の人の同質性・一体性を表現しています。さらにそれは結婚の根拠ともされています。
 聖書学者たちの研究によれば、1章の物語は紀元前5世紀中頃、バビロン捕囚を背景として成立しました。2章の物語はもっと早く紀元前9世紀にカナンの地で成立したとされています。しかし聖書の編集者たちは片方を採るのではなく両方を創世記に収めました。その視点は男と女に創られた人間が、共に神のかたちを与えられた者として、神の愛によって創られたこの世界(人同士だけでなく)を協力して治めていくことにあります。
2021年10月17日
聖霊降臨節第22主日
黙示録7:9~17
 
  国、民族、言語を超えて全世界から集まった人々が神とキリストを賛美しています。声をそろえて「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのもの」と叫び、天使たちが「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」といいます。7章前半で刻印を押されたイスラエルの人々は144,000にんでしたが、今ヨハネが見ているのは、数え切れないほどの大群衆が神と小羊を礼拝している姿です。どんな人々でしょう。
 彼らは皆、白い衣を着ています。しかし、その前は血に染まった衣を着ていました。鞭で打たれたり、石を投げつけられたり、剣で切りつけられたりして満身創痍だったのです。それはイエス・キリストへの信仰の故に迫害を受けた人々でした。けれども、その苦難によって血が付いた衣を白くしたのは、イエス・キリストが神の小羊として、いけにえとして、流された血でした。世間では「朱に交われば赤くなる」と言います。教会では「主(の朱)に交われば白くなる」のです。そしてそれ以外には、私たちが白くなる方法はありません。
 私たちは皆、正しく生きたい、良い生き方をしたいと願っています。できれば迫害になんか遭いたくないし、多くの場合は迫害に遭わなくて済むかも知れない。でも、私たち自身の打ち立てる正しさもまた、衣を汚す罪となります。
生も死も全てを主に委ねたところに、自分でぬぐうのではなく、主が涙をぬぐってくださる幸いがあります。
 2021年10月10日
聖霊降臨節第21主日
ローマ13:1~10
 パウロは「上に立つ権威に従うべきです」と命じています。これは国家でも教会でも同じです。10月4日に岸田文雄氏が内閣総理大臣に指名され、岸田政権が発足しました。聖書は岸田政権、あるいは自民党政権に従順であれと言ってるのでしょうか。日本の場合は18歳以上の国民が参加する選挙によって国会議員が選出され、国会議員によって内閣の首班(総理)を指名することになっています。法治国家では憲法と憲法に基づく法体系が権威を形づくっています。
 こうしたプロセスは国の形によって違いがあります。絶対王制、議会制、直接民主制などありますが、教会の場合も教会の運営の仕方に監督制、長老制、会衆制という違いがあります。いずれの形を取るにしても、その制度に則って運営されることが正しいことなのです。
 パウロはローマ帝国の支配を絶賛していたのかというと決してそうではなかったはずです。ところによっては、ちゃんとした調べもせずに鞭で打たれ牢に投げ込まれたこともありました。数々の理不尽な扱いをされても、体制の中で合法的な活動に終始しています。主イエス・キリストもまた逮捕されるとき、一人の弟子が大祭司の下役に剣で斬りかかりましたが、それを止めて逮捕されました。不当な裁判によって十字架につけられることを甘受しました。
 政治家も、また教会の牧師・長老も数々の失敗を犯す者です。政治権力や牧師・長老に従うのは彼らが正しいからではなく、神が立てた権威だからです。国民の務め、また信徒の務めは上に立つ権威のために祈ることです。 
 2021年10月3日
聖霊降臨節第20主日
ヘブライ11:17~22,29~31
  ヘブライ人への手紙11章には「信仰」という言葉が28回出てきます。 今日は遊女ラハブに焦点を当てましょう。  モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出し、紅海まで来ましたが、ファラオの軍が追いかけてきました。この時、民はモーセに食ってかかります。「我々を連れ出したのは荒れ野で死なせるためですか」(出14:11) けれども海の中に道ができた時彼らはそれを通って対岸に着き、後を追ったエジプト軍は皆海に沈みました。手紙の著者はそれを「信仰によって」といいます。  エリコに派遣されたスパイが遊女ラハブの家に泊まったのはおそらく二つの理由です。一つは旅行者が入りやすい場所であること、また情報を集めやすい場所ということでしょう。でも、彼らが偵察に来たことはすでにバレていて、エリコの王はラハブに二人を差し出すように命じます。ところがラハブは王の命令に従わず、二人をかくまいます。手紙の著者はこれを「信仰によって」と言います。ラハブの信仰とは何でしょうか?彼女が知っていたことは葦の海の奇蹟と、シホンとオグに勝利したことだけでした。彼女はイスラエルの神、主についてはそれ以上の知識は持っていなかったと思われるのに「主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」(ヨシュア2:11)と悟りました。  イスラエルの民はその後も度々モーセに食ってかかります。ラハブの知識はわずかなものでした。けれども彼らは主の業に接したとき「畏れ」を感じ、反応したのです。信仰によって生きるとは、主への畏れを感じ、主を畏れて生きることです。 
 2021年9月26日
聖霊降臨節第19主日
テサロニケ二 3:6~13
 早天礼拝で読まれたコヘレトの言葉3章にはこう書いてあります。「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。」 人生を喜び楽しむことは神の賜物です。しかし「労苦によって満足するのは神の賜物」なのです。労苦を経て喜び楽しみに到達します。これはだれもが経験していることだと思います。だらだらとしていることも楽しいかもしれませんが、困難を克服したときにこそ喜びが湧き上がるのは、人はそのように創られているからなのでしょう。
 パウロの伝道は困難の連続だったことでしょう。幕末から明治に日本に来た宣教師、また軍国主義の時代の牧師・信徒も逆境の中を耐えて信仰を生きました。いまでこそ、公的な迫害は聞きませんが、クリスチャンとして生きることが世間の中でマイナーな生き方であることには変わりありません。
 しかし、パウロはそのような中でも、一人の社会人として真摯な生き方を勧め、命じます。コヘレトがいうように労働し、その対価としてのパンを得て満足するのです。「落ち着いて仕事をしなさい」と言います。戦前再臨信仰に熱心なある人々は再臨の時が近いといって仕事も学業もやめてひたすら再臨を祈って待っていたといいます。私たちの教会の告白は「愛のわざに励みつつ,主の再び来りたまふを待ち望む」です。職業の活動もその他の活動も愛に基礎づけられる善き業として行いましょう。 
 2021年9月19日
聖霊降臨節第18主日
エフェソ5:1~5
 パウロの手紙は、まず教理的なことを書いて、その後で具体的な教会や信徒のあり方を論じるのが常です。今日読まれたエフェソ5章は手紙冒頭のところと関係があるように思われます。1:4~5で神の選び(定め)が語られています。これは「天地創造より先に、ある人を救いに、ある人を滅びに定めた」というのではなく、神の愛があふれて人を生み出し、人が生きる環境として世界を創ったということです。神の独り子キリストは創造のパートナーであると共に、人のモデルでもありました。すなわちイエス・キリストが神の子であるように、私たちも神に愛されている子であり、神に倣う者となるようにパウロは勧告しています。
 しかし、神がキリストを愛し、また私たちを愛していることは、自明のことではありません。私たちが神に背く者となってしまった(これは神が人を神同様に自律的な存在とした=ここに神の愛がある=からですが)ために、そこをどうにかしなければなりませんでした。1:7と5:2はキリストが私たちの罪を身代わりとして負って血を流されたことが特記されています。このようなキリストの犠牲があったのだから、愛によって歩むようにと言われているのです。
 5:3以下は愛によって歩むキリスト者にふさわしくないことが列挙されています。1:10では救いの業が完成されるときに全てが一つになるとされていますが、そのための警告です。キリストにあって一つとなることを祈りましょう。 
 2021年9月12日
聖霊降臨節第17主日
ヤコブ2章8~13節
「人は行いによってではなく信仰によって救われる」という言葉を聞いたことがあるでしょう。あたかもそれが信仰義認を表すかのように思われています。けれども「行いによってではなく」は正確には「煩雑な律法の行いによってではなく」と言わなければなりません。例えば「安息日にテレビを見るのはいいけれど、リモコンの操作は労働に当たる」とかいうことです。
信仰は心や頭の中だけのことではなく、生活と態度に表れてくることです14節以下に社会生活での具体的な事例が記されていますが、今日の8~13節には基本的な考え方が記されています。それは「隣人を自分のように愛する」ということです。
9節 人を分け隔てすること:けれども一人ひとりに応じた対応は必要なことです。何でも一律にやれば平等というわけではありません。その人に最もふさわしい対応をすることが分け隔てなく付き合うことでしょう。
10-11節 律法のある部分を守ったとしても他の部分を一つでも守らないなら「律法違反者」となります。律法を完全には守りきれません
12節 従って、自由をもたらすはずの律法は実際は私たちを裁くものとして機能します。「私は裁かれる者」という自覚が大切です。
13節 裁かれる者として隣人との交わりを持つ中で、自分が正しく相手が間違っているという思いが砕かれ、憐れみが与えられます。 
2021年9月5日
聖霊降臨節第16主日
Ⅰコリント1:10-17
  古代ギリシアの都市国家コリントは地理的条件から貿易の栄えたところであり、2年に1度スポーツの競技会が行われていましたが、BC146年ローマに敗れて廃墟となりましたが、BC46年カエサルによって再建されました
 コリント教会の始まりは使徒言行録18章に記されています。AD50年頃、パウロは1年半コリントに滞在し、テント職人アキラと妻プリスキラの家に住み込んで、テント造りをしながら、シラスとテモテと共に伝道しました。
 パウロが去った後、アポロがコリントで伝道しました。しかし教会の中に派閥ができました。パウロ派、アポロ派、ペトロ派、キリスト派。ある人はパウロ派を教会の中核を担う熟年層に、アポロ派を元気のいい青年会に、ペトロ派を変化を嫌う老人会に例えて、教会内の対立を戒めたそうです。では、キリスト派とは何か。人間の指導者につくのではなくキリストにつくのだから良さそうですが、パウロはこの人たちも叱ります。そこには傲慢があるからです。
 アポロは力ある説教で多くの人を惹きつけ洗礼に導いたでしょう。しかしパウロは言います。「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。巧みな説教は結局説教者の信徒を作ります。キリストのみが語られ、キリストのみを受け取るように、牧師も信徒も心しましょう。
 2021年8月29日
聖霊降臨節第15主日
Ⅰコリント15:35-52
  神が一つ一つの命に体を与える。35-41
同じ親から生まれた子でも一人一人体格も性格も人格も違いがあり、異なる人生を歩みます。一人一人が神から個別に与えられた命、体です。これを第一の体とすると、
 復活の体42-46 すなわち復活の体もまた神から与えられる体です。使徒パウロはこれを「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と表現します。種が蒔かれないと芽も出ないし花も咲かず実もみのりません。「最初の人アダムは命のある生き物となった…最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」私たちの朽ちる体が天国で永遠の命を生きるのではなく、朽ちる体を脱ぎすてて新しい朽ちない体をいただきます。
 ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(1881年-1955)というイエズス会の司祭で、古生物学者・地質学者・神学者がいました。彼は独自の進化論を導入した。自然は生物圏(ビオスフェア)を確立し、それは進化し人を生み出し叡智圏(ヌースフェア)を確立。やがて進化の究極はキリスト(オメガ点)に達する。彼の思想は生物学と地質学研究にベースがあるが、この個所も関係あると思う。
 似姿47-49 土(アダマ)から取られた人(アダム)は土に返ります。私たちの朽ちてゆく体は土に返りますが、他方で人間は神の霊を吹き込まれて生きる者となりました。アウグスティヌスやカルヴァンは堕罪によってこれは完全に破壊されたと言いますがそうでしょうか?かすかに残る霊の火がリバイブされ、死んでいたような信仰が生き返る。天使のラッパは終わりのラッパであると共に信仰を復活させ朽ちない信仰を与えるラッパです。
 2021年8月22日
聖霊降臨節第14主日
ローマの信徒への手紙
8:18~25
 「現在の苦しみ」パウロの行く手には苦難が待ち受けていることを彼は知っています。また、教会もさまざまな苦難にさらされることを予測しています。今日の私たちも異常気象、新型コロナ…、同様でしょう。特に救急搬送をしてもらえず、自宅で出産せざるを得ず、結局出産した赤ちゃんが亡くなったというニュース、彼女はどのような思いでその子を見ていたのだろうと思うと涙せずにはいられません。
 パウロは教会の人々だけでなく「被造物」を問題にします。被造物が虚無に服している。異常気象もコロナも人間の苦難であると共に被造物の苦難でもあります。ミヒャエル・エンデの作品『果てしない物語』では、ファンタージエンという国に虚無が拡がっていき国が崩壊していきます。ファンタージエンを救うのは想像力でした。言い換えると希望を持つことでした。パウロも被造物が神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいると言います。神の子たちとは何者かを考えてみましょう。
 23節を見ると「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われること」と書いてあります。私たちは、私たちの罪を背負って十字架に死んでくださったイエスさまの死が、私たちの罪を赦すためだったと信じ、その信仰によって霊的に救われていますが、キリストの復活の体=永遠の命を持つ体はまだいただいていません。けれども必ず永遠の命を生きる体で天国に生きる希望を持っており、それこそが救いであり、信仰です。 
2021年8月15日
聖霊降臨節第13主日
 
