日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2017年「命の言葉」
 2015年「命の言葉」



2016年12月25日  聖書にはイエス・キリストのご生涯を描いた福音書が4つありますが、イエスさまの登場
の仕方はそれぞれ特徴があります。ヨハネは「先在の言(ロゴス)という概念を用います。
永遠の昔から存在する、言であり命であり光であるお方、神の独り子である神が、肉体を
持った人となってこの世に来られた。ヨハネは一人称複数形で「わたしたちはその栄光を
見た」と証言します。福音書は彼らが見た神の独り子なる神のこの世における恵みと真理
に満ちた足跡を証言するために物語られた書物です。
 イエス・キリストは「人間を照らす光であった」とヨハネは言います。光のないところでは私
たちはそこにいる人を識別できません。光があっても暗いと人がいることはわかっても誰
だかわかりません。人間を照らす光があって私たちは共に生き、共に働くことができます。
また、光は他の人に私を照らし出すものです。他の人から見た私とはどんな者なのでしょ
う?光に色が付いていたなら、他の人が見る私は本来の私ではなく、その色に染まった
私になってしまうでしょう。しかしイエス・キリストという光は本来の私を(良くても悪くても)
見せます。
 「言は世にあった。…世は言を認めなかった」。光があっても固く目を閉じてしまうと見え
ません。キリストに対して心を閉ざす人にはキリストの光は見えません。
 キリストの光を見た人物は、洗礼者ヨハネとその弟子たちやカナの召し使いたち、何より
イエスの弟子たちが証人ですが、イエスを信じる私たちもその一員です。ハレルヤ!
2016年12月18日  BC730年代、アラム(シリア)の王レツィンとエフライム(北イスラエル)の王ペカが反アッシ
リア同盟を結びユダにも加盟を要請したが拒否したので彼らはエルサレムを攻めた。
イザヤはペカとレツィンの滅亡を預言し、彼らを恐れるな、またアッシリアを信頼するなと
ユダの王アハズに忠告した。しかしアハズはこれを無視し、アッシリアのティグラト・ピレセル
3世に援助を求めた。その結果、アッシリア軍の侵攻を受けてアラムの都ダマスコが滅ぼ
され(BC736年-BC732年)、北イスラエルも侵略され、ペカはエラの子ホセアに暗殺された。
イスラエルはBC722年にアッシリアの属州になった。以上が時代背景です。(王下16、歴下
28章)
 イザヤはアハズ王にレツィンとペカの同盟を恐れるなと言ったのです。彼らはエルサレム
に攻め上ってきたが攻撃はしかけられなかったとあります。けれども同盟軍が攻めてくると
いうだけで王も民も「森の木々が風に揺れ動くように動揺」しました。アハズに対してイザヤ
は「神にしるしを求よ」と言いました。アハズは「主を試すようなことはしない」と答えましたが、
実際は愚かな自分の知恵に頼ったのです。
 それでも主は「あなたたちにしるしを与える」と言われます。イザヤが言う男の子は3節に
出てくるイザヤの子シェアル・ヤシュブだと言う説があります。確かに「凝乳と蜂蜜」=離乳
食?が終わるまでにレツィンもペカも滅びます。
 けれどもこの預言はBC730年代だけのことではありません。イエス・キリストこそ時代を
超えて永遠に私たちと共におられる神であることをこの預言を通して確認します。
2016年12月11日  サムソンの母はマノアの妻とだけ記され、名は不明です。不妊の女でしたが、彼女に主
の御使いが現れ、出産の予告をしました。
課題の共有 彼女はすぐに夫に報告しました。妊娠出産ですから、これは家族の問題です。
当然夫に相談し、家族でこの驚きを共有しました。
預言の確認 夫マノアはこの話を聞いてにわかに信じる事はできず、祈りで確認を求めま
した。御使いはもう一度彼女に現れました。彼女は夫を呼びました。そして夫は御使いに
確認しました。
守るべきこと 彼女は救い主を身に宿すという大切な使命を神から与えられ、それを受け
止めました。そのためにどのような準備が必要かも確認します。「今後、ぶどう酒や強い
飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないこと、その子の頭にかみそりを当ててはなら
ない」。
不思議 17節以下も見ておきます。マノアが御使いに名前を尋ねると「不思議」と答えられ
ます。これは御使いの名前というよりは神さまのご性質の一面を表しています。不妊の女
を選び、救い主の母とする。古代には子供を産まない女は恥ずべき存在でした。サムエル
の母ハンナやイサクの母サラはそのことで辛い思いをしていました。洗礼者ヨハネの母
エリサベトも然りです。
逆転 この世で虐げられ蔑まれた者に神は目を留められ、高く引き上げてくださいます。
マリアの賛歌を読んで祈りといたします。
2016年12月4日  上掲の12節は、私たちの罪は単に犯罪行為としての罪だけでなく、私たち自身の内側の
問題、性質の問題から出ていることがわかります。その結果として起こるさまざまな事柄、
13節14節は、前のページの「お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、
舌は悪事をつぶやく…」という3〜8節の主の指摘に対して、その通りですと答えるものに
他なりません。
 全く救いようがないと思われます。けれども15節の後半に注目しましょう。新共同訳は
「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った」ですが、
新改訳では「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」と訳しています。16節には
「執り成す人がいないのを驚かれた」とあります。神さまは驚き、心を痛めるお方です。
神さまは人のありさまを見て悲しまれます。そこから神さまの慈悲の行動が始められます。
「主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情
を上着として身を包まれた。主は人の業に従って報い/刃向かう者の仇に憤りを表し/
敵に報い、島々に報いを返される。」
 こうして虐げられた者たちは、主の正義によって回復されます。ここでは「報復」という
言葉が使われ、主の裁きが強調されていますが、同時に20節には「罪を悔いる者のもと
に来る」とも言われています。罪は私たちの内に深く食い込んでいますが、私たちの本質で
はありません。人は神の被造物、神のかたちです。
2016年11月27日  この聖句は、「終わりの日に…」で始まる預言です。イザヤ書2:2〜4とミカ書4:1〜3は全く
同じです(単語レベルでは少し違うけど)。この二人は同時代にユダ王国で活動した預言者
です。二人それぞれの目でユダ・エルサレムを見ていました。けれども同じ言葉を神の言
として記しました。終わりの日にはこうなるということですから、今は違うということでもあり
ます。イザヤはこの後すぐ「あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた」と続けます。
理由は魔術(偽宗教)、拝金主義、軍事優先、偶像崇拝、人権軽視など。今の日本や他
の国々に対する預言だと言っても通用するでしょう。その道を進む人たちはやがて裁かれ
ます。
「万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢な者に/すべて高ぶる者に」(12節)
 そういう時代を経て終わりの日です。「神殿の山」「主の山」とはエルサレム神殿の場所
です。かつてはそこでアブラハムがイサクを献げました。そこを目指して「国々がこぞって
大河のように」礼拝に来ると言います。礼拝の場で起こることは和解です。神が独り子
イエス・キリストの命と引き替えにすべての人々の罪を赦してくださった。そこに集まって
礼拝する人々の間には和解が起こり、国々の間には平和が構築されます。核兵器は
廃絶されます。核の恐怖で平和を作るというのは愚かな考えです。武力によって立つので
はない。剣は鋤に、槍は鎌に。そこに主の光の道があります。
2016年11月20日  教会暦の一年は待降節から始まります。
今週は教会暦の最終週ですので終末主日とも呼ばれます。イエス・キリストの再臨を望み、
また自分の人生の終末を思う日でもあります。
 終末主日の主題は「王の職務」です。再臨される私たちの王なるキリストが民をどのよう
になさるかをみ言葉に聴きましょう。主日聖書日課は、旧約からミカ書2:12-13、使徒書から
黙示録19:11-16、福音書はマタイ25:31-41、詩編は50:1-6です。
 詩編は「わたしたちの神は来られ」「御自分の民を裁く」と告げています。黙示録は「『王
の王、主の主』が正義をもって裁き、…自ら鉄の杖で彼らを治める。…全能者である神の
激しい怒りが込められている」とあり、恐ろしい裁きが予告されています。マタイ25章は、
「靴屋のマルチン」の物語の題材になった箇所で、各人の行いに応じてさばかれることを
説いています。以上の箇所は世の終わりにキリストが王として来臨し人を裁くことを告げて
います。
 今日の個所ミカ書2:12-13は各地に散り散りになっている神の民を王なる主が呼び集め
て、一つの群れとしてくださることを語っています。今はさまざまな囲いに囲い込まれている
神の民が、やがてそこから解放されて主の一つの群れとされていきます。今年の宗教改革
記念日にルーテル教会とローマ・カトリック教会の共同宣言が出されました。来年の宗教
改革記念日は両教会が一緒に祝うことになるでしょう。最終的な教会の一致(聖徒の交わ
りの回復)にむけて主の導きに従って歩むことを喜び楽しみましょう。
