日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2016年「命の言葉」
 2014年「命の言葉」



2015年12月27日  2015年が終わろうとしています。私は20世紀最後の2000年に聖地旅行の機会を与えら
れました。「21世紀は平和の実現する世紀になる」、そんな予感を受けました。しかし現実
は各地で次々と政変が起こり、民族対立が起こりました。日本では大災害とそれによる
原発事故が発生しました。軍事では専守防衛の国是を捨て、同盟国のためなら世界の
どこでも戦いに出かけることができるようになりつつあります。今、私たちは国を司る人々
(政府と国会議員)のために真剣に祈る必要があります。
 私たちの目の前の状況は斯くの如くですが、聖書ははるか先まで見通して、希望を失わ
ないように勧めています。
 イザヤはエッサイの子孫から聖霊に満ちた者が現れ、正義を行うと預言しました。もちろ
んその第一はダビデ王ですが、ダビデに劣らぬ指導者が現れるという預言です。
聖霊=「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」として告げられます。
聖霊に満たされた指導者の支配=「弱い人のための正当な裁き。貧しい人を公平に
弁護」。結果として世界は「聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」
究極の平和の世界です。私たちはこの預言の成就を切実に祈り求めたいし、そのために
行動したいと思います。人間の思想や運動でもたらされるのではなく、聖霊によってもたら
されるものです。聖霊が働かれ、人は政治家も諸国民も聖霊に服するよう祈りましょう。
2015年12月20日  聖書が「罪」という場合、窃盗・傷害・殺人といった警察や裁判所のお世話になるような
犯罪だけではなく、神の御心(神との契約)に背く生き方と、そこから生じる行為とを指し
ます。
 罪の赦しには償いが伴います。「水に流す」ことはありません。世間一般なら損害賠償・
罰金・懲役などが課せられます。旧約聖書の時代は対人関係で損害を与えた場合は
相手への賠償だけでなく、神への賠償も必要とされ、私たちの命の代わりに羊や牛、
鳩などの動物の命によって償いがなされました。そして罪の償いとしての動物犠牲は
毎年行う必要がありました。つまり罪を赦されて聖なる(神との関係が正しい)者となって
も、一年経つ間にまた罪人となって聖さを失ってしまうのです。
 その繰り返しに終止符を打つのがイエス・キリストです。牛や羊ではなく神の子であり神
であるイエス・キリストがいけにえとなったことによって、神ご自身の内側に永続的な犠牲
の傷が刻み込まれました。それ故にもはや私たちが罪人とされる必要がなくなり、聖なる
者とされました。必要な犠牲は神が献げてくださった。感謝してそれを受け取るだけで
良いのです。
 クリスマスは、そのために神であるキリストが人として(罪人として)処刑されるために、
この世に来られたことを感謝する日です。ヨハネ福音書の冒頭は、このイエスキリストを、
言・命・光といったイメージで描きます。神である方がそこにいるのに、理解することが
できず、むしろ罪人というレッテルを貼って殺してしまう。そんな罪を神自らが負って
くださお方です。
2015年12月13日  この世界は必ず終わりを迎えます。核戦争によるのか、あるいは太陽がその最後を
迎える時なのか、地球の気候変動によって人類が死に絶えるのか…、それがいつかは
わかりません。いつであったとしても、その日に備えて、ということはつまり自分の死を
覚えて日々生きることを心がけましょう。
 終わりの時は救いの完成の時であり、また同時に審きの時、「大いなる恐るべき主の日」
「破滅」の日です。最近のキリスト教はあまり審きの恐怖を語らなくなりました。一つには人
を脅して、「そんな目にあいたくなかったら入信しなさい」という伝道方法への反省があり、
また社会の安定が地獄の恐怖を想像できなくしていることもありましょう。けれども大震災
や津波、テロなどが現実に起こり、巻き込まれた人々はこの世にあって地獄のような体験
をしています。来たるべき主の日にはそれはすべての人に襲いかかり、暗黒の中へ投げ
込まれるのです。ただし主の名を畏れ敬う者には「義の太陽が昇る」と言われます。義の
太陽とはキリストのことです(クリスマスの由来)。
 けれども神さまは突然襲いかかりはしないと言われます預言者。エリヤを遣わし、分断さ