  パウロはコロサイの信徒への手紙3:18以下で、一家をキリストに結ばれた家にふさわしく整えるための助言をしています。妻に、夫に、子どもたちに、父親に、そして奴隷たちに、主人たちに。奴隷というと私はアメリカの黒人奴隷を連想するのですが、日本の歴史的文脈から言えば、家来、奉公人、丁稚、女中といった人々です。家族経営の企業であればその従業員も含めることができます。
 妻には、夫に仕えなさい。夫には、妻を愛しなさい。と書いてありますが、これはパウロの時代、その社会の社会構造に従っているだけで、「夫よ、妻に仕えなさい。妻よ、夫を愛しなさい」でも一向に差し支えありません。
 パウロはエフェソ5章でも同じように妻と夫の関係を語っています。そして「わたしは、キリストと教会について述べているのです」と言います。つまり、家庭の人間関係を考えるには、まずキリストと教会の関係を考え、そこから人間同士の関係を考えるとよいのです。
 互いに愛し合い、仕え合う。従うべきことには従う。相手がいじけるようなことはしない、言わない。相手に敬意をもって真心から仕える。正しく、公平に扱う。言うは易く行うは難しですが、基本はキリストが私たち一人一人を分け隔てせず愛してくださっているという信仰に立つことです。22~25節は奴隷だけの話ではないでしょう。家あるいは教会を構成するすべてのメンバーに対する勧告と読めます。御国を受け継ぐをいう約束をいただいてキリストに仕えるように互いに仕える。それによって家庭も教会もあります。ふさわしくなっていきます。
 2021年8月8日
聖霊降臨節第12主日
  パウロは3回の伝道旅行を行いましたが、20章後半からはエルサレムに戻る船旅です。旅を急いだパウロはエフェソには寄らず、エフェソの長老たちをミレトスに集めて、別れの挨拶をしました。そこで彼が語ったのは…。
①聖霊に促されてエルサレムに行く。
 21章では弟子たちが「〝霊〟に動かされ、エルサレムに行かないように」パウロを説得し、預言者アガポがエルサレムで逮捕されると預言します。それでもパウロはエルサレムに向かいます。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。(→わたしには責任がない)
②内外から教会を混乱させる者が現れる。
 パウロは神のご計画をすべて語った。彼がやるべきことはすべてやった・けれども彼が去った後には、邪説を唱えて教会を乱す者が、外からも、エフェソ教会の中からも現れてくる。どのようにしたら邪説に取り込まれないようにできるか?
パウロは「わたしが3年間教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」と訴えます。現代も特に終末に関して様々な新しい教えが説かれます。そうしたものに心を奪われる者が多いのですが、古代から一貫している教会の教えにしっかりと立つべきです。
「神とその恵みの言葉は…あなたがたを造り上げ…」。御言葉に立つことの幸いが語られています。聖書の字面ではなく、その深い霊性に到達できるよう祈りましょう。
2021年8月1日
聖霊降臨節第11主日
 
