日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

2018年「命の言葉」 2016年「命の言葉」



2017年12月31日  降誕節は12月25日(24日の日没)から公現日(1月6日)までの期間です。25~28日の
三日間の礼拝と1月1日(主の命名日)と6日の礼拝、もちろんその間に入る日曜日も
含めてクリスマスの期間中に6回の礼拝が行われます。クリスマス・オラトリオはそれ
ぞれの日の礼拝のための6つのカンタータをまとめたものです。
 公現日は主の洗礼を記念する東方教会の祭りでした。4世紀に西方教会に伝わり、
異邦人(東方の博士たち)への主の現れを祝う祭りとなりました。教団の聖書日課では
25日は主の降誕(羊飼い)、今日が「東方の学者たち」、7日は「エルサレム訪問」と
なっています。
 「占星術の学者」と訳されている言葉は原典では「マゴイ」、ラテン語で「マギ」、
ペルシャの宗教の賢者・高位聖職者を指すようです。コーランではゾロアスター教徒を
指します。東方の博士らは彼ら(異教)の知恵と知識によって、ユダヤに新しい王が
生まれたことを知り、拝みに来ました。イザヤ49:7には「王たちは見て立ち上がり、
君侯はひれ伏す」とあります。先週聖歌隊が歌った「われらは来たりぬ」の英語の
出だしが We three kings of orient are となっているのは東方から主イエスを拝みに
来た人たちをイザヤの預言の成就とみているのでしょう。
 こうしてユダヤ教徒だった人もゾロアスター教徒だった人もその信仰の行き着く先と
してイエスを救い主として崇めるようになる。聖書はそう言ってるのではないでしょうか。
「御名があがめられますように」。
 2017年11月26日  来週からアドヴェント。教会暦の一年はアドヴェントから始まるので、今週は1年の最後
の週となり「終末主日」とも呼ばれます。この世の終わり、また生涯の終わりを想う日でも
あります。ぜひエンディングノートをお書きください。
 キリスト教はキリスト以前にユダヤ教徒によって書かれた旧約と、クリスチャンが書いた
新約という二つの文書群を聖書としています。それは「(旧約)聖書はわたしを証しする
もの」とイエスさまがおっしゃったからです。だから私たちは旧約を読む時にもイエス・
キリストがそこに現れてくるように読みます。
 ダビデを王とするためにサムエルが彼に油を注ぎました。実際にダビデが即位し権力
を手中にするのははるかに後ですが、神に選ばれたので、サムエルが油を注いだの
です。この時点でのダビデは単なる羊飼いの少年でした。けれども油が注がれた時
以来「主の霊が激しくダビデに降るようにな」りました。辺境の地ナザレの大工の倅だった
イエスさまにヨハネが洗礼を授けた時、聖霊が鳩の姿で降ったことを想起します。イエス
さまは僕として来られ、また王として来られる方です。
 サムエルが来た時ベツレヘムの長老たちは不安を覚えたと言います。しかし彼の訪問
は平和をもたらすものでした。ベツレヘムから王が誕生することを予告するものでした。
やがて、ベツレヘムの羊飼いたちが新しい王の誕生を目撃することになります。
それは戦争によらず「平和」(それも神と人との和解、贖罪!)をもたらす今までの概念
にない王でした。
 2017年11月19日  降誕前第6主日の主題は「救いの約束」です。神さまはイスラエルがエジプトで奴隷と
なっている時にモーセに言われました。3~8節は族長たちが知らなかったYHWHという
主の名が初めてモーセに開示された(3:14)こと、族長たちへの約束が今も有効である
ことを確認し、イスラエルを奴隷の身分から救うことを約束しています。
 この神さまの言葉はイスラエルの民に希望と喜びを与えると思われたのですが、
モーセが神の言葉を告げても民は聞こうとしませんでした。「厳しい重労働のため意欲
を失って」と書いてあります。長時間にわたって働かせ残業代も支払わないような
ブラック企業と呼ばれる会社があります。私たちはそんな会社はさっさと辞めればいい
と思うのですが、当の本人たちは辞めることすら思いつかないのだそうです。自分の
ことを考える意志すら奪われています。イスラエルの人々もそんな状況にあったのでは
ないでしょうか。
 この状況を見てモーセは悲観的になります。イスラエル人の支持があればこそ、
ファラオと戦えるのです。当のイスラエル人がこんな状況ではファラオの説得は
不可能でしょう。
 けれども神さまはイスラエルをあきらめることはなさいません。私たちが罪のとりこに
なって苦しんでいる時に、そこから逃れる術を考えることができないほどになっていた
としても、あきらめません。必ず救いの手を差し伸べてくださいます。
 2017年11月12日  10月31日は宗教改革500周年の日でした。「信仰義認」をルターは使徒パウロから
学びましたが、パウロは創世記15:6から学びました。神さまはアブラム(後にアブラハム
と改名)に子孫を増やす約束をします。聖書は簡単に「アブラムは主を信じた」と記し、
「主はそれを彼の義と認められた」と言います。
 キリスト教を信じるというのは、一大決心でそんなに簡単にできることではないと思って
いらっしゃいますか? 軽々しく洗礼を受けたりしたら、バチが当たるのではないか?
と思っている方もおありでしょう。「よく分かってから」と言ってたら一生クリスチャンに
なれません。
 アブラムはサライに仕える女奴隷ハガルに子供イシュマエルを産ませ、それを後継ぎ
にしようとします。これでサライとハガルの関係を女主人と女奴隷の関係から、アブラム
を巡る女同士の争いに変わりました。特に神さまの約束通りサライのお腹からアブラム
の子供イサクが生まれると女同士の対立は決定的になります。信仰の不徹底が悲劇を
生みました。
 人間が「神さまを信じる」というとき、それは決して完璧なものではないのだと思います。
 ここに並べられている写真に皆さんの家族の顔があるでしょう。「教会での夫と家での
夫は別人だった」? それでも彼を義としてくださる神さまです。「アブラムは」のところに
家族の名前、御自分の名前を入れてください。
 イエス・キリストがあなたを救ってくれると信じるなら、信仰は多少ぐらつくことがあって
も、主はそれをあなたの義と認めてくださいます。
 2017年11月5日 500年前にルターが「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城の教会に貼り出して、宗教
改革が始まりました。残念だったのは当時のカトリック教会がルターの疑義に誠実に
耳を貸そうとせず、力によってねじ伏せようとしたことです。エキサイトする中で双方の
主張は過激になっていきました。「信仰義認」という言葉も冷静さを欠いた議論の場で
使われると聖書の教えから外れていきます。「信じるだけで義とされる」→「行いによる
のではない」→「救われるためには何の行いも不要」→「何もしなくても信じるだけでよい」
→「心だけが大事、行いは大事ではない」。このようになると信仰(心の問題)と行い
(体の問題)が分離されます。初代教会が戦った「グノーシス主義」という異端がまさに
そのようなものでした。彼らは霊肉二元論に立ち肉は滅ぶべきものとして、肉体によって
行われる営みを軽視しました。淫らなこと、放縦な生活を重大なことととらえなかったの
です。ただ神による救いの物語を知識として持っていれば良い(「グノーシス」とは「知識」
)のです。
 聖書はこのような考え方に反対します。特にヨハネ福音書は「光と闇」などグノーシス的
な用語を使って福音を伝えたためグノーシス主義が教会に侵入してきたといわれます。
教会内に侵入したグノーシス主義を反駁するために書かれたのがヨハネの手紙と考え
られています。有限な私たちの肉体を用いて愛と善を行わない者は結局、心においても
イエス・キリストの結びついていないことを明確にしています。キリストは「道」だと言われ
ました。道はそこを歩くものです。キリストが切り拓かれた愛の道を歩きましょう。
 2017年10月29日  創世記1章では光から始まって最後に人(男女)が作られます。2章では人のために
植物や動物が、そして最適なパートナーとしてもう一人の人(女)が作られます。資料的
には成立した時代も場所も違うものとされますが、聖書は両方の創造物語を神のみ業
として採り入れています。一方が正しく他方が間違っているのでなく、複数の見方を許容
しています。
 人の創造に関して1章では「神のかたち」が強調され、2章では人の素材は「土の塵」
に過ぎないことが強調されます。野の獣・空の鳥も同じ土から創られました。人は他の
動物よりまさっているわけではありません(ヨブ34:15)。人も獣も「形づくられ」ました。
この言葉にはデザイン性が示されています。意図した目的に適うような形に作られま
した。人と他の動物の違いは、人には神の命の息が吹き入れられたことです。これは
人には神と同じ息が与えられ、神との交わりに生きることが人の生です。
 よくある質問は、「なぜ神は食べてはいけない実のなる木を作ったのか?」というもの
です。神は人が強制されてではなく「自由」に神に従うことを求めました。なぜなら、神と
同じ息を与えられていたからです。
 最後に、さまざまな生き物が人のために作られましたが、最適なパートナーは人から
作られたもう一人の人(女)、すなわち神の命の息を共有する者でした。聖書は結婚の
意義を男女の創造の由来に遡って説明しています。アダムとエバはまさに神が結び