れた人々の心に愛の灯をともし、心が通い合うようにします。それは洗礼者ヨハネによって
イエスさまの登場の備えとしてなされました。今も教会と聖書によって人々の心にイエスさま
が迎え入れられるように働きかけが継続されています。終わりの日が滅びではなく、救い
の完成の時となるように主の名を畏れて歩みましょう。
2015年12月6日 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れる
にちがいありません。(Iペトロ2:1)
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしに
ついてあかしをするものである。(ヨハネ5:39)
 北イスラエル王国7代目の王アハブは内政面では首都サマリアを建設。外交面ではシリア
の王女イゼベルを妻に迎えるなど、シリア、ダマスコなどとの同盟を強化しました。軍事面
では同盟国と共に超大国アッシリアとの戦いにも勝利するなど有能さを発揮した王です。
しかし、聖書は良い評価を与えません。神に忠実であろうとせず、イゼベル王妃がシリア
から持ち込んだバアル神を礼拝したからです。
 彼には御用預言者が400人もおり、彼の政策をヨイショするような預言をしておりました。
ラモト・ギレアドの戦いについても王の幸運を預言しました。こうした御用預言者に与する
ことを拒んだ預言者がミカヤでした。しかしアハブと同盟を組んだ南ユダ王国のヨシャファト
王は御用預言者の声だけを聞くことに不安を覚えミカヤを呼びました。イスラエルの高官
はミカヤに「王の幸運を預言せよ」と命じますが、ミカヤは拒みます。預言者の使命は
政治家にお墨付きを与えることではありません。教会の役割は政府にたてつくことでは
ありませんが、盲従することでもありません。牧師の役割も信徒が喜ぶ説教をすることで
はありません。だた神の言葉に聞き、それを告げ、悔い改めを促すことにあります。
そこからしか、本当の喜びと幸福は生まれません。
2015年11月29日  イザヤ書52:1「奮い立て、奮い立て 力をまとえ」は51:9にもありますので、一連の詩の
初めと終わりを飾る言葉と考えてよいでしょう。この部分(51:9〜52:3)は民の嘆きと救いの
約束を預言しています。エルサレムが囚われの身であることを嘆いています。
 52:4〜6は散文で書かれており、エジプトとアッシリアによる圧迫、そして今(バビロン捕囚)
のことが記されています。エルサレムの苦難の歴史を振り返っているのです。
 しかし、神である主が共におられるなら、苦難は苦難で終わりません。次の詩(預言の
言葉)は「いかに美しいことか」で始まります。エルサレムの人々は捕囚という苦難の中で
バビロンにおりますが、そこにあって「美しい」ものを見るように導かれます。それは解放と
平和を告げ知らせる使者の足です。また使者の声です。その告知に促されて彼らは
エルサレムへと帰って行く時を展望することができます。ただ自分たちだけが帰還するの
ではありません。捕囚の身から自由になるためには規律が必要です。無規律の自由は
自由にならないことは独裁政権崩壊後の各国を見ればわかる通りです。「イスラエル」とは
神が王となり支配する国です。神が支配してくださるとの告知を受け、人々は声を上げ、
賛美します。

 囚われの身にある人々を覚えましょう。冤罪で捕らわれている人々、拉致されて捕らわ
れている人々が解放の喜びを歌う日を望んで。
2015年11月15日  モーセの親は「男の子はナイル川にほうり込め」という王の命令に背いて3ヶ月まで育て
ましたが、それ以上育てることを諦め、赤子を籠に入れて川に置きました。王女がその籠
を拾ったおかげで死なずにすみました。籠を拾った王女は父の命令を知っていましたが、
自分の子として育てました。しかも、実母を乳母として採用し、自宅で養育させました(王女
は乳母が実母であると知っていたのではないでしょうか)。ヘブライ人を危険視し、ヘブライ
人を虐げ、ヘブライ人の子を殺せという残酷な命令が発布されても、命を大切にする人々
が他ならぬエジプト王室にも、そして虐げられている人々にも存在し、その人たちに守られ
てモーセは生き、成長することができました。
 王女は「水の中からわたしが引き上げたのですから」と言って名前を付けましたが、彼女
がこの子に名付けたことは、この子がどのような人物になるかの預言となりました。この子
はやがて神の民イスラエルをエジプトからカナンへ引き出す(マーシャー)者となりました。
