日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2019年「命の言葉」  2017年「命の言葉」



2018年12月30日  インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる方が世に来られた。当時のユダヤ
は隣国イドマヤ出身のヘロデ大王が支配し、エルサレムの神殿は大規模な修復がなさ
れたりしていました。けれどもヘロデのユダヤ王という地位はローマ皇帝に多額の金を
払って得たもので、つまり異教の神々を礼拝するローマの傀(かい)儡(らい)政権でした。
ユダヤの多くの人々がキリスト(救い主)の出現を待ち望んでいました。けれどもごく
一部の人しかこの神の独り子イエス・キリストの到来を喜びをもって迎えることができま
せんでした。ルカの福音書が記す羊飼いたち、老人シメオン、女預言者アンナ、そして
マタイが記すのは東方の国からやってきた占星術学者でした。
 ユダヤの人々は、王位が奪われると懸念したヘロデ王はもとより、祭司、律法学者、
エルサレムの住民たちも、占星術学者たちの来訪を聞いて不安に感じました。
 人々はローマの支配を喜んでいたのでしょうか?そうではありません。けれどもそれ
以上に「変わること」への警戒感が強かったのでした。傀儡であっても、またユダヤ人
ではないけど、ヘロデは神殿修復に力を注ぎました。だからそれでいいじゃないか…。
 神の民イスラエルは誰だったでしょうか?異教徒であるはずの東方の占星術学者の
方がむしろイエス・キリストを受け入れたのです。
2018年12月23日  東方の学者たちが星を見て、ヘロデの宮殿を訪ねたとき、祭司長たちや律法学者
たちはミカ書5:1の言葉を挙げて救い主はベツレヘムで生まれることになっていると答え
ました。
ところがマタイが引用したミカ書の言葉は
「お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない」となっています。
 ベツレヘムは小さいのか大きいのか?大小の問題で言えば、最も小さいものでは
ないけれど、小さいものです。イスラエルの氏族の中でも最小ではないけれど小さい
部類。現在の人口は3万強。新約時代の町の規模でも人口は多くなかったとされます。
小さな町です。
 けれども、ここでは町の規模が最小であろうとなかろうと、神のためにイスラエルを
治める者が出ると預言されています。これは大いなる事です。もちろんミカは、
ベツレヘムがダビデ王の出身地であることを前提として、ダビデのような支配者が出て
くることを預言しています。
 それは誰か?歴史上のイエスはイスラエルを支配するどころか、同胞の妬みによって
ローマへの反逆者として殺されました。ではイエスのことではない?
 いいえ、やはりイエスなのです。イスラエルは現在のイスラエル国ではありません。
キリストの教会こそが真のイスラエルであり、イエス・キリストが教会を治める方です。
2018年12月16日  ゼファニヤ書はふだんあまり読まれないかもしれません。ゼファニヤはユダ王国の
ヨシヤ王(前640~609年)の時代の預言者です。ヨシヤ王の最後の年609年にはニネベ
が陥落しアッシリア王国が滅亡します。またヨシヤ王による宗教改革(前622~621)より
前、640~621年の間の預言と考えられています。同時期にはエレミヤやナホムがいま
した。
 ヨシヤの祖父マナセや父アモンはアッシリアの祭儀を導入し、ユダの各地で偶像崇拝
が行われ、政治や民の倫理も堕落していました。
 ゼファニヤは「主の日」が来ると預言します。それは徹底的な裁きの日です。その日
が来ないうちに「主を求めよ」(2:3)と語ります。
 3章に入るとエルサレムが主を求め、主が民を憐れむことが記されています。主が立
ち上がる日を待てと言われます。また、諸国の民に清い唇を与え、主の名が唱えられ、
主に仕えるというのです。かつて主に背いた悪事は不問にされ、主の民としての実態を
取り戻すことができます。「清い唇は不正を行わず、偽りを語らず、その口に、欺く舌は
見いだされない」。この預言はエルサレムの民にとどまらず、キリストにあって生きる私
たちにも当てはまります。私たちは自らの努力で清い唇を獲得したのではありません。
神の恵み(イエス・キリストによる身代わりの刑)によってそのように変えられました。
そのようにして「神に喜ばれる者」とされました。感謝をもってクリスマスを迎えましょう。
2018年12月9日 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。穀物を求めて、食べよ。」食事は
人が生きるために欠かすことができません。それは自動車にガソリンを入れるのとは
違います。食事は単にエネルギーと栄養の補給をするだけでなく、幸福を与えるもの
です。喜びと感謝をもって食べるのです。また孤独に無機質に食べるのではありません。
「わたしのもとに来るがよい」と招いてくださる方と共に食べるのです。
クリスチャンが食事の時にお祈りをするのはそういうわけがあるのです。
 肉体の糧がそうであるなら、まして霊の糧はなおさらです。私たちは社会の中で、つまり
さまざまな人間関係の中で人に迷惑を掛けたり、あるいは悪意に基づく行動をすること
もあります。そんな私たちに対して「神に逆らう者はその道を離れ悪を行う者はそのたく
らみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰る
ならば豊かに赦してくださる」と約束してくださっています。 よく新約のイエス・キリストは
愛に富む優しい方で旧約の神さまは厳しいと言われますが、旧約に描かれる神さまも
愛に富む方です。この神さまの愛は旧約聖書の物語の随所に現れてきますが、決定的
に示されるのはイエス・キリストの出来事です。私たちの罪の始末を神さまご自身が引き
受ける形で、罪のない神の独り子イエスさまを罪人として処断なさいました。このように
して人を救う神さまの志は必ず成し遂げると約束されています。神の言葉とはイエス・
キリストであることに心を留めましょう。
2018年12月2日  イエス・キリストがおいでになる時、世界に光が差し込んできます。光は世界を明るく
します。しかし、また同時に闇があることをも明らかにします。光が一個所からしか出て
いないなら闇は消えません。私たちの目には太陽は小さな円にしか見えませんが、
実際は地球よりもはるかに大きなもので、その全体から光を発しています。それでも
太陽と地球の距離があると太陽が当たっていても何かの裏側には影ができます。そして
地球の裏側は夜になります。
 今日からキャンドルを点灯します。来週はもう一本点灯します。アドヴェントのキャンドル
は4本ですが、イエスさまは「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)とおっしゃいました。
世界中のさまざまなところに光を発するものがあるなら隅々に光が当たることになります。
 預言者エレミヤはユダ王国の滅亡という状況の中で預言しました。宮廷に雇われた
預言者たちは「神の都エルサレムが滅びるはずがない」などと根拠のない預言をしてい
ました。けれどもユダは滅びました。エレミヤは転じてエルサレムの復興を預言するよう
になります。神さまはユダ・エルサレムを裁かれますが、決して見捨ててしまったわけで
はありません。悔い改めへと導く懲らしめでした。「イスラエルの家とユダの家に恵の
約束を果たす」とあります。ユダだけでなく、ずっと前にアッシリアによって滅ぼされた
(北)イスラエルも救いの内に入っています。正義と公平をもって神さまの国を治める方、
キリストの出現が予告されています。イエスはヘブライ語のヨシュア、ヨシュアは
「ヤハウェは救い」という意味です。
2018年11月25日  王制は専制君主制というイメージが一般的かもしれません。国家の政治形態だけで
はありません。企業のガバナンスでも同じだし、宗教団体では神の権威を振りかざす
教祖・教主は珍しくありません。
 イスラエルに王制が始まったのは、紀元前1021年頃、サウルからでした。イスラエル
では12の部族が部族ごとの指導者(士師)に導かれ、全体は緩やかな連合体でしたが、
周辺に強大な権力を持つ王を戴く国が現れ、イスラエルを圧迫してきたことから、
イスラエルにも王を望む声が高まり、祭司であり、最後の士師でもあるサムエルが
サウルを王に選びました。
 けれどもサムエルは王制には反対でした。イスラエルを支配するのはただ一人、
神だけであり、人間を支配者とすることは危険であると考えていました。しかし、神は
民の訴えを受け入れたのでした。サムエルと民のやりとりはサムエル記上8章にあり
ます。
 最初の王、サウルはやがて神に従わなくなったため、サムエルは羊飼いの少年ダビデ
に油を注ぎ次の王としました。実際にダビデが王となったのはサウルの死後、まずユダ
族がダビデを王としました。8年後に他の部族もダビデを王としました。その時に全部族
の長老たちと交わして契約が今日の個所です。王位継承は武力で奪い取るものでも、
世襲で自動的に継承されるのでもなく、民との契約に基づくものであることが示されてい
ます。今日の日本では選挙と公約がこれに該当します。
2018年11月18日  今日は礼拝後にクリスマスの飾り付けをします。その中心は「光」です。アドヴェントに
1本ずつロウソクを増やしていくのも、昔はなかった電灯を点滅させるイルミネーション
も、イエス・キリスト、世の光の到来を示すためです。
 イエス・キリストは旧約聖書に書かれている昔の出来事をなぞる仕方で来られました。
言い換えると、昔の出来事はイエス・キリストの救いの出来事のひな形として用いられ
ます。
