日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。


2020年の「命の言葉」 2018年「命の言葉」



 2019年12月29日   新しい王の誕生を告げる星!ヘロデ王が不安を抱くのは当然です。自分の王位を危うくする者が現れたと受け取ったのです。エルサレムの住民たちも不安に感じました。本当なら彼らは、ダビデの家系からメシア・新しい王が登場することを期待していたはずです。しかしヘロデの巧みな人心操作によって皆ヘロデの顔色をうかがうばかり、新しい王が誕生したという知らせにもかかわらず、エルサレムの人は高位聖職者から身分の低い者まで、誰一人イエスさまを礼拝しに行こうとはしませんでした。
 イエスさまを礼拝しに行ったのは、はるか遠くの国からやって来た異邦人、聖書が禁じる占いを行うような人たちでした。この物語はキリストへの招きがユダヤ人中心ではなく異邦人中心となることを表しています。私たちもこの博士たちの霊的子孫です。感謝して、王・救い主・贖罪主としてイエスさまを崇めましょう。
 2019年12月22日   今日読まれたのは、バビロン捕囚から帰還した人々に神殿の再建を促す預言です。
 ユダヤの人々は50~60年間の神殿なしの生活に慣れてしまったことでしょう。どこにいても礼拝はできる、心の中で礼拝すれば良いのだ。そう考える人もいるかもしれません。しかし具体的な礼拝の場を整え、定められた時に公の礼拝を行うことは、信仰に生きる共同体にとって欠かすことができません。建物を建てるのは時間と労力とお金がかかることですが、そこで礼拝する人の信仰のメンテナンスは、私たちの内に住んでくださるイエス・キリストご自身が整えてくださいます。ひたすら御言葉を読み、祈り、日々のなすべきことをなし、神を愛し、隣人を愛すること。これが神が宿る人の歩みです。
 2019年12月15日  マラキ書3章19~21節には、その日=終わりの時の裁きが記されています。
 裁かれないためには…シナイ山でモーセを通して与えられた律法を守ることです。けれども、律法があってもイスラエルは正しく生きられませんでした。いや、どの宗教の信者であろうとなかろうと、正しく生きられないから、世界には悲惨な出来事が絶えることがありません。それでも神さまは人間を諦めません。預言者エリヤ(洗礼者ヨハネ)を遣わして人々の心を正しくします。ヨハネは荒れ野で呼ばわり悔い改めを迫りました。ヨハネは主の日を指し示しました。
 終末にやって来る者…悔い改めない者には恐ろしい裁き主、しかし神を畏れる者には義の太陽。この方こそ、神の独り子、イエス・キリストです。世界が最も暗いときに、キリストは私たちの人生を明るく照らしてくださいます。 
 2019年12月8日   「イスラエルはアラムと戦うべきかどうか?」アハブ王は戦いの前に預言者たちを集め神託を問いました。預言者たちは忖度して「主は、王の手に敵をお渡しになります」と告げました。この様子を見たユダの王ヨシャファトが、他に預言者がいないのか尋ねると、アハブ王は「ミカヤがいるけど災いばかり預言するから嫌だ」と答えました。ミカヤが来ると役人は「王の幸運を告げるように」と言い含めました。ミカヤは役人に「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と答えました。
私たちは自分の意に沿うような情報ばかり集めようとしていないでしょうか。上司の意に沿うような情報ばかり提供しようとしていないでしょうか。「主は生きておられる」というミカヤの言葉の中には、神は私たちの思い通りにはならず、世界の真実の支配者である神に従うべきだというミカヤの信仰が表れています。
 2019年12月1日  イスラエルの2つの国家は罪のうちを歩んだため、北はアッシリア、南はバビロニアによって滅亡しました。けれども神さまはイスラエルを滅ぼし尽くしはせず、バビロンで捕囚となっていた民をペルシャのキュロス2世によって解放し、ペルシャの支援によってエルサレム神殿の再建と町の復興をなさせました。イザヤ書52章は捕囚の民に解放を告げ力づける預言です。
 この預言の言葉はキュロス2世で終わりではありません。全世界の(つまり私たち)、罪の捕囚となって自ら救えなくなっている人々に、キリストの犠牲において神が私たちを救ってくださるという告知です。そしてキリストが私たちの心の中で平和の支配をしてくださいます。キリストに希望を見つけていきましょう。
 2019年11月24日  エレミヤ書23章で羊とはイスラエルの民=神の民、牧者たちは王たちです。王たちは神に従わず、異教の神々を導入し、民に偶像崇拝を求めました。このような王たちに導かれて(北)イスラエル王国は既に滅亡し、民は散らされ、(南)ユダ王国もまもなく滅びようとしていた時代にエレミヤは預言しました。
彼の預言はイスラエルを再興し、正義と恵みの業を行う王の到来です。それは地上の王国ではなく神の国。王の名は「主は我らの救い」=イエスです。
イエスさまは「わたしの国は、この世には属していない」とおっしゃいました。この世の国には固有の領土がありますが、神の国としの教会はこの世の国土や国籍を超えています。代々の聖徒と共にキリストの国・教会の民である私たちこそ真のイスラエル人です。
キリストは私たちに正義と恵みの業を行うために必ず到来されます。信じて希望を持ちましょう。
 2019年11月17日  モーセの名前は「引き上げる」という言葉に由来しています。エジプトの王がヘブライ人(イスラエル人)の男の赤ちゃんは皆ナイル川に投げ込めという命令を出しました。けれども王女が籠に入れられ水に浮かんでいた赤ちゃんを助けて自分の子とし、「私が引き上げた(マーシャー)からモーセ(モーシェー)と名づけました。乳母に採用されたのはモーセの実の母親でした。
モーセは、やがてイスラエル民族をエジプトからカナン(現在のパレスチナ地方)に引き上げるという大仕事を成し遂げる人になります。モーセが川から引き上げられたのも、エジプトの王女の子として育てられたのも、民族や宗教を超えて働いておられる神さまの手によることです。
2019年11月10日
 「世の終わりには、死んだ人も復活して神さまの裁きを受ける」と私たちは信じていますが、次のようなイエスさまの言葉も信じています。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。すべての命は神から出て神に帰ります。古代の神学者アウグスティヌスは言いました。「あなた(神)は私たちを、ご自身に向けて造られました。だから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができません」。生きているときも、死に際しても、心を正しく神に向けるなら、永遠の安らぎ=死を超えた生があります。
 2019年10月6日 テモテ一6:1~12
1~2節 .主人を尊敬し熱心に仕えること。主人を軽んじることは福音の冒瀆につながりかねません。信仰上の「兄弟姉妹」と社会的な「主従関係」を混同しないこと。
3~5節 異端的な教えに囚われると、議論・口論にやみつきとなり、絶え間ない言い争いをするようになります。ことに信仰を利得の道として利用しようとしている人たちはそうです。これはカルト的教会の教祖にも言えることですが、神さまを自分の満足のための道具に使用とする信者にも当てはまります。
6~8節 でも満ち足りることを知っている人にとっては信仰は大きな利得です。人は裸で生まれ裸で神のもとに帰ります(コヘレト5:14)。信仰と食べる物・着る物があればそれで満足できるのです。
9~10節 金銭の欲は危険な罠です。信仰から迷い出て、人を滅亡と破滅に誘います。
11~12節 テモテに対する勧め 金銭の欲を避けなさい。追い求めるべきは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和。これらは神への忠実さに基づくものであり、また自分ではなく隣人を利するものです。これらを追い求めることがここで言われている「信仰の戦いを戦い抜く」ことです。
 永遠の命は死んでからもらうものではありません。いまここで、神の召しに応えて生きるところで与えられるものです。私たちの信仰告白とは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を求める生き方と一体のものです。そのように生きながらの信仰告白に永遠の命が宿っています。
 2019年9月29日  私たちの心の中には様々な思いが去来します。あるときには信仰深い状態で過ごすことができるのに、別のときには神さまを信じ切れなかったり、人の心を疑ってみたりします。人間の信仰心は実に危ういものです。救いの根拠を自分の信仰心に置くならば、ある瞬間に死ねば天国に行けるかも知れないけど、別の瞬間に死んだら地獄に落ちてしまうでしょう。
 救いの根拠は「私の信仰」ではなく「キリストの信仰(信実)」にあります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とパウロは断言します。ここにイエスをキリストと信じる者の救いの現実があります。私たちの救いは神さまが成し遂げてくださっています。だからそれを自分自身に適応していくことが、私たちのなすべきこと(もちろん聖霊によって)です。
 具体的には「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」「赦し合うこと」そして「愛」をパウロは勧めています。様々な徳目を挙げていますがすべて愛によって結び合わされているのです。神の愛が私たちの心の中で状況に応じて様々な形で働くときに、そこにはキリストの平和が満ちています(カトリックの人はよく「+主の平和」という挨拶をします。とてもいい挨拶だと思います)。キリストの平和はキリストの言葉が豊かに宿った(=私たちの体の内に受肉する)状態です。キリストの言葉から力が湧きあふれるのです。そこから賛美も生まれます。感謝!