合わせたペア、一体のものとして引き合わされたのでした。
2017年10月22日  黙示録には天国の様子が記されています。ヨハネは幻のうちに神さまから示され、
その様子を記録しました。但し、描くことのできないものを描いたものだということは留意
して読むべきです。天国の市民はどんな人たちでしょう。
 「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった大群衆」ユダヤ民族だけ
ではありません。神さまがアブラハムに約束されたように地上のあらゆる民族が祝福
され、神さまを礼拝するときが来ているのです。
「なつめやしの枝を持ち」イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入ろうとした時、多くの
人々がナツメヤシの枝を手に歓迎しました。
「白い衣を身に着け」私が着ている白いキャソック・アルブはそれを象徴するものでは
ありますが、人間の手によって白くされたものに過ぎません。しかし黙示録で神の前に
立つ人々は「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」のです。
天国の市民の務めは「神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える」ことです。
神を賛美することです。神を礼拝することです。その賛美が(要約的に)記されています。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神に
ありますように、/アーメン。」
私たちもこの大群衆の中に加わって賛美しましょう。
 2017年10月15日  教会を知らない人々への伝道と共に、クリスチャンの親が子どもにどのように信仰を
伝えていくか、「信仰の継承」がよく話題に上ります。
 今日の個所ではアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰が語られています。特に
子どもと子孫のために祈る族長の姿が短い言葉で連ねられています。
 アブラハムは神との約束を受け継ぐべきイサクを「焼き尽くす献げ物にせよ」と言われ、
それに従いました。手紙の著者はアブラハムには復活信仰があったと認めています。
神さまの人智を越えた力を信じていたことは疑いのないことで、彼はどこまでも神に
従ったのでしょう。契約の民も元は一介の遊牧民でした。
 イサクの子たち、エサウとヤコブは対称的な性格を持った子どもたちでしたが、イサク
は二人のために祈ったと言われます。神さまはイサクの意に反してヤコブに契約を継が
せますが、イサクは二人のために祈りました。エサウとヤコブは対立しますが、やがて
和解しエサウはハランから帰ったヤコブを喜んで迎えます。
 エジプトの地で147歳の生涯を終えたヤコブは、ベッドに座って(創48:2)ヨセフの子ら
のために祈りました。
 ヨセフはエジプトで110歳の生涯の終えるにあたり、孫・ひ孫を抱いて、先祖の地への
帰還を語りました。彼らは自分に与えられた神の祝福が子孫にも与えられることを
確信し、祈り、その希望に生きることを子孫に語りました。
 2017年10月8日 「わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。
自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」
                             (Ⅱテサロニケ3:12)

上の言葉は新改訳では「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」。私にとって
は痛い言葉です。「火事と喧嘩は江戸の華」といって、何事かが起こると駆けつけないと
いけない気がして仕事が手に付かなくなる性分です。地震や台風があるとテレビの前
から離れられなくなります。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を
植える」という言葉があります(ルター?)。落ちついて、静かに、何があっても動じること
なく、神さまから自分に与えられている役割を果たしていくことが求められています。
パウロは宣教者として、教会の人々が彼を支えるのが当然だと考えていました。
イエスさまも使徒たちもそうしていました。教会は使徒・伝道者を支えなければなりま
せん。けれどもパウロは教会の人々の模範になるために、あえて昼も夜も働きました。
そうしてエルサレム教会の窮状を助け・支えたのです。彼の仕事は天幕作りです。
布ではなく革です。「荊冠の神学」で有名な栗林輝夫先生はここに被差別者と同じ位置
に立って福音を宣べ伝えたパウロを見出します。そうなら「怠惰な生活(新改訳:締まり
のない歩み方)」をしているのは、富裕層ということになるのかもしれません。コリントの
教会では豊かな人たちが日曜日、先に集まって食事(聖餐)をし、ワインで酔っ払い、
貧しい人たちが仕事を終えて来た頃にはパンもワインも無くなっているということが
あったようです。落ちついて働くこと、それは互いに愛しあう兄弟姉妹の交わりの前提
ともなります。
2017年10月1日  今日は「世界宣教の日」であると共に「世界聖餐日」です。「世界聖餐日」は1946年、
WCC(世界キリスト教協議会)の前身、世界基督教連合会の呼びかけで始められま
した。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある
交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。教会では「兄弟・姉妹」という
言い方をします。世界中のキリスト者は皆、神の子だからです。世界聖餐日はそのこと
を覚える日です。
 「神に愛されている子供」だから「神に倣う者となりなさい」。パウロはしばしばこのよう
な言い方をします。前者は関係の定義、後者は実践です。子供は親を見て育ちます。
遺伝的な能力もあるでしょうが、それ以上に環境的な要因が強いものです。伝統工芸
の世界では職人は親方をまねることから始め、その業を受け継いでいきます。神さまと
クリスチャンの関係もそれに似たところがあります。神さまの御心を人として体現したの
がイエス・キリストです。私たちはそのイエスさまを心の中で信じるだけでなく、人生の師
としてまねます。ステファノの殉教の祈りはその典型です。「キリストの愛」を受けて私た
ちも「愛によって歩」むよう勧められています。
 みだらな言葉・汚れた言葉・貪欲な言葉…それらはそのような思いから出てきます。
パウロはそれを偶像崇拝だと言います。それらは十字架につけてしまったはずのもの、
ゾンビ゙です。キリスト者にふさわしいのは感謝であり、賛美です。それは神が愛しておら
れる目の前にいる人への愛から生まれてきます。
2017年9月24日  ヤコブ2:8~13は短い中に大事なことが書いてあります。律法には多くの定めがありま
すが、小さな(?)ことを破っただけでも律法違反です。「姦淫」や「人殺し」は誰にもわか
る罪です。しかし「人を分け隔てしない」というのは簡単ではありません。男女、大人と
子供、民族…人にはさまざまな差異があり、違いを違いとして受け入れつつ「分け隔て」
をしないのです。「善きサマリア人」にあるように普段は礼拝の仕方などが違い仲がよく
ない間柄でも、命の危機を見たときには普段の違いを超える愛に立つことが求められ
ます。なお、ヤコブは律法ということばを使っていますが、「隣人を自分のように愛しな
さい」こそが律法の神髄だといい「憐れみは裁きに打ち勝つ」としていることを忘れては
なりません。愛の行いが大事という点でパウロと一致しています。
2017年9月17日  今年度の年間聖句です。詩編の冒頭のこの歌は詩編全体のスピリットを現しています。
どのような心でこの世を生きるか、ということです。この詩には「神に逆らう者」「罪ある
者」「傲慢な者」という言葉が出てきます。どのようにそれを判断するのでしょうか。
それは律法によってです。ヘブライ語聖書は「律法」(創~申)、「預言者」(ヨシュア~
列王)、「諸書」(詩編等)で構成されていますが、その律法の部分にイスラエルが従う
べき道が示されています。この律法には祝福と呪いが付いています。だから人々は
呪いではなく祝福を受けるために律法を守ります。罪を犯してしまったら悔い改め、
神に立ち帰るよう勧められています。
 「主の教え」は原語で「ヤハウェの律法」です。「口ずさむ」は「小さな声で読む」こと。
昼も夜も何度も何度も心の中にストンと落ちつくまで読むことでしょう。そのような人生の
歩みが祝福へとつながります。その祝福は私たちが実を結ぶという仕方で現れます。
黙示録22章には天国で年12回実を結ぶ木のことが書いてあります。この世にあっては
年12回は無理だとしても、ときが巡り来れば実を結びます。「繁栄をもたらす」の原語は
受動形「栄えさせられる」です。旧約の人々でさえ、このような恵みが与えられているの
ですから、イエス・キリストの救いの御業を受けた私たちはなおさらです。希望と感謝を
もって主と共に生きましょう。
 2017年9月10日  聖霊降臨節第15主日の主題は「究極の希望」です。コリント第一の手紙15章を通して
使徒信条にある「我は『体のよみがえり』を信ず」という希望を確認しましょう。
