日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。


2019年「命の言葉」



 2021年4月4日
復活日(イースター)
  イエスさまは早朝に復活して、女性たちに出合ったので「おはよう」は朝の挨拶です。
口語訳聖書に親しんだ方は「平安あれ」じゃないと落ち着かないかもしれません。文語訳聖書では「安かれ」です。この「安かれ」を受けて「♪安かれわが心よ」と歌いますが、「おはようわが心よ」では歌になりません。英語のある聖書はここを"Rejoice!"(喜べ!)と訳しています。「平安あれ」なのか「喜べ」なのか「おはよう」なのか?おそらくイエスさまは「シャローム」と言われたので口語訳は「平安あれ」。福音書はギリシア語で「カイレテ」と書かれておりその直訳は「あなたがたは喜べ」です。今朝は復活したイエスさまが「おはよう(平安あれ・喜べ)」と言われたことの意味を味わいましょう。
 2021年3月28日
棕櫚の主日(受難週)
  イエスさまは疲れていました。過越の食事の後、オリーブ山で弟子たちが眠っても必死に祈り続けました。夜遅く逮捕され、大祭司の官邸で深夜の裁判が行われ、夜が明けると総督の官邸に移されてまた裁判が行われました。鞭打たれ、棒で殴られ、心も体も力を奪われて、それから重い木を担いで坂を登っていかねばなりません。徹夜の体にはこたえます。
 そこに偶然通りかかったキレネ人シモンがイエスさまに代わって十字架を担がされました。とんだ災難です。けれどもこのことが彼の人生を変えました。マルコ15章では「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介されています。彼の息子たちは教会でよく知られた人たちでした。パウロはローマ16:13で「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と書いています。ルフォスが有力な人であり、パウロはその母、つまりキレネ人シモンの妻にひとかたならぬ世話になったということでしょう。偶然通りかかって十字架を担がされたことで、彼の家族、さらにパウロにまでその恵みが及びました。
 もう一人、イエスさまの処刑を担当した百人隊長を挙げておきましょう。彼は役職上イエスさまの処刑を担当させられました。けれどもそれによって、イエスさまの死のさまを目撃し、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。多くのユダヤ人はイエスさまがローマ軍を破ることを望んでいましたが、イエスさまはローマ軍に殺されて隊長を勝ち取りました。
2021年3月21日
四旬節第5主日
 
 「あなたがたは…このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」イエスさまのこの問いの意味をヤコブとヨハネはわかっていません。いや、二人だけでなく他の弟子たちもわかっていません。二人が将来の高い地位を約束してもらうよう母親に頼んだと思いました。
けれどもイエスさまの杯とは十字架のことです。イエスさまが弟子たちに渡した杯を私たちも毎月いただきますが、それは十字架の死を私たちもいただくということです。その血によって私たちは罪赦され潔められると共に、イエスと共に死んだことをも意味します。そして殉教への杯でもあります。そのことは今日の聖書の後半に現れています。
 「人の子が…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」「皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」と言われています。権力欲とは正反対を目指すのがイエスさまの道です。それは可能でしょうか。
 イエスさまの十字架の死は、罪に囚われている私たちを解放するための身代金であるだけではありません。パウロは「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(ローマ8:3)と、キリストの十字架と復活を「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(8:2)出来事と理解しています。
 先ほど「飲むべきわが杯選び取りて授けたまえ」(400番3節)と歌いました。この信仰に立たせていただきましょう。 
2021年3月14日
四旬節第4主日 
  イエスさまの生涯で、天から「これはわたしの愛する子」という声がしたことが2度ありました。1度目はイエスさまが洗礼を受けた時、聖霊が鳩の姿で降られました。2度目は3人の弟子と共に高い山に登った時です。弟子は大勢いて、その中で選ばれた12人は使徒と呼ばれていますが、この時イエスさまの栄光の姿を目撃したのは後の重鎮の3人だけです。
 彼らが見たものは何だったでしょうか。主の「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」ことです。イエスさまのこれまでの生き方は「栄光」というにはほど遠い、言わば乞食坊主の集団のリーダーでした。財産も持たずに町や村を渡り歩き、行く先々で神の国を説教し、病人を癒やし悪霊を追い出していました。そうした乞食坊主に宿を提供し、もてなし、献金する人々によってイエスさまの活動は維持されていました。けれども人々には見ることが許されていない栄光の姿がありました。
 3人の弟子が見たもう一つはモーセとエリヤがイエスと語りあっていたことです。その時代、旧約は「律法と預言者」と呼ばれていましたが、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤとイエスさまが話し合っていたというのは、イエスさまが旧約の成就としておいでになったことを示します。さらにエリヤの再来は洗礼者ヨハネのことだと3人は悟りました。
 このような栄光を弟子たちは目にしましたが、ヨハネもイエスさまもその栄光は人々の目には隠され、嘲りと迫害の対象となりました。
 2021年3月7日
四旬節第3主日
 今日の個所は2つの段落に分かれます。新共同訳の小見出しは「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」です。
 前者ではペトロがイエスさまに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(ギリシア語原典は「あなたはキリスト、生ける神の子です」)と答えています。イエスさまはこの信仰告白に対して「岩の上にわたしの教会を建てる…あなたに天の国の鍵を授ける」と応じています。だからペトロは天の国の門番と言われています。私たちはこれをペトロ(とその後継者たるローマの司教=教皇)という個人ではなく、信仰告白に立つ共同体=教会と受け取っています。
 教会が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、教会が地上で解くことは、天上でも解かれる。たいへん大きな責任を負っています。
 後半に入るとイエスさまが、御自分の受難と死、復活について話し始めます。するとペトロがイエスさまを諫めたというのです。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」そこにはペトロなりの配慮があったことは確かでしょう。こんなことを言われたら弟子たちが動揺するだろう。そしてイエスさまから離れてしまう者も出るに違いない…。けれどもその配慮は人間的配慮です。神様のお心に聞き従うというものではありませんでした。ふだん優しいイエスさまがこの時は厳しい言葉を浴びせます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。」
 配慮したつもりが、人間のことしか心になく、神さまの御心を尋ねることを疎かにしていた。「神の国と神の義」をまず求めましょう。 
 2021年2月28日
四旬節第2主日
  病気の癒し、悪霊の追い出し…、現代の医療の現場ではほとんどが薬品によって行われます。けれども、宗教的な行為として行われる場合は薬品の化学作用によりません。そこにあるのは霊的な力の作用です。
 イエスさまのところに悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来られ、ものが言え、目が見えるようになりました。これを巡って議論が起こります。
 一般の人々は素直に「この人はダビデの子(つまり救い主)ではないだろうか」と言いました。ところが、イエスさまを認めたくないファリサイ派の人々が、「あれはベルゼブルの力でやってるんだ」と言いました。もちろんそうではありません。悪霊が悪霊を追い出す理由がありません。イエスさまの癒しの業はもちろん聖霊によるものです。けれども、自分たちのグループに属さない人が大きな働きをすると嫉んで悪口を言う人々がいるのです。現代の教界でも目立つ働きをする教会や教職者に対して異端だとかカルトだとか難癖をつける人がいます。
イエスさまは次のように言われました。
「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
 イエスさまの力を素直に認め、その道に従いたいものです。
 2021年2月21日
四旬節第1主日
  毎週、私たちはイエスさまが教えてくださった祈り=「主の祈り」を祈ります。そこには「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りがあります。悪い者が私たちを陥れようとやってきて誘惑するのです。その誘惑に負けると神を離れ神ならぬものを神とするようになってしまいます。
 今日読んだところには「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。聖霊が導いて悪魔の誘惑を受けさせる!そんなことがあるのでしょうか?
これはワクチン接種と似ているように思います。無毒かor弱毒化した病原体を体に入れることで、病原体に対する抗原を体内に作り、病魔に負けないようにするのがワクチンです。
悪魔に打ち勝つためにはどうしたらよいか。
 ヨハネは手紙で「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者」だと述べています。イエスさまには世と悪魔に打ち勝つ力があります。だからイエスさまは誘惑にも勝つことができました。イエスさまの中にはサタンに対する抗原があります。それはみ言葉です。イエスさまは活けるみ言葉です。3つの誘惑に対して、申命記8:3、申命記6:16、申命記6:13で退けています。パウロは「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」といって武具の一つとして「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と命じています。主イエスさまに信頼し、イエスさまが用いた武器、神のみ言葉によって悪魔の攻撃に打ち勝ちましょう。
2021年2月14日
降誕節第8主日
 
 水の上を歩いて近づいてくる人を見て彼らは「幽霊だ」とおびえた。誰でも恐れるだろうと思います。しかし、イエスさまだとわかって安心しました。イエスさまは人に対しても自然に対しても力のある方です。ペトロがすばらしい信仰を示しています。「イエスさまが水の上を歩いたのだから、イエスさまの力によって私も水の上を歩けるはずだ」。実際に彼は水の上を歩いてイエスさまの方へ近づくことができました。私たちもこういう信仰を持ちたいものです。
 けれども、その信仰を貫くことができない要因が世にはたくさんあります。ペトロは水の上を歩いていたのに、強い風に気がついたとたんに怖くなりました。強い風はずっと吹いていたし、その中で歩き始めたにも関わらず!です。私たちの信仰はある時には強く、ある時には弱まる、それが現実の姿ではないでしょうか。怖れを感じた時、彼の体は水の中へと沈んで行きました。助けを求めるペトロにイエスさまは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいますが、決して叱ってはいません。「自分で浮かび上がれ」とは言われず「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださいました。
 信仰の強い弱いとは何でしょうか?信仰は強い方が良いのでしょうか?
 さまざまなところで、さまざまなクリスチャンに出会いますが、時折キリストがなくても良いんじゃないかと思えるほどに信仰の強い人に出会うことがあります。キリストがいないと生きていられないのがクリスチャンだと思うのです。 
2021年2月7日
降誕節第7主日
 
 マタイ15章21節にはイエスさまがティルスとシドンの地方においでになったと書いてあります。聖書巻末の地図によれば、ここはフェニキアに属しています。創世記の言い方では、イスラエルも含めて今日パレスチナと呼ばれている地域はカナンの地と記されていますが、後の時代には、カナンはフェニキアを指していたようです。カナンの宗教と言えば、バアル信仰を連想します。彼女がイエスさまと出会うまで、どんな信仰をもって生活していたのかはわかりませんが、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけていますから、バアルを拝むのではなかったようです。
 それなのにイエスさまは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいました。イエスさま自身がガリラヤの隣のフェニキアの地においでになっていたのです。だからこの言葉は彼女の信仰をお試しになったものとしか思えません。彼女は執拗に食い下がりました。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」。その結果「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」というお言葉をいただき娘は癒されました。イスラエルの隣国フェニキアの女がテーブルから落ちたパン屑をいただく小犬だとしたら、イスラエルから遥か遠くの私たちは…この後の聖餐式で唱う歌は「パン屑さえ拾うにも値しない者なれど」です。そんな所にもイエス・キリストの福音は届けられています。この恵みを心から感謝し諦めずに祈りましょう。
2021年1月31日
降誕節第6主日
 