 2019年9月22日
あなたは神の新作
  今日の14節から説教題を「パウロの誇りPart2」としようかと思ったのですが、やめました。
十字架だけが誇りであるということは、その直前に書かれている ガラテヤ教会の異邦人キリスト者に割礼を受けさせようとしている指導者たちへの非難と結びついています。彼らが割礼を受けさせようとしているのは、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者(というよりユダヤ教ナザレ派という自己認識の人々)から悪く思われたくないという、全く自己弁護・保身のためでした。つまり、ほんとうは割礼など必須でないことは知っているけど、エルサレムの本部のうるさ方の機嫌を損ねないように、異邦人信徒に不要な負担を強いることへの非難です。
 パウロはそうした人の機嫌を取るようなやり方をキッパリと拒否します。福音に照らして、エルサレムから良く思われることより、ガラテヤの異邦人キリスト者を第1に考えたのです。
大事なことは何か。割礼を受ける(ユダヤ教徒となって律法中心の生活をする)ことではない。新しく創造されること、新しい人間として生きることです。律法によって生きるならキリストは不要です。しかし律法による義の道は破綻しているというのがファリサイ派パウロの結論で、それで彼はファリサイ派の道を捨て、キリストの愛と憐れみによって生きる生き方へと転換しました。これが「新しく創造される」ことです。
 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(Ⅱコリント5:17)、
「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」(テトス3:5)
ハレルヤ!
 2019年9月15日
パウロの誇り
 8節の「かすめ取る」は穏やかではありません。故サッチャー英首相は牛乳の無料支給を6歳未満に制限したときに「サッチャー=ミルク・スナッチャー(牛乳泥棒)」と非難されましたが、コリント教会にはパウロに対して献金泥棒と非難する人がいたようです。それに対してパウロは「他の教会からかすめ取ったお金であなたがたに福音を伝えたのだ」と答えます。もちろん実際はかすめ取ったわけではなく、マケドニア州(フィリピ4:10以下参照)からの献金がパウロの伝道活動を支えていたのです。
 パウロはコリント伝道で生活が困窮したときにもコリントの誰にも負担をかけなかった、これが彼の誇りでした。アカイア地方(コリントが含まれる州)でこのパウロの誇りを妨げる者はいないといいます。
 なぜコリント教会に金銭的な負担をかけなかったことを誇るのでしょうか?彼は自分の財産を誇ったのでしょうか?生まれつきローマ市民権を持っていたのですから裕福な家に生まれたのかもしれません。けれどもパウロは実家の援助を受けたわけではなく、天幕作りの仕事をしていました。足りない分はフィリピ教会などマケドニアの諸教会からの献金によってアカイアの諸教会の伝道が行われました。つまり諸教会の互助がパウロの伝道を支えました。パウロはこの互助の精神と実践を誇っているのです。なぜなら、そこに神への愛(キリストの福音の宣教への情熱)と隣人愛(経済的基盤の弱い教会を支える)があるからです。
 2019年9月8日
名古屋学院大学の
キリスト教活動
本日は名古屋学院大学キリスト教センターの柳川真太朗先生においでいただいたので、名古屋学院大学のキリスト教科目や活動を紹介します。

授業 NGU教養スタンダード科目として、「キリスト教概説」(必修)、「キリスト教学」(必修)、「キリスト教と文学」、「キリスト教と文化」、「キリスト教倫理」、「キリスト教史」、「宗教と人間」、「聖書と人間」、「キリスト教人間学」、「死生学」、「比較宗教学」、「人権と社会」などの科目をキリスト教関係の教員が担当しています。
石田牧師は今年度は「聖書と人間」、「宗教と人間」、「人権と社会」を担当しています。

キリスト教センター 名古屋キャンパスは「白鳥学舎」「大宝学舎」「日比野学舎」があり、日比野学舎以外では礼拝が行われています。
月曜朝 朝の礼拝(しろとり チャペル)
月曜昼 チャペルアワー(たいほう)
火曜昼 チャペルアワー(しろとり チャペル)
木曜昼 カレッジアワー(しろとり チャペル)
金曜昼 チャペルアワー(瀬戸 チャペル)
この他、講演会やチャペルコンサートなども随時行われています。また礼拝説教等をまとめた季刊誌「麦粒」、宗教講演会の講演をまとめたブックレットも発行しています。

学生の活動 キリスト教センターに関わる学生の活動として、「聖歌隊」、「トーンチャイムクワイア」、「ぶっちゃけ!聖書☆研究会」、「名古屋いりゃあせツアー」(以前、学生がその活動を報告してくれたボランティア活動)があります。
 2019年9月1日 ①規律がなければ自由もない
②「完全な律法」とは何か
Ⅰ.日本国民の権利、信教の自由、思想信条の自由、集会結社の自由、職業選択
の自由などは憲法によって保障されています。法の定めがなければ、自由も確保
できません。信仰の自由を求めて新大陸に渡った人たちのいくつかのグループは、
彼らの開拓地に後からやってきた他の信仰を持つ人たちを迫害しました。他の教派
の自由は認めなかったのです。自由を享受するためには共通の約束事である規律を
守ることが必要です。
Ⅱ.「自由をもたらす完全な律法」とは十戒に導かれる出エジプト記20~31章の律法
でしょうか。しかし、厳格なファリサイ派だったパウロは、「律法の実行によっては、
だれ一人として義とされない」(ガラテヤ2:16)どころか「律法の実行に頼る者はだれ
でも、呪われて」いる(同3:10)と明言します。
 ジョン・ウェスレーにとって律法とは旧約の律法ではなく、イエスの山上の説教
(マタイ5~7章)でした。それは結局の所、私たちの全ての罪を御自分が身代わりと
なって死んでくださったイエス・キリストへの信仰から出る愛と、聖霊によって導かれて
生きるところから出る愛の行いです。
 旧約のイスラエルはモーセを通して与えられた律法によって生きようとしましたが、
私たちにはイエスを通して与えられた「自由をもたらす完全な律法」があります。
これを旧約の人々のように守ろうとしても無理です。聖霊に導かれる生活が自由を
もたらします。
 2019年8月25日 1741年7月8日、コネチカット州エンフィールドでジョナサン・エドワーズという会衆派の
牧師が説教をしました。「生まれ変わっていない者は、怒れる神の御手の中にある。
神はそれらの者を嫌い、彼らに対して神の怒りが燃え上がっている」という説教で、
罪の意識から会衆は泣き叫び、気絶し、激しい痙攣を起こしたと記されています。
第一次大覚醒と呼ばれるリバイバルの始まりでした。神の裁きの恐ろしさを強調する
伝道は今も「キリスト看板」に見られます。それは正しいものですが、それだけでは
バランスを欠きます。
 今日読まれた使徒の書には3節に「信仰・愛・希望」という言葉があります。また、
彼らに福音を伝えるためには「言葉だけでなく、力と聖霊と強い確信によった」。
彼らは「苦しみの中で聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」とあります。
そのような経緯があって、イエス・キリストは私たちを来たるべき神の怒りから救って
くださるのです。
 最後の審判を含む再臨のことについてはいろいろな説があります。それについて
ことこまかに解説してくれる文章や動画が流布しています。しかし、それに捕らわれ
ないようにしましょう。それが起こるのはいつかイエスさまもご存じありません。
解らないことは解らないままでけっこうです。ただ、神が復活させられたキリスト神の
独り子、この方への信頼がしっかりしていれば何も恐れる必要はありません。
  2019年8月18日 今日は隣人愛がテーマですが、隣国人への愛も出エジプト22:20~26に聞きたい。
 韓国との関係がギクシャクしています。日本の立場に立てば、慰安婦の問題、
徴用工の問題は、両国間の協議を経て国家間において解決済みの問題で、当事者
になお残る感情は韓国内において解決する事柄です。しかし韓国の多くの人々は
そのようには受け止めていないのが実情のようです。
 今日のみ言葉に聞きたいのは、たとえばそのような外交レベルの状態にあっても、
現に日本に大勢いる韓国人とどう向き合うかということです。両国関係が悪くなった
から帰国したという韓国人を聞きません。津島日光川燈台伝道所の尹(ユン)成(ソン)
奎(キュ)牧師は日本人と韓国人からなる伝道所の牧会を続けています。戦前・戦中
から日本にいる人々は既に高齢となり亡くなった方も多いことです。2世・3世の時代
になって、日本社会に根を下ろしている人々です。日本に移り住んで数年の人々も、
日本人の手が足りないところで日本社会が回っていくために欠かせない働きをして