2016年11月13日 聖書は最初の人アダムが罪を犯した結果として死がこの世界に入ったとしています。
死は単に「人体の耐用年数が過ぎた」という事に留まりません。人は肉体的な存在である
と共に精神的な存在であり霊的な存在です。
親族や地域・職域など多くの人々との関係をもち、心と心の交流を深めて生きる存在です。
そして、人とその住む世界を超えた永遠に思いを馳せ、神を礼拝するものです。死はその
一切から切り離されることを意味します。愛するものから引き裂かれ、やがて忘れ去られる。
私がこの世にいたことの痕跡が失われていく。自分の存在が虚無に服していくものです。
私たちは何とかそれに逆らおうとします。生きていたことの痕跡を残そうとします。系図を書
き記して先祖の名前を明らかにし、肖像画や写真を飾り、先祖の供養やこのような記念会
を行って亡くなった人々を忘れないようにします。それでも多くの場合、やがて忘れられて
いきます。それが人の記憶・記念の限界です。
しかし、神は「失われていく存在(人格)」を回復してくださいました。死は罪によって人を
支配しました。けれども十字架の上で死んだイエス・キリストは墓の中で死の力と戦い、
死を打ち破りました。死者の中から復活したのです。この復活はキリスト一人のものでは
なく、キリストと共に生きる者すべてに与えられます。もはや死は私たちの存在を否定する
ものではなくなりました。イエス・キリストが再び来られるとき死者は皆生き返りますが、
今生きてキリストを信じる者は、滅びるべき肉体の命とオーバーラップして永遠の命をもっ
ています。
2016年11月6日  ひつじかいのアブラム(あとでアブラハムに名前が変わるのでアブラハムといいます)さん
は神さまから「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」と
いわれて、しんせきのロトさん一家と旅をはじめました。シケムまで来たとき、神さまを礼拝
するために祭壇を作りました。また旅をしてベテルの東のけしきのいいところに来て、そこ
にも祭壇を作って礼拝をしました。(12:7,8)
 それからエジプトまで行きました。そして、またけしきのいいところまでもどってきました。
そこにはまえに作った祭壇があります。アブラハムさんたちはもどってこられたことをよろ
こんで礼拝をしました。
 旅をしているあいだに、アブラハムさんもロトさんも飼っている羊がどんどんふえていまし
た。これは神さまが「あなたをしゅくふくする」とやくそくしてくださったからです。まえに来た
ときにはじゅうぶんに広かったけど、もどってきたら羊がたくさんふえたので狭くなってしま
いました。そこでアブラハムさんはロトさん一家とは別行動することにしました。
 ロトさんに「好きな方へ行っていいよ」といったら、ロトさんは川に近くて草がいっぱい生え
ているところへ行きました。アブラハムさんは、草が少くない山の方へ行きました。アブラハ
ムさんはそんをしたのかな?
 神さまはアブラハムさんに「どこでも歩き回りなさい。歩いたところをぜんぶあなたの土地
にする」とおっしゃいました。そこでアブラハムさんはまた祭壇を作って礼拝しました。
2016年10月30日  聖書の宗教は万物を創造したただ一人の神さまを礼拝します。すべてのものは被造物
であり神ではありません。@私たちは被造物を通して神を見ますが、被造物を礼拝しま
せん。A神は肉体を持たない霊であり、物によって神の像を造ることはできません。人が
神のかたちとして創られました。堕罪以前の人間とキリストの十字架によって神のかたち
を回復した人以外は神の像とはなり得ません。
 偶像とは神とされている被造物のことであり、それを拝む行為を偶像崇拝と言います。
ヘブライ語で偶像をペセルと言いますが、この言葉は動詞パーサル(刻む・切り取る)が
語源です。イザヤ書44章や40:18-20にあるように金属・石・木などで人間や他の生き物の
形を作ったものです。日本の場合は人の手によって造ったもののみならず、自然そのまま
の被造物をご神体として崇める習慣もあります。
 ローマ皇帝や戦前の天皇は現(あら)人(ひと)神(がみ)として礼拝することを要求しました。
これも偶像です。
 他方、偶像でないものを偶像として排斥する人もいます。730年東ローマ皇帝レオン3世
は聖像禁止令を出し次のコンスタンティヌス5世は反対者を弾圧しました。しかし787年第2
ニカイア公会議で聖像は偶像ではないことが確定しました。イコンは英語でアイコン、神の
世界への窓Windowsです。16世紀には宗教改革の原理主義的な人々が聖像を偶像とし、
教会内の像や絵画(文化財)を破壊しました。タリバンを思い起こさせます。彼らにとって
は十字架も偶像です。極端に陥らないように気をつけながら唯一の神のみを礼拝しましょう。
2016年10月23日  キリストは神なのか被造物なのか?箴言8章は知恵が語っています。教会はこの知恵を
イエス・キリストと理解していますが、22節に「主は…わたしを造られた」とあるので、アリウ
ス派などはキリストは被造物だと主張しました。アリウス派の主張は第一回ニカイア公会議
(325年)と第一回コンスタンティノーポリス公会議(381年)で重ねて否定されました。今も
キリスト教の異端と呼ばれる団体の中には、キリストを被造物として神と認めない団体が
あります。
 「造られた」と訳されたカーナーという動詞には「所有する」という意味があり、むしろこちら
の方がふさわしいでしょう。その後には祝別する・生み出すという動詞が続きます。要はは
じめにキリストは「神と共にあった」というヨハネの冒頭と同じ意味です。
 そのキリストが、「御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者とな
って/絶えず主の御前で楽を奏し/主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の
子らと共に楽しむ。」と言われます。キリストが奏する楽の音とはどのようなものでしょうか。
世界の中で絶えず起こってくる創造的な事柄でしょう。キリストが動き働かれることが神の
喜びなのです。ところがキリストはソリストであるだけでなく指揮者です。他の演奏者とは
わたしたちです。私たちがそれぞれに与えられたパートを演奏するとき、つまり賜物をもっ
てキリストと共に働くとき、私たちの活動(教会活動だけでなく社会や家庭の活動も)は神
の喜びとなります。神の喜びとなるとき、この世界にも平和が訪れます。
2016年10月16日  パウロはイスラエルの民、ファリサイ派の一員として誰よりも厳格に律法を守る生き方を
誇りにしていました。けれどもキリストの愛に触れた時にそれらは無価値なものになって
しまいました。律法の行いによる義ではなくキリストを信じる信仰による義、復活の力
(愛の勝利)こそが目指すところとなりました。
 「完全」という言葉が出てきます。自分は完全に達したわけではないと言いながら、
「わたしたちの中で完全な者は誰でもこのように考えるべき」と言っています。以前にも
お話ししましたが、繰り返し言うとギリシャ語の「完全」は「成長の余地のある完全」です。
まだ青くて酸っぱいリンゴは梨でも桃でもなく完全なリンゴです。やがて熟しておいしい
リンゴになります。
 キリスト者の目標を、パウロは「死者の中からの復活に達すること」と表現しています。
今日の個所の最後のところでは「ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」とも
言われます。これは福音書の言う「神の国」や「天国」に生きることと同じでしょう。
「永遠の命を生きる体」といってもいいかもしれません。
 そこを目指してこの世を生きるのがクリスチャンです。古くはジョン・バンヤンの
「天路歴程」という作品がありますが、さまざまな誘惑やサタンの攻撃と闘いながら、
イエス・キリストから目を離すことなく走り続けることです。どのようなときにもキリストを
見あげること(信じて仰ぐこと)が、わたしたちに生きる力を与えてくれます。
 2016年10月9日  レビ記16章に贖罪の儀式が定められています。大祭司アロンは自分と一族のために
贖罪の儀式を行い、それからイスラエルの民のために贖罪の儀式を行います。自身の
贖罪のために雄牛を屠り、血を指で振りまきます。民の贖罪のために雄山羊を屠り、血を
贖いの座に振りまき、更に人々のただ中に留まって血を振りまき、また祭壇の角に血を
塗り、指で血を七度振りまきます。生かしておいた雄山羊の頭に両手を置きイスラエルの
すべての人の罪を告白し、雄山羊を荒れ野に追放します。
 大祭司は自分と民の贖罪のために、雄山羊と雄牛の血を携えて、聖所に入っていきま
した。キリストはご自身の血によって、ただ一度だけ贖いを成し遂げました。
 契約には血が必要であると述べられていますが、日本ではサインでなく印鑑が必要なこと
が多くあります。印鑑には朱肉が必要です。朱肉は血を表すものです。
 ことにキリストの贖罪はキリストの死によって成し遂げられ、有効となったので、著者は
この出来事を遺言ととらえています。キリストの死によって有効になったというだけでなく、
贖罪は召された者たちが約束されている永遠の財産を相続するために必要だということも
遺言と言われる理由の一つでしょう。
 罪・重荷を除くは血の力
 主の血は悪魔の業を毀(こぼ)つ奇しき力なり
 力ある主イェスの血 受けよ 受けよ
 力ある主イェスの血 受けよ 今受けよ
(L.E.Jones 1899年作、聖歌425)
 2016年10月2日 A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED
傷ついた者の信仰告白