 ヘブライ人がモーセに率いられエジプトの奴隷状態から脱出し、カナンの地へ荒れ野
を旅した出来事は、罪の奴隷になっている私たちがイエス・キリストに救い出されて神
の国へ向かう歩みの先行パターンとして読まれます。ジョン・バニヤンの『天路歴程』
(1678年)は英語圏のクリスチャンに最も読まれた作品です。
 今日朗読された個所は、ヘブライ人を奴隷の国エジプトから乳と蜜のあふれるカナン
へ導くために神がモーセを遣わすところです。「あなたたちは救われる」という言葉が
どんなに甘い響きであっても、それが本物かどうかが重要です。私たちを救うと言われ
る神はどんな神なのかが決定的な問題です。
 「『わたしはある』という者」(I am that I am)という神の自己紹介は、創造者、世界の
支配者としての神さまの属性を簡潔に表現したものです。この方がモーセをヘブライの
民に遣わし、ファラオに遣わし、40年の旅を通して訓練しイスラエルを形づくっていきま
した。この神さまが、今日私たちと共にいてくださる方です。
2018年11月11日  100歳のアブラハムと90歳のサラ、この老夫婦に子どもが生まれるとはあり得ないこと
です。聖書は「サラは月のものがとうになくなっていた」と、妊娠可能性否定の根拠を
記しています。それにもかかわらず21章にはサラの出産が報告されています。その子
はイサク(笑い)という名が付きました。イサクが生まれた時、老夫婦は大喜びし笑った
からです。けれども18:12の「サラはひそかに笑った」は全く違う笑いでした。彼女は神
さまの言葉をバカにして笑ったのでした。悟られないように笑ったつもりですが、神さま
に見透かされていました。そんなサラでしたけれども神さまは約束通り、奇跡による子
を与えてくださいました。
 私たちは今日、地上の生涯を終えて神の御許にある人々を記念してこの礼拝を献げ
ています。一人一人のこの地上での生涯は、長生きして安らかに去った人も、幼いうち
に生涯を終えた人も、また不本意の人生の中で生涯を終えざるを得なかった人も
います。そのひとりひとりの人生は神さまの愛によってこの地上に始められました。
その終わりもまた人の目にはいたましい死であって、神さまの愛によるものです。
その先には天での笑いがあります。
2018年11月4日  「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に
なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5)。そこで全てを滅ぼす
計画を立てますが、ノアの故に全て一つがいずつ残されました。そして「人が心に思う
ことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)と言われますが、ここではむしろ、そのような悪い
人間を受け入れあわれむ言葉となっています。
 もしも、一切罪を犯すことのない完璧な人間(それが完璧か?という疑問はある)で
なければ、この世界に存在するのを許されないなら、カインとその子孫を残すべきでは
ありませんでした。ノアは「神に従う無垢な人」と紹介されますが、今日の朗読個所の
すぐ後には酔っ払うと裸になるしょうもないオヤジだったことが暴露されています。
そうすると6章の賛辞は何だったのか?と思うのですが、やはり「神に従う」という一点に
なるのではないかと思います。
 そのような者たちに神さまはもうことごとく滅ぼすことはしないと約束されます。この契約
の対象は「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜
や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣」です。
箱舟に入らなかった獣がいるのか気になりますが、神さまの愛の広さが表れています。
 神さまの契約は人だけでなく、全ての生き物のためにあります。主は全ての被造物の
主、地は全ての被造物のため。ハレルヤ!
2018年10月28日 経綸=国家の秩序をととのえ治めること。また、その方策。(大辞林)
 ヨブ記は神義論(世界における諸悪の存在が、あくまでも神の全能と義に矛盾する
ものでないことを弁証しようとする論議<大辞林)を扱っています。「無垢な正しい人で、
神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブに突然次々と災難が襲いかかります。ヨブの
病いを聞いた友達が見舞いにやってきますが、絶句し、次に語ったことはヨブに非が
あるから神から審きを受けたのだという因果応報論でした。ヨブは抗弁し、自分には
非がないと主張します。3人の友人と3ラウンドの応酬をし、次にエリフという若者が議論
に加わります。最後に神さまご自身が遂に口を開いたのが今日の所です。
 私たちは神さまが造られた世界の中に生きています。従ってこの世界のことをすべて
ご存じなのは神さま以外にありません。すべてのことは神さまが計画し、運営しています。
その中で私たちの身の上にも関わる事柄が起こってきます。そうすると私たちは自分の
運命を呪ったり神さまに文句を言ったりします。私たちはスッキリと明快な答を期待して
います。けれども神さまの答はスッキリ明快というわけに行かないことが多いようです。
ヨブへの答は嵐の中からでした。そして、ここで言われていることは私たち人間の限界を
指摘することで、単純明快な答を求めることを戒めています。
「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを
知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」ヤコブ5:11
2018年10月21日  日本基督教団が採用している新しい教会暦及び4年サイクルの聖書日課では、待降節
前に5週のクリスマス準備期間の延長があり、契約節とも呼ばれます。その前の今日、
聖霊降臨節の最終主日は終末主日とも呼ばれ、この世の終わり・キリストの再臨、そして
また各々のこの世の命の終わりを想う日でもあります。
 黙示録6章で小羊が7つの封印のうち、6つを開きます。それは偽キリスト、戦争、迫害、
災害などでした。第7の封印が開かれ更なる災いが起こる前に、イスラエルの12部族から
各12000人の額に生ける神の刻印が押されます。刻印は所有者を表示するもので、
黙示録には他に「獣の刻印」も出てきます。獣は反キリストを指していますが、7章の刻印
は「生ける神の刻印」です。この144000人は14章で新しい歌で主を賛美します。神の
刻印を押されるのはイスラエルの144000だけではありません。実は私たちは既に刻印を
押されています(聖霊で証印を押された エフェ1:13)。
 9節以下では「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」から集まった人々が神と
小羊キリストの前に立って賛美します。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神
と、小羊とのものである」。アブラハムが選ばれたのは「地上の氏族がすべて祝福に
入る」ためでした。終わりの時にそれは実現します。神とキリストによって救われ、神と
キリストの前に立ち賛美をする。この光景を先取りするのが礼拝です。
2018年10月14日  ヘブライ人への手紙11章は「信仰の列伝」と呼ばれますが、今日の所ではまずモーセ
の両親のことが語られます。ファラオはヘブライ人に男の子が生まれたらナイル川に
投げ込めと命じましたが、隠し育てました。3ヶ月というのは首がすわるまででしょう。
防水加工した籠に入れてナイル川に置きました。モーセはエジプトの王子として育ち
ましたが、ヘブライ人の自覚を持ちり、エジプトの王宮を去りました。
 上に掲げた聖句、実に大胆な言葉です。紀元前13世紀の人モーセが、1200年以上後
に現れるキリストのゆえに受けるあざけりを良しとしたというのです。つい筆が滑ったの
でしょうか?手紙の著者はあえてそのように書いたに違いありません。また、この手紙
が書き写される過程でこの「間違い」が訂正されなかったということは、代々の教会が
これを「間違い」ではなく「モーセはキリストの故に受ける嘲りを良しとした」と受け止めて
きたということでもあります。従ってこれは純正な教会の信仰です。
 手紙の著者は28節で過越の小羊について触れていますが、「小羊の血」と書いた時、
彼の心に浮かんでいたのは十字架上の主、イエス・キリストの姿だったに違いありま
せん。初代教会のユダヤ人キリスト者はイエスを罪人とするユダヤ教社会の中で、
信仰によって忍びました。初期の異邦人教会は圧倒的な他宗教の中で少数派として
弾圧に耐えて信仰を示しました。キリストの故に嘲られることがあるなら、それは私たち
の喜びと賛美となるでしょう。
2018年10月7日  祭司やサドカイ派は復活を信じません。使徒たちは3章で十字架で死んで復活した
「イエスの名」によって、足が悪く歩けなかった男を歩かせました。大祭司と議会はペトロ
とヨハネに「イエスの名」によって語ることを禁じました(4章)。しかし使徒たちは「イエス
の名の他に救いはない。神に従うことと議会に従うこと、どちらが神の前に正しいか」と
反論しました。
 今日の個所も、「イエスの名」問題が出てきます。使徒たちはその後も「イエスの名」に
よって病人を癒すこと、悪霊を追い出すことをやめません。多くの病人が寝たまま運ば
れてきて、「イエスの名」によって癒されました。議会は再び使徒たちを捕らえ、「イエス
の名によって語ってはならないと厳しく命じておいたのになぜ守らないのか」、と尋問しま
した。使徒たちの答は4章と同じです。「人に従うより神に従うべきだ」。さらに今回は、