 「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」気になるところです。女性
なら若くていちばん美しい時の姿で復活したいと思うかもしれません。でも若くて美しい
肉体は同時に老いて衰える運命を持った肉体です。 朽ちるものだったのが、復活時
には朽ちないものに変えられます。自然の命の体→霊の体、地に属する者→天に属す
る者、アダムの似姿→神の似姿。「最後のアダム(イエス・キリスト)は命を与える霊と
なった」。だからこの変身はキリストに結び合わされることによってなされます。
 いつ、変身が起こりますか?使徒は「最後のラッパが鳴るとともに」といいます。ラッパ
は時を告げる合図、文字通りの楽器の音色が世界に響くと考える必要はありません。
神の時の到来を告げるものです。すると、「一瞬のうちに」変身します。ここで一瞬と言っ
ているのは、私たち自身の内部にある因子によって変身するのではないということを
言ってるのだろうと思います。さなぎが蝶になるのはさなぎのうちに変身する因子があり、
成長という過程の中で変身していきます。私たちの変身は私たち自身にある因子に
よる変身ではなく、外部つまり神さまの力による変身であり、それは恵みによるものに
ほかなりません。恵みに感謝をしましょう。
2017年9月3日  去年、京都府に日本初のコプト正教会の聖母マリア聖マルコ教会ができ、先週、教皇
タワドロス二世が来日し聖別式を行いました。コプトの教皇は福音書記者マルコの後継
者とされています。教皇は次のように述べています。「イエス様と共にいるなら、私たち
は決して『少数派』ではありません…これからもっとイエス様のことを人々が知って、
キリスト教が拡大していくことを期待しています。『拡大』というのは、決して私たちの力
によってではありません。聖霊様の力を受けて拡大していくものだと信じています。」
                               (8/31付クリスチャン・トゥデイより)

 「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に
あずかれる」(21節) 私たちは自分が救われること、自分の周囲の人が救われることを
願って祈っていますが、パウロは人間だけではなく被造物全体に視野を広げています。
近年特に災害の発生件数が多いと感じるのは気のせいでしょうか。少なくとも、気候が
変わってきて、私たちの自然への関わり方が気候の変化に追いついていないということ
は言えるでしょう。そうしている間に被造物が傷んでいきます。
 次に「神の子とされること、つまり、体の贖われること」に注目。神の子とされるという
ことを私たちはともすると「霊的なできごと」とだけ捕らえているのではないでしょう。
もちろん霊的なできごとですが、それで終わりでなく体の贖いによって完成します。
それまでうめき・嘆きが伴いますが、この希望は確かに実現します。信じて待ちましょう。
2017年8月27日  愛という言葉はさまざまな使われ方をします。恋の同類、しかも恋よりも少し下に見ら
れる場合もあるようです。仏教では「執着」を意味し、捨てるべきものとされるようです。
 しかし聖書は神は愛であり、私たちも互いに愛しあうようにと教えられています。今日
のコロサイ書は3:14を受けて、それぞれの具体的な対人関係における愛について述べ
ます。
妻←→夫、「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」というのは信者ではない夫を
もっている場合も想定されていると考えられます(Ⅰコリント7:14)。夫に対してはあっさり
した指示になっていますが、その内容を考えるなら妻への指示と同じでしょう。
子←→父、箴言には子に対する教えがたくさんあります。「わが子よ、あなたの心を
わたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)は父子双方の関係が
問われます。
奴隷←→主人、従業員←→経営者あるいは部下←→上司と置き換えてもよいでしょう。
「肉による主人」と言っているのは、私たちには例における主人(ふだんは「主」と呼んで
います)がいるからです。つまり霊においては三位一体の神さまだけを主人として仕えて
いて、その上で肉による主人に仕えているにですが、肉による主人に仕えるということ
(仕事)を通して実は神に仕えているのだということなのです。「肉による主人」はクリス
チャンではない場合が多いでしょうが、それでもその仕事を通して私たちは神に仕える
ことになります。
2017年8月20日 エフェソはパウロが長く留まって伝道した地であり、それだけに教会の人々とパウロの
間には他の教会とは違う深い交わりがあったように思います。エフェソの長老たちへの
メッセージに耳を傾けましょう。
パウロの自己認識:自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら主に仕えて
きた。福音を力強く証しするという任務を果たすことができれば、命すら惜しくない。
パウロの働き:役に立つことは一つ残らず教えた。神に対する悔い改めと、主イエスに
対する信仰を証しした。神の御計画をすべて伝えた。巡回して御国を宣べ伝えた。
長老の役割:神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせる
ために、群れの監督者に任命した。→自分自身と群れ全体とに気を配ること。異端が
来て教会を荒らす。教会員の中から邪説を唱えて教会を自分の物にしようとする者が
現れる。
勧め:パウロが涙ながら教えてきたことを思い起こし、目を覚ましていなさい。神と神の
恵みの言葉とに長老たちをゆだねる。福音の言葉は、長老たちを造り上げ、聖なる者
とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる。
パウロは主イエスご自身の『受けるよりは与える方が幸いである』という言葉を範として、
自らの手で自分自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いた。同じように
あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように。
2017年8月13日 「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」
                                                 15:1
 パウロはコリントの人たちにおしえた福音をたしかめます。それはパウロが考えたこと
ではなく、イエスさまといっしょにいた人たちからきいたことです。キリストは①聖書に書
いてあるとおり ②わたしたちの罪のために死んだこと、③おはかにほうむられたこと、
④三日目にふっかつしたこと、⑤ケファ(ペトロ)にあらわれ、12人にもあらわれたこと。
⑥いっぺんに500人以上の人たちにあらわれたこと、⑦ヤコブに、すべての使徒にあ
らわれ、⑧さいごにクリスチャンをいじめていたパウロにもあらわれたこと。

 ここに書いてあるのは、イエスさまがあなたの罪(わるいことをしたこと・わるいことを
思う心)のために身代わりになって死んだことと、復活したことです。死んだ人が生きか
えるなんてしんじられない?でも、おおぜいの人が生きかえったイエスさまを見た、と
パウロは名前をあげて言っています。
 おでしさんたちにあらわれたイエスさまは、今わたしたちの心にも聖霊という目に見え
ないすがたであらわれて、教会にいるときも、家にいるときも、学校にいるときも、わたし
たちといっしょにいて、わたしたちを悪いものからまもってくださいます。
 イエスさまのすくいを証言してくれる本が聖書です。聖書をまいにちよみましょう。そして
おぼえましょう。聖書に書いてあるイエスさまのできごとは、わたしたちをすくってくれます。
 2017年8月6日  1945年8月6日8:15、広島に原爆が落とされました。9日11:02には長崎にも原爆が落と
されました。広島の原爆で被爆した牧師・信徒たちが、1961年8月6日、広島原爆投下
の日を覚えて「平和聖日」を守るようにと、教団に要請し、これを受けて教団は翌1962
年、8月第1主日を「平和聖日」をすることと決めました。
 平和の実現のため、さまざまな努力がなされています。特に今年7月7日には国連で
122の国と地域の賛成によって核兵器禁止条約が採択されました。しかし残念なことに
米露など核保有国は不参加、唯一の被爆国である日本も不参加です。しかしこの条約
の制定には日本の多くの人々が関わり、hibakushaという記述があるのはご存じでしょう。
 これらの努力に大いに感謝すべきですが、私たちは平和の基礎について聖書に耳を
傾けなければなりません。国と国・民族と民族・その他の紛争はつまりは人と人との
争いですが、人が神の愛から離れてしまった(これを罪という)ために、人と人との間に
敵意と憎しみが入りこんだのです。従って平和を作るための根本的な作業は神との
関係を修復することです。これを神の側でキリストによって行ってくださったというのが
福音の内容です。神を裏切ったことを責めるのではなく、神自らが独り子イエス・キリスト
を私たちの身代わりとして十字架で死という責めを負われました。私たちの信仰、また
平和は神の愛への応答です。