いる人々です。
 聖書は民族や国籍を理由にそうした外国人を差別してはならないと命じています。
 外国人ばかりではありません。シングルマザー、ストリートチルドレン、ホームレス、
そして高齢者…。愛媛県三津教会の森(もり)分(わけ) 望(のぞみ)牧師はこども食堂
を始めました。
 一人一人が主にあって、賜物に応じて善を行い、平和に暮らしましょう。
  2019年8月11日  「異邦人」はユダヤ人から見て外国人で、ほんとうの神さまを知らない人のことです。
だから神さまも異邦人のことは助けてあげないだろうと思っていました。ところが、
異邦人にも聖霊がくだったのです。みんなおどろきました。
 なぜなら、ユダヤ人は生まれたときから、ずっとモーセの十戒をはじめとする律法を
守ってきたのに、異邦人は律法を守ってなかったのに聖霊がくだったからです。
 けれどもエルサレムの教会には律法を守らなければならないという人もおおぜい
いました。その人たちは「ほんとうの神さまをしんじるなら、かつれいをうけなければ
いけない」といいました。このことについてエルサレムの教会の人たちと、パウロさん
やバルナバさんたちがいるアンティオキアの教会の人たち、そしてペトロさんたちが
エルサレムにあつまりました。
 「どうしたら神さまの子になれるのか?」について、かっぱつな話し合いをしました。
そして、ペトロさんが、異邦人に聖霊がくだったのは神さまのお考えだったことを
はなしました。
「神さまは信仰によって異邦人の心をきよめ、ユダヤ人と異邦人との間に、なんの
分けへだてもなさらなかった」。バルナバさんとパウロさんも、神さまが異邦人にして
くださったさまざまなできごとを話しました。
 イエスさまの弟のヤコブさんの提案で、イエスさまを信じた異邦人は、ユダヤの
律法を守らなくていいことになりました。大事なことはイエスさまを救い主と信じる
ことだけです。
  2019年8月4日  8月になると日本では第二次世界大戦の敗戦がクローズアップされ、戦争の悲惨さ、
平和の大切さが語られます。日本では憲法に戦争放棄が明記され、以後戦争の
当事者になることを避けることができましたが、近年はPKOなどに自衛隊を派遣する
ようになってきました。戦争を容認する憲法に変えるのか、一人一人が主権者として
の判断を迫られるでしょう。
東西のイデオロギーの対立の後、民族の対立が戦争・紛争の主たる要因になって
います。そこには少なからず宗教が絡んでいます。今日の聖書の個所で言われる
「信仰の戦い」とは何でしょうか。これはキリスト教対諸宗教の戦いではないことは
明白です。キリスト教を迫害した(キリスト教の出身母体である)ユダヤ教や、当時
の世界を支配したローマ帝国の権力との戦いでもありません。
 この戦いはキリストを信じない世界の中にあって、「キリストを生きる」(正義、信心、
信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める)ことです。主イエスの言葉によれば「あなたがた
を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈る」こと
です。主イエスはこう教え、十字架の上でそれを実践しました。
 そして私たちにも同じように「敵を愛しなさい」と命じておられます。不可能ですか?
自分の力では不可能でしょう。しかしイエス・キリストがわたしの主(あるじ)となって、
わたしの内に住み、わたしを生きてくださるならば、それは可能なのではありません
か?自分自身を主のものとして献げること、生活の主導権を聖霊に明け渡すことを
決断し、日々お委ねしましょう。
  2019年7月28日 「互いに重荷を担いなさい。」(ガラテヤ6:2)

 上掲の言葉に「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」と
続きます。私たちに与えられているのはモーセの律法ではなくキリストの律法です。
一言でいえば愛が律法です。それ故、罪に陥った人には断罪ではなく、「柔和な心で
正しい道に立ち帰らせ」るよう勧めます。
 自分自身をよく吟味すれば、とても人様に誇れるような者ではないことが解るはず
だと使徒は言います。「自分へのごほうび」という人がいます。いいと思います。自分
なりに努力して一定の成果を上げたなら、(他人はほめてくれなくても、自己満足で
あっても)自分が成し遂げたことについて喜んで良いし、神に感謝することができると
思います。けれどもそれは、他人に誇ることができるようなものではないし、ましてや
神の前に誇ることはできません。
 誇るのは何を誇るのでしょうか?どんな力を誇るのでしょうか。8節には「肉に蒔く者
は、肉から滅びを刈り取る」と言われています。金銭、地位などこの世に属するもの
のために努力し(それは悪いことではない)、そこから得ることが目的となっている
ならば、それは悲しいことではないでしょうか。お金や地位は天国へは持って行け
ないのです。「霊に蒔く」とは神さまのみ心を行うことです。「わたしに向かって、『主よ、
主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者
だけが入るのである」(マタイ7:21)。それは「霊の結ぶ実」(ガラテヤ5:22)によって行う
善であり、イエス・キリストが弟子たちに与えた律法「互いに愛し合うこと」から出る
行為です。
 2019年7月21日  説教中の居眠り、したことのある方は少なくないのではないでしょうか。長くても眠く
ならない説教は難しいし、聴き手の関心とも関係します。神学生の時、居眠りしていた
学生に熊澤義宣教授が「『主は愛する者に眠りをお与えになる』と書いてあるんだか
らいいですよ」とおっしゃったのをよく覚えています。
 さてパウロの第3回の伝道旅行の帰り、トロアスで一週間滞在した間のことです。
主の日にパウロ一行と教会の人々はある家の3階で礼拝を行いました。「パンを裂く
ために集まる」のが礼拝です。日曜日は休日ではありませんので、夕方に集まります。
夕食の一部が聖餐式になっていたと思われますが、その前のパウロの説教が延々
と続いたため、窓際にいた青年が居眠りし、転落死してしまいました。ところがパウロ
は「まだ生きている」というと、死んでいたはずの青年は生きかえっていました。
この時のパウロの動作は列王下4:34のエリシャの姿を思い起こさせます。また、
主イエスが会堂長の娘を生きかえらせ、ペトロがヤッファのドルカスを生きかえらせた
ことを思い起こさせます。この記事を書いたルカの意図は、教会のかしらである
主イエスの力は、12使徒(その筆頭がペトロ)に受けつがれ、さらに12使徒ではない
パウロにも与えられ、パウロも使徒とされているということでしょう。教会がユダヤを
超えて全世界に広がった今日、キリストの力もまた12使徒を超えて、全世界の聖徒
たちに分け与えられています。それによって何が起こっても喜びにあふれた礼拝の
営みが続けられていきます。礼拝の場にいることを感謝しよう。
  2019年7月14日 【「ジョンソン牧師を偲ぶ会」より】
1951年チャプマン宣教師のもとにうら若い宣教師ミス・ジョンソンが来た。教区の求め
に応じて、須藤とき先生と共に愛知の数カ所の伝道・再建を行った。教会の再建は
散らされた信徒を集めて一つの群れにまとめる目に見えない働きだ。会堂の再建は
目に見える働き、ジョンソン先生はわずか3年で、閉鎖していた西尾教会を再建し
会堂も建築した(現在もその会堂が使われている)。その後ジョンソン先生は岩倉
伝道所開設(現在の愛北教会)、須藤先生はボールドウィン宣教師のもとで鳴海
伝道所を開設した。
 宣教師は異国の伝道に生涯を賭ける。それに私は衝撃を受けた。日本人の私は
日本で伝道する。生活習慣も食べ物も慣れ親しんだものだ。伝道相手は言わば
身内。いずれ結婚もし子どもも欲しいと思っていた。しかしジョンソン先生はそれらを
一切断ち切って日本の伝道に仕えた。
 鵜方教会に赴任して2年目、伊勢湾台風の被害に遭った。翌月の牧師会でジョン
ソン先生が台風の見舞いにと、パッチワークのベッドカバーをプレゼントしてくれた。
アメリカの婦人たちが…ということだったが、ジョンソン先生自身が作ってくださった
のではあるまいか。
 1960年チャプマン夫妻が帰国されたが、ジョンソン先生がその後継者として立派な
宣教師に育っていた。教区は鈴鹿の伝道を強力に推進することとして、その中で
ジョンソン師が遣わされた。「鈴鹿教会50年史」の信徒達の証を読むと感激する記事
が多い。読んで想起するのはロマ書40:6~9である。ジョンソン師を遣わした主をあが
める。
 2019年7月7日  土曜の入門講座でイザヤ書を学んでいます。エチオピアの宦官が読んでいたのは
イザヤ書53章、「苦難の僕(しもべ)」と呼ばれる個所ですが、苦難の僕とは誰のことか?