自分たちがイエスの復活・昇天・神の右の座に着いたことの証人であり、聖霊もそれを
証しすると主張しました。彼らは嫌々ではなく喜んで証言しました。この証言に議会の
人々は激しく怒り使徒らを殺そうとしました。しかし、この時高名な律法学者であり、
パウロの師でもあり、皆に尊敬されているガマリエルが発言しました。ガマリエルは
イエスが復活したと主張する者が異端なら自滅する。しかし神から出たものなら滅ぼせ
ないし、諸君は神に敵対することになると忠告しました。こうして使徒たちは今回もむち
打ちと「イエスの名」で語るなという命令で釈放されました。
 5:41を味わいながら読みましょう。
2018年9月30日  「愛を忘れない」というクサい題をつけましたが、上の聖句から採ったものです。
聖書の教えを一言でいえば「神を愛し、人を愛しなさい」ということです。それは神を愛
することと人を愛することが別なことであるというのではなく、具体的には日常生活の
中で出会う人々に愛の心で接して振る舞うことです。
 今日朗読された聖句、4~8節は警告の言葉ですが、手紙の著者は9節で「もっと良い
こと、救いにかかわることがある」と言っています。神さまは「あなたがたの働きや、
あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示した
あの愛」を忘れないというのです。
 人は辛かったことはよく覚えているけど、良かったことは忘れがちです。それでも辛い
時に助けてもらったことなら覚えているでしょう。ドラゴンズの岩瀬が1000試合登板を407セーブで飾りましたが、プロになって最初の試合は3連打を浴び一死も取れず降板し
たそうです。けれども星野監督が「あれは俺のミスや」とかばい、二日後にまた登板させ
てくれた。岩瀬はそうした星野監督、また落合監督の温情・信頼があったから今日まで
投手として頑張ってこられたと言います。
 人と人との関係がそうであるなら、神さまと人との関係は何をか言わんやです。
 私たちが聖徒に「仕える」=「愛の業」をするならば、神は神は決して忘れません。
(マタイ25:31~46、ヨハネ一3章等参照。)
 2018年9月16日   ダビデは罪人でした。当時の、そして後世の人々は彼を王の鑑のようにたたえますが、
彼自身は自分の罪をよく知っています。自分の罪が死に値する重いものであることを。
だから神に憐れみを乞い願っています。
 3節の「癒してください」を心に留めておきます。罪についての理解の仕方はキリスト教
の初期からさまざまな論が交わされていますが、東方教会では原罪という概念がなく、
癒やされるべき病いとされています。この個所はその典拠ともなっているでしょう。英国
の伝道者ジョン・ウェスレーにもこの考え方が流れ込んでいます。
 6節は復活の考え方のないユダヤ教(復活はヨブ記に萌芽が見られますがファリサイ
派以前は復活はありません)らしい表現です。生きているからこそ礼拝も賛美も感謝も
できます。
 人生を重ねた分だけ、罪もまた積み重なっていきます。自分が犯した罪に悩み苦しむ
だけでなく、他人の罪によって苦しめられることもあります。この詩では「敵」という言葉
で言われていますが、個人名を当てはめるよりも、敵対する心そのものと考えた方が
いいでしょう。
 自分の罪・他人の罪に苦しめられて、詩人は嘆き苦しみ、老いてしまったと言います。
 それでも彼の希望は潰えてしまったわけではありません。罪を懲らしめる方であるけ
れども、嘆きを聞き、祈りを受け入れてくださる方でもある主に、包み隠さず申し上げる
ことができます。
 2018年9月9日  コリントの信徒への手紙二9章は「聖なる者たちへの奉仕」についてです。これはエル
サレム教会の貧しい人々を支える働きを指しており、パウロは諸教会を回って献金を
募っていました。ヨハネは「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情
しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(ヨハネ一3:17)
と言います。
どれほど献金するか 旧約には十分の一というルールがあります。パウロは献金につ
いて次のような指針を与えます。①不承不承でなく、②強制されてでもなく、③心に決め
たとおりに。献金は喜んで、惜しみなくするものです。だから金額の問題ではありません。
主イエスは一人のやもめの献金を賞賛なさいました。「この人は、乏しい中から持ってい
る生活費を全部入れた」(ルカ21:4)。
奉仕がもたらすもの-成長 ①献げる者がもっと富む者とされる、②聖なる者の不足を
補う、③受けた者が神に感謝する、④受けた者が神を賛美する、⑤受けた者が献げた
者のために祈ってくれる。
「贈り物」とは 15節の「言葉では言い尽くせない贈り物」とは何でしょう。新改訳は賜物
と訳します。ある人はキリストご自身だと言います。それも正しいと思いますが、キリスト
において、わたしたちが助け合うこと、そこからもたらされる数々の恵み、上に⑤まで書
きましたがそれだけではありません。聖徒たちとのキリストにある愛の交わりが、多くの
恵み、成長のうちに私たちを成長させていきます。
2018年9月2日  12節でパウロは「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、
イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と言います。彼は元々熱心なユダヤ
教ファリサイ派に属していて、高名なラビ、ガマリエルから学んだ旧約聖書の律法を
守ることに熱心でした。律法への熱心さ故にナザレ派(後のキリスト教)を迫害しまし
たが、ダマスコへの旅の途中でキリストに出会い、ファリサイ派であることをやめて
イエスさまを信じるようになります。
 ユダヤ教でもキリスト教でも、天地を作られた唯一の神さまを信じているはずです。
ではパウロが福音と呼ぶものは何でしょうか。
 彼はガラテヤの教会の人々が「他の福音(偽の福音)に乗り換えようとしている」と
警告しています。それはイエス・キリスト抜きのユダヤ教の生活様式をイエス・キリストの
恵みに生きようとする異邦人キリスト者にも要求しようとするものでした。つまり、割礼を
受けること、安息日(土曜休業)を守ること、またモーセの律法を遵守することなどです。
 元々熱心なファリサイ派であったパウロがイエス・キリストを信じるようになったのは、
律法を守ることによっては救われないことを悟ったから、救いはイエス・キリストがこの
悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくだ
さったこと以外にはないからです。
 パウロはダマスコ途上の体験を通して、キリスト者となり、律法ではなくイエス・キリスト
の犠牲によって救われることを伝えるための使徒とされたのです。それは人の権威に
依らず、神の権威によるものでした。
2018年8月26日 1.奉仕と賜物 教会はキリストの体、各々は体の各部分→賜物に応じて役割を果たす。
使徒・預言者・教師・病気を癒やす者などは「先生」と呼ばれそうだが、何でもできるわけ
ではない。使徒は使徒、教師は教師…。それぞれに必要な賜物は異なり、教師に病気
を癒やす賜物があるわけではない。それぞれの賜物に貴賎はない。(日本基督教団で
は伝道師は説教のため、牧師は加えて洗礼と聖餐のため、教会教育のためにキリスト
教教育主事が定められているが、他の働きのためには何の定めもなく誰でも相応しい
者を充てることができる)

2.賜物の限界 奉仕に関わる賜物は、奉仕と適切に結びつかなければ、身を結ばない。
異言を語る賜物も騒がしいだけ。預言や神に関する知識も、山を動かす信仰も、慈善
も自己犠牲も X がなければ虚しい。時が来れば廃れてしまう。しかし決して廃れること
のない賜物がある。それが X である。

3.すべての人が求めるべき賜物  X の部分に入るものは愛。「愛」という日本語は
キリスト教が意味を変えてしまった。「愛欲」というように、愛とは物事への執着を表し、
仏教では捨てるべき業(ごう)だった。しかし、教会は人間に執着し何とか罪の中から
救い出そうとする神さまの意志と行動を表す言葉として「愛(アガペー)」を使った。愛が
どんなものか13:4~7に書かれている。13節に「信仰と、希望と、愛、この三つは、
いつまでも残る」とあるが信仰(信頼)と希望は愛に含まれている。愛を受けて、神と人
に仕え愛に生きる者となろう。
 2018年8月19日  ピシディア州のアンティオキアは現在のトルコの首都アンカラから車で南西に3.5時間。
今では遺跡が残るのみですが、城壁に囲まれた町でした。この町のユダヤ教の会堂に
はユダヤ人だけでなくユダヤ教を信じる異邦人も集っていました。パウロは彼らに、
十字架に死んで復活したイエスこそ救い主だと語り、多くの人々が「次週も続きを」と
要望しました。そして今日の44節に続きます。
 次の土曜日には「ほどんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた」。ユダヤ
教徒だけではありません。真剣に救いを求めていた人も、勘違いで来ちゃった人も、
物見遊山・野次馬でパウロを見に来た人もいるでしょう。しかし、先週は「来週もよろしく」
と言った人たちの中から、パウロの説教に反対する人たちが出て来ました。なぜ変わっ
てしまったのでしょうか?聖書は「この群衆を見てひどくねたみ」と書いてあるだけですが、
ユダヤ人たちは自分たちの会堂が無割礼の者たちに乗っ取られてしまうと恐れたに違い
ありません。「パウロは無割礼の異教徒まで集めて、この会堂を乗っ取ろうとしている」。