 2017年7月30日  陶磁器を作る人は、粘土とその用途をどのように決めるのでしょう?手に取った粘土
をじっと見つめ「何になりたい?」ときくのでしょうか。おそらく粘土が運ばれた先によっ
て、粘土の運命は決まるのでしょう。あるものはお皿に、あるものはトイレに、あるもの
は名のある陶芸家の手によって芸術作品となるでしょう。粘土自身に選ぶ権利はあり
ません。
 創造者が、どのように人を作るかは創造者の意志のみにより決まります。けれども人
は皆一人一人違うものとして作られています。それ故に私たちは創造者に文句を言い
ます。なぜもっと美人に、イケメンに作ってくれなかったのかと。けれども、神さまはすべ
てを善いものとして作られました。
 善いものとして作られているにもかかわらず、人は罪を犯して自ら悪いものとなってし
まいます。こうして自ら「怒りの器」となってしまいました。それにもかかわらず、イエス・
キリストにおいて神は怒りを自らに引き受け罪人を「憐れみの器」に変えてくださいまし
た。
 神はアブラハムを御自分の民として選んでおられました。アブラハムとその子孫を通し
て祝福を与えるためです。しかも全世界の民にです。そのことがイエス・キリストが十字
架にかかって全世界のすべての民の罪を贖うことによってされました。かつては神に
背を向けていた者、神の民に入れられなかった者も、今や何の差別もなく神の民に数え
られています。
イエス・キリストの愛に感謝。
2017年7月23日  宗教はしばしば金儲けの手段になります。神をあがめる人々の敬虔な心、世を去った
肉親のあの世での平安を願う心、そのような人々の心に訴えて神々の像を高い値段で
売ったり、祈祷料を取ったりします。
 19章にはエフェソで宗教をネタに生きている三つのタイプの人々が描かれています。
①[模倣] 各地を巡る祭司長スケワの息子らは祈祷師。パウロがイエスの名で目覚ま
 しい奇跡を行うのを見て真似をしました。けれども悪霊に取りつかれている男に飛び
 かかられ、ひどい目に遭わされて逃げ出したのです。信じてもいないイエスの名を
 使ってもダメです。
②[敵対] 今日の朗読箇所からは外れますが、アルテミス神殿の模型の製造販売元、
 銀細工師デメトリオ。パウロが「手で造ったものなど神ではない」というので営業妨害
 と感じ、人々を煽動し騒ぎを起こしました。市の書記官によって解散させられました。
 パウロの説教はアルテミスへの冒瀆とはみなされませんでした。
③[回心] 魔術を行っていた者たち。スケワの息子たちの有り様を見て、神を恐れ主を
 信じ、悪行を告白し魔術書を焼き捨てました。人数は書いてありませんが、彼らが
 焼いた魔術書の価格は銀貨5万枚にもなりました。
日本でもかつての回心者は仏像や神棚を焼いたそうです。焼き捨ててしまうのは、
もうそこへは戻らないという決心の表現でしょう。退路を断ってキリストと共に前へ踏み
出しましょう。
 2017年7月16日   いつでも、どこでも神さまに祈ることは、私たちの務めであると共に特権でもあります。
しかし「特権」は誤解しやすいものでもあります。祈りについての私たちの特権は、
すべての人のために、またこの世を支配する人々のために祈ることです。だから特権
というよりは特務と言った方がいいかもしれません。神がアブラハムを選んだのは、
「祝福の源となる」ためでした。教会はアブラハムへの約束を受け継ぎます。
 さて、2章の始めの部分は祈りについての教えですが、手紙の相手が牧者である
テモテであることから、プライベートな祈りよりも教会における公祷についての教えと
考えた方が良いでしょう。具体的には牧会祈祷です。そこにはすべての人のための
「願い、祈り、感謝、執り成し」が含まれます。とりわけ支配者のために祈ることが求め
られています。日本のような異教の国ではクリスチャン政治家はごくわずかであり、
クリスチャン政治家でもその信仰を前面に出しにくい場合が多いでしょう。クリスチャン
であろうとなかろうと政治家が正しい判断をするように祈ることは重要です。教会に
属する私たちだけでなく、すべての人たちが平和に生活できるように、そのために
政治家が適切な行動を取れるように祈りたい。
 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。
今イエス・キリストを信じていない人も私たちに無関係ではありません。教会は常に
彼らを意識し、どのように福音をその心に届けるかを祈りつつ考え、行動します。
怒らず、争わず、きよい手を上げてどこででも祈りましょう。
 2017年7月9日 「共同体」は、地域社会で生活を営む人々の地域共同体に対して教会も共同体を営ん
でいます。地域共同体との違いは、教会はキリストの救いを信じる信仰者の群それが
教会共同体です。今朝のみ言葉の32節以下には、福音を信じる初代の共同体が営ん
でいた信仰生活を伝えています。彼らはすべての物を共有して共同生活を営みペンテ
コステの聖霊の力を得た使徒たちが、主のの復活の証を始めています。ここでは
「教会」ではなく「群れ」と言っていますが、やがて一致と秩序が芽生えて整えられ「教会」
として誕生します。彼らは「主イエスは、わたしの主」と告白して新しい命を約束された者
たちです。心を一つにしてパンを裂き、一緒に食事をして神を賛美する彼らの姿は当時
の人々の好意を得ています。
彼らは「一人として持ち物を自分のものだと言う者は」なく「一人も貧しい者はいなかった」
と言われ、彼らが愛に生きようとしていた姿が見えてきます。しかし自分の身の安全を願
う欲求が捨てられたように見える中、5節でアナニヤとサッピラが献げ物の金額を偽り、
バルナバは畑を売った代金のすべてを献げて無一物のように生き始めます。今日のわ
たしたちの共同体に求められているのは、心と思いを一つにして主なる神に応答して
従っていく姿ではないでしょうか。
 2017年7月2日  野口雨情の童謡「赤い靴」は、貧しい開拓農民の子、佐野君子が美以教会の宣教師
ヒューエットに引き取られ、宣教師の帰国と共に米国に渡ったという歌である。しかし
実際は彼女は結核を患っていたため乗船できず、明治44年10月永坂孤女院で9歳の
生涯を終えた。
 永坂孤女院は東洋英和女学校の生徒たちのキリスト教団体「王女会」King's Doughter'sSocietyによって始められた。彼女らは学校や教会の力を借りず、毎日15分
を献げて編物や裁縫で作った物を売って資金を作り、社会福祉施設に献金した。また
日曜学校の教師として活躍したが、信仰教育だけでなく、明治26年頃には貧困児童の
ための教育機関「恵風学校」King's Dooughter's Schoolへと発展したが、義務教育の
整備と共にこの学校は衰退し、明治30年代末に廃校となった。
 英和女学校卒業生吉田勇子が麻布地域で奉仕活動を始めたのがきっかけとなり、
惠風学校で奉仕をしていた東洋英和の生徒たちは孤児を養育することを計画し、
やがて孤女院ができた。明治27年には13人の少女が収容され、恵風学校に通学した。
明治37年孤女院新築、明治41年麻布永坂町に2階建の建物を新築、移転した。佐野
君子が天に召されたのはここである。君子の母はアメリカに渡ったと思ってそのように
野口雨情に話した。しかし、結核という当時恐れられていた病にかかった君子は、愛に
満ちた少女たちに看取られて、天へと召されたいった。
                     塩入隆「日本メソヂスト教会社会事業史の試み」より
 2017年6月25日  救いは神から与えられるもので自分で救いに到達することはできないとされます。
今日の個所では、クリスチャンが能動的に自分の救いを達成するべきことが勧められ
ています。新共同訳では「自分の救いを達成するように努めなさい」ですが、新改訳では
「救いを達成してください」、多くの英訳では「自分自身の救いを達成しなさい」です。
 私たちの救いはイエス・キリストを信じ、洗礼を授けてもらうことで完了ではありません。
それは救いのプロセスの始まりです。救いの完了は終末の時を待たねばなりません。
それまで救いの道を歩んでいきます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神であるからです」。つまり神は私たちの意志に働きかけ、
行動力に働きかけて、神の業を行わせます。この神の働きかけに「従順で」「何事も、
不平や理屈を言わずに行」うことが求められます。このようなプロセスを歩むことで
「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどこ
ろのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保」ちます。
 洗礼を受けたら再臨の日までひたすら眠っているのがいいでしょうか?いいえ、神さま
は世にあって星のように輝くための賜物を一人一人に与えておられます。自分自身の
賜物を知りましょう。用いましょう。喜びをもってキリストにお仕えしましょう。
 2017年6月18日  アテネでのパウロの伝道は成功とは見られないことが多いようです。復活を説くと多く
の者があざ笑い、信仰に入ったのは数名だったからです。けれども、ここでパウロが
提示した視点は大事なことです。
 彼はユダヤ人と議論するときには旧約聖書から説き起こしますが、アテネの民衆と
語るときには(数々の偶像に憤ったことは置いといて)ギリシャの文化の中で神の働きを
語ろうとしました。神は人が作った神殿に納まるような方ではないし、むしろ、世界と