大きな事を成し遂げるために 
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱をあたえられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった  

世の人の称賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

求めた物は一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ物であるにかかわらず  
心の中で言い表せないものは全て叶えられた

私はあらゆる人の中で  
最も豊かに祝福されていたのだ

(ニューヨーク市三十四番街にある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁にある
無名兵士の詩)

 「同じキリスト教なのに、なぜいろいろな派にわかれて対立しているのか?」 よくある
質問です。いろいろな派があるのは、どういう仕方でキリストと出会ったかということによる
ことが大きいでしょう。同じ派の中にいくつもの教団があるのは、どういうルートで日本伝道
がなされたかであったり、人間的なことで分裂したり、さまざまな理由があります。そして、
歴史的に見るなら、キリスト教は分裂を繰り返しながら大きくなってきました。
 パウロは大きな働きをした伝道者ですが、パウロの伝道と神学を快く思わない人たちも
いました。彼らはパウロに対抗するように伝道し、しばしば妨害もありました。けれどもその
ようにして福音が伝わるなら喜ぶとパウロは言います。ここには「自分の教派だけが正しい
キリスト教だ」という意識はありません。けれども妨害ばかりするような人たちは滅びてしま
うだろうとパウロは考えています。他者の受けた福音に反対することではなく、自分が受け
た福音を証しすることがまず大事なことでしょう。パウロは妨害を受けましたが、他者を
妨害することはありませんでした。むしろ苦しめられることも、福音と共に恵みとして与え
られているというのです。
2016年9月25日  パウロはわたしたちの心の置き所(精神生活の場)を「住みか」と表現し、二つの置き所を
あげています。一つは「地上の住みかである幕屋」です。私たちは具体的に肉体をもって
生きています。何かにぶつかれば痛みを感じ、ケガをし、壊れます。地上の住みかとしての
肉体は地上の建築物と同じようにやがて壊れて失われていくのです。
 もう一つは「神によって備えられた天にある永遠の住みか」です。これは死にゆく人間の
大工ではなく永遠に生きておられる神によって永遠に古びることのない住みかで、私たちが
目指しているのはこれです。
 しかし、パウロはこれを「着る」と表現しています。服なら着るですが、家を着るとか脱ぐ
とは普通はいいません。パウロはTコリント15:53-54でも「朽ちるべきものが朽ちないものを
着る」と言います。着るものは私たちの体そのものではありません。馬子にも衣装と言いま
すが、自分自身と服は一体不可分のものではなく不相応なものもあります。この場合滅ぶ
べき体が滅びることのないものを着るのです。私たち自身は滅びるべきものに過ぎません
が、私たちを飾る、あるいは私たちが表すものは滅びることのない神の栄光・義・愛です。
そして神の約束に生きる生き方です。
 約束に生きるとは、この滅ぶべき体を用いて生きながら、しかし滅ぶべきものに根拠を
おかない生き方です。「目に見えるものによらず、信仰によって歩」む生き方です。主に喜
ばれることを望む生き方です。
2016年9月18日  歳を取ることはプラスでしょうか?マイナスでしょうか?一般的に高齢になると体力が衰え、
視力・聴力も弱くなり、思考力も低下します。若いときには難なくこなせたことができなくなっ
てきます。これは肉体をもって生きる者にとっては避けがたいことです。
 それでは神さまとの関係においてはどうなのでしょう?この詩の作者は年老いて力がなく
なることによって神から見捨てられ、敵の手に落ちることを恐れて(9,12,18節)、神の加護を
求めています。
 詩人の人生は、決して平坦な道ではなく苦労に満ちた人生でした。「多くの災いと苦しみ
を私に思い知らせられ」「地の深い淵」を歩まされてきました。それでも、いやそれだから
こそ、詩人は「若いときから…今に至るまで/驚くべき御業を」体験し「語り伝えて来」たの
です。「再び命を得」「再び引き上げて」「大いなる者としてくださる」という確信に立って老い
の命を生きています。そして年老いてからもなお「御腕の業を、力強い御業を/来たるべき
世代に語り伝えさせてください」と願い求めます。
 詩人の敵とは誰でしょうか。彼を虜とし、神の御業を「来たるべき世代」に語り続けること
ができなくしてしまうものでしょう。彼は詩人ですから多くの言葉を用いて語りました。しかし
あなたにも何らかの表現方法があります。後ろ姿で福音を証しすることもあるかもしれませ
ん。それぞれにいただいた人生の賜物で神をあかししましょう。来たるべき世代の人々に。
 2016年9月11日  エフェソの信徒への手紙は、教会を家族にたとえています。教会は神の家族です。この家
族は自然的な家族ではなく、かつては対立概念であった割礼の民(イスラエル)と無割礼の
民(異邦人)が、共にキリストに招かれ、キリストを信じる信仰によって(割礼によらずに)、
神に和解させられ、一つの霊によって家族に結び合わされたのです。
 家族を結び合わせている原理は愛です。さまざまな打算によって結ばれた夫婦もないと
は言えないでしょう。しかし、それはやがて壊れていくことが多いでしょう。しかし、打算から
始まった家族でも子供が生まれ育てていく中で愛が生まれ育っていく場合もあります。
 教会という家族は、家族のメンバー相互の中にそもそもの愛があったのではありません。
イエス・キリストがわたしたちを愛してくださったという出来事を媒介として、イエス・キリスト
の愛を受けた者同士が互いに愛し合うという形の家族です。
 最初に「教会を家族にたとえている」と申しました。しかし「家族とは神の愛を人間関係に
写したもの」とも言えます。アダムとエバという最初の家族は「神のかたち」として作られま
した。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」はわかりにく
い表現ですが、すべての家族には父が与えられていると言ってもいいでしょう。その父
(人間)はすべての根源としての父(神)の模型です。あらゆる家族がキリストの愛を現す
ことができるように。まず教会が愛に立つように祈りましょう。
 2016年9月4日 名前を呼ばれて導き出された人
モーセ 出エジプト記3:4
 死ぬ運命だったが王女によって助けられた。しかし殺人→エジプト王家から逃亡。
 そんなモーセを神は呼び出し使命を与える。
ギデオン 士師記6:12
 ミディアン人を恐れ隠れていた彼を主は召して勇敢な戦いをなさせた。
サムエル サムエル記上3:4以下
 ペリシテに負け続け、主の言葉も聞かれなくなっていた少年時代に主に召され、
 イスラエルを王制に変える舵取り役を担った。
ザアカイ ルカによる福音書19:5
 町の嫌われ者。アブラハムの子としての実質を失っていたが、イエスが名前を呼ばれた
 ときにそれを取り戻した。
パウロ 使徒言行録9:4
 キリスト教迫害者の先鋒であったのに、復活の主に名を呼ばれ、一転、キリスト教を世界
 宗教にしていく使命を担った。
主に名を呼ばれた人は、先頭に立つキリストに従っていきます。他の者には決してついて
行かないというのは、偶像(諸宗教だけではありません)に従わないということです。また
「ついて行く」のです。留まってはいません。これは主が導く場で働くためです(羊は愛玩
動物ではなく家畜です)。モーセやパウロのような華々しい(?)働きではなくても一人一人
に使命を与えて下さっています。
最後に再び、天国に連れて行くため、主は名を呼ばれます。「ハイ」と返事できるように!
 2016年8月28日  主イエスとユダヤ人の議論は「アブラハムの子」から「神の子」へと進みます。アブラハム
の子ならアブラハムのわざを行うはずだし、神の子なら悪魔に従わないはずです。彼らは
口では自分たちの出自を誇っていますが、その行いはイエスさまの目には信仰の父アブラ
ハムとはほど遠いものでした。
 神に属する者とはどんな人でしょうか。
すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守っ
てくださり、悪い者は手を触れることができません。(一ヨハネ5:18)
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(マタイ6:13)
 ヨハネの第1の手紙は「わたしたちは知っています」を3度重ね「偶像を避けなさい」と結ん
で終わります。「神に属する者は罪を犯さない」などと言われると「私は失格」と思われるか
もしれません。しかし、よく気をつけてほしいのです。私たちは倫理道徳または法令によっ
て個々の行為を罪と判断しがちです。けれども倫理道徳・法令は普遍的なものではありま
せん。地域と時代や情状によって異なります。同じ行為が罪とされる場合もされない場合
もあります。私たちにとってより重要なのは「愛に基づくか」です。相手を怒らせたり傷つけ
てしまった場合でも愛に基づくならば罪ではなく過ちです。過ちは避けることの出来ない
ものです。従って罪を犯さないと約束されても常に謙虚でなければなりません。罪は私たち
を陥れようと待ち受けている(創4:7)のですから。
 2016年8月21日 イエスさまは世の光です。光とはどのようなものでしょうか。光がなければ私たちは何も
見ることができません。すべては暗闇です。暗闇に光が差し込むことによって、そこに
どんなものがあるのかがわかってきます。
暗闇の中を歩くのはとても危険です。壁にぶつかったり、石ころに躓いて転んだり、崖から