  イエスさまの教えは、律法の精神が「主を愛すること、隣人を愛すること」にあることを説いたものでしたが、ユダヤ教の主流派からは異端とみなされました。サウロ(後のパウロ)も熱心なファリサイ派の一員として、イエスの教えに従う者たちを激しく迫害していました。ところが突然回心し、逆にあのイエスこそ救い主だと言い始めたのですからビックリです。ダマスコでサウロが持って来る大祭司の許可状の到着を待っていたユダヤ教指導者たちは肝を潰したことでしょう。エルサレムのクリスチャンたちはパウロがクリスチャンになったことを信じられませんでした。つい先日までクリスチャンの仲間を次々と逮捕していたのですから。だからサウロがクリスチャンの仲間に入れてほしいと言ってきても信じませんでした。
 ところがバルナバはサウロの話を信じ、使徒たちに執りなしをしました。こうしてサウロはダマスコ途上の劇的な回心を使徒たちに知ってもらうことができ、仲間に入ることができました。
 バルナバはやがてアンティオキアに派遣されます。アンティオキア教会の基礎を固めると彼はサウロを探しに行きアンティオキアに連れて来て共同牧会者とします。
さらに二人は世界宣教へと旅立ちます。異邦人世界へのキリスト教伝道というとまずパウロが思い浮かびますが、パウロを使徒たちに紹介し、アンティオキア伝道のパートナーとし、世界宣教へと連れ出したバルナバがいなかったら今日のキリスト教はないかもしれません。回心したパウロを敵視せず、信頼したバルナバにならいたいものです。
 2021年7月25日
聖霊降臨節第10主日
  今日の朗読個所コリント二5:14~6:2にはいくつかのポイントがあります。
①キリストの愛(キリストの死と復活)の意味は、すべての人が自分自身のためでなくキリストのために生きること。
②キリストを知るとは、人間同士の知人になるとか、歴史上の人物について学んで知るということではなく、キリストと結ばれて新しく創造された者になること。
③それは、神がキリストによって、世を神と和解させたこと。通常和解は双方が歩み寄り、痛みを分かち合うことで成立するが、神は「人々の罪の責任を問うことなく」和解させた。
④「キリストによって」とは罪のないキリストが罪人とされ犠牲として死なれたこと。また、復活(永遠の命)によって…神の義を得る。
神の義とは神の前で「自分は正しい人間だ」と言えること。しかし、かつて熱心なファリサイ派のユダヤ教徒だったパウロには、どんなに頑張っても律法を守ることで神の前で自己の正しさを弁証することは不可能だとわかっていた。ただキリストの自己犠牲によってのみ、私たちは神の前に正しい者と認めていただくことができる。
⑤パウロたち伝道者は、神の和解の言葉を委ねられている。パウロの勧めは
⑥神がくださる恵みを無駄にしてはいけない。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。明日は永遠に明日である。今、神の恵みを受け取って自分のものとしよう。
  2021年7月18日
聖霊降臨節第9主日
  今日のキーワードは「憐れみの器」です。
神さまを焼き物師にたとえています。同じ粘土から茶碗や招き猫やトイレの便器が作られます。神は同じ人間からアブラハムを選び祝福の源(創12:2)としました。アブラハムから始まってイサク、ヤコブ…と続く祝福の歴史を聖書は物語っています。同時に聖書は彼らの罪をも遠慮なく記しています。パウロがここで「憐れみ」と言うのは、神の祝福にもかかわらず、神に応えることができない人間の罪深さ、それでもなお人を見捨てず祝福してくださるからでしょう。旧約の歴史はイスラエルが神に背いて酷い目に遭い、神に助けを求めると神が救い出してくださるということの反復です。
 けれども神さまはイスラエルだけの神ではありません。全てのものの創造者であり主権者です。イスラエルは祝福の源で、祝福と憐れみはイスラエルから他へと拡がっていきます。
 25節でホセア2:25が引用されます。主はホセア1章ではゴメルの生んだホセアの息子に「憐れまれぬ者と名付けよ…」と言い、次の子には「わが民でない者と名付けよ…」とイスラエルを叱ります。パウロはここを異邦人が神の民とされることと読んでいます。
そしてイザヤ10:22,23からイスラエルの残りの者としてのユダヤ人キリスト者を挙げます。
 私たちが憐れみの器であることは、神によって憐れまれた者であることと、神の憐れみを人に提供するためのものであることを表します。そのような者とされたことを感謝し、神をほめたたえましょう。
 2021年7月11日
聖霊降臨節第8主日
  私たちに使って良いとして与えられている霊的な力は聖霊の力です。けれども、聖霊の力を知らない人々はさまざまな霊に依り頼もうとします。「ユダヤ人の祈祷師」本来であれば彼らは聖霊の力によって祈り、人々の心と体とに平安をもたらすべき職務でした。しかしイスラエルの預言者が神ならざる者によって預言をしエレミヤなどと対立したように、1世紀のユダヤ人祈祷師も神ならざる者の力によって人々の病気をいやしたりして収入を得ていました。彼らの祈りが本当に効力があったのかどうかは使徒言行録は触れていません。しかし聖書は諸々の霊にも力があることを認めています。聖書が占いを禁じるのは占いの結果がデタラメだからではありません。どれほど正しく占うことができても、聖霊以外の力に依り頼むことを禁じているのです。
 今日の個所ではユダヤ人祈祷師たちがパウロのマネをしました。本当にイエス・キリストを信じているなら良かったのですが、信じてもいないイエスの名を持ちだしたために悪霊の逆襲に遭いました。「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」(ローマ14:23)
 この個所での「悪行」は占いや魔術といった類のものを指しているように思われます。それらを一切捨てて、ただイエス・キリストによる救いの信じ、聖霊の導きに従って生きることが求められています。聖霊が私たちを確かな平和に導いてくださることを信じ期待しましょう。
2021年7月4日
聖霊降誕節第7主日
 