そうなると「パウロの言うことには(内容が何であれ)反対!」です。救いが広く誰にでも
与えられることに拒否感を感じる人がいます。自分たちだけのものにしておきたいの
です。しかし聖書は言います。
「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
(イザヤ49:6) 教会がクリスチャンでない人々で満たされるように祈り求めましょう。
2018年8月11日  今日からモーセさんのお話をします。デイキャンプではモーセさんの一生をすごろくで
味わいます。6月の子どもの教会はヨセフさんのお話しでした。ヨセフさんがエジプトの
危機を救ったので、イスラエルに食べ物がなくなったとき、ヨセフさんのお父さんも兄弟
たちもみんなエジプトにひっこすことができました。
 それから長い年月がたつあいだに、エジプトの王さまが変わりました。ヨセフさんの
活躍を知らない人たちが王さまになりました。王さまはイスラエル人をじゃまだと思い
ました。そこでイスラエル人をどれいのようにはたらかせました。また、イスラエル人の家
に男の子が生まれたら殺せと命令しました。
 あるイスラエル人の家に男の子が生まれました。しばらくはかくしていましたが、かくせ
なくなったので、水が入らないようにしたカゴに赤ちゃんを入れて川におきました。この
カゴを見つけたのはエジプトの王女さまでした。イスラエル人の子だとわかりましたが、
自分の子としてそだてることにしました。こうして、王さまの家族によってモーセさんは命
をたすけられ、しかも王子として、王さまの家族として愛されて、いろんな勉強もしました。
王女さまはモーセという名前を付けました。「引き上げる」という意味です。川から引き
上げたからですね。でもこの名前は神さまがそなえた名前です。やがてどれいになって
いたエジプトからイスラエルを引き上げる人になります。どんなにひどい目にあっていて
も、神さまは愛してくださり、愛する人を備えていてくださいます。神さまにかんしゃしま
しょう。
2018年8月5日  今日の朗読個所において、使徒パウロは夫婦の関係について、また親子の関係に
ついて、互いに愛し合うようにと教えています。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻
と結ばれ、二人は一体となる」という創世記に記され、また主イエスが語られた言葉を
使徒もまた引用して教えています。
 けれども、使徒はこれを単に家族のあり方としてでなく「わたしは、キリストと教会に
ついて述べているのです」と述べます。一見、キリストの愛を引き合い、家族のあり方を
述べるように見えますが、実際は愛で結ばれた家族関係を形成する(家族だから自動
的に愛に満たされているわけではありません。絶えず起こる難問に苦しみ、祈り、努力
して行く中で愛が強められ、絆が強埋められます)営みの中で、キリストと教会の関係
に目が開かれるです。キリストを基盤とした教会の愛の関係と、家庭における愛の関係
がリンクしています。
 パウロは2000年前の社会に即して、その中で革新的な愛の関係を示しました。妻が
夫に仕えるのはその時代の常識だったと思います。しかし夫が自分を犠牲にして妻を
愛するのは常識だったかどうか?でも、キリストは御自分を犠牲にして教会を愛したの
です。だから夫もそのようにしなさいと言うのです。
 家父長制が聖書的かどうか?人は両親親を離れて妻と結ばれるという言葉には、人格
的関係が平等であることを感じます。
 親子関係も十戒の「父と母を敬いなさい」の一方で、子供の心を尊重することを教え
ます。
 2018年7月29日 1~3節 著者は信仰の人生を競走にたとえていますが、ここでは速さの問題ではなく
忍耐強く走り抜くことが求められています。その際大事なのはどこを見て走るかです。
ゴールであるキリストから目を離してはなりません。
4節以下 著者は迫害のある町からまだ迫害のない町にこの手紙を書いているので
しょうか。いずれにせよ、著者は間もなくこの手紙の受け手に迫害の手が伸びてくること
を予想し、主の鍛錬として受け入れるように勧めています。それどころか、鍛錬に遭わ
ないような人は、正統な信仰の継承者ではないとまで言っています(8節)。この時代に
あって子どもを鍛錬するのは父親の仕事でした。父親は子どもの将来を見据えて、
さまざまな逆風に耐えることができるように鍛錬します。それに対して神の鍛錬は
「御自分の神聖にあずからせるため」になされるのだといいます。神の神聖にあずかる
とはどういうことでしょうか。ある英訳は『共有する』とか『いくらか持つ』と訳しています。
神と同等とは言わないまでも、神にしか持つことのできない聖さ(ホーリネス)を私たちに
も分け与えられるというのが、ここの意味していることでしょう。そのために鍛錬が必要
なのです。鍛錬はその時には辛いものですが、鍛え上げられたなら、「義という平和に
満ちた実を結ばせる」。義(正しさ)というのは決して悪を訴え追及していくばかりでは
ありません。平和を作り出していくものです。
 12~13節は、神の恵みに対する私たちの積極的な応答が求められています。
2018年7月22日 本日の早天礼拝では教会の一人一人に役割があることを確認するよう導かれています。
 人間の体には目・耳・口・手・足・胃・腸などさまざまな器官があります。目が何かを
見るのは、目のために見るのではありません。体全体のためです口はさまざまな
ごちそうを食べることができていいなぁと思いますが、食べたものは栄養となり血液に
よって体全体に運ばれ、体全体を整えます。体には不要なものはなく、あらゆる器官が
協力し合って一人の人間を構成します。いや、器官と共に物理的なモノではない心も、
人間を構成する大事な要素です。
 教会も同じです。教会にはさまざまな年齢層、社会層に属する人がいます。パウロの
教会は鈴鹿教会よりもっと幅の広いメンバー構成だったようですが、身分の高い者、
低い者、さまざまな国籍・言語の人、障がい者も健常者も共に教会の大事なメンバー
として尊重され、またそれぞれが教会において役割を担っていました。特に病者や
障がい者は大事にされます。主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずか
せる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」
(マルコ9:42)とまで言われます。また片方の手がつまずかせるなら、切り落として障がい
者になって命を得よと言われます。
 外国人や障害のある人と共に神さまをたたえることは外国人でない人、障害のない
人を豊かにします。同時にハンディキャップのある人にとっても教会の中で役割を担って
いくことが、その人自身と教会全体を豊かにします。
2018年7月15日 「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを
助けた』と神は言っておられる」(6:2)。さらっと読むと何かピンチに陥ると、あたかも
ウルトラマンのような神さまが現れて私たちを救い出してくれるように見えますが、
そうではありません。
「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、
飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力
によって(神に仕える者としての実を示してきた)。「死にかかっているようで、このように
生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず…」。パウロが伝道旅行の間に
経験した苦労がどのようなものであったかがよくわかる箇所です。
 救世軍の日本の司令官になった山室軍平(1872-1940)は岡山県の貧しい農家に
生まれ、上京して印刷屋の職人になります。教会の英語学校でキリスト教に触れて入信。
1889同志社神学部入学。 1891濃尾地震の時、同郷の石井十次と協力して孤児救済の
ために活動。1894自由主義神学への反発などから中退。メソジスト高梁教会などで
伝道。1895英国救世軍の来日を機に入隊。1899『平民の福音』を著し、1900娼妓自由
廃業運動を開始し、労働、婦人、児童、貧困者、結核等さまざまな問題に取り組んだ。
多磨霊園の彼の墓に書いてある聖句が「物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物の
ようで、すべてのものを所有しています」という10節です。
 2018年7月8日 (7月7日の「キリスト教入門講座」から)
ルカ18:1~8「やもめと裁判官のたとえ」
神を畏れず、人を人とも思わない裁判官に、一人のやもめが執拗に裁判を行うよう
頼んだ。あまりにしつこいので初めは取り合わなかった裁判官は根負けし彼女の訴え
を取り上げた。
まして神は、昼も夜も叫び求めてやまない選ばれた人のために裁きを行い守ってくだ
さる。

 彼女にとっては、裁判官が不義な男であるか否かが問題なのではなく、自分の訴えが
受け入れられなければ困るのであり、その訴えは受け入れられると信じて疑わないの
です。
人を人とも思わない裁判官をも、ついには動かす真剣さと信頼が彼女にはあったのです。
 今日は、不信の時代であると言われます。毎日のようにわたしたちの周りでは、不信
を表す事件が続発しています。本来、最も親密な信頼関係がなければならない親と子、
兄と弟、教師と学生と行った関係すら崩壊しています。親が子を、子が親を傷つけ殺す
事件が続いているのは、最も悲惨なことです。
 人間世界の関係には、絶えず裏切りがありはかないものです。パウロは「人はすべて
偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と述べています。「四方から
苦しめられても行き詰まらず途方に暮れても失望せず」という確信は、神の真実に頼む
ことから生じるのです。
 イエスは気を落とさずに絶えず祈り、相手を信頼しなければならないことを教えるため
に、このたとえを話されました。わたしたちに「信頼すること」の大切さを、もう一度深く
教えられているのです。(船本弘毅『イエスの譬話』より)
2018年7月1日  イスラエルの民は律法によって生きる神の民でした。もう少し正確に言えば、モーセの
時代にエジプトでの奴隷のような生活から、神によって導き出され、救い出された民で、
神への感謝を律法を守るという形で表します。彼らの神の民としてのアイデンティティの
重要なものとして割礼がありました。これはモーセよりさらに古く、アブラハムの時代に
始まりました。
 ところが、このイスラエルの民の信仰=ユダヤ教から生まれたキリスト教は、この割礼
を捨てました。割礼に代えて洗礼を神の民に加わる入信儀式としました。これによって
男女の差別なく、神の民となります。またユダヤ民族のみならず世界のすべての国民も
神の民となるようになりました。
 しかし、(特にユダヤ人キリスト者の中に)依然として割礼にこだわる人々がいました。
パウロはそういう人々に警告しています。割礼を受けなければならないと主張する人は、
律法全体を守らなければならない。旧約律法の世界と割礼とは一つであり、キリストの
十字架と復活によって救われるとするキリスト教は割礼とは相容れないものだです。
聖書に書いてある律法を守ることは「良いこと」ですが、そこに信仰を依拠させるなら、
キリスト教としては異端になります。
 なぜなら、イエス・キリストの十字架と復活のによる恵みだけが私たちの救いの源泉
であり、それ以外のものは救いにならないからです。
2018年6月24日  今日の朗読の冒頭でヨハネが帰ってしまったとあります。彼はバルナバの従兄弟で
福音書記者マルコだと言われます。第2回の伝道旅行に際しては、彼を連れて行くか
どうかでパウロとバルナバが対立し、別々に伝道旅行に出ます。それほどの大問題
だったようです。
 バルナバとパウロの出発地はシリアのアンティオキアですが、今日の話はピシディア
州のアンティオキア。セレウコス1世が父アンティオコスを記念して各地に建設したの
アンティオキアの一つです。彼らはここでまずユダヤ教の礼拝に参加します。聖書は
律法(創~申)と預言者(ヨシュア~列王、イザヤ~マラキ)から朗読されます。この時代
は諸書(詩編など)はまだ正典として確立していません。朗読の後、旅行者の二人に
奨励を求められました。記録された最初のパウロの説教がここにあります。
 パウロはエジプト以来のイスラエルの歴史を語ります。荒れ野の40年、カナン侵入と
士師の時代、サウル王とダビデ王、ダビデの子孫による救いの約束、洗礼者ヨハネ、
ヨハネが指し示した救い主がイエスであるというのが説教の前半の趣旨です。後半は
主イエスの十字架と復活を語りますが、今日は前半のところから次のことを確認して
おきましょう。
 イエスは神が約束した救い主であることを、彼らは旧約聖書のイスラエルの歴史から
語りました。旧約は神の民の「罪と救いの歴史」であり、その結果としてイエス・キリスト
が約束として与えられています。神からの贈り物を受け取るか受け取らないか、私たち
の問題です。
2018年6月17日  母の日はよく知られており、多くの教会で盛んに母の日の行事が行われます。一方
父の日は教団の行事暦にも入っておらず、お父さんは感謝されないのだなぁと悲哀を…。
父の日も、母の日と同様、教会で始まりました。以下はWikipediaの「父の日」から引用
です。
 1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド(1882-1978、写真)
が、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月で
ある6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。彼女が幼い頃南北戦争
が勃発。父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人は母親が育てることになるが、
母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなった。以来男手1つで育てられたが、
ウィリアムも子供達が皆成人した後、亡くなった。
 最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた。当時
すでに母の日(1907年から)が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、
「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。
2018年6月10日  占いにはいったいどれだけの方法があるのでしょうか?方角、手相、星座、血液型?、
タロット…。占う事柄も恋愛、お金、仕事など多岐にわたります。占いの結果にどれだけ
確信を持つことができるのだろうか?多くの人はそれに絶対の信頼を置くとは思えませ
んが、何らかの助言を得て行動を決めたいのでしょう。
 聖書の時代の占いは今日のものとは違いますが、それでも占いを求める人の心は
変わらないと思います。占いの質は今日多く見られるお気楽なものではなく、確かな
霊能者がいたようです。今日の使徒言行録に出てくる女性は「占いの霊に取りつかれ
てい」ました。彼女の言うことを聞きましょう。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さん
に救いの道を宣べ伝えているのです」。これは正しいことです。なぜパウロは彼女が
占いをできなくしてしまったのでしょう?問題はその出所です。聖霊によって語っている
のではなく、異なる霊によって語っています。『言っていることが事実と符合するからよい』
のではありません。どの霊によって語っているかが大事です。占ってもらう側について
言うなら【当たるか当たらないか】ではなく【どの霊に頼るか】という問題です。
 唯一の三位一体の神を信じ、神に頼る者なら、その神以外の霊に頼ることはあり得ま
せん。いかに正しく占う者がいても、その霊が聖霊でなければ、私たちが自分の生き方
を決める際の拠り所にできません。私たちの行動を律するもの「イエス・キリストの名」を
述べて終わります。パウロが彼女を黙らせた力は、イエス・キリストの名の力であること
を覚えましょう。
 2018年6月3日  エルサレム神殿の入口にある「美しい門」。その近くをしていた物乞いをしていた足の
動かない男がペトロとヨハネによって癒やされました。このことをきっかけにペトロが
福音を語り五千人がイエスを信じるようになりましたが、大祭司らは二人を捕らえ裁判
にかけました。しかし、癒しを目撃した人も多く、どうすることもできず脅しをかけて釈放
しました。
 二人が帰ってきた時に皆が祈ったのが24節以下の祈りです。一言でいえば「国家の
脅しに屈せず大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りです。また、
「イエスの名によって癒しとしるしと不思議な業が行われるように」という祈りです。
 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆
に神の言葉を語りだした」。使徒言行録2章のペンテコステの時も、一同が祈っていると
聖霊が降り、皆が大胆に諸国の言語で福音を語り出しました。
 使徒言行録は、聖霊が降ることによって、イエスを信じる人々が全世界に出て行って
イエス・キリストを証しし、教会が広がっていく様子を語っています。伝道は人間の知恵
によるのではなく、聖霊の降ることによって、言葉が与えられ、遣わされることによって
行われます。そして聖霊が降る前には熱心な祈りがあります。昨日「イエス・キリストは
日本を愛しています」と言いながら歩きましたが、日本(鈴鹿)とそこに住む人々への
深い愛と熱心な祈りがあるところに聖霊は降られ、伝道の業もそこから起こされます。
 2018年5月27日  教会暦は主イエス・キリストのご生涯を一年に振り分けて、それぞれの主日に主イエス
の出来事を記憶するようにしたものですが、三位一体主日は主イエスのご生涯ではなく、
唯一教理から採られた祭日です。
 三位一体は聖書に直接出てきはしません。しかし、私たちの信仰の体験は、父なる神、
その独り子イエス・キリスト、そして聖霊は区別されるがひとつの神さまであると信じざる
を得ないのです。
「ペルソナ」というラテン語を使います。人間なら「人格」ですが、神さまなので「位格」と
言います。
父・子・聖霊の3位格は…
 混同せず、分割しない。
 それぞれ別の位格である。
 被造物ではない。
 父も子も聖霊も永遠。しかし一つの永遠者
 父も子も聖霊も全能。しかし一つの全能者
 父は神、子も神、聖霊も神。
 しかも三つの神ではなく、一つの神。
このように人間理性では理解困難なものですが、歴史的な教会の人々ははこれを信仰
のうちに「体得」してきました。そしてまた、異なる教え(三神論や、イエスや聖霊は神で
はないとする唯一神論など)と戦って、この教理を確立してきました。十字架と復活という
主イエスの出来事の中に救いをみるからです。
 2018年5月20日  教会暦に従って礼拝をささげることは、主イエス・キリストの歩みに私たちの歩みを