  マタイ5:17の「律法や預言者」とは旧約のことです。イエスさまが来られたのは、神さまから私たち人間への旧約のメッセージが完成するため。旧約は古い約束だからもういらないというのではなく、旧約も新約も神さまからの同じメッセージが語られ、しかもイエスさまによって完成します。
 では神さまのメッセージとは何か?旧約聖書を一言でいうと「敬神愛人」(心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。マタイ22:37&39)です。
 イエスさまは神への愛と人への愛を完成するために来られました。そこで「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とは何かを考えましょう。律法学者やファリサイ派の人々は律法を守ることに特別に熱心でした。律法をしっかり守ることによって神さまの前に正しいと認められると考えていたからです。ならば彼ら以上に旧約聖書の律法を一生懸命に守ることが求められているのでしょうか?
 19節に「小さい者」「大いなる者」という言葉が出ていますが、小さな掟を大事にすることが求められています。別の箇所では少しのものに忠実であること(マタイ25:21)、小さい者を受け入れ大切にすること(マタイ18章、25章)が求められます。律法学者にまさる義とは、小さな者を大切にし、弱い者と歩むことこそが旧約の完成としてのイエスさまの生涯であり、私たちにも求められていることです。
 2021年1月24日
降誕節第5主日
 ヨハネの逮捕後、イエスさまはガリラヤに戻り、宣教を開始します。マタイはイエスさまの生涯を旧約の預言の成就として語ります。ですからマタイが引用したイザヤ書8:23と9:1を読んでおきましょう。
辱めを受けた:BC734-732アッシリアのティグラト・ピレセル3世が住民を捕囚とし、次の王シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、占領し(BC722)人々を連れ去りました。代わりに異民族(異教徒)がこの地に植民してきました。こうしてサマリアとガリラヤは異教と元来のイスラエルの宗教が併存する地となりました。BC330にはアレキサンダー大王、その後はエジプトとシリア、BC63にはポンペイウスによってローマの支配に服します。イエスさまが伝道の拠点としたカファルナウムにはローマ軍の駐屯地がおかれていました。イザヤの預言通り、ガリラヤは辱めを受けてきた地です。
暗闇・死の陰の地:当時のガリラヤは貧民が多く、病人や障がい者も多かったと言われます。
大きな光:そうした土地でイエスさまは神の国の福音の宣教を始められました。その言葉はヨハネと同じ「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした。ヨハネは先駆けとして語り、イエスさまが本番として語りました。ヨハネは人々に洗礼を授けて備えをさせ、イエスさまは罪の赦しを与え、癒しと悪霊の追い出しによってそのしるしを見せました。偶像や異教的因習の多い地日本ですが、そこもまたキリスト教の新たな展開が可能だと信じます。
 2021年1月17日
降誕節第四主日
  今日の朗読所には「四人の漁師を弟子にする」という見出しがあります。彼らはイエスさまの弟子になりました。イエスさまの弟子とは何でしょう。私たちの身代わりとして、イエスさまが十字架で死なれたので私たちの罪が赦された、と信じるのがクリスチャンですが、それだけでは「人間をとる漁師」とは言えません。
 聖歌に「汚れしこの世のさざめきより 離れて静かに憩う我」という歌があります。そういう時間の大切さは承知していますが、人里離れた山奥に住んで自給自足の生活をして、この世の人々とは関わり合わないというスタイルの修道生活をする人もありますが、これも「人間をとる漁師」とは言えません。
 人間をとる漁師は、都市であろうと村落であろうと人の住むところに自らも入って、人々との交わりの中で人々をイエス・キリストのものにしていく人でしょう。「二人はすぐに網を捨てて従った」。「すぐに」と「捨てて」が重要です。ある人が「わたしに従いなさい」と言われて「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えました。主の言葉は 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」です。
「網を捨てて」網は生活の手段でした。「舟と父親とを残して」生活の手段と共に家族とも離れることになりました。
 イエスさまが私たちを召すのは必ずしも牧師にとは限りません。どのような召しでれ、それに応えることを主は求めておられます。
2021年1月10日
降誕節第3主日
 
 洗礼を受けた時にイエスさまに聖霊が降り、人間イエスが神の養子となったと考える人たちがいました。私たちはイエスさまはマリアのお腹にいる時から神だったと信じます。「神の母マリア」とはその信仰を表す表現です。
1. 洗礼とは何か。
 ヨハネの洗礼は、罪を悔い改め赦しを受けるもの。バプテスマには洗うという意味はなく浸し沈める(浸礼)→罪人が溺死する→新生
2. イエスさまは洗礼を受ける必要があるか。
 多くの人々が罪を告白し洗礼を受けた。イエスさまはその行列に入り洗礼を受けた。私たちと同じものとなられた。低い者となられた。人間と一つになるための洗礼(教会はイエスさまと一つになるための洗礼を授ける)。
3. 聖霊の洗礼。
 水から上がると聖霊が降った。水の洗礼と聖霊の洗礼とは一応別のこと。
①救い主としての認証。聖霊を受けた人は多いが鳩のように聖霊が降ったのはイエスさまだけ。イザヤ11:1~2。鳩は慰めや平和を表す。②私たちが聖霊を受けるため(使徒10:44)→聖霊の実(ガラテヤ5:22~23)
4. 天からの声
「わたしの愛する子」詩2:7→王としてのイエス
「これを喜ぶ(新改訳)」→イザ42:1「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者(新改訳)」
結論 神の子が人と同じくなって人に仕え、犠牲になって死んで下さった。しかもこの方が今も私たちと一緒にいてくださる恵みと驚き!主イエスと共に今週も生きよう。 
 2021年1月3日
降誕節第2主日
  元旦はプロテスタントでは主イエスの命名日ですが、カトリックでは「神の母聖マリアの祭日」でした。「神の母」という呼び方について、来週お話しすることにいたします。
 さて、今日の個所は大きく分けて二つのことが言われています。①ヘロデによる幼児虐殺とエジプトへの逃避。②エジプトからの帰還とナザレへの移住。どちらも預言の成就として語られています。ヘロデによるベツレヘム周辺での幼児虐殺はエレミヤ書31:15の成就として語られます。ラマというのはベツレヘムより20キロぐらい北ですが、どちらにしてもベニヤミン族の地、ベニヤミンの母はラケルです。イエスさまはエジプトへ逃げて難を逃れました。ヤコブの時代にはヨセフを頼りエジプトに移住し400年もエジプトにいました。その間王朝の交替でイスラエルは迫害されますが、モーセが遣わされ、エジプトから引き上げてきます。それについてのホセア11:1をマタイはイエスさまについての預言として語ります。
 後半はエジプトからの帰還です。マタイはヨセフとマリアが「ナザレから来てベツレヘムで出産した」とは書いていません。東方の博士たちがイエスさまを礼拝した場所は家畜小屋ではなくてヨセフの家でした。だからエジプトから帰る先はベツレヘムです。ところがユダヤの領主がアルケラオという暴君だと知って恐れ、ガリラヤのナザレに引きこもります。ここはサムソンの「ナジル人」が「ナザレ人」と受け取られています。主の生涯は(私たちの生涯も)神の御心によって動いていくことをマタイは示します。
 2020年12月27日
降誕節第1主日
  クリスマスイヴの礼拝でもお話しをいたしましたが、イエスさまがユダヤのベツレヘムでお生まれになった時に、イエスさまを礼拝しに駆けつけたのは羊飼いたちと、はるか遠く東の国からやってきた占星術の学者たちでした。彼らは東方でユダヤ人の王の星(民数記24:17?)を見たので拝みに来たのだと、ヘロデの王宮を訪れ、新しい王の居所を尋ねました。一体どのような星だったのか、先週は木星と土星が接近し一つの星のように見えましたが、そのような天文現象だったのでしょうか。
 しかし、その星を見たとしも、わざわざ外国の王子様の誕生を祝いに行くでしょうか?不可解です。ともあれ、彼らは黄金・乳香・没薬という贈り物を携えて拝みにやってきました。ユダヤの王の出現の星を見た彼らはエルサレムの王宮に行きました。彼らの話を聞いた人々は、王宮の者も一般市民も不安を感じました。ヘロデは律法の専門家に尋ねます。専門家は「救い主はベツレヘムで生まれる」というミカの預言を指摘します。
 彼らは救い主がベツレヘムで生まれることを知っていました。エルサレムの人々は救い主の出現を待っていました。けれどもベツレヘムへ行こうとはしませんでした。救いの訪れが告げ知らさせたときに、一歩踏み出すかどうかが問われます。エルサレムの人々は踏み出そうとしませんでした。遠くの異教徒が神の子イエス・キリストを礼拝しに来ました。イエス・キリストの誕生の物語から、私たち律法の下にいない異邦人の救いの歴史が始まっています。
2020年12月20日
待降節第4主日