 今日はパウロの手紙から祈りについてです。私たちは何のために祈るのか?パウロは
「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため」と言います。他の訳では「敬虔に、また、威厳をもって」と訳されています。「平穏で落ち着いた生活」、今の日本の社会は新型コロナとオリンピックで騒然としています。私たちも一人一人が意見を持っていると思いますが、それによって浮き足立つことなく危機の中を生きていく、そのために祈りの生活があるのだということです。
 どんな祈りをするのか?パウロは4つ挙げています。「願いと祈りと執り成しと感謝」。願いは「神さま、こうしてください」。でも「みこころが行われますように」とイエスさまは祈ったし、私たちにもそう祈るように言っています。感謝は「神さま、ありがとう」です。どんなことからも感謝ができるようになりたいと思います。
 執り成し(他もそうなのですが)については「すべての人々のため」「王たちやすべての高官のため」にささげるように命じています。自分と同じ信仰、同じ立場の人のためには祈っても、反対の人のためにはなかなか祈れないかもしれません。神は彼らを愛し、キリストは彼らのためにも十字架にかかりました。
 2番目にある「祈り」とは?願いも執り成しも感謝も祈りです。これらと別に「祈り」と書かれているのはデヴォーションのような祈りの礼拝です。私たちの礼拝全体は祈りなのです。特に先月の招詞ローマ12:1の自分自身の体をささげる礼拝、そのような祈りです。
 2021年6月27日
聖霊降臨節第6主日
 今日は使徒言行録4:32~37を読みましたが、2:44~45にも「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし…皆がそれを分け合った。」と書かれています。それゆえ「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と言われます。実は先週お話ししたように、エルサレム教会には貧しい人が多かったのです。だからバルナバのような人が土地を売ってそのお金を貧しい人たちのために献げました。エルサレムの(だけでなく他のヘレニズムの教会でも同じですが)教会には、豊かな人も貧しい人もいます。身分の高い人も低い人もいます。パウロが各地で伝道して、エルサレムのための献金を募ったのは、バルナバがエルサレムで始めた善き業を世界に拡げていったことです。
 初代教会が貧しい人々のために財産を出し合ったのは、今日の社会福祉の考え方とは同じではありません。2章と4章で繰り返しているように教会全体が「心を一つにして」神を礼拝するためでした。そしてお互いの間では仕え合うことが大事でした。それは主が弟子たちに命じたことです(マルコ10:42以下)。
 5章では一組の夫婦がバルナバに刺激されて土地を売って代金の一部を献金しますが、「全額を献金します」とごまかします。するとこの夫婦共にペトロに一喝されて死んでしまいます。厳しいなぁと思いますが、「心も思いも一つに」ということから考えると重大な裏切りと言えましょう。教会には様々な考えの人が集まりますが、神を礼拝することについては心も思いも一つになるよう祈って献げましょう。その時私たちの体も教会堂も聖なるものとされます。
 2021年6月20日
聖霊降誕節第5主日
  「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」とはエルサレム教会の貧しい者たちを支えるための献金です。パウロはテサロニケをはじめとするマケドニア州の教会の証しを書いていますが、テサロニケの教会はその発足時からたいへんな迫害の中にありました(使徒17章)。しかもテサロニケからエルサレムまでは直線距離で1500kmあります。鈴鹿から稚内や那覇までが1250kmほどですから、更に250kmも遠くです。でも、彼らはエルサレムの貧しい人々のために献金をしました。
 パウロはコリントの人々にも献金を促しています。コリント教会はテサロニケ教会よりも経済的には恵まれた人が多かったようです。けれどもパウロは「あなた方はお金があるのだから献金しなさい」とは言いません。コリントの人々は「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊か」で、それはキリストの貧しさのおかげだから、というのです。キリストが命まで捧げてくださったことによって、私たちは永遠の命に生きるという豊かさをいただくことができました。
 教団年金という制度があります。牧師が隠退した後の生活のための制度です。発足時に掛け金を払っていない人にも年金を支払うことにしました。そんなこともあって財源は不足していました。それを補うために信徒が発案したのが100円献金です。鈴鹿教会はこれに熱心に取り組んできました。これからも継続したいと思います。同時に、他に多くの必要があることも知って祈っていただきたいと思います。
 2021年6月13日
聖霊降臨節第4主日
  キリスト教は他力本願の宗教です。自分の努力では自分を救うことができないと教えられてきました。ところがパウロはここで「自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。努力すれば救われるのでしょうか。もし努力によって救われるとするならば、それはどのような努力なのでしょうか。
 一つ前の段落では、キリストが僕(しもべ)の身分になり、十字架の死に至るまで従順だったので、神はキリストを高く上げたと書かれています。
キリストのへりくだりについては来週コリントの信徒への手紙二でマケドニアの教会の証しを読む予定ですが、パウロは本書では「キリストの従順」を受けて12節で「フィリピの信徒の従順」について語っています。従順であるならば神が高く上げてくださいます。
 何に対して従順であればよいのか?私たちの内に働いてくださる神の御心に対して、です。従順であるならば、神は私たちを通して御心を行います。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りますが、どこかの誰かが御心を行ってくれるのではなく、神さまは私を用いて御心を行ってくださる。そう信じて自らを神さまの手足として献げるのです。神さまの手足として御心を行う、というとなんだか大変なことのように思われる方があるかもしれませんが、そんな大それたことではないのです。それは隣人を愛することに尽きます。自分のできる範囲のことで人を助けます。お金があれば金銭で、時間と力のある人は労力で助けることができます。そして最大の援助は祈りです。信仰に立った愛が自分と隣人を救います。
 2021年6月6日
聖霊降臨節第3主日
  アテネといえば、プラトンやアリストテレスが活躍し、BC387年にプラトンが創立したアカデメイア(学園)がAD529まで存在した学問の中心地でした。けれども、1世紀中頃のこの地の人々はルカの目には、議論好きではあるけれど「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」と映りました。
 使徒言行録の中でパウロの説教がよく記録されているのは、ピシディア州のアンティオキア(13:16以下)、アテネ、ミレトスでエフェソの長老達へ(20:18以下)ですが、アテネでのパウロの説教は、ユダヤ人対象でなく、完全にギリシア人相手に語っている点で特徴的です。
 ここではパウロは古代ギリシアの詩人たちを引用します。『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』。パウロはこれらの詩の中に真理を見ます。私たちが生きている世界は自然も人(諸民族)も皆、神がお造りになったものだ。だから、人は神を求めるように造られている(宗教があるのはそれ故)し、探し求めれば、神を見出すことができるのだと論じました。
 これは諸宗教を見る時の大事な視点です。諸宗教をバカにしてはいけません。人は神を求めるように造られています。しかし、本当の神を見いだせず偶像を神としている人が多いのです。神自らが人となり、命を犠牲として人の罪の身代わりとなる、そういう神を見出したことを喜び、少しでも多くの人が見出せるように、祈りと証しに励みたいと存じます。
2021年5月30日
三位一体主日
 