重ねる教会の伝統的な営みです。今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。ヨハネ福音
書から聖霊の2つのイメージを受け取りたいと願っています。①活ける水、②共に歩んで
くださる方。
 7章では、クリスチャンの内から生きた水が川となって流れ出ると言われます。水は
人でも動植物でも、生き物が命を保つために欠かせません。水源地から海に至るまで
川が流れていく景色は命の豊かさを象徴します。私たちの内から外に向かって生きた
水があふれ出ていくなら多くのものを生かすことになります。主イエスがこのメッセージ
を語った時には「信じる人々が受けようとしている“霊”」と言われるようにまだ先のこと
でした。イエスさまが天に昇って栄光をお受けになってから、この霊は信じる人々に降り
ます。それがペンテコステの日の出来事となって実現しました。21世紀に生きる私たち
はいつでも生きた水を世界に提供することができるようになっています。
 14章では「弁護者」となっています。原語はパラクレートス(傍らに立つ者)です。裁判
の時に被告の隣に立って弁明してくれる者のことです。しかし裁判用語を使わなくても、
いつも隣にいて共に歩んでくださり、真理を教えてくださる方です。特に、迫害にあい
裁判の場で弁明しなければならない時に聖霊が語るべき子とを教えてくださるということ
でもあります(ルカ12:11~12)。聖霊の導きに自分を委ね、他者を生かす者としていた
だきましょう。
 2018年5月13日  イエスさまはよみがえってから40日の間、弟子たちにいろいろなお話をし、天に昇られ
ました。きょう読まれたみことばでは、神さまと神さまのひとり子であるイエスさまが、
一つであることがハッキリといわれています(11節)。イエスさまをしんじる
わたしたちが、おなじように一つになるために、神さまは教会を作り、まもってください
ます。教会は天におられる神さまと
イエスさまが一体であることを、この世であらわすところです。 だから、イエスさまは
こういわれます。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
イエス・キリストを知ることです」。
 神さまとイエスさまを知っている人は永遠の命をもらっています。ここで「知っている」と
いうのは、お勉強ではありません。体験することです。そのいちばんの体験者はマリア
さまですね。マリアさまのおなかにイエスさまがやどりました。
このことを天使からいわれたとき、マリアさまは「おことばどおり、この身になりますように」
とこたえました。
 かみさまのお約束が自分に実現するというのは、すばらしいことですね。イエスさまは、
イエスさまを信じる私たちのために
神さまにお祈りしてくださっています。私たちが悪魔に捕まらずに守られるように。
毎週一つになって神さまを礼拝することができるように。
 ペンテコステの日に弟子たちのところに来た聖霊さまと共に、イエスさまも天の上で
私たちのために働いていてくださいます。
 2018年5月6日  今週木曜は主イエスの昇天日。2014年以来ですが、昇天日祈祷会として聖餐式を
行います。また、来週は昇天主日です。母の日でもありますので、子どもたちと共に
主の昇天を祝います。今週は昇天を前にした主が弟子たちに語られた言葉から恵み
に与りましょう。
1.理解できないことがたくさんある(12~15)
 私たちは聖書が読めます。勉強すれば原典で聖書を読むこともできます。しかし、
その内容が理解できるかと言えば別のこと。わからないことがたくさんあります。聖霊が
教えてくださらないとわからない。それが聖書です。聖霊に教えていただけばアーメンと
いい、ハレルヤと主を賛美することができます。
2.昇天と再臨の予告(16~19)
 私たちは時間・空間に限定された中で生きています。主が天に移されると見えません。
しかしまた私たちの目に見えるように来てくださると約束されています。この話をされた
弟子たちも復活して再臨の主を見ることになります。
3.悲しみは喜びに(20~24)
 この世には常に反キリスト勢力が存在しています。主がいなくなることは彼らにとって
喜び、クリスチャンにとっては悲しみです。けれども、その悲しみの期間=主の不在の
期間はただの不在ではありません。私たちの永遠の住まい(天国)が用意されつつあり
ます。その完成の時に、主は再び来られ、私たちは喜びに包まれます。それは最終的
な勝利の喜びであり、神さまとツーカーの関係になります。
以上、理解できましたか?今理解できなくても大丈夫、聖霊の助けを願いましょう。
 2018年4月29日 【労働聖日】メーデー直前の主日。メーデーはマルクス主義の運動だったが、英国では
キリスト教信仰に立って労働者を守る運動が展開していった。→ケア・ハーディと労働党。

1.ぶどうの木と農夫
 イエスさまは御自分をぶどうの木にたとえます。神さまは農夫。イエスさまが良い実を
結ぶために神さまは手入れをし、実を結ばない枝は切って捨てます。枝が豊かな実を
結ぶためには幹につながっていなければなりません。
2.ぶどうの木と枝
 私たちは枝です。実を結ばない枝は切られ、結ぶ枝はもっと良い実を結ぶように手を
入れられます。枝が木につながっている=栄養が根から幹を通してしっかり運ばれて
いることです。良い実が実ると良いワインができます。
3.キリストの愛にとどまる
 栄養はキリストの愛です。キリストの愛をたっぷりと受けることによって、良い実を結び
ます。私たちが結ぶ良い実とは、人々への愛です。
4.喜びが満たされる
 愛は喜びを誘発します。愛のあるところには喜びが生まれます。
5.農園としての教会
 このような解釈を1980年代に教会の聖研で言ったら、小林重昭牧師から「教会は?」
と指摘されました。農夫が手入れをするぶどうの木は農園のぶどうの木です。酸っぱい
野ブドウではなく、豊かな実を結ぶぶどうの枝として神さまに手入れしていただきましょう。
 2018年4月22日  教会暦は主イエスさまのご生涯と教えを私たちの生活の1年でたどる「御言葉による
巡礼」です。教団の主日聖書日課は各福音書を中心に1年間を編成しているので4年
サイクルです。復活節第4主日の主題は「キリストの掟」です。主は私たちに「新しい掟」
を与えられました。その掟の新しさを味わいましょう。
1.キリストにおける「栄光」(31-32節)
 「栄光」を国語辞典で引いたら、「輝かしい誉れ。光栄。名誉。」と書いてありました。
しかし今日の御言葉の「栄光」は逆です。イスカリオテのユダがイエス様を銀30枚で
売るために大祭司のところへ行った。それを受けて「今や、人の子は栄光を受けた」と
言います。最も悲劇的な形で神の救いの業が完成する、それを栄光と表現しています。
2.新しい掟(34節)
 「互いに愛し合いなさい」は古い当たり前の教えです。裏切るユダをも愛し、御自分の
命を捨てて人を愛された。愛の徹底において新しさがあります。また、それまで弟子たち
が学んでいた掟は十戒をはじめとする律法でしたが、主はそれを「愛し合う」という角度
から再解釈しました。愛こそが律法の原理です。
3.愛が証しとなる(35節)
 私たちが愛し合うのは、イエス様が私たちを愛してくださったことへの応答です。従って
愛し合うことはキリストに従う、キリストの道を行くことです。なぜ愛するの?と問われたら
「イエス様が愛してくれたから」と答えます。また私たちが愛しあう事は裁きの日の確信
となります。
 2018年4月8日   今日の個所は「平和」が3回用いられる。「こんにちは」でもよいが、それなら3回も必要
ない。やはり「平和」あるいは「平安」なのだ。
 この平和・平安とは何か。第一には、主と仰ぐイエスが処刑されたことによる弟子たち
の不安に対し、復活という奇跡で不安が取り去られ、イエスと共にある喜びが与えられ
たことだ。第二に「派遣」が語られるが、使徒たちはユダヤ教の中で迫害され、後には
帝国による迫害を受けて皆殉教するが、その中にあって平安が与えられる。イエスが
既に通った道、復活に通じる道だから。
 トマスは復活を信じないと言ったが、主は彼にも「平和があるように」と言われる。
イエスの「指を当てて…」という言葉に彼は「私の主、私の神」と応じた。トマスの心に
平和が訪れた。
 2018年4月1日  ヨハネの報告によれば、墓から主の遺体がなくなっているのを最初に知ったのは
マグダラのマリアでした。夜明け前のことです。共観福音書によれば、他の女たちと
主の体に香油を塗ろうとしていたようです。マリアは「走って行って」ペトロたちに知らせ
ます。ペトロともう一人の弟子(おそらくヨハネ)は「走って」墓へ行きますが若いヨハネ
が先に着きました。ここで興味深いのは、マリア、ヨハネ、ペトロの順により墓の中に
深くアプローチしていくことです。
 こうして、ペトロとヨハネは墓の中に入り、やっと主イエスの復活を理解し、また信じ
ました。
墓の中に入らなかったマグダラのマリアは、まだイエスの遺体が盗まれたものと思って
泣いていました。彼女は七つの悪霊をイエスに追い出していただいたこと、伝説では
ルカ7章の「罪深い女」やベタニアのマリアと同一視されたりします。いずれにせよ、
多くの罪を赦されたゆえに、イエスの愛を最も深く感じていた人の一人です。彼女の
涙の深さを思います。
 彼女がようやく墓の中をのぞき込んだ時、ペトロたちが見なかったものを見ました。
二人の天使です。続いて振り返るとそこに主イエスがおられました。彼女は復活の主の
最初の目撃者となり、再び弟子たちの所へ行って復活の主に出会ったことを証言しま
した。
 弟子たちに空の墓を知らせ、主の顕現を主から派遣されて知らせたゆえに、彼女は
「使徒たちへの使徒」とも呼ばれています。復活者・主イエスとの出会いを証しできる
ことは何とすばらしい恵みでしょうか!