人は神が作った作品です。そして世界には、人が神を求めれば神を見出すことができ
るように、さまざまな神の業があります。パウロが引用した詩は、B.C.600年ごろのクレタ
の詩人エピメニデスの詩「クレティカ」と、B.C.300年ごろのシチリ島の詩人、アトラスの
「パエノメナ」でした。
各地の文化と福音をどう切り結ぶかに伝道の鍵の一つがあります。
  2017年6月11日 教会暦は、一年をイエス・キリストの福音を想起しながら歩むことができるように、
主イエスのご生涯から主題を取り、各週に割り当てていますが、今週は主の生涯
ではなく、三位一体という教理から採られています。
今週は先週に続いて、聖霊の働きです。
1.神の永遠の選びによって救われた。私たちは通常、自分の意志でナザレの人イエス
を独り子なる神、救い主と信じて、その信仰を告白し洗礼を受けます。教派によっては、
個人的信仰の決断・告白をとても重視します。けれどもパウロはそのような決断・告白も
また、神の永遠の計画によってそのように選ばれているのだと論じます。確かに信仰と
いって、あまり自慢できるようなものでないことは「信仰の父」と呼ばれたアブラハムや、
「理想の王」ダビデの姿を見てもわかります。
2.時が満ちれば、救いの業は完成され、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめ
られる。私たちの救いはむしろ神の側の行為、キリストの十字架の死と復活によってな
され、完成され、地上の分裂・混乱がキリストにおいて一つにされていきます。
3.私たちは御国で神の栄光をたたえることになるが、その保証として聖霊で証印を押
された。「一つにまとめられる」とは一つになって神の栄光をたたえることです。「あらゆ
るものが」ですから、被造物全体が私たちを通して神をたたえます。被造物への神の愛
が私たちを通して現れ、被造物の神への賛美が私たちを通して献げられる。この相互
作用は聖霊が媒介します。私たちが聖霊の働きの器となるとき、聖霊の証印を押され
ていることが明らかにされます。ハレルヤ!
 2017年6月4日  聖霊は言うまでもなく三位一体の神さまの第三位格です。聖霊の働きは聖書のさま
ざまなところに記されていますが、今日はペンテコステに使徒たちに降った聖霊の働き
に限定してお話しします。
 この日聖霊は弟子たちに「炎のような舌」となって降りました。舌は言葉を語るための
器官です。異言のことも tongues と言います。逆に辞書で異言を引くと glossolalia と出
ますが、glosso- というのは舌に関わることです。
 旧約ではヨエルがこう言っています。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたた
ちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」(3:1)。主イエスが使徒1:8で
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばか
りでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
と預言されたことの成就です。聖霊はキリストを証しする言葉を与える霊です。「イエス・
キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たもの」
(Ⅰヨハネ4:2)です。
「何を言おうかと、前もって心配するな…語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊で
ある」(マルコ13:11)。
 聖霊は今も生きて働いておられる方です。教会は私たちの信仰告白によって教会と
して立ちます。私たちに信仰告白(も賛美歌も公祷も)の言葉を与えるのもまた聖霊
です。
 聖霊に満たされたペトロが人々にイエス・キリストを語ると3000人ほどが洗礼を受け
信仰に入りました。教会の始まりです。ハレルヤ。
 2017年5月28日 イエス・キリストは「独り子なる神」天におられた方です。その神が人となって地上に降ら
れ、へりくだり、犯罪人として極刑に処せられるという人間として下の下にまで降られま
した。父なる神はこのイエス・キリストを極悪人としての死の中から、墓の中から復活さ
せ、更に天に引き上げました。
 人々に賜物を分け与え、さまざまな奉仕の業に就かせるのは、天に昇ったイエス
・キリストです。賜物を受けた人々は、互いに協力し合って、天におられるキリストの地上
における体=教会を造り上げます。教会は組織です。「組織」というとすぐ嫌悪感を示す
人がいますが、一人の人間の体も無数の組織によって成り立っています。組織なしに
は人体も生きられないのです。同様に人間社会も自然界も、さまざまな人や生物がそれ
ぞれの役割を果たすことで成り立っています。教会もまた同じです。
 何よりも一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、それが教会とそこに連なる人々の一体
性を保証します。先週「告白する」のギリシャ語「ホモロゲオー」は「同じことを言う」が
原義だと言ったようにキリストに対する「信仰と知識に於いて一つの者とな」ることが大切
です。その上でそれぞれに与えられた異なる賜物によって異なる役割を果たし、全体は
天におられるキリストによって支配されるのです。
 全世界で、時間も超えて、多くの人々の群が神をたたえ、天におられるキリストのもと
に一つとなります。
 2017年5月21日 二つのポイントに絞ってお話しします。一つ目は成文祈祷について、二つ目は祈りの
前提についてです。
 成文祈祷や信仰告白を唱和することに拒否感を持つ人はプロテスタントには少なく
ありません。主イエスは弟子たちに祈り方を質問されて、その場で思いついた祈りを
口にしたのでしょうか?ユダヤ教の礼拝における頌栄と主の祈りの関係が指摘されて
います。イエスはユダヤ教の長い伝統の中で確立してきた祈りの言葉をベースにしな
がら、新たな内容をも入れたのです。ここに祈りの言葉を紡ぎ出す原則があります。
公同の祈りの言葉は世々の教会の祈りの言葉を受け継ぎつつ、その時代のその地域
の人々(教会)のための祈りとして整えられます。
 初代の教会では、求道者は主の祈りを唱えることを許されませんでした。主の祈りの
内容をよく吟味するならば、確かに信仰者でなければ祈りえないものです。このような
祈りを心をひとつにして祈ることが教会の交わりです。(信仰告白の「告白」とは「一つの
ことを言う」という意味です)
 二つ目のポイント。12節を見てください。「わたしたちの負い目を赦してください、わたし
たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」14~15節でも強調されています。
まず、自分が他者を赦した上で、自分の赦しを願うべきだというのです。このことは
18:23~35にたとえ話ではっきりと言われていますが、神に祈り願うことの重さを覚えます。
2017年5月14日  神さまはわたしたちを、神さまそっくりに作ってくださいました。でもそれは体のことでは
ありません。聖書には「神は愛である」とかいてあります。神さまはわたしたちを愛して
くださいます。おなじようにわたしたちも神さまを愛し、人間どうしたがいに愛しあうように
作ってくださいました。
 神さまは自由な方です。その自由をわたしたちにもくださいました。神さまがいろいろ
な動物を作って、アダムのところにつれてくると、アダムが動物になまえをつけました。
アダムがつけたなまえがその動物のなまえになりました。でも、アダムとエバは神さま
からいただいた自由で、神さまをうらぎってしまいました。神さまは、神さまをうらぎる
ことができるほどの大きな自由をわたしたちにくださいました。
 その自由をわたしたちはどのようにつかったらいいでしょうか?神さまといっしょに
あるき、神さまといっしょに安らぎましょう。
  2017年5月7日  ラザロの復活のところです。ラザロは死後4日も経っていたのに、主イエスが墓に
向かって呼びかけると、起き上がり出てきました。しかしこれは神がイエスをお遣わし
になったことを群衆に信じさせるための『しるし』であり、『ヨナのしるし』の再現、また、
主イエスの復活の前触れに過ぎません。ラザロはやがて年老いて再び死んだことで
しょう。
 この記事の重要な部分は「わたしは復活であり命である」というイエスの言葉です。
上に挙げたイエスの言葉は、それに続く言葉で、「生きていてわたしを信じる者は死な
ない」と宣言し、「信じるか?」とイエスは私たちに問いをかけています。死んでも生きる
命・決して死なない命とは何でしょうか?あなたは「はい、信じます!」と答えられますか。
 私たちの肉体はノアの箱舟以後寿命を120年と定められました。「死んでも生きる命」
でしすから(肉体の)死を否定してはいません。私たちの肉の体が滅んだとしても、なお
滅びることのないものをいただいているというのです。マルタは「終わりの日に復活する」
ことを信じています。その時に新しい体を与えられる命が継続しています。この状態を私
たちは通常「神の御許にある」と呼びます。実はそれは「死んだら神の御許に行く」ので
はなく、イエスを信じる者は既に神の御許にあって生きており、死んでも神の御許にあっ
て生き続けている」のです。この恵みを共に感謝しましょう。