 死ぬ寸前の赤子が、神の計画の中に巻き込まれ、大きな仕事を成し遂げました。
ディズニー映画「プリンス・オブ・エジプト」に自分がエジプト人ではなくヘブライ人であること
を知ったモーセがI am not I am.(ボクはボクではないんだ)と言う場面があります。
I am that I am.(わたしはあるという者だ)と言われる神にI am not I amが巻き込まれ、
自分の力では成し得ないことをしました。川から引き上げられた子を用いる神さまを賛美
しましょう。
2015年11月8日  アブラムは、父テラに連れられ文明都市ウルを旅立ち(11:31)、ユーフラテス川を遡って
ハランに定住しました。ハランもまた古代には東西の交通の要衝として栄えた都市でした。
テラはそこで死にました。
 12章では「生まれ故郷 父の家を離れて」とあります。ハランもまたアブラムにとって生まれ
故郷に等しい地だったのでしょう。75歳でそのような慣れ親しんだ地を去っていきます。
 聖書はただ主の言葉に従ってハランからカナンへ向かったとだけ書いてあります。故郷を
後にする辛さはどのようなものだったのでしょう?東日本大震災で今も避難生活を続けて
いる人たちの心を思います。
 アブラハムは、この後シケムからエジプトまでを行き来する生活をします。旅人であり、
寄留の外国人としての生活です。地上の生活においては定まった家のないテント暮らし
ですが、彼は神の約束に留まって、行く先々で祭壇を築き礼拝しました。
 今日、私たちはこの教会の会員として地上の生涯を終えて神の許に召された人々を記念
してこの礼拝を行っています。彼らはテントではなくちゃんとした家に住んでいたかもしれ
ませんが、住みなれた家を出て墓に入った。その墓すらも最終の住処ではなく、世の終わ
りに天国に入れられるまでの仮住まいに過ぎません。その意味で彼らも私たちも旅人です。
 アブラハムと私たちの教会の先達が通った町々で、その地の人々と交わりつつ、神を
礼拝することを大切にしたことを覚え、彼らと結ばれていることを神に感謝しましょう。
2015年11月1日  律法は神がイスラエルに与えた聖なる掟です。クリスチャンは「十戒」だけにしか目が
行かない傾向にありますが、十戒はいわば憲法にあたるものです。十戒によって生きる
人は申命記までの全ての律法を守る必要があります。
 パウロはイエス・キリストを信じる前は熱心なファリサイ派でした。その熱心さの故に
イエスをキリストと信じる人々を迫害したほどでした。その彼が「わたしは、かつては律法
とかかわりなく生きていました」というのはおかしい、これはパウロ自身のことではない
はずだ、という人がいます。しかし、律法を守ることに熱心であったけれども律法の本当の
意味を知らなかったということなのでしょう。律法を本気で守ろうとすれば、守れない自分を
見出し、罪の深さを知らざるを得ない。「自分は律法をきちんと守っている」と胸を張って
言える人は、実は律法をわかっていないから胸を張れるのです。
 自然的人間は誰しも欲望を持っています。自分の欲望を満たすためには他者と競い、
他者を打ち負かそうとします。掟がなければそれは「当然のこと」であり、「罪」とは思いま
せん。
 しかし、掟は欲望に規制をかけ、ある一線を越えるものを罪と定めます。律法が掟として
の本質を発揮すると、自己を内省し、罪にがんじがらめにとらわれている自己を発見せざ
るを得ないのです。つまり、律法は救いようのない自己を指し示すものに他ならず、人を
救うものではありません。
救いは律法ではなく、イエス・キリストの十字架と復活に示された神の愛にあります。
2015年10月18日  手紙の著者は信仰を「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と定義し、
信仰に生きた人びとを列挙します。私たちも来月、同様に信仰に生きた人びとの名を挙げ、
信仰の共同体を確認する時を持ちます。
 しかし、イエス・キリスト以前に信仰に生き、世を去って行った人々は、信仰を神に認めら
れながらも、約束されたものを手に入れることができませんでした。その意味において彼ら
は完全な状態に達しなかったのです。
 言い換えると、イエス・キリスト以後に信仰を生きる私たちは、完全な信仰を生きることが
できる幸いを与えられています。
 「完全」というと、神と同じになることと受け取り「あり得ない」と拒否する人がいますが、
イエス・キリストは明確に「完全な者となりなさい」と命じています(マタイ5:48)。主が命じら