  神が私たちを救ってくださったのは、私たちが神の栄光をたたえるためです。6節「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるため」、12節14節「神の栄光をたたえるため」と3度も繰り返されていることからわかります。
 どのようにして、私たちは神の栄光をたたえることができるのでしょうか。口で神の栄光をたたえる歌を歌い、あるいは祈りを唱え、同じ口で人の悪口を言い、争っている。それは神の栄光をたたえることにはなりません。互いに愛し合う関係が築かれてこそ神の栄光が地上に現れ、神への賛美が現実のものとなります。
 私たちが愛し合うということには赦し合うことが欠かせません。「許せない(赦せない)!」という思いを抱えたままでは賛美が力一杯ではなくなります。毎週礼拝で主の祈りを唱えます。そこで「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りますが、そのすぐ後に続く言葉を心に刻んでおきましょう。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 エフェソ書は、キリストによる救いの完成は全てのものがキリストにおいて一つにまとめられることであるとしています。そのためにキリストは御自分を犠牲にして私たちの罪を贖いました。私たちもまた互いに赦し合うことによってキリストによる救いが完成します。共に神の栄光をたたえる日を待望しつつ歩みましょう。
2021年5月23日
聖霊降臨日


 
  地上でのイエスさまの最後の言葉(ルカ24:46~49&使徒1:8)は、弟子たちが聖霊の力によって、主イエスの復活と罪の赦しの宣教の証人となることの預言でした。この預言を成就させるために主イエスは天に昇られました。使徒たちはエルサレムのある家の2階の部屋で日々熱心に祈っていました。10日後、五旬祭(過越祭から50日目の収穫祭)の日に聖霊が彼らの上に降りました。ペンテコステに降った聖霊は「鳩」の姿ではなく「炎の舌」です。左のイラストは炎の舌をかたどったアメリカの合同メソジスト教会のロゴです。
 なぜ「炎の舌」かといえば、地の果てに至るまで、イエス・キリストの証人となって語り続けるからです。聖霊が降った直後のペトロの説教では3000人ほどの人がイエスさまを信じました。ステファノは威厳をもってイエス・キリストを証しして殉教しましたが、それはパウロを回心へと導きました。パウロはバルナバと共に最初の海外宣教師として宣教旅行に出ました。(諸国の言葉で福音を語った出来事は、聖書翻訳というかたちで今日まで続いています。)
 異郷(異教)の地での福音宣教は言語・生活様式・宗教性など様々な困難に出会います。けれどもヨハネ14:26,27、15:26,27、16:13などは、聖霊が弁護者としてイエス・キリストを証し、真理を悟らせ、恐れを平和に変えてくださると約束されています。私たちの感謝と賛美とを主イエスにささげ、聖霊に導き手として内に住んでいただきましょう。
 2021年5月16日
昇天主日
  先週の木曜日はイエス・キリストの昇天日でした。そこで昇天日直近の主日である今日の礼拝は黙示録22:20の再臨の約束と待望の祈り、そしてチャールズ・ウェスレーの再臨の歌「見よ、主は雲に乗って再び来られる」をもって始めました。イエス・キリストはまたおいでになる。そのように約束されたからです。
 復活したイエスさまはなぜ天に昇られたのでしょうか?聖書の中には一度死んだけれども預言者やイエスさま、使徒たちによってよみがえった人間が何人か記されています。けれども彼らのよみがえりは一言でいえばイエス・キリストにある永遠の命を指し示す「しるし」でした。彼らのよみがえりはやがて歳を取って寿命を全うし(旧約の言葉で言えば)「先祖の列に加えられる」ものでした。
 イエスさまの復活は、終わりの時にすべての人が復活することの初穂であり、昇天は私たちが天国に招き入れられる備えをするため(ヨハネ14:3)です。それだけではありません。キリストの福音が全世界に拡がって行き、ユダヤやガリラヤとは何の関係もない私たちがこの福音に招き入れられるためでした。すなわち、イエスさまの働きである神の国の福音の宣教は、イエスさまに代わって来られた聖霊によって、使徒たちを通して同時的世界的に進められていくことになります。
 最後のラッパが鳴るその時まで、「ただ、神の国を求めなさい」と言われた主イエスに従って、地上における神の国=教会を実現し、天における神の国を待ち望みましょう。
2021年5月9日
復活節第6主日
 