落ちてしまうこともあります。しかし光があれば危険を避けることができます。イエス(聖霊)
さまに導かれるなら、私たちは霊的な危険(罪)を避けることができます。
イエスさまをに従う人は「命の光」を持つとあります。イエスさまの光は、ただ危険を避ける
ための用心であるだけでなく、永遠の命の輝きであるというのです。それはイエスさまを
信頼し、イエスさまの後に従っていく人すべてに与えられる命の光です。イエスさまがこの
お話をなさった時はまだ実現していませんでした。「イエスの時がまだ来ていなかった」。
イエスさまの時は十字架の時です。ご自分の命を犠牲にして私たちに命を与えてください
ました。
私たちが永遠の命の輝きに生きるとどうなるでしょう?「光の子としての歩み」について
パウロはこう書いています。(エフェソ5章()
「何が主に喜ばれるかを吟味」「賢い者として、細かく気を配る」「時をよく用いる」「詩編と
賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う」「すべてを感謝し」
「互いに仕え合う」 。難しそうですか?イエスさまが私たちの身代わりとなって十字架に
かかって下さったことに感謝し、信頼し、光の子として歩みましょう。
2016年8月14日 イエスさまのまえに女の人がつれてこられました。不倫して男の人とイヤらしいことをして
いるのを見つかったのです。聖書には「男も女も共に必ず死刑」とかいてあります。
石打の刑といって、死ぬまで石をぶつけるのです。
 「せんせい、この女をどうしますか?」ときかれてもイエスさまはだまってじめんになにかを
書いていました。あまりうるさくきくのでイエスさまはこたえました「わるいことをいちどもした
ことのない人がさいしょに石を投げなさい。」
 やがて石を手にもって投げようとしていた人たちは石を捨てて一人、また二人と帰ってい
きました。みんなわるいことをしていたのですね。だれもいなくなってイエスさまと女の人だ
けがのこりました。イエスさまがいいました。「だれも石をぶつけなかったの?」女の人が
こたえました「だれも」。イエスさまは「わたしもあなたをつみにさだめない」(「わたしも
『あなたはわるひ人だ!』なんていわないよ」といういみです)。そしてもうひとこと
「これからはもうわるいことをしちゃいけないよ」といいました。わるいことは、かみさまがか
なしむことです。よいことは、かみさまがよろこぶことです。わたしたちがわるいことをして
しまったときもイエスさまは「わるい人はじごくにおちろ!」なんていいません。だから、
「かみさまごめんなさい。よいことができるようにたすけてください」とおいのりしましょう。
2016年8月7日  「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが後には、異邦人のガリラヤは、
栄光を受ける」。ゼブルン族はガリラヤ湖の西、ナフタリ族はガリラヤ湖の北西です。
北イスラエル王国の滅亡と共に人々はアッシリアに連行され、各地から移民(異邦人)が
流入して様々な神々が拝まれるようになりました。新約の時代にはローマの退役軍人の町
が建設されました。神の都エルサレムから見ると1ランクも2ランクも低い地でした。
元々ガリラヤとは「周辺」という意味で、いわば僻地。神の威光も届かない闇の地で、
死の陰の谷(実際病人や障がい者も多かったらしい)でした。戦争の惨禍が今なお残る
地と言ってよいでしょう。
 神の御子はそのような地に来られました。
「その名は『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの
王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない」。キリストにある平和は絶える
ことがありません。日本も1945年に第二次世界大戦が終わってから戦争をしていません。
しかしそれも怪しくなってきました。確かに自衛隊員が直接戦闘行為をしてはいませんが、
イラク戦争では航空自衛隊がイラクで輸送した人員の7割は米軍兵士でした。これは参戦
と言えます。現代では正規の?戦争よりはテロが平和を壊しています。今後日本を標的と
したテロが増えると予測されます。それにも関わらずイエスはこう言われます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与える
ように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)
2016年7月31日 「神の子」とはイエスをメシアすなわちキリストと信じる人です。メシア(ギリシャ語でキリス)
トの元の意味は「油を注がれた人」ということです。油を注がれるのは王や預言者・祭司
などで国のピンチの時に人々を導く務めを持っていたので「救い主」という意味に変わって
いったのです。イエスを救い主と信じる人は神の子で、同じように神から生まれた者つまり
兄弟を愛します。教会では信者同士を兄弟姉妹といいますが神への愛によって結ばれて
いる関係です。3節では掟という言葉が出てきます。掟というと何か厳しいような気がします
が、神の掟は難しくないと言われます。親や兄弟を愛するのは意味では自然なことです。
仲のよい親兄弟でなくても、親兄弟が亡くなれば、悲しさを感じたり寂しさを感じるものです。
夫婦もそうですが、生の時を共有していた者がなくなると、自分の一部分が引き裂かれた
ような感じを受けます。けれども愛は自然的感情では終わりません。意志的に生み出し、
育て上げていくものでもあります。この意志の必要な部分が「神の掟」です。神を愛すると
は、神が愛する人々を愛することです。ヨハネは「神の掟は難しいものではありません」と
断言します。世の中には、見ているだけでムカつくような人もいます。けれども神が私を
愛してくださり、私のために神の独り子イエスの命を犠牲にして私の罪を赦してくださった。
それが信じられたら、辛さをも越えるのです(辛いことがなくなるのではありません)。どんな
に辛いことがあっても(もちろん辛い!)イエス・キリストを私にくださった神の愛がそれを
凌駕していくのを体験します。
2016年7月24日  キリスト教は最初はユダヤ教の一派(ナザレ派)でした。だからクリスチャンは安息日
(土曜日)にユダヤ教の神殿や会堂の礼拝に出席していました。そして「家ごとに集まって
パンを裂き喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美してい」(使徒2:46)ました。
しかしやがてユダヤ教の神殿や会堂から排除されます(ヨハネ 9:22)。そこでイエスを
信じる者たちだけで日曜の勤務後に仲間の家に集まる食事の集まりが会堂や神殿の礼拝
に取って代わるようになりました。そこでは普通の食事(愛餐会=アガペー)で供されるパン
とぶどう酒を使って聖餐(ユーカリスティア)が行われました。しかし11:17以下にあるような
問題から愛餐会と聖餐が分離されるようになったとされます。
 教会は「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろ
うと、皆一つの体となる」(12:13)画期的な場でした。ところがコリントの教会では豊かな者と
貧しい者の間に隔たりが出来てしまったのです。「パンは一つだから、わたしたちは大勢
でも一つの体です」(10:17)という言葉は教会の一体性を表す聖餐式の大事な言葉ですが、
これがその通りに語れなくなった。もはや聖餐式としての意味をなさなくなっていたのです。
だからパウロは強い言葉で警告します。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、
自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と。主の晩餐(聖餐)は教会の礼拝の
中心に位置し、キリストと信仰者を一体とし、天の教会と地上の教会を結び合わせる交わ
りです。
2016年7月17日 14章のはじめに「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と
あります。旧約聖書の律法に従って食べていいもの、いけないものを判断する人もいれば、
すべてはきよいと考える人もいました。パウロは「何を食べてもよいと信じている人もいま
すが、弱い人は野菜だけを食べている」と言います。禁忌にとらわれているのは弱い人
です。けれどもパウロはそのような信仰の弱い者に配慮せよと命じます。なぜなら、信仰
の弱い人もまた神が受け入れたひとりですから。
 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。ここに私たちの生き
方の根本があります。ライフスタイルには様々な流儀や礼儀作法があっても、突き詰めれ
ば生も死も主のためということに尽きます。
 人は、慣れ親しんだものを絶対化しがちです。この箇所に即して言えば飲食の問題…酒
やたばこ、あるいは異教徒の宴会(法事)への参加があります。ある人はなるべく避けよう
としますし、ある人はまったくこだわらないでしょう。自分と違う人を見て眉をひそめたこと
ありませんか?そういう人を「弱い人」と言っています。私たちは弱さを抱えながらキリスト
に従おうとしています。パウロはそういう人たちの躓きにならないようにと警告しています。
「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を
罪に誘う者には悪い物となります」。正しさだけでなく弱い者への配慮ができるように祈り
求めましょう。
2016年7月10日 謙遜、すなおさ、柔和さを持った
 子供のように、従わせてください、
 低くへりくだった主の跡に。
怒りは、私と無縁のものに、
 憎しみ、ねたみは、消え去るよう。
あなたの愛ですべてのものを、
 全く新たにしてください。