様々な説があるそうです。
 私たちは、この預言がイエスというお方の生涯にぴったり符合したことを知っています。
けれども、イザヤ書の預言と歴史上の人物ナザレのイエスを比較検討すれば、単純に
解るとは言えないのです。
 イスカリオテのユダは使徒に選ばれていたのにイエスさまがどのような救い主かを
誤解したままで裏切ってしまいました。主の復活後、弟子たちは「イスラエルのために
国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねています。彼らはまだこの預言と
自分たちがいつも従って来たイエスさまの関係に気がついていません。彼らは当然
イザヤ書53章は読んで知っていました。でも解らないのです。
 聖書がわかるのは聖霊の「照明(イルミネーション)」と呼ばれる働きに依ります(聖書
を書く時の聖霊の働きは「霊感(インスピレーション)と言います)。具体的にはペンテコ
ステの時に弟子たちは聖霊のバプテスマを受け、聖書(旧約)をイエスというお方を証し
する書として読むことができるようになりました。
 聖書を読む時には、理性(とても大切)だけで読むのではなく聖霊の導きを求めつつ
読みましょう。もう一つ、教会の伝統に学びましょう。主を正しく証しするために使徒が
立てられそのバトンが連綿と教会に受けつがれています。
 2019年6月30日  会堂長ヤイロはイエスさまを信じていました。おそらく医者にもう見放されたであろう
死にかけている娘をイエスさまなら癒してくださると。イエスさまはすぐにヤイロの家へ
と出発しました。が、大勢の人がイエスさまの前後を取り囲んでいてなかなか進めま
せん。
 そうこうしているうちに一人の女性がイエスさまの服の房に触りました。いや、イエス
さまの服に触った人はいくらでもいるでしょう。けれどもイエスさまは「わたしに触れた
のはだれか」と言われました。イエスさまから病気を癒す力が出て行ったからです。
この表現は興味深いです。イエスさまがこの女性を癒そうとして何かをしたのでは
ない。イエスさまを信じてその服に触れた人、その信仰に対してイエスさまの中から
癒す力が出て行ったのです。イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った。安心して
行きなさい」と言われました。
 こんなことで時間を費やしているうちに会堂長の家から使いが来ました。お嬢さん
は亡くなったから先生に来ていただくには及ばない。
医者にかかるのはまだ生きているうちです。
救急車も遺体は運びません。死んでしまったら医療機関ではなく葬儀社の仕事に
なります。だからもうイエスさまは必要ない…。
 そうでしょうか?「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
イエスさまが娘の手を取って「起きなさい」というと「霊が戻」りました。
 イエスさまをただ信じる時、恐れは去り、安心がやってきます。癒しの本当の力は
病気の症状の変化よりもこちらにあるでしょう。
2019年6月23日  聖餐式の最初の言葉を覚えていますか?
「兄弟姉妹、神の民の喜びの祝祭を始めます。…私たちの救い主は祝祭を準備され、
イエスを信ずる人々に参加するよう招かれます。」
 キリスト教の礼拝は本来毎週食事を伴う神の国の祝宴です。その食事の中に聖餐
式がありました。だから毎週食事を共にする教会も多いのです。
 さて、この「大宴会」のたとえでは、「招いておいた人」とはアブラハム以来、あるいは
モーセ以来の契約の民=イスラエルです。イエスさまの時代ではユダヤ人(=ユダヤ
教徒)がイスラエルを継いでいます。けれども救い主が来た(祝宴の時刻になった)の
に彼らはあれこれ理由を付けてイエスさまのもとに来なかった。そこで主人(神さま)
は貧しい人や障がい者(これらの人々は律法において「難あり」の人々)を連れてきな
さいといいます。そうして、招かれていなかった人々で宴会場をいっぱいにしてしまい
ます。
 教会は12使徒をはじめ、イエス様に従ったユダヤ人で始まりました。けれども、多く
のユダヤ人はイエス様を十字架につけ、その後もイエス様を預言者の一人とは認め
ても、救い主、神の独り子と認めず、イエス様に従う人々を異端として会堂から追放
しました。その結果契約の民ではなかった異邦人が教会の中心になっていきました。
 今日、日本と欧米では教会離れが進んでいます。その理由は様々です。しかし、
毎週の礼拝を軽んじる心があるならば、神様は教会を私たちのいる場のない所に
してしまいます。神の招きを断ることのないようにしましょう。
2019年6月16日  イエスさまが派遣した72人の弟子たちは、イエスさまの名によってめざましい働きを
して戻ってきました。「喜んで帰ってきて…」に彼らの気持ちが表れています。けれども
主は「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と戒めます。
喜ぶべきは天国の住民台帳に自分の名前を載せていただいたこと。悪い者をやっつ
けることではなく、自分にしても他人にしても救われて神の国に入ることが大切です。
 「イエスの名」の力が示されました。この記事では、これからその町や村にやって
くるイエスさまのいわば予告編として、弟子たちが先乗りしてイエスさまの力を示した
ものです。「これから来る先生はもっとすごいんです!」という宣伝です。しかし、今日
ではイエスさまは地上にはおられません。今日「イエスの名の力が現れる」とは、
具体的には「イエスの霊」とも呼ばれる聖霊が働かれることです。
 21~22節のイエスさまの言葉は聖霊に導かれた祈りで、父なる神とその独り子なる
神イエスさまとの一体性を表しています。「子がどういう者であるか…父がどういう方
であるか」、これを知ることができるのは子が示そうと思う者だけです。それはまた
具体的には聖霊の働きです(ヨハネ14:26, 15:26, 16:7-13)。
 多くの人がナザレのイエスに関心を持ち、その言動に惹かれてきました。しかし
全ての人がイエスさまが用意された救いに入るわけではありません。父と子と一体
である聖霊の導きに従う者が、「イエスはキリスト」告白できます。
2019年6月9日  バベルの塔の物語の舞台とされるシンアルの地とはバビロンのことです。バビロン
とは「神の門」という意味です。従ってバビロンの塔は神の領域への入口としての
機能を持っていたと思われます。バビロンと言葉の混乱(バラル)を合わせてバベル
と呼ばれたのでしょう。
 神さまが天から降ってこられるという記述は聖書の中に他にもいくつかあります。
キリストの降誕と再臨、そして聖霊降臨です。
 バベルの塔の物語と聖霊降臨は対をなす物語と言っていいでしょう。一方は一つ
になって神の座に手をかけ有名になろう(栄光を得よう)とした。他方は一つになって
祈りを合わせ聖霊を待ち望んでいました。一方は自らを神とし高慢になって他の人
の言うことを聞けなくなった。他方はイエス・キリストを証しするために、そこにいる
すべての人々の母国語で語り出したのです。一方は自分たちの力を誇示して「全地
に散らされることのないようにしよう」と言ったけれども神によって散らされたので
あり、他方は「地の果てに至るまで、キリストの証人となる」となるために派遣されて
いきました。
全地に散るということについては、アダムのときに「産めよ、増えよ、地に満ちて
地を従わせよ」と言われていますが、「地に満ちて地を従わせよ」とは人が全地に
住んで、環境全体として神をたたえることと言っていいでしょう。
 それはシンアルの地から散らされた人々によってではなく、聖霊によって派遣
された人々によって実現されていくものです。
 2019年6月2日  復活前のイエスさまと弟子たちの関係と、復活後のイエスさまと弟子たちの関係は
違います。以前はラビ(先生)と弟子の関係でした。しかし、復活後は礼拝される方と
礼拝する者の関係になったのです。