  今日は礼拝出席を熱望していた佐々木立行兄の体と共に主を礼拝する地上における最後の時として、佐々木兄の葬りの式といたします。報告1に書いたように私たちの礼拝は常に「み使いとみ使いの頭および天の全会衆と共に」ある礼拝です。
 今日読まれた個所は、偽善的な行いについての警告と祈りの精神について説いています。自分を人に見せたい、注目を浴びたいという欲求の強い人がいます。私も結構そっち派かもしれません。でもイエスさまは称賛を受けるために行う善行は偽善だと言われます。
 人前で祈るのが苦手な人がいます。実は私がそれで、鈴鹿教会では牧師よりもいい祈りをする信徒が大勢います。配慮の行き届いた祈りはいいのですが、ここでイエスさまが指摘しているのは目立つところに立って自分が立派な信仰者であるように見せかけるための祈りです。祈りの本質は神さまとの対話です。礼拝や祈祷会での祈りは、共同体としての祈りをするのであって、人を感心させるためのものではありません。上手下手はありません。集会に参加している皆と心を合わせて祈ります。プライベートな祈りは他の人のことは全く考えなくていいのでただ神さまとの対話に集中します。
人に見せない・聞かせない。くどくど祈らない。私の必要は既に神さまがご存じだ。その神さまに祈るのだから、なおさら、的確に言葉(内容)を選ぶ必要があります。自分に必要なものは何だろう?と。その模範が「主の祈り」です。
 2021年5月2日
復活節第5主日
 信仰と不信仰の境目はどこだろうと考えることがあります。イエスさまは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われますが、トマスは分からないと言います。主は「あなたがたは既に父を見ている」と言いますが、フィリポは御父を示してくださいと言います。主は嘆いて「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と言います。
 この段落で主は「信じなさい」と4回言っています。弟子たちは不信仰なのでしょうか。不信仰な者が神を見ることができるでしょうか?ヨハネ3章では「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われていますから、彼らは新しく生まれた者で、それはイエス・キリストへの信仰によってです。
 では、なぜ彼らはイエスさまの言うことがわからなかったのでしょうか?答は、自らを犠牲にして私たちを救う救い主を理解できなかったからです。今の私たちはそのことを知識として知っています。けれども彼らはそのような知識を持ち合わせておらず、イザヤ書53章のメシア像はイエスさまのことであると悟ったのは聖霊によるほかありませんでした。
 さて、イエスさまは(死と復活の後)天に昇ることをここで予告しています。2節の「であろうか」が気になりますが、新しい共同訳は「私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」です。私たちを天国に入れる主の固い意志が現れています。 
 2021年4月25日
復活節第4主日
 マルタというと、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)と主から諫められたことを思い起こす人がいらっしゃるでしょうが、彼女はすばらしい信仰の持ち主です。今日の個所にはマルタの言葉が3つ書かれていますが、それを味わっていきましょう。
21-22:主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
マルタはイエスさまには病気を癒す力があることを信じていました。それだけではありません。
あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。
来週は14章を読みますが、14:13に「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」という主の言葉があります。マルタはこの主イエスの言葉を先取りしています。
 主が「あなたの兄弟は復活する」と言うと、
24節:終わりの日の復活の時に復活することは存じております。
彼女は「最後のラッパが鳴るとともに…死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(Ⅰコリ15:52)という信仰を持っていました。
 25-26の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いには、はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております
と、イエス=キリストの信仰を告白しました。
 愛する肉親の死、死ぬ前に「急いで来て癒してくださいとお願いしたのに、間に合わなかった主イエス。失望してイエスさまから離れてしまってもおかしくないと思います。けれどもマルタはなおもイエスさまが救い主であることを疑いませんでした。
イエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、弟子たちもマルタたちもその意味を理解してはいませんでした。それでもイエスさまを信じ、依り頼んだこのマルタの信仰に私たちも与りましょう。 
 2021年4月18日
復活節第3主日
  サレプタのやもめのひとり息子は重い病気で死んでしまいました。18節の彼女の言葉には嘆きの大きさが表れています。息子の死は自分の罪に原因があり、エリヤの逗留はそれを露わにするためのものだった…、と。
 エリヤがそんなつもりでないことは20節の祈りでわかります。そして彼は3度自分の体を子どもの死体に重ねました。このことはその子の死と一体化することを示しているでしょう。母親の悲痛な声はエリヤをこのような行動へと突き動かしました。神さまはエリヤの祈りに応え、この命を戻されました。
 エリヤの姿から十字架の主イエスを思い起こします。イエスさまの言葉は死を命に変える命の言葉です。やもめと共に賛美しましょう
2021年4月11日
復活節第2主日
 
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28:19) 
 「行って」はギリシア語辞典を見ると「旅行する」など移動することを指す言葉です。イエスさまもパウロも一箇所に留まらず絶えず旅をしながら伝道しました。新共同訳で「すべての民」と訳されている言葉は新改訳では「あらゆる国の人々」です。イエスさまの活動は主にガリラヤとユダヤでしたが、途中にあるサマリアだけでなく、東側のデカポリス、北のフェニキアにも及んでいました。パウロはローマ支配下のあらゆる地域のユダヤ人コミュニティとその周辺の異邦人に伝道し、ヨーロッパの西端スペインまで伝道旅行することを計画しました。トマスはインドまで伝道したと伝えられます。この鈴鹿の伝道も他の地域からの巡回伝道や宣教師の働きがあって、鈴鹿教会が形成されました。祈りと奉仕をもって伝道を支えましょう。
 2021年4月4日
復活日(イースター)
  イエスさまは早朝に復活して、女性たちに出合ったので「おはよう」は朝の挨拶です。
口語訳聖書に親しんだ方は「平安あれ」じゃないと落ち着かないかもしれません。文語訳聖書では「安かれ」です。この「安かれ」を受けて「♪安かれわが心よ」と歌いますが、「おはようわが心よ」では歌になりません。英語のある聖書はここを"Rejoice!"(喜べ!)と訳しています。「平安あれ」なのか「喜べ」なのか「おはよう」なのか?おそらくイエスさまは「シャローム」と言われたので口語訳は「平安あれ」。福音書はギリシア語で「カイレテ」と書かれておりその直訳は「あなたがたは喜べ」です。今朝は復活したイエスさまが「おはよう(平安あれ・喜べ)」と言われたことの意味を味わいましょう。
 2021年3月28日
棕櫚の主日(受難週)
  イエスさまは疲れていました。過越の食事の後、オリーブ山で弟子たちが眠っても必死に祈り続けました。夜遅く逮捕され、大祭司の官邸で深夜の裁判が行われ、夜が明けると総督の官邸に移されてまた裁判が行われました。鞭打たれ、棒で殴られ、心も体も力を奪われて、それから重い木を担いで坂を登っていかねばなりません。徹夜の体にはこたえます。
 そこに偶然通りかかったキレネ人シモンがイエスさまに代わって十字架を担がされました。とんだ災難です。けれどもこのことが彼の人生を変えました。マルコ15章では「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介されています。彼の息子たちは教会でよく知られた人たちでした。パウロはローマ16:13で「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と書いています。ルフォスが有力な人であり、パウロはその母、つまりキレネ人シモンの妻にひとかたならぬ世話になったということでしょう。偶然通りかかって十字架を担がされたことで、彼の家族、さらにパウロにまでその恵みが及びました。
 もう一人、イエスさまの処刑を担当した百人隊長を挙げておきましょう。彼は役職上イエスさまの処刑を担当させられました。けれどもそれによって、イエスさまの死のさまを目撃し、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。多くのユダヤ人はイエスさまがローマ軍を破ることを望んでいましたが、イエスさまはローマ軍に殺されて隊長を勝ち取りました。
2021年3月21日
四旬節第5主日
 