2018年3月25日  アメリカの医学界では本気で医療に祈りを採り入れている病院があるようです。本人
が自分の病気のために祈るのもさることながら、祈られている人の方が治癒率が高い
というデータがあるからです。祈りが医学的にどう作用するのか、私にはわかりません
が、少なくとも自分のために祈ってくれる人がいるということは大きな励ましでしょう。
クリスチャンは会ったことがない人でも、またその存在すら知らない人でも、全世界の
教会とそこに集う人々を兄弟姉妹と信じ、祈り合います。神さまが聞いてくださいます。
それが祈る群れの力です。
 イエスさまは3人の弟子たちに目を覚まして祈っていなさいと言われました。「わたしの
ために」とはおっしゃっていませんが、「誘惑に陥らぬよう」目を覚まして祈っていなさい
というのです。イエスさまの決定的な時の訪れをイエスさまと(少し距離はあるが)共に
祈ることの大切さが語られています。私たちもまたこの週を主の「ひどく恐れもだえ」た
祈りに心を合わせて祈りの時を持ちたいのです(特に29日)。
 ところが人の心に同調するのは困難です。3人は居眠りしています。生きるか死ぬか
のところで必死に祈っている人がいるのに、そのすぐそばで居眠りしているのが私たち
の実態です。心は燃えても、肉体は弱い。祈らなきゃと思っても祈りは中断されてしまう。
主の励ましを受けても長続きしない。それが私たちです。
 そんな弟子たちに「もうこれでいい」と言われます。「立て、行こう」です。頼りない者たち
を主は弟子として伴って、力ある者とされます。このあわれみに感謝をささげましょう。
2018年3月18日  イエスさまはこれからエルサレムで起こる出来事【死と復活】を明確に予告されました。
それでも弟子たちは、まだ主が地上の国の王になると思い込んでいます。「わたしども
の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。猟官運動もいいところです。
イエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが
飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問います。原栄作
先生は、弟子たちがイメージしたのは高級官僚が談笑しながら酌み交わす酒だろうと
教科書に書いておられますが、たぶんそんなところでしょう。彼らは「できます」と答え
ます。
 ここで主が言われた杯と洗礼とは、逮捕され不当な裁判によって十字架にかけられて
死ぬことです。「わたしが受ける洗礼を受けることができるか」とは「殉教の覚悟はある
か?」ということです。彼らはその意味がわからないままに「できます」と答えました。
主は「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けること
になる」つまり「あなたがたは殉教の死を遂げることになる。しかしわたしの右や左に
だれが座るかは、わたしの決めることではない」と言われました。そこは神さまに委ねる
事柄です。私たちの聖餐式は主の体と血に与ること=死と復活に与ること。それは私
たち自身の殉教をも含むものです。聖餐に与ることはこの世に「主の死を告げ知らせる」
ものです。洗礼もまた罪に死ぬという奥義を体験するものであることを覚えましょう。
2018年3月11日  主イエスは3人だけを連れて高い山に登られました。3人はイエスが栄光に輝き、
エリヤとモーセと共にいるのを目の当たりにしました。
モーセは律法、エリヤは預言者の代表で、律法と預言者とは(旧約)聖書を指します。
この二人が主イエスと共にいたことは「律法と預言者」=聖書がイエスにおいて成就
することを示します。「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声はイエスが洗礼を
受けた時にも聖霊と共に降った声です。その時は洗礼者ヨハネをはじめ多くの人たち
が見聞きしていたと思われます。しかし今回の目撃者は12弟子の内の3人だけ、
しかも「復活までは誰にも話してはいけない」と命じられました。これは3人だけが言わ
ば予告編として見せていただいたものです。後にペトロはこの時の出来事を証して
イエスが預言されたキリストであることを述べています(Ⅱペトロ1:17-19)。
 けれどもペトロはこの時はピント外れの事(5節)を言います。ペトロたちはイエスさま
の栄光の姿(それは十字架と復活を通して顕されるもの)を先取りして見せていただい
たのですが、彼らに聖霊が降るまでは理解できなかったのです。私たちの信仰生活の
中にも理解できないこと、あるいは誤解してしまうことがあるだろうと思います。それら
は神さまが定められた時になれば聖霊が示してくださいます。そういう時に私たちの
お手本になるのはマリアです(ルカ2:19,51)。今はわからないことは語るべき時が来る
まで、心の中に納め、沈黙の内に思い巡らし、主をひたすら見つめましょう。
2018年3月4日  イエスとは何者なのか?イエスさまの時代から現代に至るまで、多くの人々が様々な
答を提出しています。ある人々は革命家だと言います。他の人々は倫理・道徳の教師
だと考えます。さらに多くの人々は新しい宗教を作った教祖だと考えています。ユダヤ
人は神殿と律法を蔑ろにした罪人だとして排除しました。
 イエスとは何者でしょう?イエスさまより少し前に洗礼者ヨハネという人気のある宗教
家がいました。多くの人が彼に期待したのですが、ヘロデが首を切ってしまいました。
ヨハネへの期待がイエスに向けられました。別の人たちはエリヤ(預言者の代表)と
考えました。
 ヨハネでもエリヤでも、また他の人にしても、イエスさまは預言者の一人とみなされて
いたようです。ラビとも呼ばれているので、律法学者とも思われていたのかもしれません。
 主は弟子たちに尋ねます。「それでは、、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」
この問いに、私たちは答えなければなりません。声をそろえて「あなたはキリストです」と。
また、自分一人で「あなたはキリストです」と。
 けれどもその告白は自分の思想で言えるものではありません。聖霊が告白させるも
のです。ペトロは立派な告白をしましたが、その舌の根も乾かぬうちに人間的な思いに
とらわれて、イエス様が御自分の死を予告すると「いさめ始め」ました。「サタン、引き
下がれ。」とイエスさまは叱りました。聖霊が主を告白させるように、サタンも私たちに
人間の思いを語らせます。サタンに機会を与えないように聖霊に宿っていただきましょう。
 2018年2月24日  二つのおはなしがいっしょになっています。
一つめはヤイロさんの12さいの女の子が病気で死んだけど生きかえったおはなし。
もう一つは12年ものあいだ、病気で苦しんでいた女の人がイエスさまのきている服に
さわったら病気がなおったおはなしです。
 ヤイロさんの子どもで12さいの女の子、日本なら6年生か中学1年ですね。病気に
なってしまいました。ヤイロさんはイエスさまなら なおしてくださるとおもって、おねがいを
しました。お医者さまから「もうなおりません」っていわれたのかもしれません。イエスさま
がヤイロさんの家にむかうときにもおおぜいの人たちがついてきました。
 イエスさまがきゅうに止まって「わたしにさわったのはだれだ?」といいました。おでし
さんたちは「これだけおおぜいの人がいるんだからさわっちゃいますよ」といいましたが、
イエスさまから病気をなおす力がでたのです。一人の女の人がふるえながらイエスさま
のまえに来ました。「わたしは12年もずっと血が出て止まらないんです。イエスさまの
ふくのすそにでもさわればなおるかもしれないとおもってさわりました」。イエスさまは
「あなたのしんこうがあなたをすくった」とやさしくいいました。女の人は安心しました。
病気はなおっていました。
 そのはなしがおわらないうちにヤイロさんの家かられんらくです。「おじょうさんはなく
なりました」。でもイエスさまはヤイロさんの家)に行きました。そして「タリタ・クム」と
女の子にいいました。女の子は立ってあるきだしました。イエスさまを信じることは
わたしたちの力です。
 2018年2月18日  イエスさまはヨハネから洗礼を受けた後、ガリラヤで宣教を始めますが、その前に
40日間の断食をし、サタンの試練を受けたことが福音書に記されています。去年秋の
正教師試験で地区では大台めぐみ教会の吉川先生と津教会の蜂谷先生が受験・合格
し、先頃牧師就任式が行われましたが、イエスさまも試験を受けたのだと思います。
このことは古代教会も伝道者となるにあたって、断食の祈りと試問があったことを示唆
すると思います。
 けれどもヘブライ人への手紙の著者はイエスさまの試練を教師試験のレベルではなく、
荒野の誘惑と十字架は一体的に救いの本質に関わる出来事と理解します。救いの
創始者イエス・キリストは試練、それも自らの死という試練を通して、死と悪魔を滅ぼし
て人を救った(これが正教会の救済理解の根幹、ナルニア国物語の第1巻)のです。
 その結果、何がもたらされたのでしょう?