私の意志をあなたのうちに包み、
 御光の真理に目を留めさせ、
 真心をもって、仰がせてください。
信仰の全き力のあかしをし、
 きよめられた心を愛として、
 しみなき命が賛美となるようにしてください。
            by チャールズ・ウェスレー
A Collection of Hymns for the Use of the People calles Methodists 341番
 2016年7月3日  新約聖書に出てくるユダヤ教の教派は預言者ナタンと同時期に活躍した祭司ツァドクに
由来するサドカイ派と、律法を守らない者と自分たちを区別(>差別)するファリサイ(分離)
派です。サドカイ派は神殿崩壊で消滅し、「ラビ的ユダヤ教」、「ユダヤ教正統派」と呼ばれ
る現在のユダヤ教はファリサイ派に由来します。
 パウロは最高法院で取り調べを受けた時に、議員達の中にファリサイ派(律法学者)がい
るのを見て『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』
と叫んだため、律法学者たちがパウロ支持に回り、議場は大混乱し、ローマ軍の隊長リシア
がパウロを救出しました。総督フェリクスはナザレ派(後のキリスト教)に詳しかったけれど
も、ユダヤ人を喜ばせるためにパウロを勾留し、パウロからは賄賂を取ろうとしていました。
 サドカイ派とファリサイ派の抗争と協力、それら旧来のユダヤ教によるイエスをメシアと
するナザレ派への迫害。同じひとりの神を信じているのに争い合うのが人間社会であり
人間です。パウロはそういう中で翻弄されていきます。しかしパウロに与えられたビジョンは
ローマ、さらにはスペインでの伝道でした。身の危険をも顧みず、ただ神のみ心を実現する
ために働き続けたぱうろの生き方に目を向け、聖霊の働きに感謝しましょう。
2016年6月26日  今日読まれた所の直前には中風のアイネアが癒やされた記事があります。続いて今日
の個所では病気で亡くなったタビタが生き返ったことが記されています。
 「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」これはタビタが神の愛を受けていたこと、
また神の愛に応えて生きていたことを示すものです。そして多くの人々が彼女の愛を受け、
また彼女を愛していました。人々は彼女の形見=彼女が作ってくれた服の数々をペトロに
見せました。
 ところで、ヤッファの弟子たちは何のためにペトロを呼んだのでしょうか。おそらくタビタが
生き返るとまでは思っていなかったと思います。愛する仲間の弔いに際して、弟子たちの
指導者であるペトロがすぐ近くまで来ていたから、一緒に追悼してほしいと思ったのでしょう。
 けれどもペトロは彼らの期待以上のことをしました。彼が祈って「タビタ、起きなさい」と
言うと生き返ったのです。
 ペトロは「皆を外に出し、ひざまずいて祈り」というところに注目しましょう。エリヤがサレプタ
のやもめの息子を生き返らせた時もエリヤは遺体を自分の部屋に運んで祈りました。
エリシャがシュネムの婦人の息子を生き返らせた時も遺体と二人だけで祈りました。神と
一対一で祈ることの大切さとその力を覚えます。
 なお、聖書に記された病気の癒しや死者のよみがえりはあくまでも終わりの時の復活を
指し示す「しるし」であることを心に留めましょう。
2016年6月19日  ユダヤ人と異邦人。ユダヤ人はアブラハムが神さまからいただいた約束を誇りにして
いました。自分たちは神さまから選ばれた民である、と。そして異邦人は本当の神さまを
知らずにさまざまな被造物を拝んだり、自分の心の中で作り上げたイメージを神として拝ん
でいました。両者を一つにするものは政治・経済・軍事における利害関係をもとにした
同盟関係ぐらいで、人間のあり方(神と共に歩む生き方)において一つになる事はありませ
んでした。
 その隔たりはエルサレムの神殿にもはっきりとありました。「異邦人の庭」と呼ばれる
ゾーンがあり、そこまでは誰でも入れましたが、その先は異邦人には禁じられていたのです。
 しかし、イエス・キリストはこの両者を一つにしたのです。ユダヤはローマに支配されて
います。その前はギリシャ(マケドニア)に支配されていました。敵対感情が強くあった
はずです。しかしクリスチャン達はローマ人にもギリシャ人にも、もちろんユダヤ人にも
等しくイエスこそ救い主であることを宣べ伝えました。ユダヤ人の中からも異邦人の
中からも、この福音を信じる者が起こされ、両者が一つの教会を形成するようになった
のです。
 こうして(民族・言語・習慣が)違う背景を持つ者たちが一つの教会を形作ります。もちろん
数々の問題が起こります。けれどもそれを通して「組み合わされて成長し、主における聖な
る神殿となり、キリストにおいて、共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとな」ります。
2016年6月12日  神さまはイスラエルの民にモーセを通してシナイ山で契約(十戒をはじめとする律法)を
与えられました。主が山の上に降られた時、山全体が激しく震えました。人々も恐ろしさの
あまり震えました(出19章)。ヘブライ人への手紙の著者はこの時の様子を思い起こしなが
ら、私たちに与えられている恵みと対比します。旧約の世界では神が臨在する聖なる山に
触れる者は、石を投げつけて殺さなければなりませんでした。人は聖なるお方に触れるこ
とは許されませんでした。しかし、新約の世界では私たちは「すべての審判者である神」に
近づくことが許されています。
 それだけではありません。新しい世界が約束されています。被造物はすべて取り除かれ
ます。そして揺り動かされない御国が到来します。この揺り動かされない御国とはなんで
しょうか。まず文字通りには、この世(今ある被造物)が取り除かれて、新しい天と地が
出現することです。ヨハネの黙示録がそのことを示しています。キリストがもう一度私たち
を天国に入れるために来てくださいます。私たちはそれを待っています。
 第二の意味としては、揺り動かされることのない信仰でしょう。揺り動かされやすい信仰
が取り去られ、揺れ動くことのない信仰〔つまり全面的なイエス・キリストへの信頼〕が与え
られる時、私たちは何事につけても神さまに感謝をすることができるようになります。
2016年6月5日  聖霊降誕節第4主日の主題は〈信仰の道〉で、朗読される聖書は旧約:ハバクク2:1-4、
使徒書:Tヨハネ2:22-29、福音書:ヨハネ3:22-36、旧約への応答としての詩編による
賛美は16:7-11が指定されています。
 救いはただ神の憐れみによるものです。では私たちは何もすることがないのでしょうか?
 ハバクク書はそうではないと言います。「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って
見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。しっかりと
目を開き、ちょっとした動きも見逃さないようにするのです。そのような態度で神が何を語ら
れるのかを聞き取ります。み言葉を受け取る準備をして、私たちはみ言葉や説教に臨む
べきです。
 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ」。説教を聞いて
恵まれた。でも忘れた。神さまの私に対するみ心を忘れないようにすることが大切です。
 「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。神さまの
ご計画が成る、それを待っておれというのです。忍耐強さが求められます。何にも増して
神さまのご計画に自らを委ねることが求められます。
 「神に従う人は信仰によって生きる」。神を当てにせず自らの運命を自ら切り拓こうとする
人がいます(たいていの人はそうでしょう)。けれども預言者はそれを高慢だと言います。
神に従う人は神さまへの信頼が生きる術です。
2016年5月29日 「学び続ける人は、たとえその人が80才でも若いと言える。逆に、学ぶことをやめた人は、
20才でも年老いている。人生で最も素晴らしいことは心をいつまでも若く保つということだ。」
                                         (ヘンリー・フォード)

 学び続けるとは、自分が持っているもの・知っていることで事足れりとせず、もっと良い
ものをめざすことです。一方には「恵みはあなたに対して十分」と言われますが、他方では
上にあるものを目指して走る生涯でもあります。
 ただし積極的に学び続けるのはそれなりに努力の必要なことです。若々しくあるためには
努力と苦痛が欠かせないのでしょうか。聖書はちょっと違うことを述べています。

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを
知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。

「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、
歩いても疲れない。…国々の民よ、力を新たにせよ」。        (イザヤ40:31-41:1)