れる完全とはどのようなことかは報告欄に書いた聖化大会のオズワルト先生と竿代忠一
先生のメッセージを聴いていただきたいのですが、ここではヘブライ人への手紙の著者が
言う完全だけ言っておきます。それは、上に掲げた聖句がそれです。旧約の信仰者たちは
イエスの姿を見ることができなかった。しかし、私たちは新約によってイエスの姿、とりわけ
私たちの罪の身代わりとして十字架に死んでくださった姿、罪と死の力を打ち破ってよみ
がえられた姿を知っています。このイエスから目を離さずに信仰の道を走るなら、それは
完全な信仰者の行き方と呼ぶことができるのです。
2015年10月11日  「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の問にイエスさまは、見える形では来ないと
答えました。彼らの言う「神の国」とは、ユダヤが第2のダビデ王によってローマの支配を
脱却して、独立することを指していると思われます。イエスさまは革命のような手段によって
神の国が実現することはないと言われたのです。
 また、弟子たちに対して審きの日について語られます。人々は神の国の到来を待ち望み、
それによって(民族の自尊心なども含めて)自分の生活が良くなることを望みますが、神の
日は審きの日です。己の罪を省みず、罪の生き方の延長上で「もっと良い世界を」望む者
は、ロトの妻のように命を失います。
 神の国とはどのようなものでしょうか。私たちは黙示録等を通して終末論的に、この世の
終わりに神の審きを経て、天国(新天新地)が作られ、そこに私たちが入れていただける
ことを信じています。
 しかしもう一つの次元があります。主は十字架の上で一人の強盗に「あなたは今日わたし
と一緒に楽園にいる」と言われました。これは未来ではなく現在形で「今楽園にいる」という
意味です。今日の個所でも「神の国はあなたがたの間に(既に)あるのだ」と言われます。
イエス・キリストと共に歩む時、私たちの間には愛と和解とが支配し、賛美と証しが生まれ
ます。ここに神の国が終末論的神の国を先取りするものとして実現しています。愛によって
神の国の平和を味わいましょう。
2015年10月4日  フィレモンとオネシモは、一般的に奴隷所有者と奴隷とされています。オネシモは
フィレモンの家から何かを盗むなどして逃亡し、パウロに出会って回心し、パウロは法に
従って所有者の元に戻そうとしたのだと考えられています。オネシモが奴隷の身分で
あったことは確実です。ただフィレモンがその所有者であったことは明確とは言えない
かもしれません。
 ある牧師は、フィレモンは家の教会の牧師であり、オネシモはフィレモンの教会会員で
奴隷身分の者だったと考えています。何らかの事情(不祥事?)で彼はフィレモンの教会
を離れ、転々とした先でパウロと出会った。「監禁中にもうけたわたしの子」と言われて
いるので、オネシモもパウロと同じ獄に投獄されたのかもしれません。あるいは監禁中の
パウロの世話をするために選ばれた奴隷だったのかもしれません。彼はパウロの元で
悔い改めました。オネシモとはギリシャ語で「役に立つ」という意味です。かつては名前に
反して役立たない者だったけど、今はほんとうに役立つ者になった。「あなたにもわたしに
も」とは、「福音宣教のために」と言い換えても良いでしょう。かつて教会に損害を与えた
者でも悔い改めたなら受け入れることをパウロは求めています。
 また、パウロは当時の奴隷制度を否定しません。けれども社会的にはどうあれ、教会
(神の前)においては愛する兄弟姉妹として交わることを求めています。
2015年9月27日  ヤコブは貧富によって人を差別してはならないと命じます。貧富に限らず、私たちはさま
ざまな理由で人を差別します。身分や地位の高い人には敬意を払い、低い人をぞんざい
に扱うこともあります。今、中東からヨーロッパをめざす難民が問題になっています。
どの国が何万人受け入れるというようなことが報じられますが、日本の難民受け入れは
非常に少ない。昨年難民と認定されたのは11人、難民とは認定しなかったけれども
人道的観点から在留を認めた者110人、合わせても121人で、欧米より2桁少ない。
その理由の一つとして、難民が日本の社会の中で適合していくのが難しいということが
言われています。言い換えると、日本の社会が自分たちと違う文化や生活習慣を持って
いる人たちを受け入れるのが困難だからです。受け入れられる側だけでなく受け入れる