降誕日
 
  今年一年は新型コロナウイルスの年と言えましょう。19日現在の世界の感染者数7550万、死者167万、日本の感染者数19万、死者2783人。18日現在で、コロナ関連倒産件数が824件に上っています。倒産していない企業も個人商店も青息吐息です。教会も、牧師と長老と奏楽者だけで行い、一般の信徒はネットで視聴するという教会が少なくありません。そして、医療崩壊寸前と言われています。
 イザヤ書52章はバビロン捕囚期に書かれたと言われています。エルサレムの町も神殿も破壊し尽くされて、主な人たちはバビロンへと強制移住させられていました。そこではもちろん神殿での礼拝はできません。異教徒だらけの社会によそ者として彼らは住んでいました。けれども預言者は希望を告げます。
「歓声をあげ、共に喜び歌え!」預言者の目は、その場では見えないものを見ていました。やがてペルシャのキュロス2世によって捕囚から解放され、エルサレムの神殿と町の再建される日を。
 しかも、預言者はユダヤ人だけの救いを見ているのではありません。「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」
神の救いの業はエルサレムから始まり、全世界に拡がると預言しています。今私たちはその成就を見ています。クリスマスは神さまが独り子イエス・キリストの犠牲で、私たちを罪の中から救い出してくださる救いの業の始まりを記念します。感謝と厳粛さをもって喜びましょう。
2020年12月13日
待降節第3主日 
  紀元前1080年頃、ペリシテ人はガリラヤのイスラエル人を奴隷にしました。13章1節の「主はイスラエル人を四十年間、ペリシテ人の手に渡された」というのがそれです。サムソンはそういう時代に生まれました。サムソンはペリシテ人の手からイスラエルを解放し、20年間士師としてイスラエルを裁きました。  今日読んだところが、そのサムソンの誕生の記事です。彼の父マノアの妻は不妊の女だったと記されています。聖書の中では、アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケル、新約で洗礼者ヨハネの母エリサベトも不妊の女でした。このような女性はしばしば「神さまの業が現れる」(ヨハネ9:3)ために用いられています。
 サムソンは救いの先駆者となりました。第1に彼はダビデの先駆者です。また、キリストの先駆者です。自らの命と引き換えにイスラエルをペリシテの手から救いました。イエスさまより少し早く生まれた洗礼者ヨハネも、イエスさまの先駆者となりました。サムソンは母の胎内にいるときから神さまのものとされたナジル人でした。強い酒を飲まず、髪を切らないのです。そのような生き方の中に神さまの特別な力が働いていました。
 洗礼者ヨハネも救い主として立ってほしいという期待が寄せられますが、「自分は救い主ではない。荒れ野で叫ぶ声だ」といって自分の役割に徹します。イエスさまはヨハネの「(罪を)悔い改めよ」を受けて、ご自身を神にささげて全世界を贖いました。
2020年12月6日
待降節第2主日 
 今日の使徒書はローマ書の締め括りですが、パウロは「(イエス・キリストの)福音は、世々にわたって隠されていた、秘めらた計画を啓示するもの」が「今や現されて…預言者たちの書き物を通して…すべての異邦人に知られるようになりました」と述べています。勿論ユダヤ人にも告げられています。
 さきほど朗読されたのはその「預言者たちの書き物」の一つです。預言者の指摘の多くは罪と罪に対する神のさばきです預言者たちはイスラエルとユダの歴史を、彼らの罪に対する神の裁きの歴史として語っているのです。しばしば「旧約の神さまは恐い」という声を聞きますが、それは預言者がさばきを強調し、悔い改めを迫ったからでしょう。けれどもよく読むなら愛である神さまの福音が随所に現れています。今日のイザヤ書59章もそういう箇所の一つです。
 14~15節前半は社会の現状を分析していますが、その原因を12~13節で「わたしたちの背きの罪」としています。社会が悪いのは国民一人ひとりの罪によるのです。15節後半からは神さまの視点と対応が記されています。そこには「憤り」「報復」といった言葉もありますが、全体の基調は「主を支えるのは主の恵みの御業」(16節)です。罪ある者に対しても、私たちが自らの罪を認め(12-13節)、赦しを乞うならば、どのような罪をも贖ってくださいます。神の独り子イエス・キリストがこの世に来られたのは、そのために他なりません。
2020年11月29日
降誕節第1主日 
  「終わりの日に」。この世界は永遠に続くものではなく、終わりの日があることを心に留めましょう。もちろん私たちのこの世の人生にも終わりがあります。それに備えて、先週お配りした「エンディングノート」をお出しいただきたいと思います。
 しかし、また終わりは始まりでもあります。『讃美歌21』575番「球根の中には」という歌に「いのちの終わりは いのちの始め。おそれは信仰に、死は復活に、ついに変えられる 永遠の朝。」という歌詞があります。
 イザヤは戦乱が絶え間なく続くこの世界がついに終わり、新しい世界が始まることを告げています。そこでは、主の神殿がどこからでも、誰の目にもはっきり見え、諸民族が四方八方から主の神殿を目指して、つまり神を礼拝するために集まって来ます。そして神の御心を聞き、それに従って生きようとします。
 太平洋戦争の時は、日本中から金属製品を集めて軍艦や戦闘機を作りました。しかし、神さまはその逆をなさいます。空襲を避けるための灯火管制もありません。闇がないのです。私たちは常に光の中を歩めます。その日を祈りつつ待ち望みましょう。
 2020年11月22日
降誕前第5主日

(終末主日)
  アドヴェント直前の主日は「終末主日」と呼ばれ、世の終わり、キリストの再臨の時に思いをはせるべき時とされています。この機会にこの世での自分の生涯の終わりに思いを寄せ、エンディングノートを書いてみましょう。
 今日の聖書日課の黙示録19:11~16には「この方(「王の王、主の主」)の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」とあり、マタイ25:31~46にはトルストイの「靴屋のマルチン」の元になった来臨する王によるさばきの話があります。
 しかし、もう一つの聖書日課、旧約のミカ書2:12~13には「残りの者」を主が呼び集め、導いて一つにすると預言されています。「残りの者」というのはイザヤ、エレミヤ等に出てきますが、この世の思想・生活様式などに流されてしまうことなく、神さまの愛に応えようと誠実に生きる、マルチンじいさんのような人です。主はこのような人を集め、ひとつにし、その先頭を歩んでくださいます。しっかり主の後に従いましょう。
 2020年11月15日
降誕前第6主日

録音は途中まで
  神さまのお考えは私たちに捉えきれるものではありません。「わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:9)
けれども神さまは私たちに語りかけ、その御心を示してくださいます。それが預言であり、あるいは書き記された聖書です。しかし聖書は新しいところでも1900年以上、古いところは2500年ほども前に書かれたものです。21世紀の人間に直接わかるところは少ないかも知れません。それらを解き明かす者として説教者が立てられています。「聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」と主は言われますから、説教する者も聞く者も責任重大です。
 神の言葉を聞く者は自分の都合の良いことを聞こうとします。語る者も、聴き手が喜ぶことを語る誘惑に晒され続けています。エレミヤは偽りの預言者とその預言を喜ぶ人々に苦しんだ預言者でした。そのような誘惑に打ち勝つためには、自分の思いを捨てて主に服従するほかにないでしょう。
2020年11月8日
召天者記念礼拝
 
  私たちは肉体をもって生きています。目や耳で物事を見聞きし、脳でそれを認識し、それに対する態度を決め、口や手足で行動します。手足の行動や言葉を発しなくても、人に対する愛や思いやりといった感情は、脳という肉体の器官から筋肉へと指令が伝わり「優しい眼差し」が作り出されます。
 肉体の死をどのように受け止めるか、宗教や思想、それぞれの受け止め方があります。ある人々は肉体が死ぬと霊魂は肉体を離れて天国・極楽へ行くと考えます。古代のキリスト教の中にも、肉体は有限な死ぬべきものですから、悪いものと考え、肉体から離れることによって精神(霊魂)は自由になり、神さまに近づけるのだと考えた人々がいました。けれども教会はそのような思想を退けました。この肉体を持つ人は、神によって土(アダマー)から創られアダムと名付けられました。神さまはそのような人を善いものとしました。だから、私たちは生きているときも死んだときも、この肉体を善いものとして、大切に扱わなければなりません。
 他方、人は肉体だけでなく霊的な存在でもあります。霊は神さまとの一致点であると言ってもよいかと思います。神さまとの霊的な交流(具体的には神を礼拝すること)において人はたの生き物とは異なる神の似姿です。
 善いものである肉体は、土に帰り人ではなくなります。その人は消滅したのか?聖書は霊の体をもって復活すると宣言します。私たちは朽ちる体をもって生まれました。その体は死にますが、霊の体が復活します。復活者イエス・キリストが命を与える者となったからです。
2020年11月1日
降誕前第8主日
 
  詩編51篇を交読しましたが、この詩には古代から「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」という標題が付されていました。ダビデといえばイスラエルの歴史でもっともすばらしい王でした。1世紀のユダヤ人にとって「キリスト」とは、ダビデの再来でした。そのすばらしいダビデですら、罪から逃れることはできなかったのです。彼は人妻を犯したのみならず、その夫を亡き者にしました。
 大きな罪を犯したダビデですが、王位を追われてはいません。預言者ナタンの指摘に耳を傾け、悔い改め、神に立ち帰ったからです。ここに神さまの前での正しさがあります。
 神さまにとっての正しさとは何でしょうか。旧約聖書にはモーセを通して神さまから与えられた律法があります。神さまから与えられた律法を持っていることはユダヤ人の誇りでした。ユダヤ人の中でも特にファリサイ派は律法を守ることに熱心でした。律法に忠実になるために、彼らはどんどん厳密さを求めて、細かいことに至るまで自分たちの生活を規則ずくめにして行きました。
 けれども私たちは自分の生きて来た道のりをじっくりと振り返って見るとき、どれほど大きな失敗と罪を重ねてきたかを思わざるを得ません。過去に戻ってやり直すことはできません。ただ神の前に懺悔するのみです。
 あるときイエスさまはこんな話をなさいました。ルカ18章9節以下です。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 私たちが義とされるために必要なことは、第1にへりくだることです。自分がいかに罪深いかを認めることです。神さまに憐れみを求めることです。
 第2に神は私たちを義、すなわち正しい者としてくださる道を備えてくださいました。イエス・キリストの十字架の死を私たちのための贖罪死として、それを信じる全ての人の罪を赦してくださいます。イエスキリストの十字架の中には、私たちの悩みも悲しみも含まれています。
何の行いも必要ではありません。ただ必要なのはそれを信じる信仰のみです。このことを再発見したのがマルティン・ルターでした。昨日は宗教改革記念日でした。
 2020年10月25日
降誕前第9主日
 箴言には知恵の大切さが記されています。熟慮、反省、理解力、知識、慎重さなどは知恵ある行動です。政治家に求められるのは見分ける力です。正しい掟(法律)を定め、正しい裁き(行政)を見分け、行うには知恵が必要です。政治家だけでなく自由人として生きるためにも知恵が不可欠です。(1~21節)
 今日読まれた22節以下には、人格的存在者としての知恵が記されています。知恵とは誰でしょう?箴言の冒頭には「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とありますから「わたし」とはソロモンだとも考えられます。けれども彼はダビデの子ですから、永遠の昔、天地創造の前からいたわけではありません。
 教会は伝統的にこれをイエス・キリストと読んできました。4世紀の神学者アリウスは22節の「主は、その道の初めにわたしを造られた」から、イエス・キリストを神より劣る被造物と主張し、ニカイア公会議で異端とされました。他方、ヨハネ福音書の冒頭の「はじめに言葉があった」は箴言8章の「知恵」を「ロゴス」と解釈したものと言われます。
 今日私たちが注目したいのは、30~31節に書かれた知恵(キリスト)と私たちの関係です。キリストは神さまの御前で地上の私たちと共に楽を奏し、人と共に楽しみ、神さまを楽しませるのだというのです。イエスさまが十字架の死まで遂げて私たちを罪から救い出したその目的は、私たちがキリストと共に神さまを賛美することです。教会の礼拝とはそういうものです。祈りをささげ、神さまを賛美しましょう。 
2020年10月18日
聖霊降臨節第21主日
 