主はお前の罪をことごとく赦し病をすべて癒し命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ鷲のような若さを
新たにしてくださる
                                       詩編(103:3-5)
2016年5月22日  「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(10,11節)、そして「わたしが父のもと
へ行く」ことによって上に掲げた聖句が実現されます。父と御子イエスとの関係は、御子が
天に挙げられると、「真理の霊」「があなた方と共におり、これからも、あなたがたのうちに
いる」という対応を引きおこすからです。
 つまり、聖霊が私たちと共にいてくださることによって、私たちはイエスさまの業を、もっと
大きな業を行うようになります。
 イエスさまがなさった業より、もっと大きな業ができるとはどういうことでしょうか?ほんとう
にそんなことが可能なのでしょうか?
 救いに至る道を考えましょう。直前の14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」はイエス・キリストが私たちの
罪の身代わりとなって死んでくださった、その死によってでなければ天国に行くことはでき
ないということです。どんな立派な牧師や聖人と呼ばれる人でも人の罪の身代わりにはな
れません。この点ではイエスの業はユニークです。けれども、そのことを宣べ伝えるための
「口や足」はどうでしょう?主は3年ほど神の国の福音を宣べ伝えましたが、徒歩でガリラヤ
からユダヤ、及びその周辺にしか宣教しませんでした。弟子たちは聖霊によって宣教を
引き継ぎインドからヨーロッパまで広げました。今日世界の至る所に宣教の拠点たる教会
があります。私たちが主の手足となり、教会が常に聖霊と一つになって主の業を行うよう
祈りましょう。
2016年5月15日  今日はペンテコステです。50日という意味で、ユダヤ教の過越の祭(キリスト教の復活祭)
から50日目で、イスラエルでは「七週の祭」という春の収穫祭でした。主イエスが天に昇ら
れて10日後のこの日、弟子たちに聖霊が降ったので教会では聖霊降臨祭と呼ばれてい
ます。また教会の誕生日とも言われます。
 今日読まれた聖書の個所では、一見すると関係がないように思われる「聖霊を送ってくだ
さる」ことと、「イエスの掟を守る」こととが渾然一体となって語られています。この両者の
関係に注目したいと思います。
 まず、聖霊について主イエスの約束に目を留めましょう。聖霊は「弁護者」「真理の霊」
「すべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」方、「永遠に
一緒にいてくださる」方です。
 掟については、主イエスを愛する者は主の掟を守ると何度も言われます。またイエスを
愛さない者はその掟を守らないとも言われます。
 主の掟とは、全力で神を愛すること、その具体的な姿は隣人を愛することです。しかし
具体的な局面では何が主に従うことなのかわからなくなることもありますし、「出来ない」と
感じることもあります。何がみ心で何をすべきかを教えてくださる方、それに必要なことを
供えて共に立ち向かわせてくださる方が聖霊です。聖霊と共に主の掟=隣人愛に生きる
「あなた方」=教会こそ主の平和を作り出す群です。
2016年5月8日  アブラハムさんには二人の男の子が生まれました。一人目は奥さんのサラさんの
女奴隷のハガルさんから生まれたイシュマエル君。でも神さまはアブラハムさんの後継ぎ
はイシュマエル君ではないと言われました。後継ぎはサラさん生まれた男の子だというの
です。
アブラハムさんが100歳、サラさん90歳のときにやっとサラさんに子供が生まれました。
イサク君でした。ところがお母さん同士の仲が悪くなりました。二人とも「わたしの子が
後継ぎよ」とおもっています。サラさんは「ハガルとイシュマエルを追い出してください」と
アブラハムさんに言いました。それでハガルさんとイシュマエル君はアブラハムさんの家
から出て行きました。
 ハガルさんはイシュマエル君を連れて荒れ野をさまよいました。水筒の水もなくなって
しまいました。「もうすぐ死ぬのね」と思ってハガルさんは泣きました。イシュマエル君も
泣きました。すると天使が水の飲める井戸を教えてくれました。二人は助かりました。
 神さまとアブラハムさんの約束を受け継ぐのはイサク君でした。でもイシュマエル君の
お母さんはイシュマエル君を力一杯抱きしめて愛しました。神さまはイシュマエル君を
立派な人にしました。一番になる人だけが大事ではありません。お母さんにとっては
どの子も大切です。神さまにとってもあなたが大切です。
2016年5月1日  イエスさまは福音書の多くの所で「天の国は○○のようなものだ」と、たとえ話をなさいま
した。しかし、聖霊が弟子たちに降る時、もはやたとえで神の国(神の支配)を垣間見るの
ではなく、神の国のまっただ中に入っていきます。聖霊が人のうちに満ちるとは神の霊と
人との神秘的な一致です。異言や預言といった目に見えるしるしを重視する人もいますが、
究極的には、おとめマリアが神の母となったことに表されます。聖霊とマリアとが一つと
なって独り子なる神が世に生まれ世の光となったのです。
 弟子たちは3年ほどイエスに従って来ましたが、イエスが何者であるかを本当に知った
(体験した)のはペンテコステです。彼らはそれまでイエスと一緒に生活して、見聞きしてき
たことの真の意味をこの時悟りました。聖書を読んで神について、イエスについて知ろうと
しても聖霊に照らされなければ正しく知ることができません。それ故に聖霊は真理の霊(16:13)とも言われています。
 聖霊はイエスの言葉を悟らせます。イエスの言葉の持つ力は、さまざまな苦難に対して
打ち勝つことができます。なぜならイエスご自身が苦難を体験し、死をも体験し、それを
克服したからです。イエスのこの勝利の力はイエスを信じる者すべてに与えられています。
イエスの勝利をわたしの勝利としていただく時に平和が訪れます。前にお話ししたように、
主によってあらゆる困難に打ち勝つ力が平和です。
2016年4月24日 キリストの福音は信じる者に自由を与えます。今年度のみ言葉としてヨハネ8:32を掲げま
した。真理(キリストの福音)を知る(体験する)ときわたしたちは自由になり解放されるの
です。言い換えると私たちが自由を持っていないなら真理の奥深くまで達していないと言う
ことでしょう。洗礼を受けたから・教会生活が長いからというだけでは、福音の奥深くまで
到達できているとは言えません。確かに信じる者は誰でも救われています。天国は約束さ
れています。しかし福音はもっと奥深い恵みを用意して私たちを待っています。それは隣人
愛に生きるということです。でも簡単ではありません。
 パウロは「霊と肉」という対比をします。肉は食肉や肉体のことではありません。生まれな
がらの人間性、神に対して背く傾向をもった人間のありようを指しています。そのため
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:19)のです。では
キリストの福音は、罪を犯しては悔い改め赦しをいただく…の繰り返しでそれでおしまいで
しょうか。
  No! イエスの十字架の死がわたしのための死だったと信じる人はあの十字架上でわた
しの「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」のです。罪に傾いていくわたしたち
の人間性はイエスの死と共に死にました。だから肉的な生き方に頼らずに霊的な生き方を
しようとパウロは勧めます。愛によって互いに仕える生き方です。この霊的な生き方は聖霊
の結ぶ実をいただくことによって実現します。わたしたちは、霊の導きに従って生きている
なら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
 2016年4月17日 ○「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛している
ことは、あなたがご存じです」 の問答3回はペトロが3度イエスを「知らない」と言ったことに
対応する。そのようにしてペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と命じておられる。
○「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を
とると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
信仰の歩みは自分の好きな道ではない。ペトロの場合は殉教への道だった。しかし、
そこで神の栄光が顕れる。それを踏まえてイエスは
○「わたしに従いなさい」と言われた。 ペトロはもう一人の弟子について「この人はどう
なる…」と質問した。イエスの答は「彼は関係ない。あなたはわたしに従いなさい」である。
わたしたちはつい他人と比較したがる。しかし、主の恵みは比例配分ではない
(マタイ20章)。
わたしたちが主に従う時も「あの人があの程度だから私はこの程度」ではない。パウロが
天のものをめざして走り抜いたようにキリストのみを目当てに歩んでいくことが求められて
いる。
 2016年4月10日  ヨハネ21章は初めからあった「あとがき」だと考えられている。復活のイエス・キリストは
マグダラのマリアに現れ、トマス以外の弟子たちに現れ、トマスを含む弟子たちに再び
現れた。けれども舞台はガリラヤへ戻る。「わたしは漁に行く」とペトロが言い、他の弟子
たちも従った。元の漁師に戻るのか人間をとる漁師になるのか彼らは決断できていな
かった。
 そんな中途半端な気持ちを魚も察知したのか、一晩漁をして漁獲は0だった。「舟の右側
に網を降ろしてごらん」という人物の言葉に従ったら網が一杯になった。著者また弟子たち
にはルカ5章が念頭にあるだろう。ヨハネが「主だ」と叫ぶ。
 彼らが一杯になった網を曳いて岸に戻ると既に主は弟子たちのために、炭火を起こし、
パンと魚を用意してくださっていた。そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と声を掛けら
れた。
 主ご自身が用意された食物と共に弟子たちの穫った魚が加えられたことは象徴的である。
人の働きを主は不要とされない。しかし、この漁獲も「舟の右側に網を降ろしなさい」という
主の言葉に応答した故に与えられたものであることに注意を払うべきである。
2016年4月3日 イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:19)