 「あなたがたは…このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」イエスさまのこの問いの意味をヤコブとヨハネはわかっていません。いや、二人だけでなく他の弟子たちもわかっていません。二人が将来の高い地位を約束してもらうよう母親に頼んだと思いました。
けれどもイエスさまの杯とは十字架のことです。イエスさまが弟子たちに渡した杯を私たちも毎月いただきますが、それは十字架の死を私たちもいただくということです。その血によって私たちは罪赦され潔められると共に、イエスと共に死んだことをも意味します。そして殉教への杯でもあります。そのことは今日の聖書の後半に現れています。
 「人の子が…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」「皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」と言われています。権力欲とは正反対を目指すのがイエスさまの道です。それは可能でしょうか。
 イエスさまの十字架の死は、罪に囚われている私たちを解放するための身代金であるだけではありません。パウロは「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(ローマ8:3)と、キリストの十字架と復活を「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(8:2)出来事と理解しています。
 先ほど「飲むべきわが杯選び取りて授けたまえ」(400番3節)と歌いました。この信仰に立たせていただきましょう。 
2021年3月14日
四旬節第4主日 
  イエスさまの生涯で、天から「これはわたしの愛する子」という声がしたことが2度ありました。1度目はイエスさまが洗礼を受けた時、聖霊が鳩の姿で降られました。2度目は3人の弟子と共に高い山に登った時です。弟子は大勢いて、その中で選ばれた12人は使徒と呼ばれていますが、この時イエスさまの栄光の姿を目撃したのは後の重鎮の3人だけです。
 彼らが見たものは何だったでしょうか。主の「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」ことです。イエスさまのこれまでの生き方は「栄光」というにはほど遠い、言わば乞食坊主の集団のリーダーでした。財産も持たずに町や村を渡り歩き、行く先々で神の国を説教し、病人を癒やし悪霊を追い出していました。そうした乞食坊主に宿を提供し、もてなし、献金する人々によってイエスさまの活動は維持されていました。けれども人々には見ることが許されていない栄光の姿がありました。
 3人の弟子が見たもう一つはモーセとエリヤがイエスと語りあっていたことです。その時代、旧約は「律法と預言者」と呼ばれていましたが、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤとイエスさまが話し合っていたというのは、イエスさまが旧約の成就としておいでになったことを示します。さらにエリヤの再来は洗礼者ヨハネのことだと3人は悟りました。
 このような栄光を弟子たちは目にしましたが、ヨハネもイエスさまもその栄光は人々の目には隠され、嘲りと迫害の対象となりました。
 2021年3月7日
四旬節第3主日
 今日の個所は2つの段落に分かれます。新共同訳の小見出しは「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」です。
 前者ではペトロがイエスさまに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(ギリシア語原典は「あなたはキリスト、生ける神の子です」)と答えています。イエスさまはこの信仰告白に対して「岩の上にわたしの教会を建てる…あなたに天の国の鍵を授ける」と応じています。だからペトロは天の国の門番と言われています。私たちはこれをペトロ(とその後継者たるローマの司教=教皇)という個人ではなく、信仰告白に立つ共同体=教会と受け取っています。
 教会が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、教会が地上で解くことは、天上でも解かれる。たいへん大きな責任を負っています。
 後半に入るとイエスさまが、御自分の受難と死、復活について話し始めます。するとペトロがイエスさまを諫めたというのです。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」そこにはペトロなりの配慮があったことは確かでしょう。こんなことを言われたら弟子たちが動揺するだろう。そしてイエスさまから離れてしまう者も出るに違いない…。けれどもその配慮は人間的配慮です。神様のお心に聞き従うというものではありませんでした。ふだん優しいイエスさまがこの時は厳しい言葉を浴びせます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。」
 配慮したつもりが、人間のことしか心になく、神さまの御心を尋ねることを疎かにしていた。「神の国と神の義」をまず求めましょう。 
 2021年2月28日
四旬節第2主日
  病気の癒し、悪霊の追い出し…、現代の医療の現場ではほとんどが薬品によって行われます。けれども、宗教的な行為として行われる場合は薬品の化学作用によりません。そこにあるのは霊的な力の作用です。
 イエスさまのところに悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来られ、ものが言え、目が見えるようになりました。これを巡って議論が起こります。
 一般の人々は素直に「この人はダビデの子(つまり救い主)ではないだろうか」と言いました。ところが、イエスさまを認めたくないファリサイ派の人々が、「あれはベルゼブルの力でやってるんだ」と言いました。もちろんそうではありません。悪霊が悪霊を追い出す理由がありません。イエスさまの癒しの業はもちろん聖霊によるものです。けれども、自分たちのグループに属さない人が大きな働きをすると嫉んで悪口を言う人々がいるのです。現代の教界でも目立つ働きをする教会や教職者に対して異端だとかカルトだとか難癖をつける人がいます。
イエスさまは次のように言われました。
「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
 イエスさまの力を素直に認め、その道に従いたいものです。
 2021年2月21日
四旬節第1主日
  毎週、私たちはイエスさまが教えてくださった祈り=「主の祈り」を祈ります。そこには「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りがあります。悪い者が私たちを陥れようとやってきて誘惑するのです。その誘惑に負けると神を離れ神ならぬものを神とするようになってしまいます。
 今日読んだところには「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。聖霊が導いて悪魔の誘惑を受けさせる!そんなことがあるのでしょうか?
これはワクチン接種と似ているように思います。無毒かor弱毒化した病原体を体に入れることで、病原体に対する抗原を体内に作り、病魔に負けないようにするのがワクチンです。
悪魔に打ち勝つためにはどうしたらよいか。
 ヨハネは手紙で「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者」だと述べています。イエスさまには世と悪魔に打ち勝つ力があります。だからイエスさまは誘惑にも勝つことができました。イエスさまの中にはサタンに対する抗原があります。それはみ言葉です。イエスさまは活けるみ言葉です。3つの誘惑に対して、申命記8:3、申命記6:16、申命記6:13で退けています。パウロは「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」といって武具の一つとして「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と命じています。主イエスさまに信頼し、イエスさまが用いた武器、神のみ言葉によって悪魔の攻撃に打ち勝ちましょう。
2021年2月14日
降誕節第8主日
 
 水の上を歩いて近づいてくる人を見て彼らは「幽霊だ」とおびえた。誰でも恐れるだろうと思います。しかし、イエスさまだとわかって安心しました。イエスさまは人に対しても自然に対しても力のある方です。ペトロがすばらしい信仰を示しています。「イエスさまが水の上を歩いたのだから、イエスさまの力によって私も水の上を歩けるはずだ」。実際に彼は水の上を歩いてイエスさまの方へ近づくことができました。私たちもこういう信仰を持ちたいものです。
 けれども、その信仰を貫くことができない要因が世にはたくさんあります。ペトロは水の上を歩いていたのに、強い風に気がついたとたんに怖くなりました。強い風はずっと吹いていたし、その中で歩き始めたにも関わらず!です。私たちの信仰はある時には強く、ある時には弱まる、それが現実の姿ではないでしょうか。怖れを感じた時、彼の体は水の中へと沈んで行きました。助けを求めるペトロにイエスさまは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいますが、決して叱ってはいません。「自分で浮かび上がれ」とは言われず「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださいました。
 信仰の強い弱いとは何でしょうか?信仰は強い方が良いのでしょうか?
 さまざまなところで、さまざまなクリスチャンに出会いますが、時折キリストがなくても良いんじゃないかと思えるほどに信仰の強い人に出会うことがあります。キリストがいないと生きていられないのがクリスチャンだと思うのです。 
2021年2月7日
降誕節第7主日
 
 マタイ15章21節にはイエスさまがティルスとシドンの地方においでになったと書いてあります。聖書巻末の地図によれば、ここはフェニキアに属しています。創世記の言い方では、イスラエルも含めて今日パレスチナと呼ばれている地域はカナンの地と記されていますが、後の時代には、カナンはフェニキアを指していたようです。カナンの宗教と言えば、バアル信仰を連想します。彼女がイエスさまと出会うまで、どんな信仰をもって生活していたのかはわかりませんが、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけていますから、バアルを拝むのではなかったようです。
 それなのにイエスさまは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいました。イエスさま自身がガリラヤの隣のフェニキアの地においでになっていたのです。だからこの言葉は彼女の信仰をお試しになったものとしか思えません。彼女は執拗に食い下がりました。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」。その結果「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」というお言葉をいただき娘は癒されました。イスラエルの隣国フェニキアの女がテーブルから落ちたパン屑をいただく小犬だとしたら、イスラエルから遥か遠くの私たちは…この後の聖餐式で唱う歌は「パン屑さえ拾うにも値しない者なれど」です。そんな所にもイエス・キリストの福音は届けられています。この恵みを心から感謝し諦めずに祈りましょう。
2021年1月31日
降誕節第6主日
 