  2017年4月30日  「神さまがいるなら証拠を見せろ。そうしたら信じる」。何度もそう言われました。証拠
というのは奇跡などの超自然的な出来事を指すのでしょう。けれども、それは神仏を
信じない無神論者だけではありません。神に忠実であると自認しているファリサイ派
ですら、イエスさまが神さまから権威を与えられている方だということに関しては、
「しるしを見せてください」と言ったのです。主は「ヨナのしるし」と答えました。
 ヨナ書は3ページ半の短いお話しです。けれどもそこにはコチコチのファリサイ派の
人々の頭をたたき割るようなことが書いてあります。敵国であったニネベの異教徒たち
が王から家畜に至るまで、ヨナの宣教によって皆悔い改めてしまったので、神さまは
ニネベを滅ぼすのをやめたというのです。神さまを知ろうともせず、神に背を向けてきた
ニネベの人たちですが、そんな人々を神さまは愛し慈しんでいた。そんなニネベの人々
が裁きの時に「よこしまで神に背いた時代の者たち」=「しるしを欲しがる者たち」を裁く
というのです。ある聖書は「悪い、姦淫の時代は」と訳しています。預言者たちはしばしば
偶像崇拝を姦淫と呼びました。ファリサイ派が偶像崇拝をするということはほぼあり得
ないことですが、神から遣わされたキリストを信じないことは霊的姦淫と同じ事だと言う
ことでしょう。「今の時代の者」は逆説的ですが、ヨナの故事に習い、イエスさまを信じた
者たちでしょう。つまり私たちがイスラエルを裁く基準になります。ここに私たちの栄誉
があると共に謙虚さが求められてもいるのです。
 2017年4月23日  トランプ大統領の就任式に集まった人の数を巡って、ホワイトハウスの報道官の発表
が明らかに事実と違うことをメディア指摘された際に、大統領顧問が「オルタナティヴ・
ファクト(別の事実)だ」と言いました。
 大祭司らは「神殿を三日で建て直す」という主の言葉を恐れて番兵を見張りに付けま
したが、番兵は恐ろしさのあまり身動きできません。イエスが復活したという事実が広め
られるのを防ぐために大祭司らは別の事実をでっち上げて拡散しました。寝ていたら
弟子たちが来て盗んだことに気づかなかったはずです。白を黒、黒を白と言い換えて
事実をねじ曲げます。けれどもウソの噂をよそに復活の主は一人一人の心に現れて
くださいます。ハレルヤ。
 2017年4月16日  キリストは十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:8)。それは神に見捨てられる
という恐ろしい運命を引き受ける従順でした。その死は本来は私たちが神から捨てら
れて死ぬものでした。この従順の故に「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名
をお与えになりました」(フィリピ2:9)。
 キリストの復活は私たちの復活です。「キリストは死者の中から復活し…すべての人
が生かされることになる」(Ⅰコリント15:20, 22)
 死は人を虚しくするものでしたが、もはや私たちは死によって虚しくなりません。復活
の命は私たちを神と共に永遠に生かすからです。
 2017年4月2日 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26, 27)

 上の言葉には「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の
身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」という但し書きが付いてい
ます。すべてのものの創造者である神の独り子である神が被造物となった。これは大い
なる「へりくだり」です。しかも多くの人の身代わりとなって死ぬために来られました。
 聖餐式におけるパンとぶどう酒はイエス・キリストのへりくだった姿に与り、私たちも
またへりくだるためのものです。主は「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができる
か」と問いかけておられます。弟子たちは十分に理解していなかったけれど「できます」
と答え、主はそれを受け入れてくださいました。あなたの答は?
2017年3月26日 「アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放って
いた。」(出エジプト記34:30)
旧約聖書には神との親しい交わりを持った人物が数多く出てきますが、その中でも神の
栄光の輝きを自分の姿に映し出すことができた人物と言えば、モーセをおいて他には
ありません。アロンはじめイスラエルの人々はその輝きを恐れて正視することができず、
モーセは顔に覆いを掛けて面接しなければならなかったといいます。
 この記事は律法を再授与されたときの記事ですが、モーセは40日40夜断食して2枚の
石版に十戒を刻み込みました。40日40夜の断食は主イエスの宣教のスタートでした。
つまり、律法の確認をもって「神の国の福音」の宣教が始められたのです。そして今日
の福音書ではイエスの姿はモーセを超えるほどに輝いたのです。エリヤ(洗礼者ヨハネ)
が来て道を整え、律法の授与者モーセが今度は律法(救いの道)の完成者(イエス)と
して現れイエスが神の子、み心に適う者であることが示されました。
 この出来事は3人の弟子たちだけの秘密とされました。しかしそれは復活までのこと
です。主イエスが復活されたとき、その栄光はすべての弟子たちとイエスに望みを抱く
者に明らかにされました。罪人としての惨めな死を通り栄光に輝く主イエス・キリストを
仰ぎましょう。
  2017年3月19日  上の言葉はペトロに向けて語られました。故にカトリック教会はペトロの司教座(ロー
マ教皇座)に天国の鍵があるとしています。けれどもこれはペトロという個人ではなく
ペトロが語った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を指すものと理解
するのが良いでしょう。しかもこの信仰告白をする個々人ではなく、信仰を告白する者
たちによって教会が立てられ(教団信仰告白の「教会は…恵みにより召されたる者の
集ひなり」)、その教会に天国の鍵を預かけられています。従って教会の使命はイエス・
キリストが既に成し遂げてくださった救いの業を人々に教え、あかしし、天国に招き入
れることです。
 信仰告白の内容は、イエスさまに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」とい
うだけです。「メシア」=「キリスト」、元の意味は「油を注がれた者」ですが「救い主」の
ことです。「神の子であるイエスさま、あなたは永遠で今も生きておられます。あなたは
わたしをあらゆる罪と罪から派生する災いから救い出してくださいます」ということです。
 この告白をペトロがしました。けれども主はこれはペトロの知恵ではなく、天の父が
ペトロに教えたのだといわれます。その証拠に…
 主が十字架で死ぬことを言うとペトロは主を諫めます。弟子たちの士気が下がるから。
ペトロの理解力はその程度です。神の深いご計画はわからない。私たちも同じです。
(聖霊によって)神の知恵を示されるとわかるのです。
 2017年3月12日  昨日は3.11、東日本大震災から6年の日でした。燃える海、屋根の上に乗り上げた船、
飴のように曲がった線路。多くの人が家族・友人と住む家と職場を失い、今なお避難
生活を余儀なくされていることに痛みを覚えます。
 さて、今日の個所では悪霊に取りつかれて目も見えず口もきけなかった人がいやされ
ます。群衆はイエスさまを「ダビデの子(=救い主)ではないか」と噂します。ところが
悪意あるファリサイ派が「あれは悪霊の親分の力で悪霊の子分を従わせたのだ」と言い
ます。29節はイエスさまの言葉の中でも難解なものの一つとされていますが、強盗の
仕方を伝授しているわけではありません。悪霊の国を滅ぼして神の国を建てるため
には、悪霊の親分を縛らなければならないということです。そしてこのことはイエスキリスト
の十字架と復活において成し遂げられました。
イエス・キリストの宣教は「神の国の福音」と言われます。それはまず洗礼者ヨハネの
「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)という言葉で始まり、イエスさまの「悔い改めよ。
天の国は近づいた」(4:17)へと引き継がれ、「神の国は、見える形では来ない。『ここに
ある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
」(ルカ17:20-21)へと展開されます。今日の個所もその流れの中にあります。外に見える
ところでは復興が遅々として進まない。コミュニティの回復が見通せない。そんな中でも
希望と愛をもって被災地で生活する人、それを支える人々がいる。もしそこにキリストが
共におられるなら、そこに神の国は確かに姿を現しています。
 2017年3月5日  今日の聖書日課の使徒書はヤコブの手紙1:12~18ですが、14,15節には「人はそれ
ぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらん
で罪を生み、罪が熟して死を生みます」と書いてあります。イエスさまが誘惑にあったの
はイエスさま自身に欲望があったので誘惑に陥ったのでしょうか?