側も自らを変える必要があります。
 5節で特に注目すべきは「神は世の貧しい人たちをあえて選んで…」というところです。
ヤコブ書で「世」は神に敵対するものです(3:15, 4:4)。敵対者の中から貧しい者をあえて
選び信仰に富ませ、神の国を受け継ぐ者としたというのです。私たちは確かに神さまに
招かれ、御前に進み出て救いに与った者ですが、それによって世の人々よりも優位に
立ったと思うなら、そして世の貧しい人々を見下すなら、自らを神に敵する者とすることに
なります。神の独り子が世の貧しい者となったのですから。
2015年9月20日  私は小学生から中学生にかけては教会から逃げて遊びに行ってたし、高校生になって
明確な信仰を持った時には父の母教会に下宿していました。だから父がどんな説教を
していたか、ほとんど覚えていません。覚えている話の中に信者はもうかるという話があり
ました。
「儲」という字のことです。おそらく今日の個所の説教だったのでしょう。
 キリスト信者は儲かると言ってもお金が儲かるという意味ではありません。「金銭の欲
は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」苦境に立たされ
る者もいます。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を求めることが私たちの信仰の戦いで
あり、戦い抜いた者に永遠の命が与えられます。戦いというからには容易に達成できる
ものではありません。エフェソの信徒への手紙6章ではみ言葉と祈りが強調されています。
またローマの信徒への手紙には「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
主イエス・キリストを身にまといなさい」とあります。キリストを身にまとうとはキリストと
一つ心になるということです。聖書を読むこと祈ることは家でもできますが、教会でしか
できないことは主の体と血に与ることです。聖餐はキリストと一致する大事なサクラメント
(秘儀)であり、これにできる限り頻繁に参与することが求められます。
 本日の聖書の冒頭に神の国の秩序では「兄弟」であっても、この世の秩序では「主従」
である場合のことが書いてあります。この世の秩序をパウロは軽視しません。信仰者同士
でも上に立つ者を尊敬するよう命じています。
 2015年9月13日  聖書の中で「3章16節」は有名な言葉がたくさんあるので、クヌースという数学者が3章
16節を集めてカリグラフィー(西洋の書道?)にした本があります。今日の個所もそんな
1節です。
 週日聖書日課(週報の2段目、『信徒の友』にこれに基づく黙想あり)で、今箴言を読ん
でいますが、箴言は「父の教えに聞き従え」と命じ、父の教えは「知恵・分別を得よ」、
つまるところは「神を畏れることは知恵のはじめ」です。
 そのためには神の言葉(「キリストの言葉」)で心を満たすのがいちばんいいのです。
キリストの言葉は私たちの心の奥に入ると、息づいて動き出し、私たちに助け合う知恵を
与え、共同体の感謝と賛美を作り出します。すなわち祈りにおいて、歌において、行為に
おいて私たちは神を賛美するようになります。
 『聖歌』の編集者、中田羽後師は聖歌を3部で構成しました。第1部「詩編」=交読文と
詩篇歌、第2部「賛美」=賛美歌(hymns)、第3部「霊の歌」=福音唱歌(gospel songs)です。
改革派・長老教会の伝統は詩篇歌にあり、ルター派の伝統は賛美歌(コラール)にあり、
福音派諸教会の伝統は福音唱歌にあると言っていいでしょう。様々な伝統の中で育まれ
た賛美を私たちは受け継ぎつつ今の時代の聖歌を次の時代に遺していきます。
 その原動力は15〜17節に3度でてくる「感謝」です。
2015年8月30日   パウロの伝道には二つの困難がありました。一つは経済的な困難でした。アカイア州
の州都コリントの教会には貧しい人々が多く、パウロの活動を支えることができず、
コリントでは無報酬で伝道牧会していました。しかしマケドニア州の諸教会から献金が
届けられ、それでパウロの生活は成り立ちました。もう一つの困難はそのようなパウロに
対する「偽使徒」という非難です。無報酬でやっているのはちゃんとした権威ある教えでは
ないからだろうという非難もあったようです。何よりも「パウロは使徒の条件(使徒言行録
1:21〜22)に該当しないから使徒ではない」とする非難です。
 あらゆる非難中傷に対して、神から託された使命に従ってコリント伝道を続行しようと