  「天国へ行きたい!」そう願っている人は多いと思います。この世に生きることに疲れ、天国はすばらしいところだというイメージを抱いて、天国に憧れる人が多いのだと思います。他方、ある先生が「いつもうちにイエスさまがいると疲れてしまいそうだから、時々来てくださるくらいが良い」とおっしゃったように、天国は神さまの目があるから気が抜けないところかも。
 ところでパウロは天からキリストが来られるのを待っていると言います。パウロはコリント一16:22で「マラナ・タ(主よ、来てください)」と叫んでいます。彼の心からの叫びです。毎週私たちはこう祈っています。「御国を来たらせたまえ」。天国は私たちが「行く」ところではなく、私たちのところへ「来る」ものではないでしょうか。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)
 そこで私たちのなすべきことと、神さまがなしてくださることを覚えておきましょう。
私たちがなすべきこと:皆一緒にパウロに倣う者になる。19節から考えるとキリストの十字架を仰ぐことです。そして「交わりの内に」です。
神がなしてくださること:私たちの卑しい体を、神と同じような栄光ある体に変えてくださる。
 日々キリストの十字架を仰ぎ(特に聖餐において明瞭となる)、栄光ある体に変えていただくのを期待する。そのような交わり(教会)にことイエス・キリストは来られ、そこを天の国とし、治めてくださいます。主に栄光!
 2020年10月11日
聖霊降臨節第20主日
 人の命は肉体の死で終わるものではないとパウロは断言します。私たちの今ある肉体は「幕屋」と言われています。幕屋はテント、仮住まいの場です。神が天に備えてくださっているのは「建物」ビルディング、それが私たちの永遠の住みかです。
 私たちの体は、長い間使っている間に、何度も病気をしたり、ケガをしたりします。そのために変形したり、一部を失ったりします。メンタルでもトラウマを抱えて、何事かに恐れをいだいたりします。そうした傷を縫ったり何かをあてがったりして、生まれた時のようなピチピチの体ではなくなっています。心も様々な経験を通して幼子の純真さとはかけ離れてしまっています。そのようにして私たちはつぎはぎだらけの人生を終えていきます(それは決して悪いことではありません)。幕屋の人生はついには破れて終わります。
 そのような人生であるにも関わらず、いや、それだからこそ、神さまは永遠に古びることのない住みかをくださるというのです。私たちはそれにふさわしいでしょうか?わかりません。けれどもふさわしくなくても、ふさわしい者としてくださいます。7~8節のつながりが良くないように思われますが口語訳は「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。」となっています。
 自分自身の存在の根拠(よりどころ)をどこに置くべきでしょうか。天に置くことが許されている幸いを味わい喜びましょう。 
 2020年10月4日
聖霊降臨節第19主日
  ローマの信徒への手紙11:33~36で、パウロは神さまの知恵を賛美します。神さまが人を救う時、人の心の動きをよくご存じで、人が救いを受け入れる時だけでなく拒む時にもそれを通して他の人の救いに結びつけ、あらゆる人にアプローチなさるのです。
 10章では「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』」と言っています。しかし異邦人の救いのことでイスラエルの中にねたみが起こり、彼らは不従順になりました(10:19以下)。ユダヤ人の多くが躓いて異邦人が救われても、神さまはイスラエルを捨てたわけではありません。11章にはエリヤの時代にバアルに跪かない者が七千人隠されていたように(それが「メシアニック・ジュー」と呼ばれる人たちかどうかはわかりませんが)イスラエルの内に真の信仰者がいると指摘します。そのことを十分にわきまえた上で、現代のに聖地にある多くのキリスト教会を守っているのはユダヤ人ではなく、パレスティナ人キリスト者であるということを知っておいていただきたいと思います。
 こうして神さまは、ユダヤ人の不従順によって異邦人が救われるようにし、異邦人全体が救われたなら、次には全イスラエルが救われるという計画を持っておられます。アブラハムに対して約束されたことを神さまは反故にはされません(「賜物と招きは取り消されていない」という表現に注意)。人の罪すらも多くの人々が神さまの恵みに与るきっかけとされていく。神さまの知恵には驚くほかありません。
2020年9月27日
聖霊降臨節第18主日
 
  一般に神社仏閣には御神体や本尊があり、それを拝みます。しかしユダヤ教の神殿や会堂、キリスト教の教会堂には礼拝の対象となるものはありません。ソロモン王は神殿の献堂式でこう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」。地上の建物は神の住まいではありません。(列王記上8:27)
 使徒パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とコリントの人々に言っています(一コリ3:16)。神さまは木や石で作った建物ではなく、私たちの内に住まわれます。だから、神が住んでくださるのにふさわしく整えましょう。その整え方がエフェソの信徒への手紙にあります。
 整える主体は神さま。私たちの内にキリストの霊である聖霊が住んでくださいます。その目的は「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」となること。その愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、その愛に満たされることです。私たちや社会の現状を省みる時、愛の欠如を感じます。
 20~21節の頌栄に「教会によって」という言葉が入っていることに注目しましょう。パウロが「あなたがた」と言っているのは一人ひとりの個人というより、教会と、教会の肢としてのキリスト者です。キリストは「教会の頭(かしら)」であると言いますが、この言葉は教会とキリスト者の一体性を表しています。
2020年9月20日
聖霊降臨節第17主日
 
 エレミヤは主に信頼する人について語ります。主に信頼するとは、他のもの、たとえばこの世の権力者とか財産とか地位を信頼するのではないということです。私たちは権威や名誉に弱いものです。けれどもただイエス・キリストとその父である神さまだけを信頼する、神さまだけを拠り所とする人は祝福されます。
 「水路のほとりに根を張り…」は、絶えず教会(恵みの通路)を通して与えられるみ言葉によって栄養を与えられていることです。でも、高齢になったら教会に通うこともたいへん…。いや、教会に足を運ぶだけではありません。教会はいつも一人一人を祈りのうちに覚えているのです。教会に来られない人も牧師や一人一人の信徒を覚えて祈ってほしいのです。そうすると一本の木だけでなく、水路に沿った多くの木々に花が咲き、実を結びます。
 9~10節は一転して「人の心はとらえ難く病んでいる」と指摘します。けれどもエレミヤは恵みを語ります。病んでいる心を探り、究め、報いるのは他人ではなく神さまです。少し先の14節では「主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるならわたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」と主を賛美します。神さまにすべてを知られていることは喜びです。私たちもエレミヤの賛美に心を合わせましょう。 
2020年9月13日
聖霊降臨節第16主日
 
 「霊と水と血」が一致して証しをするとは?水は主イエスが公生涯の初めに洗礼をお受けになったことを指すでしょう。血は十字架で死なれたこと、そして霊は、主が洗礼をお受けになった時に鳩のように降り、ペンテコステの時には弟子たちに炎の舌となって降った聖霊を指します。主イエスも使徒たちも聖霊に満たされて神の国の福音を、イエス・キリストの内にある永遠の命を証しました。
 今日の聖書日課のエレミヤ書はエレミヤとハナンヤという二人の預言者の対決を記しています。ハナンヤはユダがバビロンに勝つと預言します。エレミヤは負けると預言します。正反対の預言が同じ神の名でなされました。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(28:9)
 ヨハネによる福音書では真のアブラハムの子孫は誰かが問われます。アブラハムと同じ業=信仰によって行く先を知らずとも旅を歩む者がアブラハムの子孫です。
 ヨハネの手紙は、少し複雑なことを書いています。「罪を犯さないvs罪を犯す」「死に至らない罪vs死に至る罪」。私たちは神から生まれた者、神に属する者、罪を犯さない者と言いながらも、しかし私たちが生きているこの世全体は悪い者の支配下にあり、私たちは絶えず不義と偶像の前に晒されているのが現実です。神に属する者としての実質は、自らの弱さを認め、互いに祈り合い執り成し合う愛の共同体に生きることにあります。
2020年9月6日
聖霊降臨節第15主日
 
 ヨハネによる福音書8章12節に「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というイエスさまの言葉があります。イエスさまがあらわれると闇に紛れていたものが露わにされます。気付かれることがなかった罪がハッキリとします。私の母はよく「信仰を持つまで罪なんてわからなかった」と回想していました。クリスチャンになる前の母は、おそらく純粋で善良な若い女性だったろうと思います。自分に罪があるなどと考えたこともなかった。しかしキリストに出会って初めて自分の内にひそむ罪に気付かされました。光には罪を照らし出す働きがあります。
 光は希望でもあります。創世記の冒頭の「光あれ」という神さまの言で現れた光は、敗戦と捕囚によって混乱し生きる術を見失ったユダの民に秩序と希望を与える光でした。
 今の時代に生きる私たちには「内なる光」があります。先週水曜の聖書日課に「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(ルカ11:35)という言葉がありました。私たちが光の子として生きるということは、私たちの内なる光─聖霊─の導きに従って生きることです。聖霊に覆いをかけてしまうことがないように気をつけましょう。
 どう生きるべきか、15節以下に具体的に指示されています。御心を知る=祈る。酒(spirits)ではなく聖霊(Holy Spirit)に満たされ、主をほめ歌い、常に《イエス・キリストの名によって》神に感謝する。私たちの時代、社会がどのようであっても、このように生きたい。そのために聖霊が私たちの内にあって光を照らしておられます。 
2020年8月30日
聖霊降臨節第14主日 
  使徒パウロはローマの手紙で、夫婦関係における死別と再婚の例をもって、律法と死別して“霊”と共に生きる生き方を説いています。
 生まれながらの人は、神に栄光を帰することを知りません。自分の欲求を満たすためにさまざまな欲に従って生きています。その中には食欲や性欲や、それ自体は罪ではないものが多く含まれます。けれども性欲からは性犯罪が、友達と楽しみたいという欲求からはコロナウイルスの感染といった社会の益に反する結果を生み出すことがあるのです。
 通常、私たちはそのような事柄に対して、法律や、明文化されていない社会通念としての道徳によって自らを律しています。つまり「○○してはいけない」という律法を自らに課しています。しかも「○○してはいけない」というのは「○○したい」という思いとセットなのです。「殺したい」と思う人がいなければ「殺してはならない」という律法は不要です。また「殺してはならない」という律法がなければ殺人罪は存在しません。
 パウロによれば、規則で人を縛ることによって、罪をなくすことはできません。むしろ、規則によって人の罪深さが暴かれていきます。
 解放された人生を生きるとは、喜びと感謝をもって神を賛美する生き方です。この喜びと感謝とを私たちに与えるのは聖霊さまです。そのためには、何か新しいハードルを越える必要がありますか?いいえ、キリストに結ばれた者はそのように生きる力を与えられています。自らを聖霊の働く場としていただきましょう。
2020年8月23日
聖霊降臨節第13主日
 