上の言葉は19節と26節に繰り返されている。この言葉は「こんにちは」と同じ挨拶だが、
日本語の挨拶と違い明確なメッセージが込められている。そしてこの時の弟子たちに必要
な言葉だった。彼らは恐れて鍵をかけていた。主はその心に語りかける。「恐れることは
ない。あなたがたを遣わす。そのために聖霊を受けよ」と。平和とは平穏無事なことでは
なく、力に満ちあふれた状態だ。神の平和は聖霊に満ちあふれることにある。
 トマスは復活を疑ったので「疑い深いトマス」と呼ばれる。死者の復活とは非常識なことだ。
だから大いに疑うべき事なのだ。だが、イエスの真臨在に触れた時、彼は指を傷跡に
入れるよりも確かな確証を得て「わたしの神」と告白した。イエスを神と呼んだ最初の人
である。伝承ではインドまで宣教したとされている。
2016年3月27日  主とあがめていたイエスが死んでしまった。イエスに罪がないと知っていた総督ピラトが
無罪判決を出してくれることを望んだけれど、最高法院に屈して十字架刑を宣告。十字架
の上でも天使が助けに来てくれることを望んだけれども「終わった」と言って死んだイエス。
兵士が脇腹を槍で突くと血と水が流れ出し、もはや逆転の望みもなくイエスの敗北は明ら
かとなりました。弟子たちにとってどれほどの衝撃であったでしょうか。とりわけ多くの罪を
重ねてきたのに許され弟子の一人に加えられたマグダラのマリアの悲しみはひとしおでし
た。彼女は安息日が明けると日が昇る前に墓へ行きました。行ってどうなるものでもない
けれど、行かずにはいられなかったのです。墓の石が取りのけてあるのを見てペトロと
ヨハネを呼びました。彼らは墓が空であることを確認して帰りました。自分達の身の振り
方を考えねばなりません。
 マリアは主の遺体を確認するまでは帰る気になれませんでしたが、今彼女にできること
はただ泣くことでした。なぜ泣いているのか、自分でもわからず、主の姿を探し求めていま
した。人がいれば遺体の行方を尋ね、自分が引き取ろう。それしか考えられなかったの
です。
 園丁らしき人に「マリア」と呼ばれた時、イエスであると気がつきました。名前で呼ぶ時に
人格的な関係が生まれます。彼女の涙はイエスとの人格的な関係の喪失によるもので
した。しかし、今この人格的関係は回復されました。「わたしは主を見ました」。彼女は最初
の復活の証人となりました。泣いていたマリアは力強い証人としてイエスを証しし続けて
います。
2016年3月20日  キドロンの谷(暗黒の谷)は、この世の終わりに最後の審判が行われる谷とされ、その時
に死者が蘇るという伝承から、多くの人々がここに墓地を作った。アブサロムの墓もまた
ここにあります。キドロンの谷の向こうの園とはゲツセマネの園です。ヨハネが園の名前で
なく谷の名前を出したのは、死の暗黒と復活の連想からでしょう。主イエスはこの谷を通り、
ゲツセマネの園で捕らえられました。イエスが「わたしである」と言った時捕らえに来た人々
はイエスの威厳に圧倒されて後ずさりして倒れました。
 ペトロは剣を抜いて戦おうとしましたが、イエスは「父がお与えになった杯は飲むべきで
はないか」と押しとどめました。ヤコブとヨハネに「私の杯が飲めるか」と尋ねたあの杯です。
それはとても辛いものでした。「この杯をわたしから取りのけてください」と血の汗を流して
願われた杯です。けれども「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
と委ねられました。
 主イエスのこの苦しみの杯は、わたしたちには喜びと平和の杯となります。「渇きを覚えて
いる者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べ
よ。来て、銀を払うことなく穀物を求め価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザヤ55:1)
「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」(イザヤ12:3)
 11:51で大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合」だと助言して
いました。イエスの十字架に預言です。彼が預言したのは彼が大祭司だからでした。
2016年3月13日 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を
結ぶ。」(ヨハネ12:24)

上に掲げた言葉はとても有名です。イエスさまがご自分の命を犠牲にして、それによって
神さまは多くの人の罪を赦してくださいました。しかしもう少し深く見ることができます。
 イエスさまに会うためにギリシャ人が来ました。先にはイエスさまは「わたしはイスラエル
のために遣わされている」とギリシャ人女性に言いました。しかしまたもやギリシャ人が
会いに来たのです。それでイエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃった
のです。そうすると「多くの」とは、単に人数のことではなく、ユダヤ人のみならず民族を
超えてという意味を持つのではないでしょうか?イエスさまはユダヤ人の罪のためだけで
なく、すべての民族が主に帰する、そのために十字架にかかられました。
 洗礼者ヨハネはイエスに顕れた神の栄光を見て証言しました(1:32)。福音記者ヨハネも
証言しています(1:14)。その栄光がここでも顕されます。ギリシャ人にも顕されたのです。
けれども多くの人にとって、それは雷の音のようにしか聞こえません。他の人は天使の声
のようだと言いましたが、内容まではわかりません。聖なる神さまのみ声が聞こえて、
わかるかどうか。そこにわたしたちの霊性が表れます。わかる人、聖なる声だとはわかる
けど内容のわからない人、雷の音だと思う人…。
 光の子となるために、光のあるうちに(今は恵みの時、救いの日)光を信じ、光のある
うちに歩きましょう。ただイエスさまのあとに従って。聖霊がその道を示してくださるように!
2016年3月6日  ルカはこの家での出来事をマリアは主の足もとで話に聞き入っていたとしています。主は
それをもてなしよりも必要なこととしてお認めになりました。ヨハネはマリアが香油を主の足
に塗り、自分の髪でぬぐったと書いています。
 この時の態度が3通り記されています。@マルタは現実主義者でした。彼女は大切な
お客さんたちをもてなすために給仕をしていました。マリアも自分と一緒に働いてほしかっ
たのにマリアがそうしてくれないことに不満を持っていました。A他の人たちはイエスさま
の話を一生懸命聞いていました。そしてイエスさまの話に納得し、神を賛美したことでしょう。
そこでの話の内容は記されていませんが、主はしばしば貧しい人・小さな者を大事にする
ことを説かれました。そこから考えるならマリアが高価なナルドの香油を1リトラ=326gも
一気に消費してしまったことは無駄遣い以外の何ものでもないと憤慨しました。彼らは理想
主義者と言えるでしょう。Bマリアはなぜこんな事をしたのでしょう?ナルドの香油は1滴で
も部屋を満たすことのできる香油です。1リトラも必要はなかったのです。けれども彼女は
主がもうすぐ逮捕され処刑されることを感じ取って、主への思いをうまく表現できないかっ
たのです。
 それを主は「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを
取って置いたのだから」と受け止められました。表現の上手下手はそれぞれです。しかし
主はその信仰を受け止めてくださいます。
2016年2月28日  少年のパン五つと魚二匹で五千人の人々が満腹しました。この奇跡で人々はイエスを
「この人こそ、世に来られる預言者だ」と言ってイエスを信じ、王にしよう(クーデターを起こ
そう)としましたが、イエスは応じませんでした。対岸に退き祈りの時を持とうとしたのでしょ
うが、翌日そこにも人々がやってきました。
 25 〜 40 節は奇跡の解説です。五つのパンは五人で食べればなくなります。しかしイエス
が与えるパンはなくならない。それどころか12 の籠一杯、その時いない人の分も充分に
ある。これはイエスの体、つまり聖餐のパンと重ねられています。けれども彼らは肉の糧と
していただいて満腹し、「しるし」=霊の糧に与らなかった。だからイエス・キリストと一致で
きませんでした。イエスが「わたしが命のパン(=天から降って来て、世に命を与える)であ
る」と言っても、「天から降って来たなんてバカなことをいうんじゃない。お前はマリヤから
生まれたんだろうが。しかもヨセフは本当の親じゃない…」としか言えません。「わたしの肉
を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させ
る」という言葉は文字通り人の肉を喰らい、生き血をすする野蛮な行為としか考えられませ
んでした。
 こうしてイエスを「来たるべき預言者」と信じた人々がたった一日で「こんな話は聞くに堪え
ない」と言って離れ去りました。ただペトロたちは「あなたは永遠の命の言葉を持っておられ
ます」とイエスへの信仰を表明しました。あなたはどちらの考え方をしてきましたか?これからどう考えたいですか? 信仰告白は自然の理性を超えます。聖霊による理解を求めま
しょう。
 2016年2月21日  メーテルリンクの「青い鳥」という童話があります。病気の娘のために青い鳥を探してきて
ほしいと頼まれて(夢の中で)旅に出ます。思い出の国、幸福の国、未来の国などへ行って
青い鳥を捕まえると色が変わってしまうのです。そうして、家に戻(って目が覚め)ると家に
青い鳥がいました。幸福を求めてあちこち探し回っても見つからなかったけど、実は日常
の中に幸福があるのだというお話しです。
 救いを求めて様々な宗教、さまざまな教会をさまよい歩く人がいます。あるいは聖会を
渡り歩く人がいます。そのすべてが無駄というつもりはありませんが、既に与えられている
恵みに目を留めて感謝することもできるのではないかとも思います。
 イエスさまによってシロアムの池で目を開かれた盲人はファリサイ派に言いました。「ただ
一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。彼にはこの
事実こそが救いでした。しかし、自分の事実と来たるべき救い主の関係には気がついて
いませんでした。けれどもイエスの言葉によって、自分の目が開かれたことと、救い主の業
とが関係づけられ、「主よ、信じます」という告白になりました。
 ファリサイ派の人々はよく聖書を学んでいました。でもそれが実生活と結びついていませ
んでした。戒律を守ることに熱心でも、日常生活の中に恵みを見出し、感謝することを知ら
なかったのです。盲人は直前まで物乞いをしていましたが、救いを示す者とされました。
 2016年2月7日 今週の主題は「奇跡を行うキリスト」です。
 今日もフィリポとアンデレが出てきます。1章では主イエスを「メシア」として人に紹介した
この二人が、今日の個所では主の奇跡を引き出す役目を担っています。
 五千人の人々に食べさせるにはどうしたらよいか?フィリポはパン代を計算し200人分の
給料に相当するとはじきます。アンデレは現在ある食糧を報告します。少年がパンを五つ
と魚を二匹持っている。これは自分の分として持って来たものです。一人分の食糧では五
千人の人には「何の役にも立たないでしょう」。しかし、主が感謝の祈りを唱えて人々に分
け与えたら人々は満腹しました。このパンとは信仰であり賜物です。自分には豊かな賜物
がないと思っていませんか?わずかな賜物だと思っても感謝して用いれば大きく用いられ
ます。
 今日私が特に注目したいのは、その後にある上に掲げた言葉です。集めたら12の籠に
一杯になったと言うのです。このパン屑はどうなるのでしょうか。主は廃棄処分にはなさい
ません。このパン屑の賞味期限は永遠です。マタイとマルコでこの奇跡の記事の後を読ん
でいくとティルスで異邦人の女と出会います。娘から悪霊を追い出してほしいと願います。
主は「わたしはイスラエルの家にしか遣わされていない」と断りますが彼女は「食卓の下の
小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言います。信仰はこのような人のものです。
ヨハネはこの奇跡の後、主が「わたしは命のパンである」と言います。永遠の命である
キリストの体と血に与り、豊かに用いていただきましょう。
 2016年1月31日 降誕節第6主日の主題「いやすキリスト」