 イエスさまがいわゆる聖人、人生のさまざまな問題を克服して聖人と呼ばれるように
なった立派な人間だと考えるなら、この記事こそまさにそのような箇所だと言えるで
しょう。しかし、私たちは「立派な人間」ではなく、①父なる神の独り子である神と信じ
ます。しかし同時に②真の人とも信じます。真の神であり真の人である方が受ける
誘惑とはなんでしょうか?
 神であるお方が人となったとは、いと高き存在者である神さまが低く、被造物の低さに
までへりくだったということです。イエスさまは神さまであるにもかかわらず僕(しもべ)の
座に着かれました。①イエスさまが遭われた誘惑はこの確認でした。石をパンに変えて
自分のお腹を満たすことは神の力の徴ではありません。ご自身の力の顕示ではなく
あくまでも神と人に仕えるための力でした。②私たちが誘惑に遭ったときに打ち勝てる
ためにイエスさまは誘惑に遭われ、勝利されました。サタンに対してイエスさまは
「み言葉」をもって打ち勝ちました。サタンがみ言葉を攻撃材料にして来ても、私たちは
更なるみ言葉で対抗します。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。エフェソ6:17
2017年2月26日  不信仰であることよりは、信仰篤い方が良いというのが信仰者の常識です。どのよう
な時にも揺らぐことなく神さまを信じていたいものです。ところがそうは行かないのが私
たちの弱いところです。
 弟子たちは舟で湖を渡っていました。しかし逆風で難航していました。南北21キロ、
東西13キロですからそんなに大きな湖ではありません。面積で琵琶湖の1/4です。夕方
になる前に舟を出したのに夜明け頃になってもまだ向こう岸に着かない。相当の風が
吹いていたことでしょう。夜明け前のの薄明かりの中、湖上に人影が見えました。幽霊
だと思うのも当然です。実はイエスさまが水の上を歩いてこられたのでした。それを見て
ペトロが「私も水の上を歩きたい」と言ったのです。これがペトロのいいところです。
そして実際歩けました。奇跡です。ところが周りの状況(強風と波)を見たら恐くなり、
溺れてしまいました。信仰の奇跡で歩き始めたのに、信仰外の常識で恐れを抱いたの
です。そのとたんに彼は沈みました。それでもペトロが助けを求めると、主イエスは
ペトロの手を取り、引き上げてくださいました。
 信仰によって始められた私たちのクリスチャンとしての歩みは、信仰によらなければ
続いていきません。ところが私たちの心はいつも深い信仰が心を支配しているわけで
はありません。沈んでしまうこともあります。それでも、主イエスに助けを求めましょう、
大声で。その時、力強い主の手があなたを引き上げ安全な舟へと主と共に乗せてくだ
さいます。「救い主イェスの手にある身はいとも安し」と歌いましょう。
2017年2月19日 イエスさまはフェニキアの町ティルスとシドン(レバノン南部の町スールとサイダ)へおい
でになり、土着のカナン人(フェニキア人)の女に出会われました。彼女はイエスさまに
懇願しました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦し
められています」。ここは隣国フェニキア(カナン)です。カナンの宗教で代表的なのは
男神バアルと女神アシェラ(アナト)です。エリヤはこれらの預言者たちと戦いました。
しかし彼女はイエスさまに「主よ、ダビデの子よ!」と叫びました。
 このカナン人の女は聖書を読み、聖書の預言からイエスが救い主だと信じていたので
しょうか?これは私のカンですが、彼女の叫びは「神さま、仏さま!」でした。彼女にとっ
てイエスという人が隣国のユダヤ教の人たちが待ち望んでいた救い主であるかどうか、
聖書なんて(彼女から見て)異教の書物の神学はどうでも良かった。彼女は、最近ガリ
ラヤでイエスという名の若いラビが病気を癒やしたり悪霊を追い出したりしているという
人々の証言を伝え聞いて、「この方なら娘を何とかしてくださるに違いない」と藁にもす
がるような思いで叫びました。イエスさまの答は「あなたは私の仕事の対象外」と冷た
かった。でも彼女は諦めなかった。それが冒頭の言葉です。イエスさまはこの言葉に
対して「あなたの信仰は立派だ」と賞賛し「願いどおりになるように」と言って娘を癒して
くださいました。
 「私はイエスさまと縁がない」そんなことはありません。誰でも真摯に救いを求めるなら
救ってくださいます。救っていただいたら、イエスキリストを送ってくださった神を賛美し
ましょう。
2017年2月12日  「最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい
者と呼ばれる」。「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われるように、
律法は書物です。書物は解釈を必要とします。また環境に影響されます。律法主義者
も現実の中で可能なこと・不可能なことを分け、可能なことを守るように求めていたの
です。旧約時代の生活を再現せよということではなく、今ここでみ心を探究し続けながら
日毎に歩んでいくことです。
 「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた
がたは決して天の国に入ることができない」。それはどんな義でしょうか?今日の朗読
個所に続くところがそれにあたります。
 『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』は日本の刑法も同じです。これを守って人を
殺さないのが「律法学者・ファリサイ派の義」であり「善良な日本人の義」です。しかし
イエスさまの要求は「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。「愚か者」という
だけで火の地獄に投げ込まれると言うのです。表に現れる行為だけではなく、心の内
が問題にされます。心の内を暴かれたら、一体だれが天国に入ることができるでしょう
か?マタイ19章「だれが救われるのだろうか」と言う弟子たちに主イエスは「それは人間
にできることではない」とおっしゃいました。けれども「神は何でもできる」。自分を神に
お委ねることが律法学者・ファリサイ派の義にまさる義です。
 2017年2月5日  イエスさまはたとえ話をたくさんしました。13章ではミレーやゴッホが描いて有名な
「種を蒔く人」のたとえが語られました。その後で弟子たちが「なぜ、たとえ話をするの
ですか?」と尋ねました。たとえ話は普通は事柄をわかりやすくするためのものだと
考えられます。
 多くの人がイエスさまの周りに集まってきました。喜んでイエスさまの話に耳を傾け
ました。そして、神を賛美しました。けれども「あの人たちには天の国の秘密を悟る
ことが許されていない」というのです。
 「彼らは…見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないから」たとえ話で語るのだと
言われました。イザヤ書6:9~10は彼らによって成就しているというのです。
 多くの人が聖書を手に取ります。教会にやってきます。しかし、「自分の見たいもの、
自分の聞きたいもの」を見聞きするために来て、それが見聞きできないと去っていき
ます。しばらく来ていてもやがて去っていきます。神さまが見せようとするもの、聞かせ
ようとする言葉に目や耳が閉ざされているからです。このような態度は、入門講座で
読んでいる「神の物語」の著者M.ロダールに言わせれば偶像崇拝に他なりません。
自分を偶像化して神より上位に置いているのです。
 主の弟子たちはどれほど正しく福音を聞いていたかわかりません。たぶんペンテコ
ステまでは正しくわかっていなかった。それでも主に従い続けることにおいて賞賛され
ました。