 「知恵はどこにあるか?」ヨブはこのように問います。深い淵にも広い海にもない。どのような高価な宝石や貴金属を持ってきても知恵を手に入れることはできない。空を自由に飛び回っている鳥でさえ、知恵の出所を知らない。ただ神のみが知っている。いや、「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別」ヨブはこのように結論したのでした。
 今日の聖書日課の福音書(ヨハネ7章)によれば、イエスさまの説教を聞いた人たちの意見は割れました。話を聞いた直感で「この人はメシアだ」という人と、聖書を根拠に「メシアはガリラヤからは出ない」という人です。生半可な聖書の知識がイエスさまへの信仰の妨げとなっています。教養のある議員達も、ニコデモに対して「聖書を調べてみろ」と言いました。
 聖書日課の使徒書、コリント一には教会の分断が書かれています。パウロ派とアポロ派に分かれて争っていました。牧師も人間ですから個性があります。合う人・合わない人があります。けれども牧師は神に用いられるための器です。牧師という人間に目を向けて、イエス・キリストご自身に目が向かないのはキリスト者として未熟な乳飲み子だとパウロは言います。
 神のところにしかない知恵に、私たちは届かないのでしょうか。パウロによればこの知恵は神秘(ミステリー)=隠された知恵です。 「霊的なものによって霊的に聞き取る」ことによってわかるものです。徹底的に神を畏れへりくだり、自分を愚かな者として聖霊の助けを求める、そこに知恵があります。 
2020年8月16日
聖霊降誕節第12主日 
  今日の礼拝で歌いたかった歌がありますが、『教会福音讃美歌』に入っていなかったので選びませんでした。『聖歌』514です。
光の高地に屯(たむろ)なせる 主の強者(つわもの)達 身を備えよ
谷間に隠れて隙を窺う 悪魔の手下の数は多し
信仰は勝利x2 信仰もて世と悪魔に勝たん
御旗は愛なりいざ掲げよ 剣は聖書の御言なり(以下略)「霊の戦い」の歌はいくつもありますが、愛を掲げた戦いの歌はあまりありません。
ヨハネの手紙一5章1~5節の内容
1節、「イエスがメシアである」=基本的信仰告白。これを告白する者=神の子→神を愛し、神の子達を愛する。2節、上記の告白単なる言葉でなく、神を愛し掟を守るという態度と行動→他者への愛。3節、神への愛=掟を守ること(難しくない)。4節、世に打ち勝つ勝利=「イエスがメシアである」と信じる信仰。5節、世に打ち勝つ者=イエスが神の子であると信じる者
 「掟を守る」というと厳しそうに感じます。しかしヨハネは難しいものではないとクギを指しています。ヨハネにおいては「掟」「イエスの命令」と言われるものはただ一つ「互いに愛し合いなさい」ということです。これがいちばん難しいと言えば難しいのは確かなことです。受け入れること、赦し合うことです。赦し合うことに関しては「主の祈り」の後に、「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあることは重く受け止める必要があります。けれども聖霊に導かれるならば、必要なことはなさせて下さいます。
2020年8月9日
聖霊降臨節第11主日 
  私たちが今使っている聖餐式文には、27節以下の警告は入っていません(2006年に発行された『日本基督教団式文(試用版)』にも入っていません)が、『日本基督教団口語式文』(1959年)にはこの警告が入っています。
 「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲む」とはどういうことか? ある人は「今朝は夫婦げんかをしてそのまま礼拝に来たから、自分は聖餐を受けるにふさわしくない」と言いました。罪があるままでは聖餐にふさわしくないのでしょうか?否、私たちの罪を赦すために主は十字架にかかってくださった。聖餐は罪の赦しの秘蹟でもあります。聖餐を受けるにふさわしくなるためにパウロが勧めているのは「待ち合わせて集会をすること」「家で食事を済ませて集まる」ことです。豊かな者も貧しい者も一つになるようにすることです。
 「裁きを招く」とは何でしょう。32節をよく見ましょう。「世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめ」とあります。
ここで「裁かれる」とは「永遠の地獄の火の中に落とされること」ではありません。言わば「愛の鞭」のようなことです。
 聖餐にふさわしいあり方とは?警告文の直前にあるように聖餐に与ることは「主の死を告知すること」です。(本来なら)毎週集まる度に主の十字架を心に覚え、体に受けて、主が私たちのために死んでくださったことを、世に証しし続けることが主の記念としての聖餐です
2020年8月2日
聖霊降臨節第10主日 
 ローマ14章は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」で始まります。具体的には食べていいもの悪いものについての意見をめぐってです。旧約の律法で禁じられたもの、仏壇や神棚に供えられたもの。食べ物だけではありません。葬儀で御焼香をするかしないか。神社の鳥居をくぐらない。「ハリー・ポッター」を読んではいけない…などにとらわれる人をパウロは「信仰の弱い人」と言います。偶像の神々などは実際に存在しないのですから、それに献げられた物を食べても偶像に汚されることはないのです。
 けれども過度に偶像に敏感な人もいて、そんなことをすると偶像礼拝になってしまうのではないかと恐れるのです。パウロはそういう人も「不信仰」と切り捨てるのではなく、その人のために配慮せよと言います。
 今日の14章後半は、自分基準ではなく、自分と関わる一人一人に配慮しながら、自分の取るべき行動を決めなさいと説いています。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」
 キリスト教には様々な教派があり、それぞれにしてはならないこと、しなくてはならないことがあります。けれども「自分が抱いている確信」に立ちつつ、異なる確信を持つ兄弟を裁かないことが大切です。「わたしは生きている」と言われる主だけが最終的な権威、皆が主をほめたたえる点で一致するのです。 
 2020年7月26日
聖霊降臨節第9主日
 今日の礼拝の賛美歌、235、34、304はすべてジョン・ニュートン(1725-1807)の詩です。一昨日7月24日が誕生日でした。
 彼は貿易船の船長の息子として生まれ、11歳の時から父と共に船に乗るようになり、やがて奴隷貿易に携わるようになりました。
 彼が22歳の1748年5月10日、船が激しい嵐に襲われ今にも転覆するのではないかと思われました。彼は必死になって神の憐れみを求めて祈りました。祈りは聞かれ、船は嵐を逃れることができました。彼の人生の変化がここから始まりました。1754~55年、奴隷貿易から手を引き、神学を学び、1764年英国教会の司祭になりました。
 奴隷貿易に関わってきたことを罪と認めて悔い改め、奴隷貿易に反対する政治家ウィリアム・ウィルバーフォースを支援して奴隷貿易廃止運動を共に推進しました。自分の体験から奴隷がどのような扱いを受けているかを語りました。ウィルバーフォースの長年の努力が実り、1807年3月に奴隷貿易を禁止する法律が成立、ニュートンは同年12月に82歳で神の許に召されました。晩年は目が見えなくなりましたが、アメイジング・グレイスは次のように歌います。
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see
私は失われたが、今は見出されている
盲目だったが、今は見えている。
 嵐の中で真剣に神を求めた経験が彼の生涯を変えていきました。 
 2020年7月19日
聖霊降臨節第8主日
  3度の伝道旅行を終えエルサレムに戻ったパウロは、アガポの預言(21:11)通り逮捕され、最高法院と総督フェリクスの裁判を受けます。今日の個所は、原告(大祭司)側の弁護士テルティロの告発に対するパウロの弁明です。
 キリスト教は当時ユダヤ教の中の『ナザレ人の分派』と呼ばれていました。分派(セクト)は多くの場合、否定的に見られます。ここでもパウロたちの分派は「疫病のような人間、世界中で騒動を引きおこしている者、神殿を汚す者」と見なされています。もちろん分派の中には5章でガマリエルが言及している『テウダの分派』や『ガリラヤのユダの分派』のように滅びてしまう分派もあります。けれども『ナザレ人の分派』は滅びて雲散霧消するどころか、ナザレ人イエスの復活と、すべての人の復活を宣べ伝え、度重なる迫害を経て全世界へと広がっていきました。キリスト教の中でもさらに様々な分派が生まれ、あるものは大きな教会となり、あるものは消え去っていきました。パウロの時代もエルサレムの教会とパウロの教会では意見の違いを認めつつ、協力をしていました。
 あるグループを分派と呼んで貶める人々の動機は多くの場合ねたみ(5:11)です。イエスさまの弟子たちにもねたみがありました。けれどもイエス様はイエスの名によって活動する者は味方だと言われました(マルコ9:38,39)。
 私たちはイエス・キリストとすべての人々の復活という希望をもって福音宣教に励むすべての人々と、教派教団の違いは違いとして持ちつつも、敬意を払いたいと思います。
 2020年7月12日
聖霊降臨節第7主日
 ペトロはリダで8年間寝たきりだったアイネアを「起きなさい」と言って癒しました。彼がリダにいると聞いてヤッファから使者が来ました。みんなから愛されていた女性タビタが死んだという知らせでした。タビタは裁縫が上手だったようです。上着や下着を作り、皆にプレゼントしていました。ヤッファの教会の人々は泣きながら、彼女の手作りの品々をペトロに見せてくれくれました。おそらく彼らはペトロが死んだタビタが天国に行けるように祈りをささげてくれることを期待していたのだと思います。けれどもペトロは皆を部屋の外に出し、彼女の遺体と向かい合い、神に祈ってから「タビタよ、起きなさい」と言いました。すると彼女は起き上がりました。
 福音書には主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせた記事がありますが、そこでも「娘よ、起きなさい」と言われています。「よみがえりなさい」ではありません。
 よみがえりはイエス・キリストによって達成されています。ここで「起きなさい」というのは、そのよみがえりを(知っても知らぬままでも)眠ったまま過ごしてしまうのか、それとも起きてイエス・キリストと共に生きていくのかという選択肢で「起きる」ように求められているのです。「起きなさい」という呼びかけに応えましょう。 
 2020年7月5日
聖霊降臨節
第6主日
 聖書の信仰が指し示すものは何か?パウロは平和だと言います。ユダヤ教はユダヤ人以外の人つまり異邦人を「割礼のない者」と呼びました。これは神との契約対象外であること=救いの外であることを指します。異邦人はモーセの律法に生きるイスラエルでもなく、キリストとも無関係に生きていました。
 ユダヤ教的に考えれば、イスラエル(神との契約の中に生きる者)と異邦人とは対立概念ですが、本来旧約聖書が語ったのは「地上の氏族はすべてアブラハムによって祝福に入る」ことでした。イエス・キリストがユダヤ人と異邦人の対立を解決しました。
キリストが行ったことは次の通りです。
・御自分の肉において両者の間から敵意という隔ての壁を取り壊した。
・規則と戒律ずくめの律法を廃棄した。
・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させた。
その結果、キリストにあるなら、ユダヤ人も異邦人も、聖なる民に属する者、神の家族です。
これをパウロは平和と呼びます。別の表現をすれば、和解に生きる隣人愛の生涯です。
 ところで「使徒や預言者という土台」に注目しておきます。Ⅰコリント1:12に教会内の争いが書かれています。パウロ派、アポロ派、ペトロ派、そして「わたしはキリストにつく」という人々もいました。このキリスト派もキリストを幾つにも分けるグループの一つです。使徒抜きでキリスト直結を考えるのは異端に陥る危険があります。聖書は聖霊の導きの下に、教会の歩みの中で記され、教会によって解釈されてきました。初めから聞いていたことに立ちましょう。 
 2020年6月28日
聖霊降臨節
第5主日
 今日与えられた聖書は2つの段落です。
Ⅰ.18~24節 18~21節は律法を授かったシナイ山のことです。22~24節は神の国です。言い換えるなら旧約・ユダヤ教と新約・キリスト教の違いが記されています。律法はその本来の趣旨から言えば決して恐ろしいものではなかったはずで、むしろ神さまの救いの業に根拠のある恵みの規定、大頭眞一牧師によれば「神と共に歩く歩き方」の教科書でした。しかし、いつの間にか守ることのできないがんじがらめの規則になってしまったのです。しかしイエス・キリストはご自身の犠牲の血によって、私たちをこの律法の呪いから解放してくださいました。こうして私たちは生ける神の都、天のエルサレムにアクセスことができるようになりました。
Ⅱ.25~29節 神の国に招かれているとはなんとすばらしいことでしょうか。では神の国でどのように生きるのでしょう。昔、天国では「酒はうまいし姉ちゃんはきれいだ」という歌がありましたが、私たちの天国はそういう場所ではありません。そこでは私たち各々の主体性と責任とが発揮される場所です。神の国は神さまのご意志が実現されるところ(主の祈りにそう書いてある)です。私たちもそれに沿って生きていくことが必要です。出エジプトの旅でイスラエルの民はどれほどモーセに対して(つまり神に対して)つぶやき文句を言ったことか(ヘブライ3章)。この世の終わりには天も揺り動かされます。けれども神は私たちの罪を焼き付くし、潔めてくださいます。
2020年6月21日
聖霊降臨節
第4主日
 