 17節に「ひれ伏した」とありますが、英語の聖書では「礼拝した」、原語は「接吻する」
という言葉から来ています。中東では接吻は一般的な挨拶です。ユダは「先生、こん
ばんは」と言って接吻しました。それが裏切りの合図でした。この場合師と弟子の関係
の接吻でした。けれども足もとにひざまずき、足に接吻するのは王と臣下の関係です。
弟子たちは今はかつての師と弟子の関係でなく、王と臣下の関係ともいうべき態度で
イエスに接しました。ヨハネ20:28ではトマスが「わたしの主、わたしの神」と言ってイエス
を拝んでいます。
 そのイエスは、天と地の一切の権能をもってさまざまな業を行ってきましたが、今や
弟子たち(教会)にその権能を委ねられました。教会に託されたことは、すべての民を
主イエスの弟子とし、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、弟子たちに命じた
ことを彼らに教え守らせることです。弟子たちに命じたこととは「互いに愛し合うこと」
です。その愛は価値あるものを手に入れようとする愛(エロス)とは違います。敵対して
いた者を和解させるような愛(善きサマリア人のたとえのような!)です。教会の働き
は、隣人でなかった者を隣人にし、平和を作ります。愛(アガペー)は創造的です。
 2019年5月26日  この記事ではイエスさまが何かをして百人隊長の部下の病気を癒したということは
書いてありません。また、百人隊長に対する言葉もありません。もし、百人隊長に
対して何かを言ったとすれば、それは「あなたの信仰があなたを救った」ではないで
しょうか。ルカによる福音書にはこの言葉が4回出てきます(7:50, 8:48, 17:19, 18:42)。
 ところでこの百人隊長はユダヤ教徒でもないのに、会堂建築資金をポンと出して
くれたようです。塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読むと、ローマの政治家は
道路など公共施設に多額の寄付をすることで市民の支持を集めていたようです。
いつもユダヤ人のために心をくだき支援してくれるローマの隊長の願いに応えて、
カファルナウムの長老たちがイエスに口利きをしています。「あの方は、そうして
いただくのにふさわしい人です」。
 しかしイエスさまが感心したのは別のことでした。権威と権威者の言葉の力への
信頼です。隊長は長老たちにイエスさまを呼んでくるように頼んだものの、隊長自ら
出て行って「イエスさまに来ていただくには及ばない」といいます。ラザロの死に際し
てマルタが言った「もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかっ
たでしょう」(ヨハネ11:21)と比較してみるといいでしょう。私たちはどちらでしょう?
 この隊長は部下に命令すれば、部下は忠実に実行するという経験から、イエスさま
が命令すれば、どんな病気も癒されることを信じていました。みことばの力を信じま
しょう。
 2019年5月19日  聖書の中でいちばん大切な教えは何か?と問われるならば、申命記6:5「あなたは
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とレビ記19:18
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」であると、イエスさま(マルコ12:30,31)も
律法の専門家(ルカ10:27)も一致していました。
 ルカ10章では律法の専門家に、「隣人愛を実行しなさい」というと、彼は「隣人とは
誰ですか」と質問し、『善きサマリア人のたとえ』へとつながっていきます。この紙面で
『善きサマリア人のたとえ』を書くことはしませんが、部族・宗教を超えて隣人
「となって」人を愛することが永遠の命につながるといわれています。
 また、マタイ25:31以下ではいかなる宗教かは問わず、愛を行ったかどうかだけが
天国に行けるかどうかの指標とされています。
 ヨハネは「神を愛しなさい」の代わりに「わたしがあなたがたを愛したように」という
言葉を入れています。「わたしたちが神を愛さなければならない」のではなく、神が
イエス・キリストを通してわたしたちを愛してくださったのです。イエスさまの使命は、
神さまの愛を、罪深い私たちの身代わりとなって死刑を受けてくださるという姿に
おいて私たちに示すことでした。イエスさまにおいてあらわされた神さまのそのような
愛を私たちが、①受け取って、②隣人を愛し、愛されること、主イエスが十字架の死
をも避けずに愛したように私たちも愛し合うことが求められています。そのような愛に
招かれていることを感謝しましょう。
2019年5月12日  預言者のエリヤさんが一人のおばさんと男の子の家にいきました。「お水とパンを
一切れください」「うちにはもうパンがありません」「ちょっとだけのこってる粉で、
今からパンをやいて子どもと二人でたべて、あとは死ぬだけです」。エリヤさんは
いいました。「そうしてください。でもそのまえに私のためにパンを作ってください」。
おばさんはそのとおりにまずエリヤさんのためにパンを作りました。すると、ちょっと
しか残ってなかったはずのこむぎこと油がふえてそれからずっとなくなりませんでした。
 イエスさまがガリラヤのかぜかおる丘でおおぜいの人に神さまの国のおはなしを
しました。イエスさまがいっしょうけんめいおはなしして、みんなしっかりきいてたら、
いつのまにか時間がたってみんなおなかがすいてしまいました。一人の男の子が
2匹のさかなと5つのパンをもっていました。イエスさまがおいのりして、おでしさんたち
がみんなにわたすと、5000人もいたのにみんなおなかいっぱいになって、たべきれ
なくなりました。
 エリヤさんがおばさんの家でふやした粉も、イエスさまがみんなにあげたパンも
いつかまたおなかがすきます。でも、イエスさまをしんじる人はえいえんに生きる
いのちをもらえます。
イエスさまは死んだけどふっかつしました。イエスさまをしんじる人は、イエスさまと
同じように死んでもふっかつして、おなかがすいたり、のどがかわいたりしない体を
いただいて、天の国でイエスさまといっしょに生きます。
イエスさまこそいのちのパンです。
 2019年5月5日  ルカは何度か復活したイエスが人々の前に現れたことを記しています。まず
婦人たちが輝く衣を着た二人の人からイエスの復活を知らされます(24:5-7)。
続いてペトロが空の墓を確認します(24:12)。そこではペトロがイエスに会ったとは
書いてありませんが、婦人たちの報告を使徒たちは信じなかったのに、ペトロだけ
は墓へ走ったのでした。おそらく空の墓を確認した後に主が現れたのでしょう。
そして先週の「エマオの途上」の話で初めてルカはイエスさま本人を登場させます。
今週の個所では11人の使徒、エマオから戻った二人を含めて多くの者たちがいた
と思います。1→2→多数。
 ペトロやクレオパたちの話を聞いても多くは半信半疑でした。主が現れた時に
「亡霊」だと思いました。復活の主を信じられないとしたら、聖霊はそれ以上に信じ
られないでしょう。
従って、主の復活を信じる事は聖霊の力を受け、復活の主を宣べ伝えるためには
絶対に必要なことでした。39~43節はずいぶんくどい感じがしますが、主イエスは
肉体を持って復活したことを何としても信じてほしいルカの熱意が伝わってきます。
 しかし、それほどまでに肉体をもって復活したことを言うのは彼らに平和・平安が
なかったからです。「シャローム!」と主は言われました。日本語では「平ら」な状態
を指します。言語のニュアンスは地下から温泉が湧き上がってくる力に満ちた状態
です。死をもって死を滅ぼし、よみがえられた主イエス、復活・昇天・聖霊降臨は
一続きの出来事です。
2019年4月28日  暗い顔 イエスさまが二人の話に入ってこられた時、彼らは暗い顔をして「あなた