イエス・キリストが完全な者とされました(10節)。
彼は万物の目標ですから、私たちも完全な者とされる目途がついたのです。著者は
キリストも私たちも「一つの源」から出ていると述べます。イエスさまが私たち人間とは
無関係な神の子であっただけなら、彼が苦しむ必要はなかったでしょう。イエスさまが
肉体を持つ者として死という苦しみを味わったのは私たちの死がイエスさまの復活と
同じ復活をするためでした。聖なる者とされたことを感謝しましょう。
 2018年2月11日 向こう岸に渡ろう 5章を見ると「ゲラサ人の地」へ行ったことがわかります。湖をほぼ
対角線に渡ったのです。そこはデカポリスでありユダヤ人の地ではありません。ユダヤ
教的感覚からすれば異邦人の地、汚れた地です。敬虔なユダヤ教徒にとっては行き
たい場所ではありません。なぜイエスさまは行こうとしたのか?イエスさまのガリラヤで
の宣教から始まったキリスト教は、今や全世界に広がっています。従ってクリスチャン
のほとんどは異邦人です。その今はこの「向こう岸に渡ろう」から始まりました。
おぼれてもかまわないのですか キリスト教はユダヤ教をベースにしています。
旧約聖書の律法が土台にあって、その上に律法を成就するものとしてイエス・キリスト
の福音があります。異邦人の世界には旧約聖書という共通基盤がありません。思想・
文化、あらゆる点で違いがあります。異邦人宣教に出た人たちがどれほど苦労したこと
か。日本の宣教の歴史を考えればそれはよくわかります。
なぜこわがるのか 船が沈みそうな時にイエスさまは寝ていた。「神なんか頼りに
ならない」そう思うことがありませんか。嵐の中で信徒がアタフタしている時に寝ている
指導者。頼りにならないと思います。しかし、救ってくださるのは神さまです。イエスさま
はこの神さまの力をよく知っていたから安心して寝ていたのです。
この方はどなた 神の力を知り、神に全てを委ねることのできる方でした。自らの死すらも神に委ね、殺されていった方です。けれども、勝利の復活を確信していた方でした。
 2018年2月4日  イエスさまが人々に福音を語っていました(ペトロの家?)。多くの人が話を聞こうと
集まってきて身動きできないほどの有り様でした。
 そこに病人が運ばれて来ましたが、とてもイエスさまのところまで連れて行けない。
そこで彼らは病人を屋上に運び、屋根に穴を開けて吊り降ろしたのです。乱暴な話で
すね。けれどもイエスさまは他人の家の屋根に穴を開ける乱暴さよりも、この病人の
健康と、彼を連れて来てイエスさまの前に吊り降ろした人々の信仰を大事にされました。
 屋根の穴は大工なら直せるでしょう。あるいはイエスさま自身がその技術を持って
おられたかもしれません。大工ヨセフの息子としてそだちましたから。病気は治る病気
と治らない病気があります。それに加えて克服できる病気もあります。
 最近、「最新医学という宗教」という文章を見ました。臨床医たちの座談の記事でした。
科学に依らなければ病気は治らないという思い込み、それが宗教のように信じられて
いると言います。ゆっくり休んでいれば治る病気もあるのに、注射を打ち薬を飲まない
と治らないかのように思い込んでいるわけです。
 イエスさまはこの中風の人を歩けるようにする前に「罪の赦し」を宣言されました。肉体
の病よりも罪の問題の方が重要だからです。多分、病人もまた手足のことよりも切実に
悩んでいたのでしょう。主が罪の赦しと中風の癒しをセットで行われたことは、罪が病の
ように人をむしばむものであり、イエスさまの福音はそれをいやすものであることを
物語っています。
2018年1月28日  主イエスが語られた有名なたとえ話です。広大な畑では飛行機で農薬を散布したり
するようですが、2000年前も種を掴んで空中に撒くという仕方だったようです。ミレーや
ゴッホの「種蒔く人」などでよく知られています。
 13節以下に説明があります。同じ神の言葉を語っても、聞く人によって結果が違って
きます。「語り方」の善し悪しではありません。み言葉を聞いても家に帰る頃には何も
残っていない人、しばらくはみ言葉に従うが、何か都合の悪いことが起こると離れる人、
また誘惑・欲望に負けてしまう人がいます。み言葉を受け入れる人は実を結びますが、
実の量には程度の差があります。豊かに実を結ぶためにはそれなりの手入れが必要
です。肥料・水・剪定・間引きetc.その作物に合う方法がとられます。それは信仰の訓練
を指します。説教聴聞・祈り・黙想・断食・読書・交わりなどで、整えましょう。
 もう一つのことをお話しします。「イエスはたとえでいろいろと教えられ」ました。12節に
は「『見るには見るが、認めず…赦されることがない』ようになるため」といわれています。
聞いてもわからないようにしているのでは語る意味がないように思えます。しかしそれも
違います。
福音は理屈ではなく、物語=人格に関わる出来事として語られます。今日も証が語られ
ましたが、そのような証の中にこそ、福音が生きています。主イエスの出来事を語る
物語の中に自分の身を投じる時に、主イエスの出来事が私の出来事となる。主イエス
のたとえ話は主を体験する場への招きの物語です。
2018年1月14日  主イエスの洗礼に関するマルコの報告は3節と極めて簡潔です。それに対してマタイ
は5節を費やしています。マタイが長いのは、罪のない神の子に対して罪の赦しを与える
洗礼が必要か?という疑問を取り上げたからです。ヨハネ福音書は洗礼者がイエスに
洗礼を授けたことを書いていません。しかし洗礼者はイエスに天から聖霊が鳩のように
降りとどまったことを、他の福音書と共に証言しています。そこから考えると主が洗礼を
受けたことの意味は、私たちの模範として「型」を示したもの、また、罪人で悔い改めと
赦しを必要とする私たちと一つになるためのものでした。主の洗礼によって起こったこと
は①「聖霊が鳩のように降った」こと、及び②「あなたはわたしの愛する子、わたしの心
に適う者」という天の声です。
 ペンテコステで使徒たちに降った聖霊は鳩のようではなく宣教を示す炎の舌でした。
鳩は平和・柔和の象徴として使われています。主のご生涯は弱い者・社会から排除され
がちな者に愛を注ぐものでした。そのような歩みを聖霊によって示されたのです。
 「わたしの愛する子」という天の声は主が三人の弟子と高い山に登った時にもありま
した(マルコ9:7, マタイ17:5)。このことはペトロも手紙の中で証言しています(Ⅱ1:17)。
この後主イエスの十字架への歩みが進んでいきます。
 この天の声は、ナザレのイエスが、単なる立派な人・愛に富む人以上の、神でなくて
はできない贖罪・救済を人の姿において行う者であることを示す出来事でした。
2018年1月7日  12歳の少年がエルサレムからの帰り、ナザレからの親戚連中の一行からはぐれた。
探したら、神殿の境内で、学者たちの議論に参加していた。マリアが「お父さんも心配
してたのよ」と叱ると少年は答えた…。
 学者たちの議論に参加できる知恵もさることながら、最重要点は少年イエスさまが、
神さまを「父」として知っていたことです。神殿(私たちには「教会」)は「神の家」と呼んで
良いのですが、さらに一歩進んで「父の家」と呼ぶことが許されています。単に三位一体
の神における父・子関係というだけでなく、私たちにとっても神は父です(→主の祈り)。
 けれども両親(ルカは明確にヨセフを父として扱っている)には理解できませんでした。
理解できないのは当然でしょう。イエスさまが子なる神として認められるのは復活後の
ことですから。また、このことは毎度繰り返されたことではなかったようです。ルカは12歳
の時に限定しています。この時のことをマリアは心に納めていました。母というのはあり
がたいものです。
 ピエタと呼ばれる絵や彫刻があります。十字架から降ろされた主イエスの死体を抱い
ているマリアの絵や彫刻です。イタリア語で「哀れみ・慈悲」ですが英語ではpiety「敬虔」
です。
遺体を抱きしめるマリアの心には天使ガブリエルが来た時から十字架までのイエスの
出来事が走馬燈のように去来していました。もちろん12歳の時のことも。マリアには多く
の理解できないことがあったけれども神から預かった子を受け止め愛しました。神の
独り子もそのように愛を受けて育ちました。

今年の「命の言葉」を読む
2019年「命の言葉」  2017年「命の言葉」


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