 ヨハネは「反キリスト」への警戒を促しています。このことは4章でも繰り返されていますので、ヨハネの教会にとっては大きな問題だったことがわかります。4章では「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」と勧めています。「キリスト教」を看板に掲げながら、イエスさまがキリスト(救い主)であることを否定する者、父なる神と御子イエス・キリストの関係を否定する者、これらは歴史の中に何度も現れてきて私たちを惑わします。
 イエスを倫理道徳の教師とする者もいます。確かにイエスさまの愛の教えはすばらしい道です。けれども、イエス・キリストの十字架の死による私たちの罪の赦し、また私たちに永遠の命が与えられるということなしに、たとえば山上の説教で説かれたことを実行しようとするなら、それはパウロが諦めたモーセの律法を守ることによって神の義を得ようとすることよりも難しいでしょう。
 自分はキリストの再来だと称する者たちも現れています。しかし、聖書は救いの完成、すなわちこの世界を終わらせ、新天新地を実現し、そこに私たちを入れてくださるために来られると、私たちは確信しています。救いのやり直しではないのです。
 魅力ある指導者達が語る【福音】が神の霊から出たものかどうか、どのようにして確かめたら良いでしょうか。「御子から注がれた油」=聖霊によって判断するのです。重要なのは自分自身ではなく、主から注がれた聖霊によって、という区別です。私の中に住んでくださる私とは異なる方、その方に判断を委ねましょう。 
 2020年6月14日
聖霊降臨節
第3主日
 Ⅰ.律法による義
 「掟を守る人は掟によって生きる」パウロはこれを実践しました。しかしその限界を知りました。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となる」(ヤコブ2:10)結局律法は私たちが罪人であることを教えるのみと悟りました(ローマ3:20)。
Ⅱ.信仰による義
 パウロはモーセの言葉をキリストに当てはめて受け取ります。キリストが天から来られ、陰府まで降り、天に引き上げられた。救いのために行うべき事はキリストが行ってくださった。私たちがなすべきことは、これを信じて告白することです。心で信じ、口で公に告白する。口先で言うのではありません。「心の底より」(387弟子となしたまえ) In my heart, in my heart, Lord, I want to be a Christian in my heart, in my heart.
 この恵みは誰でも受けられます。
Ⅲ.信仰は聞くことから
 14節以下には二つの側面があります。一つは語る者の必要性。イエス・キリストによる救いが語られなければ信じようがありません。伝道することは救われる者が起こされるために欠くことのできない要素です。そのためにパウロは3度の伝道旅行を行い、パウロの後に多くの宣教師が起こされ、鈴鹿の人々も宣教師によって福音を聞きました。
 もう一つは聞く側が語られた言葉に従うことです。心を閉ざして頑なになる者が多いのです。イスラエルがまさにそうです。それでも神さまはイスラエルを愛し続けておられます。
 2020年6月7日
三位一体主日
  イスラエルはヤコブが神さまからいただいた名前です。ヤボク川の渡し場でヤコブは神さまと格闘しました。彼はかつて兄エサウから祝福を奪い取って叔父のラバンのところへ逃げました。そしてまたエサウのいる故郷へ戻るに際して、どうしても神さまから取り扱われる必要がありました。神さまは彼に「お前の名は何か」と尋ねます。「ヤコブです」と答えます。この名前は生まれた時に双子の兄エサウのかかとを掴んで生まれてきたことにちなんでいます。かかとを掴む者、日本風に言えば「足を引っ張る」とか「揚げ足を取る」というところでしょうか。他人をうまく利用して、ずるく立ち回って利を得ようとしてきた人生でした。このヤコブに対して神は「お前は神と人と闘って勝ったから」と、イスラエルという名を与えました。実際には神に負けたのに。
 イザヤはこのヤコブの子孫に呼びかけています。「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ」。ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、主だった人々がバビロンに捕囚となりましたが、イザヤはそこからの帰還を預言します。
「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず渇きに舌は干上がる。…イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない」。人が神さまを裏切ることがあっても、神さまは決して裏切らない。この神さまの誠実さの故に、私たちの救いは確実なものなのです。
 2020年5月31日
ペンテコステ礼拝

説教YouTube
 骨が大量に積み上がっている景色。それは多くの人々が殺され、まとめて投げ捨てられた場所を想像させます。甚だしく枯れていたというのですから、死んでからかなり時が経過しています。
 神さまは、そんな骨に向かって預言せよと言います。生きている人に神の言葉を語ってもなかなか聞いてもらえません。まして枯れた骨が神の言葉を聞くわけがないと思われます。ところが預言者が主に言われた通りに預言すると、骨が音を立てて動き出しました。
 預言者は今度は霊に預言します。「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。アダムも神の息を吹き入れられて生きる者となりました。
 教会史を振り返ると、沈滞する時もあれば、変な方向に行ってしまう時もあります。信仰が死んでしまったように見える教会、またそのようなクリスチャンもいます。そのような教会・クリスチャンでも、神さまは聖霊を吹き込んで生き返らせる力を持っています。今、自分が信仰の墓場にいるとしても、聖霊は神の国まで責任を持って導いてくださいます。聖霊が吹き入れられることを信じ期待しましょう。 
 2020年5月24日
説教録音
 21日(木)は昇天日でした。直後の主日である今日は、主の昇天を記念する礼拝です。今日は主イエスの二つの言葉を聞きます。今日の朗読個所の直前で福音書記者ヨハネは「イエスの時」はまだ来ていないと書いています。イエスの時とは、イエス様が裏切られ、逮捕され、十字架につけられる「受難の時」を指しています。今日のお話はヨハネ1:29~34と並行しています。
(1)「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」。さらに続けて「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。神様と罪人である私たちの隔たりはたいへん深いものです。ルカ16章「金持ちとラザロ」で、アブラハムが金持ちに『わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできない』と言っています。けれどもイエス様が天に昇られ、神様の右に着座されたことでこの距離はずっと縮まりました。
(2)「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。この段落の中で福音書記者ヨハネは「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった」と書いています。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に聖霊が降ったことは福音書記者も知っています。けれどもここで言っているのは、私たちに聖霊が降っていないということです。イエス様にとって栄光を受けるとは、天に昇って御父の右に着座することです。神様からの聖霊を私たちに降すためです。それによって私たちの内側から生きた水が流れ出るようになります。生きた水が潤すのは私たち自身だけではありません。流れ出した先々で人々を潤します。 
 2020年5月17日
説教録音
 主イエスと弟子たちの関係は深いものとなっていきます。イエスさまが弟子たち(→私たち)のために神様に願うのではなく、弟子たちが自らイエスさまの名によって祈ることになる。これは大きな変化です。私たちが直接神様に「イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン」と祈れるようになったのです。
 なぜこのようなことが可能になったのか?
二つの要素があります。一つはイエスさま自身が神様のすぐ隣にいて、私たちが地上で「イエス・キリストの名によって祈ります」というと、イエスさまが「アーメン」と言ってくださる。もう一つは、私たちの祈りが聖霊に導かれた祈りだから、イエスさまが「アーメン」と言ってくださる祈りになるということです。
 このように、私たちの祈りは地上においては聖霊によって、天上の神様の前に置いては、御子イエスさまによって導かれ、守られています。私たちの地上における迫害は確かにあります。そして、私たちは完璧に主に従えるわけではありません。ペトロが3度も主を「知らない」と言ったように不信仰になることもあるのです。そのような時にはイエスさまが私たちを助けてくださいます。イエスさまが十字架に死んでも復活した勝利は、私たちに揺るぎない平和をもたらしてくれます。
2020年5月10日
説教録音