  マタイ5:17の「律法や預言者」とは旧約のことです。イエスさまが来られたのは、神さまから私たち人間への旧約のメッセージが完成するため。旧約は古い約束だからもういらないというのではなく、旧約も新約も神さまからの同じメッセージが語られ、しかもイエスさまによって完成します。
 では神さまのメッセージとは何か?旧約聖書を一言でいうと「敬神愛人」(心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。マタイ22:37&39)です。
 イエスさまは神への愛と人への愛を完成するために来られました。そこで「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とは何かを考えましょう。律法学者やファリサイ派の人々は律法を守ることに特別に熱心でした。律法をしっかり守ることによって神さまの前に正しいと認められると考えていたからです。ならば彼ら以上に旧約聖書の律法を一生懸命に守ることが求められているのでしょうか?
 19節に「小さい者」「大いなる者」という言葉が出ていますが、小さな掟を大事にすることが求められています。別の箇所では少しのものに忠実であること(マタイ25:21)、小さい者を受け入れ大切にすること(マタイ18章、25章)が求められます。律法学者にまさる義とは、小さな者を大切にし、弱い者と歩むことこそが旧約の完成としてのイエスさまの生涯であり、私たちにも求められていることです。
 2021年1月24日
降誕節第5主日
 ヨハネの逮捕後、イエスさまはガリラヤに戻り、宣教を開始します。マタイはイエスさまの生涯を旧約の預言の成就として語ります。ですからマタイが引用したイザヤ書8:23と9:1を読んでおきましょう。
辱めを受けた:BC734-732アッシリアのティグラト・ピレセル3世が住民を捕囚とし、次の王シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、占領し(BC722)人々を連れ去りました。代わりに異民族(異教徒)がこの地に植民してきました。こうしてサマリアとガリラヤは異教と元来のイスラエルの宗教が併存する地となりました。BC330にはアレキサンダー大王、その後はエジプトとシリア、BC63にはポンペイウスによってローマの支配に服します。イエスさまが伝道の拠点としたカファルナウムにはローマ軍の駐屯地がおかれていました。イザヤの預言通り、ガリラヤは辱めを受けてきた地です。
暗闇・死の陰の地:当時のガリラヤは貧民が多く、病人や障がい者も多かったと言われます。
大きな光:そうした土地でイエスさまは神の国の福音の宣教を始められました。その言葉はヨハネと同じ「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした。ヨハネは先駆けとして語り、イエスさまが本番として語りました。ヨハネは人々に洗礼を授けて備えをさせ、イエスさまは罪の赦しを与え、癒しと悪霊の追い出しによってそのしるしを見せました。偶像や異教的因習の多い地日本ですが、そこもまたキリスト教の新たな展開が可能だと信じます。
 2021年1月17日
降誕節第四主日
  今日の朗読所には「四人の漁師を弟子にする」という見出しがあります。彼らはイエスさまの弟子になりました。イエスさまの弟子とは何でしょう。私たちの身代わりとして、イエスさまが十字架で死なれたので私たちの罪が赦された、と信じるのがクリスチャンですが、それだけでは「人間をとる漁師」とは言えません。
 聖歌に「汚れしこの世のさざめきより 離れて静かに憩う我」という歌があります。そういう時間の大切さは承知していますが、人里離れた山奥に住んで自給自足の生活をして、この世の人々とは関わり合わないというスタイルの修道生活をする人もありますが、これも「人間をとる漁師」とは言えません。
 人間をとる漁師は、都市であろうと村落であろうと人の住むところに自らも入って、人々との交わりの中で人々をイエス・キリストのものにしていく人でしょう。「二人はすぐに網を捨てて従った」。「すぐに」と「捨てて」が重要です。ある人が「わたしに従いなさい」と言われて「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えました。主の言葉は 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」です。
「網を捨てて」網は生活の手段でした。「舟と父親とを残して」生活の手段と共に家族とも離れることになりました。
 イエスさまが私たちを召すのは必ずしも牧師にとは限りません。どのような召しでれ、それに応えることを主は求めておられます。
2021年1月10日
降誕節第3主日
 
 洗礼を受けた時にイエスさまに聖霊が降り、人間イエスが神の養子となったと考える人たちがいました。私たちはイエスさまはマリアのお腹にいる時から神だったと信じます。「神の母マリア」とはその信仰を表す表現です。
1. 洗礼とは何か。
 ヨハネの洗礼は、罪を悔い改め赦しを受けるもの。バプテスマには洗うという意味はなく浸し沈める(浸礼)→罪人が溺死する→新生
2. イエスさまは洗礼を受ける必要があるか。
 多くの人々が罪を告白し洗礼を受けた。イエスさまはその行列に入り洗礼を受けた。私たちと同じものとなられた。低い者となられた。人間と一つになるための洗礼(教会はイエスさまと一つになるための洗礼を授ける)。
3. 聖霊の洗礼。
 水から上がると聖霊が降った。水の洗礼と聖霊の洗礼とは一応別のこと。
①救い主としての認証。聖霊を受けた人は多いが鳩のように聖霊が降ったのはイエスさまだけ。イザヤ11:1~2。鳩は慰めや平和を表す。②私たちが聖霊を受けるため(使徒10:44)→聖霊の実(ガラテヤ5:22~23)
4. 天からの声
「わたしの愛する子」詩2:7→王としてのイエス
「これを喜ぶ(新改訳)」→イザ42:1「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者(新改訳)」
結論 神の子が人と同じくなって人に仕え、犠牲になって死んで下さった。しかもこの方が今も私たちと一緒にいてくださる恵みと驚き!主イエスと共に今週も生きよう。 
 2021年1月3日
降誕節第2主日
  元旦はプロテスタントでは主イエスの命名日ですが、カトリックでは「神の母聖マリアの祭日」でした。「神の母」という呼び方について、来週お話しすることにいたします。
 さて、今日の個所は大きく分けて二つのことが言われています。①ヘロデによる幼児虐殺とエジプトへの逃避。②エジプトからの帰還とナザレへの移住。どちらも預言の成就として語られています。ヘロデによるベツレヘム周辺での幼児虐殺はエレミヤ書31:15の成就として語られます。ラマというのはベツレヘムより20キロぐらい北ですが、どちらにしてもベニヤミン族の地、ベニヤミンの母はラケルです。イエスさまはエジプトへ逃げて難を逃れました。ヤコブの時代にはヨセフを頼りエジプトに移住し400年もエジプトにいました。その間王朝の交替でイスラエルは迫害されますが、モーセが遣わされ、エジプトから引き上げてきます。それについてのホセア11:1をマタイはイエスさまについての預言として語ります。
 後半はエジプトからの帰還です。マタイはヨセフとマリアが「ナザレから来てベツレヘムで出産した」とは書いていません。東方の博士たちがイエスさまを礼拝した場所は家畜小屋ではなくてヨセフの家でした。だからエジプトから帰る先はベツレヘムです。ところがユダヤの領主がアルケラオという暴君だと知って恐れ、ガリラヤのナザレに引きこもります。ここはサムソンの「ナジル人」が「ナザレ人」と受け取られています。主の生涯は(私たちの生涯も)神の御心によって動いていくことをマタイは示します。

2020年「命の言葉」


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