はこのことを知らないのですか?!」と言いました。しかし、真実を知らないのは
二人の方でした。彼らの暗い顔は、墓が空だと言うことを知っていながら、なお
復活を信じられない、何者かがイエスの遺体を盗み出したと思っている=メシア
と期待したイエスが殺されたばかりか墓参りさえもできなくなった故の暗さでしょう。
モーセと預言者から聖書全体 復活を信じられない弟子たちに、イエスさまは
「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書か
れていることを説明され」ました。「聖書全体」がどの範囲かは難しいです。
「モーセとすべての預言者」はハッキリしていますが、エステル記や雅歌は含まれ
るのか、あるいは旧約続編が含まれるかは微妙です。しかし確実なのは新約は
まだ存在しない。イエスさまや使徒たちの時代に存在した旧約と続編の範囲内
です。ヨハネ5:39でイエスさまは「聖書はわたしについて証しをするものだ」と
言っています。わたしたちが旧約を読む時のスタンスがここに記されています。
無理に引き止めた イエスさまは先に行こうとしていたが、彼らは一緒に泊まる
よう引き留めたので、イエスさまであることがわかりました。ヤボクの渡しで神さま
にしがみついて祝福を求めたヤコブを思い起こします。そしてすぐさまエルサレム
に引き返して、仲間たちにイエスさまに会ったことを証ししました。
2019年4月21日  主イエスが復活したことを最初に知ったのは、女性たち、とりわけヨハネ福音
書ではマグダラのマリアの名が挙げられています。彼女が日曜の朝早く、墓に
行くと墓を蓋してある大きな石がどかされていました。彼女はペトロとヨハネ呼び
ました。彼らは遺体がないことを確認して帰っていきましたが、マリアは残って
いました。男性の弟子たちのようには割り切れなかったのでしょう。主イエスが
死んだだけでなく、その遺体も失われてしまったことにショックを受けて泣いて
いました。
 主イエスはそんな彼女に2度、「なぜ泣いているのか」と呼びかけました。3度
目は「マリア」と名を呼ばれ、これでイエスだとわかりました。
「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」
(詩30:6)
2019年4月14日 「この杯」とは何でしょう?マタイ・マルコはゼベダイの子らに「わたしが飲むべき
杯を飲めるか」と問うています。ヨハネ18章は逮捕される時に「父がお与えに
なった杯は、飲むべきではないか」と言われます。ユダヤの過越祭では四つの
杯を飲んだそうです。①きよめの杯、②感謝の杯、③贖いの杯、④終わりまた
は賛美の杯。そして福音書の記事では家の中で第四の杯を飲んだことが書い
てなくて、それは十字架で完成した(ヨハ19:30)と言われます。
〔〕内に入っている43, 44節は元々のルカ福音書にはなく、後で付け加えられた
とされています。しかし、愛する弟子に裏切られ、同胞によって罪に定められる
苦悩に、イエスさまも天使の支えを必要としました。このイエスさまが私たちの
苦悩を共に苦しんでくださいます。
 2019年4月7日  このたとえは共観福音書すべてに収録されています。ぶどう園=イスラエル、
主人=神、農夫たち=指導者、僕=預言者、跡取り=イエス・キリストです。
詩編118:22が引用されていますが、言行録やペトロ、パウロの手紙にも引用
され、教会のイエス理解の根本です。
 イスラエル(ユダヤ)の指導者たちの使命は、政治や祭儀を通して民と共に
神に栄光を帰することですが、彼らは最高法院を自分たちの権力の源泉とし、
神殿を強盗の巣とし、神の独り子を亡き者とし、神の栄光を奪い自らの栄光と
しようとしました。
 しかし、捨てられた石=イエス・キリストこそ神の教会の土台となり、人々を
打ち砕くもの(この解釈は「裁き」「悔改め」の2通り)となり、また再臨の時には
すべての者を裁くことになります。このように預言が説き明かされた時に、
指導者らは心を頑なにしてイエスを殺そうとします。あなたはどうしますか?
  2019年3月31日  モーセとエリヤはイエスさまの時代に正典としての権威が認められていた
旧約(律法と預言者)を代表する人です。彼らは栄光に包まれて現れました
が、イエスさまは自ら栄光に輝く姿となりました。彼らはイエスさまの十字架
について、つまり神さまがイエスさまの死を通してイスラエルと世界を救うこと
について語り合っていました。主イエスの十字架による贖罪、復活によって
与えられる永遠の命は、旧約の律法や預言に適うことだということです。
 一方、弟子たちは眠らずにいるのがやっとでした。つまり、弟子たちは
これから世紀の大事件が起こるという話に、全くワクワクもハラハラもでき
ません。何においても積極性がウリのペトロはようやく口を出しましたが、
ピントの外れた発言でした。このように無理解な弟子たちではありましたが、
イエスさまたちは雲に包まれ、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。
これに聞け」という神さまの声が聞こえてきました。これはイエスさまの献身
の時にも聞かれた言葉です。イエスさまが大工の息子から「神の国の福音」
宣教者になる時、そして今度は全ての人の罪の身代わりとして十字架に
つかれる歩みを踏み出すところです。この意味をまだ弟子たちは理解を
していません。けれどもペトロは後に、聖霊によって主イエスの来臨の意味
を悟り、この出来事を手紙に書いています(Ⅰペトロ1:17)。その時は理解
できなくても心に留めることができれば幸いです。
 2019年3月24日 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)

「十字架」のことを人生の重荷のように言われることがあります。病気とか
障碍とか、様々な困難な事態を指して「これがわたしの十字架です」と言う
場合がある。でも、イエス様はここでそういうことをおっしゃっているわけでは
ないでしょう。「わたしに従いなさい」が主文ですから。イエス様に従って
生きることが、日々十字架を背負って生きることになるのです。
 もちろん、「十字架」と言えば処刑によって殺されることですから「十字架を
背負う」とは殉教の死を意味するとも言えるでしょう。でも、「日々」そういう
意味で死ぬはずもありません。死ぬのは一回です。イエス様は、「日々、
従う」ことを求めておられるのです。私たちの前を歩んでくださっているのは
イエス様です。そのイエス様に従えば、世から排斥されることがあり、時代が
時代であれば迫害に遭い、処刑されることもあるでしょう。しかし、その地上
の最期が何であれ、日々、イエス様だけを信頼し、愛し、従っていく。イエス様
が神を愛し、人を愛して生きたように、神を愛し、人を愛して生きていく。
日々十字架を背負うとは、そういうことだと思います。
                             及川 信牧師(中渋谷教会)
 2019年3月17日  イエスさまは多くの病人を癒し、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出し
ました。それは神の国の到来を告げる徴でした。多くの群衆がその業に
驚嘆して信じました。しかし、疑いを持つ人もいました。曰く「あれは悪霊
の頭ベルゼブルの力だ」。また「天からのしるし」を求める者がいました。
天からのしるしというのは、たぶんエリヤが天からの火を呼んだのと同じ
ようなしるしでしょう。
 私も中学生の頃「神がいるなら証拠を見せろ」と言われたことがあります。
しかしそういう人はだいたいにおいて何を見ても信じません。現にイエスさま
がしるしを行っているのに「それは違う」「別のしるしを」というのです。
 ユダヤ教の中にはイエスさまと同じように病気を癒したり悪霊を追い出す
人がいたようです。イエスさまはその人たちは何の力で行っているのか?