礼拝録画
 クリスチャンとして生きるということは、この世と違う次元の生命に生きることです。イエスさまはピラトとの問答で、「わたしの国はこの世には属していない」と言われました(18:36)。私たちが属しているのはこの世ではなくキリストの国です。フィリピ3章では「私たちの国籍は天にあります」(新改訳2017)とパウロが言っています。日本に住んでいる日本人でありながら実は日本人から見ると異邦人。
 「ぶどう園と農夫」のたとえ(マタイ21:33以下)では、神が創った世界に、神に創られた私たちが置かれているのに、あたかもすべてが自分たちのもののように振る舞い、神を排除する者たちが描かれています。神を証しする者たち、つまり預言者たちから始まり、神の独り子キリストに至るまで排除されるのです。教会は礼拝において、聖餐においてキリストの死と復活を証しますが、妨げる者があります。今回のコロナではどの教会も礼拝を守りつつ信徒の健康・生命を守るためにたいへんな努力をしてきました。この努力は、決して孤独な戦いではありません。聖霊が弁護者として私たちと共に証ししてくださいます。だから、自分だけで戦おうとせずに、聖霊の導きを期待して祈り、委ねます。一見この世の力に敗れたように見えても、最終的には神の国において、この世の命とは違う永遠の命において勝利を得ます。
 最後に世との関わりについてひと言追加して終わります。「世も世にあるものも、愛してはいけません」(ヨハネの手紙一2:15)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(福音書3:16)は矛盾するように感じられます。前者は世に捕らわれることであり、後者は世を神の愛のうちに捕らえることです。この対立はイエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって克服されています。イエスが神の子であることを信じる信仰は世に打ち勝ち、私たちを世を神のもとへと招くキリストの働きに参与させていただく者とします。
2020年5月3日  今日の朗読個所は、ペトロとヨハネを対照しています。
 ペトロはイエス様が捕らえられた時に、3度「イエスを知らない」と言いました。だからイエスさまは3度「わたしを愛するか」と尋ねておいでです。最初の2度はアガペーという価値のないものすら愛して価値を作り出す神の愛を表す言葉で「愛するか」と尋ねます。ペトロは神が人を愛するような愛でイエスさまを愛してきたとは言えなかった。だからフィリアで答えました。そのようなペトロであっても神さまは「わたしの羊を飼いなさい」と委ねます。
 さらに主はペトロに「年をとると…行きたくないところへ連れて行かれる」と殉教を予告します。ペトロはヨハネを振り返って「あの人は?」と尋ねます。私たちは他人と比較したがります(マタイ20:12)。「あの人は用いられるのに私はちっとも…」、「私にばっかりいろんな役が回ってくる」など。神さまはあの人にはあの人の、私には私の、それぞれに賜物と使命を与えられます。ペトロは初代ローマ教皇として西方の教会を監督する責任が与えられローマで殉教しました。ヨハネは主の母マリアを自分の母として世話をし、エフェソで教会を監督し、長生きして、最後にはパトモス島というエーゲ海の小島に流刑となり、そこで黙示録を書いたと伝えられています。他人との比較ではなく、自分に与えられた分に応じてお仕えしてまいりましょう。
2020年4月26日  ヨハネによる福音書は20章の終わりに「本書の目的」という小見出しの付いたまとめがあり、一応終わっています。従って21章は後日談のような性格があります。けれどもヨハネがこれを追加したのは、イエスさま昇天後の弟子たち(教会)が、どのように生きるのかを書いておかなくてはならないという使命を聖霊から示されたからであって、単なる後日談ではありません。この物語を昔のユダヤの話としてではなく、私たちのこととして受け取りましょう。
① こんにち、新型コロナウイルスのために、さまざまな仕事が「自粛」そして「休業要請」を受けて停止しています。本来期待できた収入が減少あるいはゼロになった人が少なくありません。大人も子どもも家で過ごしましょうと言われてストレスもたまります。そんな人たちにイエスさまは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われます。食事をするのは力を得るためです。今日を生き抜いていくための力が必要だからです。パウロも船が難破して同乗者が絶望している時に、皆に食事を勧めました(使徒27:33以下)。船は壊れても全員が生きて上陸できることを神から示されていたからでした。食事のもう一つの効用は人を幸せにすることです。体力を与えると共に心の力も与えます。今は世界中がたいへんな時ですが、食事・運動・睡眠をとって体調とメンタルの健康を保つよう心がけるべきです。
② イエスさまは彼らを弟子にした時に「人間をとる漁師にしよう」と言われました。ヨハネ21章での彼らの漁はこれから彼らが遣わされていく伝道をあらわしています。ところが彼らの経験や努力では伝道はできませんでした。イエスさまは「舟の右側に網を打ちなさい」とおしゃいます。右側は力の側です。ここでは神さまの力にお委ねすることを意味しています。使徒言行録で言えば2章の聖霊降臨を指しています。そうして獲れた魚153匹が多いのか少ないのか私にはわかりません。けれども彼らにとって考えられないほどの漁獲だったことは確かです。それは教会の伝道の成果とも解せますし、教会が受ける恵みとも解せます。私たちの力でどうにもならない時にも神さまには力があり、私たち、教会と、教会を通してキリストにつながる信仰者が生きる道を聖霊によって備えてくださっています。
 2020年4月19日   復活の日の夕方、鍵を掛けた家の中に主が来られ、真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われました。
 この言葉は21節に派遣、23節に赦罪の権威の付与との関わりで言われています。
マタイ10:12~13(ルカ10:5~6)にもあるように派遣された者が語る第一の言葉は「平和があるように」です。この平和は何よりも神との和解によってもたらされる平和です。すべての関係における平和の基礎は、創造者であり、裁き主である神との平和にあるからです。神との間の平和はどのようにしてもたらされたか、それはイエス・キリストの十字架の血によって打ち立てられたものです(コロサイ1:20)。万物は御子イエス・キリストによって神と和解させられました。
 この平和に立ち、聖霊の息吹によって派遣される者が語ることは赦罪です。キリストの十字架のいけにえによって罪を赦していただくことが、神との平和を得ることです。
 この現場にいなかったトマスは復活を信じませんでした。その翌週、主はトマスのいる時に現れ、再び「平和があるように」と言われ、復活を否んだトマスをも赦しました。トマスはインドまで伝道したと伝えられています。
2020年4月12日 
  新型コロナウイルスの流行によって、私たちは「おめでとう!」と言いにくい状況の中にいますが、キリストの復活は喜びであり、希望であり、私たちの信仰の源泉です。
 イエスさまのお墓の異変に気づいたのはマグダラのマリアでした。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」という彼女の知らせで墓に駆けつけたのはペトロとヨハネでした。彼らは主の体を包んだ亜麻布が置いてあるのを見て、イエスさまが言われていたことをようやく信じることができました。
 マリアは再び墓に戻ります。空虚な墓の前で泣いていました。天使が「なぜ泣いているのか」と尋ねても彼女は泣いていました。主が「なぜ泣いているのか」と尋ねても泣いていました。しかし「マリア」と名を呼ばれた時に、それがイエスさまであるとわかりました。名前というのは人を他の人と区別する単なる記号ではありません。名前を呼ぶことは人格的な交わりに入ることです。園丁だと思い込んでいた人が「マリア」と名を呼んだ時、彼女の心が開かれ、彼女の名を呼んだ人がイエスさまであることがわかったのです。イエスさまが復活した。マリアはイエスさまの姿を見て、会話を交わしました。そして弟子たちに復活を告げ知らせるという使命を与えられました。先ほど空虚な墓を見て悲痛な叫びをあげたマリアでしたが、今度は「わたしは主を見ました」と驚きと喜びの声を上げてイエスさまの復活を告げ知らせました。
 ヨハネ1:18に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。そして、14:9ではその独り子である神イエスさまが、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と明言されいます。マグダラのマリアは、復活したイエスさまから「マリア」と呼ばれたことによって、イエスさまは神さまを示す方であり、また神さまご自身であることを体験しました。
 自分がこれからどうなっていくのか不安を感じている、あるいは生きる道を見失っている、そんなあなたの名をイエスさまは呼んでおられます。
 この呼びかけに「私の主」と応答しましょう。そして復活の主と共に行き(生き)ましょう。「私は主を見ました」という体験は、今の私たちの状況の中で、永遠の命への確かな保証であり、不便さとストレスに耐えて、私たちの精神を解放する力を発揮することのできる体験です。主の復活を喜び、ハレルヤと歌い叫び、復活の力を告げ知らせましょう。
 2020年4月5日   ヨハネ18章37節「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」は、口語訳では「あなたの言うとおり、わたしは王である」、新改訳2017「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです」と訳されていますが、原文に近いのは新共同訳です(聖書協会共同訳も同様)。
 イエスさまは御自分を「ユダヤの王」(つまり人々が期待していたダビデの再来)とは言いません。イエスさまの国はこの世には属していない「神の国」であり、「神の国の福音」=「神の国の到来」を告げ知らせることがイエスさまの使命でした。神の国の王は他ならぬ神さまご自身です。ピラトはローマ皇帝の代官としてユダヤを支配することが任務でしたから、おそらくイエスさまの言われる「真理」にはあまり関心がなかったのではないかと推察されます。けれどもイエスさまがユダヤの支配をもくろんでいるわけではないことを理解し、無罪を確信しました。けれども真理に生きることはできませんでした。「真理とは何か」というつぶやきには、真理と接しながらも、それに属することができない人の悲哀が込められています。
2020年3月29日    今日の朗読個所の前半(ヨハネ12:20~26)について、新共同訳聖書は「ギリシア人、イエスに会いに来る」という小見出しを付けていますが、イエスさまの言葉は「一粒の麦」
の話で、ギリシア人とは関係ないようにみえます。けれども、異邦人がイエスさまのもとに来たということが「わたしの時」の到来を告げるしるしだということでしょう。当時のユダヤ教は長い間外国の支配に服してきたので、支配者におもねるか、逆に極めて民族主義的抵抗運動に走るかだったようです。本来聖書は神のもとにあって「地上の氏族はすべてアブラハムによって祝福に入る」と約束するのです。
 イエスさまが一粒の麦として、その死を通して多くの実りを結ぶ時、それは民族を超えていくことをこの段落は語っています。
 後半の段落(27~36)では、まず自分自身の死に対するイエスさまの思いが語られます。イエスさまも人として死にたくなかったのです。けれども自分自身の使命が死ぬこと-人々に罪を着せられて死ぬこと-にあることを自覚していました。その葛藤の中で祈ります。他の福音書では3人の弟子を連れて高い山に登った時に聞こえたとされる神の声が、ここでは少し違うかたちで記されています。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現わそう」。
 ここからイエスさまの歩みは真っ直ぐに十字架に向かっていきます。弟子たち、イエスに聞こうとする人々がイエスさまと共に過ごせるのは残りわずかです。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」。ボケっとしていると暗闇の中に取り残されます。
 2020年3月22日   イエスさまはエルサレムに行った時にはベタニアにあるマルタ、マリア、ラザロの家にお泊まりになりました。マルタがもてなしのために忙しく立ち働いている時、マリアは高価なナルドの香油326gほどの入った壺を持ってきて、全部イエスさまの足にかけ、髪で拭いました。その価格は300デナリオンと書いてありますから、当時の男性労働者の年収ほどです。会計係のユダは「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と非難しました。それは正論でしょう。
 けれども彼女は、自分のいちばん大切なものを全部イエスさまに献げずにはいられませんでした。それをイエスさまは御自分の葬りの準備をしてくれたと受け取ってくださいました。合理的経済的価値観では割り切れないことがあります。