 今日の個所では三つのことが問題になります。一つは「安息日」です。この個所では安
息日にイエスが病気をいやしたことが問題になっているのではありません。いやされた人
が床を担いだことが安息日の律法に違反しているとされたのです。床を担ぐよう命じたの
はイエスでしたので、この男の違反の責任がイエスに対して問われました。しかしイエスは
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)と答えられまし
た。
 二つ目は「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪い
ことが起こるかもしれない」(14節)です。彼が38年間病気で苦しんでいたのは、かつて犯し
た罪のためなのかどうか?それは明確ではありません。しかし苦難から解放されたなら私
たちは自分自身を神の栄光のために用いるべきでしょう。
 最後に、この人はどのようにいやされたでしょうか?彼は病気で池のほとりに横たわって
いました。 水が動く時に水の中に入ればいやされると言われていましたが、「池の中に
入れてくれる人がいない」のでいやされなかったのです。彼は自分を池の中に入れてくれ
る人が現れるのを待っていました。しかしイエスは彼を池の中に入れてくれるのではなく
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じました。神の力が彼に現れた時、彼は
自分の病身を支えてきた床を担ぎ上げて、自分の足で歩き出したのです。安息日にふさ
わしいのは、むしろこの病人が力強く歩き出したことでした。
2016年1月24日 降誕節第5主日のテーマは「教えるキリスト」です。今日の個所は主イエスがご自身と救い
についてユダヤ人たちに教えておられます。
・「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことに
なる。」(24節) たいへん厳しい言葉です。『わたしはある』というのは神さまのお名前です
(出3:14)。イエスさまが語られることは父なる神様が語られることであり、神さまとイエス
さまは一体であることが表明されています。
・「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたち
は真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(31,32節) 先週、洗礼者ヨハネの弟子
たちがイエスの弟子になる時に「先生、どこに泊まっておられますか」と尋ねたのは「どの
ような福音に立っておられますか」という意味だと申しました。使徒ヨハネは福音書を
「初めに言があった」という文で始めました。初めにあった言とは独り子なる神イエス・
キリストご自身を指しています。イエスの言葉とは神の言葉であり、イエスご自身です。
イエスに立脚する者は、地上の様々な束縛から自由になります。私は「洗礼を受けて
クリスチャンになったら、いろんな制約を受けるから嫌だ」と思っていました。でも逆で
自由になれました。
・「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(34節) 最大の自由は罪からの自由です。
罪は私たちを誘い、罪を犯させます。しかし、それに囚われず、立ち返ることができます。
2016年1月17日 降誕節第4主日の主題は「最初の弟子たち」です。
 新共同訳の底本になった写本では「見なさい」が入っていませんが、別の写本では「来て、
見なさい」となっています。後でWith Christという歌を歌いますが、そのサビの部分はCome
and See(来て見なさい)という主の招きであり、その応答Go with Christ(キリストと共に
行け)です。
 先週、洗礼者ヨハネは洗礼を受けたイエスさまに聖霊がとどまり、イエスさまこそ人々に
聖霊を授けるお方であることを証しし、指し示す方であると申しました。イエスを指し示す
ヨハネの指の絵も紹介しました。今日の個所もヨハネがイエスを「神の小羊Agnus Dei」と
指し示すところから始まります。ヨハネの弟子たちはヨハネのもとを去りイエスに従います。
38節〜40節は宿屋の話のようですが、福音書記者は「あなたは何に立脚して伝道するの
か?」の意も掛けています。「とまる」は原語でメノーですが、15章のぶどうの木のたとえの
「わたしにつながっていなさい」もメノーです。ヨハネ第一の手紙もキリストにとどまることを
強調します。
 弟子たちの質問に主は「来て見なさい」と答えます。理屈や道順の説明ではありません。
一緒に歩み体験してわかるのです。恐れずにイエスと共に歩き出すことでイエスの愛の道
が自分の道となることを体験するでしょう。
2016年1月10日 降誕節第3週の主題は主イエスの洗礼です。
他の福音書がその場面を描くのに対し、福音書記者ヨハネは洗礼式を再現するのではなく、
洗礼者ヨハネが弟子たちに証言する形で記します。
その証言は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(Agnus Dei)」で始まります。人々はメシアを
革命家として待ち望みヨハネに、後にはイエスにその役割を期待しますが、洗礼者は自身
について拒否すると共に、イエスを世界の罪を贖うための犠牲として紹介しました。
 洗礼者ははイエスを自分より優れた方と紹介します。この福音書ではその理由をわたし
よりも先におられたと説明します。ルカでは洗礼者の方がイエスより半年先に生まれます
が、ここでは創造者と被造物の関係を指します。
 洗礼者が洗礼を授ける目的はイエスがイスラエルに現れるためとされています。この言葉
に従えば洗礼者の中心的使命はイエスに洗礼を授けるためだったと言えるでしょう。
 イエスと洗礼者との洗礼における出会いを通してイエスに聖霊が降り、洗礼者は神から
約束された人がイエスであると知りました。それは聖霊のバプテスマを授ける人のしるしで
した。他の福音書ではイエスに聖霊が降る場面を、「神の霊が鳩のように御自分の上に
降って来るのを御覧になった」=イエスが見たと記します。けれどもこの福音書はあくまで
洗礼者ヨハネが見たこと体験したことの証言として記します。彼は「メシアではない、エリヤ
でもない」とイエスの証言者であることに徹しました。
2016年1月3日  ヨハネは福音書を「はじめにロゴスがあった」という文で始めました。ギリシャの哲学では
「はじめ」は「根本・根源」とも解されます。ロゴスは世間話や物語の「言葉」ではなく、論証
に耐えうる「言葉・論理」を指し、紀元1世紀のストア派の哲学では「神の論理」あるいは神
そのものをさえ指しました。これを踏まえてヨハネは福音書を書きます。世界の根源に神の
論理があり、それは神と共にあり、神そのものでもあった。神の論理は冷たい理屈では
なく命を持って人を救うパーソナリティで、しかも宇宙の遠くはるかかなたから人間を監視
するのではなく、この地上で人体をもって生活された。
 この段落には「恵みと真理」が2回出てきます。真理は証拠により立証された事実といっ
た意味合いを感じる方が多いと思いますが、ロゴスと深い関係にあります。神のロゴスが
人格的であるならば、神の真理も人格的です。
 神のロゴスを「神のみ心」と訳すなら、神の真理は神のみ心から発する「神の愛」と言え
ます。イエス・キリストは「神のみ心」と「神の愛」が人格として具体的に肉体を持ってこの世
を歩まれた方です。
 キリストを信じるとは、哲学的・神学的理論に共鳴することではなく、地上を歩まれた
イエス・キリストと人格的に出会い、その愛の中に包み込まれることです。

今年の「命の言葉」を読む
2017年「命の言葉」
 2015年「命の言葉」

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