 2017年1月29日 12節では主イエスが腹を立てました。そして神殿内で商売している人たちを追い出しま
した。彼らの商売は彼らが儲け、神殿が儲けているだけではありません。参拝者にとっ
ても利益があります。遠くから犠牲にする羊をつれてエルサレム神殿までやって来るの
はたいへんです。けれども神殿内で買うことができれば旅はずっと楽になります。日常
の買い物に使うお金はローマ全土に通用する皇帝の肖像の入った硬貨です。しかし
異邦人が入ることを禁じる神殿内には持ち込めません。だから両替が必要です。参拝
者にはないと困るお店です。けれども主は利便性よりも神殿が祈りの家であることを
聖書から説き、礼拝の精神にこだわります。いや精神ではありません。癒しをなさり、
天の国の到来のしるしを示されました。
 今度は祭司長たちや律法学者たち(最高法院=ユダヤ教の権威を指す)が腹を立て
ます。子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるからです。「ダビデの子」とは
来たるべき救い主、イスラエルの王の称号です。主イエスがそれを放置していることが
彼らには我慢ならなかったのでしょう。けれども主はお答えになります。「あなたたちこそ、
『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことが
ないのか。」
 オーソドックスという言葉があります。正統的という意味ですが、それは「正しく栄光を
(神に帰す)」という意味です。教会の正しいあり方は、(人生の/社会の)あらゆる局面
で祈りをなし、神をほめたたえることにあります。
2017年1月22日  イエスの具体的な伝道活動の始まりです。ガリラヤのナザレからからユダヤへ行き
ヨハネから洗礼を受け、ヨハネが捕らえられたためガリラヤへ戻ります。しかし、ナザレ
に帰るのではなく、カファルナウムに居を定めました。ガリラヤは12部族の領地で言え
ばゼブルン族とナフタリ族の領地でした。王国分裂後は(北)イスラエル王国でしたが
BC732年シリア・エフライム戦争でアッシリア王ティグラト・ピレセル3世がガリラヤ・
サマリアを占領したためイザヤは「先に…辱めを受けた」と記します。そして「後には…
栄光を受ける」原文は「栄光を受けた」です(預言的完了形)。イエスの到来によって
栄光を受けました。(イザヤ9:6-7)
 「異邦人のガリラヤ」:イスラエルは戦いに負け、そこに植民してきた人々との混血が
始まります。一貫してダビデ家の王を戴いてきたユダヤ人が(北)イスラエルのこうした
混血を軽蔑して「異邦人のガリラヤ」と呼んだのです。
 イエスは伝道生活を都エルサレムではなく、ヨルダン川のかなた(上流)、湖沿いの道、
「異邦人」と蔑視され、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者と呼ばれる人たちのところ
で始めました。その言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」はヨハネが語った言葉と
同じです。ヨハネは天国(神の支配)の備えとして罪の赦しを得させる洗礼を授けました。
イエスは病気を癒やし、悪霊を追い出し、天国の力を見せました。イエスの伝道はイエス
自身の体が人にあざけられながらいけにえとしてささげられることで成就します。
 弱くされている人たちが大事にされる時代が来ることを切に祈ります。
2017年1月15日  マタイ4:18~20はマルコ1:16~18と全く同じです。イエスさまが湖岸を歩いていると、
シモンとアンデレが漁をしているのが目に入った。そこで彼らに「わたしについてき
なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃった。ルカは違います。イエスさまは大勢の
人に神の国の話をするためにシモンの舟を借ります。お話の後、漁をさせると大漁と
なり、シモンは恐れます。そのおびただしい魚を前に「あなたは人間をとる漁師になる」
と言われます。
 イエスさまは神さまのお仕事を手伝う人を必要としておられます。この仕事は人と関わ
ることです。人と関わるのは面倒だと感じる人もあるでしょう。しかし天国は神さまと人び
とと人格的に関わる場です。伝道とは、神さまと人との関わり(交わり)の場に人を招く
ことです。キリスト教が「愛の宗教」であるというのは、なんとなくほんわかした雰囲気の
中に浸れるという意味ではありません。無知と誤解と、さらには競争心や党派心、時に
は敵愾心もあるような人間社会の中で、「神さまはあなたを愛しておられる、独り子の
命と引き替えにするほどにあなたを愛しておられる」ということを言葉と実生活において
あかししていくことです。
 というと、何だか難しげで、厳しい道のように思われるかもしれません。しかし信仰の
道は修行ではありません。神さまにすべてを任せてしまうこと、神さまから与えられる
ものを受け取っていくことです(あまり喜べないプレゼントもありますが)。ペトロたちは
素晴らしい働きをしますがそのために特別な修行をしたわけではありません。ただ
主イエスを受け取りました。
2017年1月8日 ペンテコステに「鳩サブレー」を配る教会がありますが、ペンテコステの時に降った聖霊は
「炎のような舌」です。鳩はペンテコステではなく、主が洗礼をお受けになった記念の今日
こそがふさわしい日です。「これはわたしの愛する子」という言葉は福音書の2度の場面
で語られます。1度目は洗礼の時、2度目は高い山に登られた時です。主の衣服が真っ
白に輝き、モーセとエリヤと語り合っていた
と言います。これらは主の生涯の二回の転機と言ってよいでしょう。
 「神の霊が鳩のように」 聖書には49回「鳩」が出てきますがそのイメージは…。
①「鳩のように素直になりなさい」マタイ10:16不純なものが混ざっていない状態です。
②「あなたは美しく、その目は鳩のよう」雅歌1:15 愛さしさを表します。
③「鳩の翼がわたしにあれば…(安全なところへ行けるのに)」詩編55:7 身を守る
 翼です。
④犠牲として用いられる唯一の鳥。貧しい者は牛や羊に代え鳩を献げることが許された。
 主イエスに聖霊が降ったことで鳩によってイメージされるこれらの属性を与えられまし
た。特に「素直」と訳されたギリシャ語「プラウテース」は飼い慣らされた動物のさまや
従順なさまを表す言葉です。これは人の生き方として神に対しては「謙遜」、人に対して
は「柔和」として現れます。神のみ心に適う者、それは、柔和な者であり、平和を作る者
です。
2017年1月1日  今日は「主の命名日」です(ルカ2:21)。イエスさまを礼拝しに遠い国から学者たちがき
ました。「新しい王さま」ときいてヘロデ王は心が落ちつきません。ヘロデ王はベツレヘム
の小さい子を殺すことにしました。これは預言者エレミヤが預言していました。エレミヤ31:15がその預言です。天使がヨセフさんに「イエスさまとマリアさんをつれてエジプトへ
逃げろ」
と言いました。ヨセフさんは二人をつれてエジプトへ行きました。
 イエスさまはヘロデ王が死ぬまでエジプトにいました。ヘロデ王が死ぬと天使のお告げ
でイスラエルへ帰ってきましたが、ユダヤは悪いアルケラオがあとをついでいるとわかっ
たので、ガリラヤのナザレという町に住みました。
それでイエスさまは「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。これも預言者たちに
言われていたとおりだそうです。(イザヤ11:1「若枝=ネツェル」→ナザレ)
 神さまはイエスさまを守ってくださいました。ヨセフさんがそのお手伝いをしました。

2018年「命の言葉」 2016年「命の言葉」


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