 マリアがイエスさまの足に油を注いだのは、13章でイエスさまが弟子たちの足を洗ったことを、マリアが先取りしたのです。もう一つ、彼女はイエスさまの足を自分の髪で拭きました。当時の女性は人前では髪を隠しています。長い髪をあらわにするのは夫の前か、あるいは娼婦です。しかし、この時の彼女はイエスさまの前に体裁を取り繕うことをしませんでした。そして、自分の髪で拭くことで、香油はマリアをも良い香りで満たしました。イエスさまに対する心からの奉仕は、それをする者をナルドの香油にまさる香りで満たします。
 2020年3月15日   「人の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」という話を、霊的に受け取れなかった弟子たちはイエスのもとから離れて行きました。聖書の言葉はすべて霊において聞かなければ救いにつながりません。一度はイエスさまを信じて弟子になっても「自分の期待していたもの」と違うと離れて行くのです。結局12人だけがイエスさまのもとに残りました。
 この残りの者たちに主は問います。「あなたがたも離れて行きたいか」と。68-69節で12人を代表してペトロが答えます。「イエスさまにこそ永遠の命の言葉がある。従うべき方は他にいない」と。これはヨハネの時代の教会の信仰告白です。当時のキリスト者は迫害の危機に晒されていました。
 けれどもイエスさま12人の弟子たちの弱さをご存じで、手放しでは喜べません。「わたしが選んだのに、その中の一人は悪魔だ」。イスカリオテのユダのことです。それでも主は最後までユダを愛してました。
 2020年3月8日  イエスさまが盲人を癒しました。それは安息日でした。このためイエスさまは何者かについて議論が起こりました。ある者は「安息日の掟を破る罪人だ」といい、他の者は「罪人にこんなことが できるか」と言います。そこで盲人だった男に「あの人をどう思うか」と尋ねます。彼は「預言者だと思います」と答えます。
 次に彼の両親に尋ねますが、両親は「彼が盲人だったが見えるようになったことは 確かだが後は本人に聞いてくれ」と答えます(22節の「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」というのは、紀元70年以後ユダヤ教がイエスを信じる人々(ナザレ派)を会 堂から追放したことが反映されていると考えられています)。そこで再度本人に尋問します。彼はウンザリしたことでしょう。彼にとって重要なことは、自分の目が見えるようになったことでした。ファリサイ派 の人々の態度に失望した彼は、イエスさまにまた出会うと「信じます」と信仰を告白しました。
  「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」とイエスさまがおっしゃるのは、イエスさまが地獄に投げ込むという のではありません。イエスさまに対して何らかの態度を取ることによって、その人の信仰なり罪なりがあぶり出されてしまうということです。
 目の見えなかった男が、神の救いを見、聖書をよく知っているはずの学者やファリサイ派が、神の救いを見えなくなってしまいました。あなたの目は何を見ることができるでしょう。
2020年3月1日   イエスさまは、神の国の福音を宣教するにありサタンから3つの誘惑を受けました。
1. 「石をパンに変えられるんじゃない?」 イエスさまの答えは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の言葉でした。
2. サタンも聖書を引用して「本当に神が助けてくれるか試してみろ」と唆します。イエスさまの答えは「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉でした。
3. 「サタンを拝むなら世の繁栄を全部与えよう」 イエスさまの答えは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の言葉でした。
 イエス・キリストというお方自身が聖書(旧約)の神の約束を体現した「神の言葉」です。だからその生涯自身が聖書(新約)となります。聖書を身に着け、イエス・キリストと一つに結ばれることが誘惑に打ち勝つ道です。 
 2020年2月23日   私たちの生活は多くのものを必要としています。こんにち、大規模な停電が起こると経済活動のみならず生命維持も危うくなります。しかし、電気が生活の中のエネルギー源として使われるようになったのは19世紀で、それ以前の人間の生活は電気の力なしで成り立っていました。自然界に生きる多くの生物は人工的なエネルギーに依存せずに生きています。人間もまたそのような生活をしてきたのです。
 人間と他の動物の最大の違いは、人間のみが宗教を持つことです。人間は神を求めるように作られました。神は人を造る時に御自分の霊を人の中にいれたからです。
 さて、イエスさまはエルサレムに行く時には、たいていベタニアの三姉弟の家に泊まりました。今回もそうでした。イエスさまが弟子たちにお話しをしている間、マリアはおもてなしのために忙しく立ち働いていました。ところが妹のマリアがいません。見るとマリアは弟子たちと一緒にイエスさまの話に聞き入っていました。マルタがイエスさまに「妹に手伝うように言ってくださいよ」というと、イエスさまはおっしゃいました。「必要なことはただ一つだけである」。人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものです。神さまの言葉をよく聞きましょう。
2020年2月16日    38年もの間、病のため起き上がることもできず、誰かが奇蹟の泉というべき池に自分を入れてくれるのをただ待ったいた男の人。イエス・キリストは彼が期待していた池への解除ではなく「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という二つのことを命令しました。第一に自分自身で起き上がり、立ち上がること。第二に荷物を担いで歩くことです。これは普通の社会生活へと戻っていくことを命じているのです。
 38年も寝てた人が大丈夫?キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい…わたしの軛は負いやすく、わたしのには軽い」と言ってくださる方です。イエスさまが一緒に荷を担いでくださいます。
 2度目に彼に会った時には「あなたは良くなったのだ。もう、罪に犯してはいけない」と言われました。イエスさまのなさった癒しの奇蹟は、単に肉体が病気前に戻ることではありません。もはや障害がその人を害することがなくなるのです。この人のあり方が罪によって損なわれない。そして負うべき荷をイエス・キリストと共に担うことができる。この恵みを喜んで受けましょう。
 2020年2月9日   イエスさまと論じあった人々(ファリサイ派、祭司長たち、ユダヤ人の群衆など)は、自分たちは奴隷になったことがないと誇っていました(実は昔エジプトで奴隷となっていました)。けれどもイエスさまは「罪を犯す者は罪の奴隷」だと言いました。なぜなら、罪だとわかっているのにそれを犯してしまうのは、自分を超える罪の力に支配されて自分を治めることができなくなっているからです。自分を正しく保つ自由を失っているのです。私たちは自分の心を制御することができないのです。これを正すことができるのは、十字架上ですべての人のすべての罪を負って死んでくださったイエスさまだけです。
 2020年2月2日   エルサレムの神殿には礼拝に欠かせないものを扱う売店があり、神殿と商人は金儲けをしていました。イエスさまはこれを蹴散らし追い払います。認可を得て商売をしていた者たちは反発します。「(大祭司以上の権威があることを証拠立てる)どんなしるしを見せてくれるのか」。イエスさまが提示したのは「神殿を壊されても3日で立て直す」ことでした。それは石でできた建造物の神殿ではなく、イエスさま自身の体のこと、十字架で死んでも3日目によみがえるというしるしのことでした。
 イエスさまは自分自身を神殿と言いましたが、イエスさまを心の内に宿すなら、私たちも神殿です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリントの信徒への手紙―3章16節)。神殿にふさわしく聖なるものとして用いられるよう祈りましょう。
 2020年1月26日  ヨハネ福音書の目的は、読者がイエスを信じて永遠の命を受けることです。
(20:30)。そのために著者は、イエスが神の独り子としての栄光をあらわされたことの目撃証言(1:14)を書き連ねます。今日の個所である(2:1~11)「カナの婚礼」はその最初のしるしです。ナザレの北にあるカナという町で婚礼があり、マリアは接待係をしていました。
お客さんに出すワインが足りなくなってしまい、マリアはイエスにそのことを言いました。
イエスの返事は「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」
日本語訳は冷たい感じがしますが、「婦人よ」は丁寧な呼びかけの言葉。次は直訳すれば「何、私に、あなたに。」これも難しいのですが「ワインが足りなくなった、そしてこれから起こることは、イエスにとってどんな意味があるか?マリアにはどんな意味があるだろう」
ということです。マリアにとってはお客さんを喜ばせる出来事であり、イエスにとっては「私の時(十字架の)」に向かって、神の独り子としての栄光をあらわすことでした。
この奇蹟が「清めに用いる石の水がめ」で行われたのは象徴的です。律法によって手や足を清めるのに使いました。しかし、イエスが水を満たすと人々の心に喜びを与えるワインに変わります。イエスの行ったことは律法から福音(喜びの知らせ)へと変えることでした。
 2020年1月19日   洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちに主イエスを「神の小羊」と紹介しました。彼らはヨハネを離れてイエスさまの弟子になりました。彼は自分の後から来るメシアのために先触れをするという役割に徹した人でした。  弟子たちはイエスさまの後を追いかけました。「どこに泊まっておられるのですか」「来なさい。そうすれば分かる」という問答は、イエスさまと行動を共にしたいというアンデレたちの決心と、主が彼らを受け入れたことを示します。  アンデレは、自分の兄シモンに「メシアに出会った」と言って、シモンを主のもとに連れて来ます。シモンはケファ(ギリシャ語ではペトロ=岩)というあだ名をもらいます。  主イエスに従ったフィリポは、ナタナエルにイエスさまを紹介します。ナタナエルはナザレから良いものは出ないと思いこんでいました。私たちは自分の常識で判断しがちです。フィリポが「来て、見なさい」と言っので、ナタナエルはイエスさまに会って信じました。  キリストの福音(救い)は、来て・見る=知識で終わらず体験することです。
 2020年1月12日   ヨハネによる福音書は、イエスさまに洗礼を授けたヨハネの証しを記します。「『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子である…」。
 ただ「神の子」というだけでなく「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とヨハネはイエスさまを紹介しました。小羊は律法の中で、献げ物として神さまに献げられる動物です。モリヤの山でも、出エジプトの時にも小羊の血が私たちを救いました。
 洗礼者ヨハネはイエスさまに洗礼を授けたとき、聖霊が降ったのを見ました。しかしそれは単なるに神々しい出来事ではなく、私たちの罪の身代わりとして来られたことの徴であったことをヨハネはハッキリと認識をしていました。
 代々の教会は聖餐の祈りの中でこう祈ってきました。『世の罪を取り除く神の小羊、憐れんでください。…平安をお与えください。」
 2020年1月5日  ヨハネはイエスさまを初めにおられた神の言(ことば、ギリシャ語でロゴス)と紹介します。神様は無から言によって全てのものをお造りになりましたが、ヨハネはその言葉に人格(神なので位格)があり、神と共に(神と向き合って)存在し、さらに「言は神」、「人間を照らす光」だと言います。
 光の働きの一つは物事を姿をくっきり映すことです。きれいなものはきれいに、汚いものは汚く、その状態をわからせることです。薄暗い部屋を掃除してきれいにしたつもりでしたが、翌朝、日の光の下で見るとほこりだらけ。掃除をやり直しました。現実に目をつぶって光を遮り「クリーンだ」と言い張ることもできるかも知れません。けれども光に照らされた自分の姿を認め、信じるなら神の子とされると聖書は約束します。
 私たちの救いを宣言する神の言・真実を照らし出す光・永遠の命を与え主である神の独り子が、人となって世に来られ、私たち共に歩んでくださったことを感謝し、キリストと共に歩みましょう。 

2019年「命の言葉」


Copyright(C) By Suzuka Church All Rights Reserved.