と問います。そしてとても皮肉な説話をなさいます。
 汚れた霊を追い出してきれいに掃除しても、空き屋になっていると結局
汚れた霊がさらに強力になって戻ってきて、前よりも悪くなる。
 聖霊なる神さまが心の内に住んでくださらなければ、良くならないどころか、
もっと悪くなるというのです。キリスト教のことをちょっと学んで知っている。
良いことです。が、そのちょっとした知識が救いへの妨げになるケースが
あることに気をつけたいものです。
2019年3月10日 レントは40 日の断食の期間です。荒野のイエスさまはおそらく文字通りの
40 日の断食をなさいました。この断食は誘惑に打ち勝つための期間でも
ありました。
断食が終われば食事です。正教会などではこの期間は日を追うごとに断つ
品目が増え、食べられるものが無くなっていきます。そしてイースターの
礼拝の後は豪華な食事が待っています。それを楽しみに我慢する人も
いるようです。サタンはイエスさまを食べ物で釣ろうとしました。神の子なら
石をパンに変える奇蹟などたやすくできるのではないか?奇跡は何の
ためにあるかという問題。自分の腹を満たすためではなく、神の力が示さ
れる「徴」です。霊しるし的領域においてなされるものだと言うことです。
イエスさまの答は申命記8:3 でした。第2 は誰に仕えるかです。この世の
繁栄は自分に任されている、だからサタンを拝めというのです。イエスさま
は申命記6:13 をもって答としました。この世の栄光を手にすることは強い
誘惑です。けれども私たちにはそれにまさる栄光が約束されています。
第3 は今度はサタンも聖書の言葉です。サタンは聖書をよく知っています。
聖書の言葉だからとうかつに信用してはいけません。ほんとうに正しい
使い方をしているか見分けなければなりません。聖書を学ぶことは重要
です。シオンの会や入門講座にご出席ください。サタンは詩編91:12 で
攻撃してきました。イエスさまの答は申命記6:16 です。いま神殿の屋根
から飛び降りる必要はありません。イエスさまの答は「聖書を信じ、神さま
にお任せする」ことでした。
 2019年3月3日 「5000人の給食」と呼ばれる個所です。ここは前後の段落もあわせて読みたい
ところです。直前の段落ではガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが「イエスとは
何者だろう?」という問いを立て、次の段落ではペトロが「神からのメシア
(キリスト)」という答を出します。どんなメシアであるかということを「多くの苦しみ
を受け、排斥され殺され」るメシアであるとイエスさまがご自身が説明し、山の上
でメシアとしての栄光を示します。このような文脈の中に「5000人の給食」の
出来事が置かれています。「イエスとは何者か?→(5000人の給食)→
イエスとは神の子キリスト」とすると、この出来事の内に神の子キリストという
答を導き出す何かがあります。
 ところで9章の冒頭には主が12弟子を(マルコによれば二人一組で)宣教に
遣わしたとあります。ヘロデが聞いた情報には弟子たちの言行も含まれて
います。
 10節は弟子たちの宣教報告を聞いて「自分たちだけでベトサイダという町に
退かれた」とあります。イエスさまはしばしば一人で退いて祈りの時をもちまし
たが、この時は宣教活動から帰ってきた弟子たちも共に退いたのです。
「退修会」という言葉があります。通常は「修養会」といいますが、リトリートで
「退く」ことの意義を強調したものです。今月は榎本恵先生をお迎えしますが、
保郎先生先生が日本に導入したアシュラムもそのような運動です。
 退き祈るところから5000人の給食の奇跡が起こりました。聖餐において
私たちはパン(キリストの体)に与ります。それは心の奥深くで受け止め、
隣人愛として外へ出て行くものです。
 2019年2月24日  ソロモンがイスラエルの3代目の王さまになったとき、神さまがゆめにあらわれて
いいました。「ソロモンよ、あなたは王さまになった。ほしいものがあったら言って
ごらん。何でもあげよう」。みんなは何がほしいですか?
 王さまは、こう言いました。「神さま、わたしは王さまとして何をしたらいいのか
わかりません。イスラエルにはおおぜいの人がいます。人々の言うことをちゃんと
きいて、正しいこととわるいことがわかるように知恵をください」。神さまは王さまの
ねがいをきいて、よろこんで知恵もざいさんも栄光もくださいました。
 あるとき、二人の女の人が王さまのところにきました。この二人は同じ家にすん
でいて、同じころに赤ちゃんを生みました。ところが、一人の人が寝ているうちに
赤ちゃんの上にのってしまって、赤ちゃんが死んでしまいました。それで、もう一人
の人の赤ちゃんととりかえてしまったのです。おたがいに「それをやったのはあの
人です」と言い合っていて、生きているのはどっちの赤ちゃんかわかりません。
 そこで王さまは「ええい、この子はどっちの子かわからん。こうしよう。この子を
刀で二つに切って半分ずつあげよう」。すると一人の女の人が、「王さま、この子
をあの人にあげてください。わたしはこの子が生きていればけっこうです」と言い
ました。王さまは家来に「この人がほんとうのお母さんだ。この子をこの人にわたし
なさい」といいました。この話をきいたイスラエルの人たちは王さまを敬うように
なりました。
 2019年2月17日  たとえ話がわかることは神さまの恵みです。「種を蒔く人」のたとえ話では、種が
落ちた土地によって①鳥に食べられ、②石地で根を張れず、③茨の中に覆われ、
そして他のものは良い土地に落ちて実を結びます。主イエスの説明は…種とは
御言葉です。
 ①せっかく御言葉を聞いても悪魔が来て御言葉を奪い去る。②喜んで聞いても
心に根を張らず何かあると離れる。③思い煩いや誘惑に負ける。④良い心で
御言葉を聞き、よく守り、忍耐する人が実を結ぶことができる…。
 たとえ話(8:4~8)とその解説(8:11~15)の間に挟まっている9,10節は何で
しょうか?
弟子たちにたとえの意味を聞かれて先ずお答えになった言葉です。ここでは
神の国の秘密は誰にでも悟ることが許されているわけではないと言われます。
弟子たちには許されています。けれども他の人には許されていません。だから、
「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われています。10節の旧約の引用は
イザヤが預言者として召されたときの神さまの派遣の言葉です。ヘブライ語
聖書ではこうなっています。
  行け、この民に言うがよい
  よく聞け、しかし理解するな
  よく見よ、しかし悟るな、と。
  この民の心をかたくなにし
  耳を鈍く、目を暗くせよ。…
  悔い改めていやされることのないために。
 2019年2月10日  通りがかりに麦畑で穂を摘んで、手でもんで食べた。これが問題になりました。
日本なら「他人の畑のものを取って食べた」ことが問題です。しかしそれは問題
ではありません(レビ19:9)。その日が土曜日(安息日)だったことが問題でした。
弟子たちの行為は安息日にしてはならない労働に当たるとされたのです。
これに対してイエスさまはサムエル上21章のダビデの例で答えました。私たちに
引きつけて言えば、ダビデの従者たちのために聖餐式で残ったパンをもらって
食べたのです。
 もう一つは病気(障がい)の癒しです。治療行為も安息日には禁じられた労働
とみなされました。たとえばケガの場合、絆創膏などで傷口を覆うのは良いとさ
れますが、本格的な治療は許されなかったようです。
 安息日にイエスさまが会堂で説教をしていると、右手が動かない障がい者が
いました。律法学者やファリサイ派はイエスさまを訴える口実を見つけようと、
二人の様子に注目していました。イエスさまは「手を伸ばしなさい」と言っただけ
ですが、彼は手を伸ばした=手が動くようになった。これではイエスさまを安息日
規定違反として訴えることはできません。見る・聞く・話すは労働とされません。
 この人の障がいは癒されました。ファリサイ派の人々は彼の手の動くように
なったことは問題にしていません。イエスさまが手を使って治療行為をするか
どうかだけを見ていました。イエスさまが問題にしたのは安息日に「なすことが
できる善がありながら、それをしないことこそ罪ではないか?」ということです。
 2019年2月3日  習慣化には良い面と悪い面があります。諫早教会のある信徒が「今日は雨が
降っているので教会に行きたくないなぁと思ったけど、気がついたら用意ができて
いたので来ました」と言いました。日曜日の朝は教会に行く支度をするように体が
動いてしまうのです。
 他方、一つの習慣が身についてしまうと融通が利かなくなり、新しい事態に対応
できないことがあります。現代は次々と技術革新が行われ、新しいものにようやく
慣れた頃に、もう次の新しいものに取って代わられる時代です。
 「そのような時代にあって聖書は永遠に変わることのない神の言葉です」と私たち
は言います。それはどの程度ホントなのでしょうか。
 主イエスは律法を曲げたことはありませんが、当時のファリサイ派の律法解釈と
は対立しました。律法学者たちは聖書の律法をいかに正しく守るべきかを真剣に
考え、人々の日常性格に適合するように細かいルールを整えて行った人たちです。
けれども規則は規則として定められた瞬間に本来の趣旨から独立して規則を守る
ように要求します。主は律法本来の趣旨を取り戻そうとしましたが、それは人々の
目に革命的なことと映りました。
 私たちの礼拝の様式、言葉、賛美歌は、19世紀に日本にプロテスタント・キリスト
教がもたらされた時代、アメリカの教会で盛んだったものが中心です。現在の日本
人(教会を知らない人)に受け入れやすいものか考える必要があるのではないで
しょうか。
 ラインホルド・ニーバー(1892–1971)の祈りと伝えられている祈りを祈りましょう。
「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変える
べきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する
賢さを与えて下さい」 アーメン。
2019年1月27日  「やもめのレプトン2枚」が読まれ、説教題は「献げ物の精神」なので、「今日の
説教は『献金の心構え』のような話か」と思われた方もおいででしょう。でも今日の
主題は「新しい神殿」です。会堂建築はどの教会も信徒一丸となって献金し、
他の教会にも献金を依頼します。今鈴鹿教会では新築から20年を過ぎて、補修
のために献金をしてきました。皆さんの近々に感謝し、この教会堂が少しでも長く
使えるように補修していきたいと思います。
 エルサレム神殿はダビデが計画し、ソロモンが建築しましたが、バビロニアに
よって破壊されました。ペルシャ時代、ネヘミヤらによって第2神殿が建築され
ましたが、ソロモンが建てたものより小振りな神殿でした。ヘロデ大王がそれを
修復し、ソロモンの神殿に引けを取らない立派なものにしました。けれども紀元
70年にローマによって破壊され、現在もそのままです。5節の言葉はヘロデに
よって修復された姿を表現しています。
 けれども神殿は大きくて美しい装飾が施されていることも良いことではありま
すが、もっとも大事なことは礼拝の場・祈りの場として機能することです。その祈り
の内実も問われるでしょう。献金の多寡を誇り、断食を遵守を誇るような祈りが
されていたなら、虚飾の場と言わざるを得ません。金額はレプトン2枚(牛丼1杯分)
であっても、自分の全てを献げるなら、この人が全存在を神の前に献げたとして、
神に受け入れられます。それが新しい神殿です。
2019年1月20日   洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスさまは、聖霊に満たされてガリラヤへ戻り、各地の会堂で教え、称賛されました。そして故郷のナザレの会堂に来ました。皆、近隣の村でのイエスさまの評判を聞いていました。その日イエスさまに渡されたのはイザヤ書でした。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた…」。皆固唾をのんで聞いています。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した…」。会堂内がどよめきます。「素晴らしい」「ヨセフの息子がこんな立派になって」「わが町から立派なラビが誕生した」。驚きと称賛の声が響きます。
 しかしエリヤとエリシャの故事を引いて「預言者は自分の故郷では歓迎されない」つまり(あなたがたの称賛の言葉は本物ではない)というと人々は怒り出し、イエスさまを町外れの崖から突き落とそうとしました。
 人々のこの変化は何でしょう?イエスさまは貧しい人に福音を告げ知らせるためにきました。しかし彼らには貧しさが足りませんでした。ルカ版の山上の説教(平地の説教)では「貧しい人々は、幸いである」とあります。礼拝のメッセージに神さまからの私たちへの語りかけを聞こうとせず、ヨセフの息子が何を言うかに注目しているのはみ言葉に飢え渇いていないからです。余裕綽々とイエスくんの成長ぶりを見てやろうと思った人々が、生意気な小僧だと怒り出しました。神学校出たての若い教職にも、神に遣わされたメッセンジャーとして、耳を傾けることが求められます。
 2019年1月13日  マタイとルカは、主イエスが通りがかりにシモンとアンデレに声をかけたと記していますが、ルカはシモンの舟を借りて群衆に説教をし、いわば舟の借り賃として大漁をプレゼントしました。その後で「あなたは人間をとる漁師になる」と言って2組の兄弟を弟子になさいました。その時の会話の中に上に掲げたシモンの言葉があります。
 実はシモンは以前からイエスさまを知っていました。イエスさまが彼のしゅうとめの病気を癒して熱を下げ、それで近所の人たちが病人をシモンの家に連れて来て、みな癒してもらった。だからシモンはイエスさまは特別な力のある方だということは知っていたし、悪霊が「お前は神の子だ」と叫んだのも聞いていました。
 けれども、今度は自分自身の体験として、夜通し漁をしても何もとれなかったのに、主が言われたとおりに網を降ろすと大漁になったのです。「ナザレの大工の息子さん」と思っていたのが、悪霊が叫んだ通り「神の子」だとわかって恐ろしくなりました。この恐れの感覚は優しい神さまを強調する現代の教会にはわかりにくいかもしれません。「罪深い」というのも具体的に法のどの条文に背いているかということではありません。望遠鏡で太陽を見ると目が潰れてしまうように、私たちは神の聖さの前にたえることができないから「離れてください」というのです。しかし主は離れるどころか「あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、漁師たちはすべてを捨ててイエスさまに従いました。 
2019年1月6日  今日1月6日はエピファニー(ギリシャ語の「現れる」に由来、日本語では公現日、顕現祭)です。神の独り子が人の姿でこの世に現れたことを祝うものでクリスマスより古い歴史があります。イエスさまはヨハネから洗礼を受けられたことをもって公生涯に入られました。
 クリスマスはマタイとルカが記すのみですが、イエスさまの洗礼はすべての福音書に書いてあり、ヨハネは水で洗礼を授けるが、イエスさまは聖霊によって洗礼を授けることが書かれています。従って、イエスさまが洗礼を受けたことはクリスマスの出来事よりも重要な出来事であり、そのイエスさまが授ける「聖霊による洗礼」はさらに重要なことであると言えます。公現日と聖霊降臨日は降誕日よりも重要です。
 ある人々はイエスさまが洗礼を受けられたときに聖霊が降られたことをもって、イエス(or三位一体)の名による洗礼を受ければ、聖霊が与えられたのだと理解します。聖霊が私たちに働きかけるのは洗礼を受けてからではありません。イエスを主・救い主と信じること自体が聖霊の働きです。しかし、聖霊が降るというのはそれとは別です。多くの場合、異言や預言といったしるしが伴う体験を持ちます。また使徒10:44では聖霊が降ったのだから(水で)洗礼を受けるべきだと言われています。
 洗礼を受けることは神の召しに対する私たちの主体的な応答です。聖霊による洗礼とは神さまが私たちに与えてくださる徴であり、神の子にふさわしく生きるための力だと言えます。ぜひこれに与りましょう。 

2020年の「命の言葉」 2018年「命の言葉」

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