するパウロと、自分たちの教会をさておいて、パウロの他所での活動を支えようとする
マケドニアの諸教会の奉仕に目を留めます。マケドニアの教会は豊かであったのかと
言えば、決してそうではありません。むしろ「極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず
施す豊かさとなった」のです。言い換えると愛こそが彼らの財産でした。この愛に支えら
れてのパウロの伝道です。
2015年8月23日  肉を食べて良いかどうか、という問題はTコリント8章でも扱われています。ギリシャ・
ローマ世界に共通な問題ですが、市場で売られている肉の中に偶像の神々の祭儀で献げ
られた肉が混入していました。ある人々は偶像に献げられた肉を避けるため、肉は食べる
べきでないと考えましたが、ある人々はそもそも偶像の神々など存在しないのだから気に
する必要はないと考えました。両者は互いに批判し合っていました。
 パウロは肉を食べることによって偶像崇拝に陥ることを恐れる人々を「信仰の弱い人」と
呼び、他方を「信仰の強い人」と呼んでいますが、「信仰が強い人が良い」とは言いません。
偶像に献げられた肉を食べる人も食べない人も、主に感謝し主のためにそのようにして
いる、それを認め合うところに教会の一致が成り立ちます。教会の一致は何から何まで
同じように考え、同じようにすることではありません。違いを認めながら、それぞれが主に
あって、主のために生きていくところにあります。
 肉の問題だけではありません。特定の日を他の日よりも重視する人々もいました。
おそらく律法主義的な人だと考えられます。それに反対する人もいます。この場合にも
パウロは特定の日を重視することの是非を論じるのでなく、そうするのもしないのも
「キリストのため」であることに焦点を当てています。「キリストが死に、そして生きたのは、
死んだ人にも生きている人にも主となられるため」。クリスチャンとは「キリスト者」ですが、
つまり自分は自分のものではなく「キリストのもの」です。
2015年8月16日  21〜23節に「御言葉」が4回出ます。25節の「律法」と同じです。ただし人を縛る律法では
なく「自由をもたらす完全な」律法です。具体的なことは26節と27節にあります。

@舌を制すること。これについては3章で詳しく論じています。ヤコブは「言葉で過ちを犯さ
 ないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」だと言います。「わたしたちは舌で、
 父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」。これは
 あってはならないことです。

A弱者と共にあること。「みなしごや、やもめ」イエスさまは「小さな者」を大切にするように
 と教えられました。ヤコブもその教えを受け継ぎます。「世の汚れ」とはこの場合、強い者
 が弱い者を食い物にするようなあり方(不義)を指しているでしょう。旧約の預言者たちも
 このようなあり方を強く非難しています。弱者を踏みにじるような人々の仲間にならない
 ように自分を守ること、易しいようで案外難しい場合があります。世間の趨勢に逆らう
 必要がある時です。

 「信心」は新改訳では「宗教」と訳されています。信仰に立脚した生き方という意味で
しょう。人の目には信心深く見える人でも「神の御前に清く汚れのない信心」かと問われ
るとアヤシイ。完全な信仰のあり方は言行一致の兄弟愛の実践です。これが新約の律法
です。旧約の律法を守り行えば救われるというのではありません。愛は口先だけでなく、
実行することによって自分も他者も幸せになります。
2015年8月9日  使徒言行録17章によれば、パウロとシラス(シルワノ)の伝道する「イエス・キリスト」に
反対する者たちが彼らが宿舎としていたヤソンの家を襲い、ヤソンたちを皇帝への反逆
者として訴えようとしました。その後もこの地にできた教会はユダヤ人から圧迫されていた
のです。
 そんな経緯からパウロはずっとテサロニケ教会のことを心配し、行こうとするけれど諸
事情で行けない状態が続いていましたが、テモテを派遣し彼が良い知らせを持ち帰り
ました。
 パウロはテサロニケの信徒たちを思い起こして神に感謝しています。それは彼らが
「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐して
いる」からです。『信仰・愛・希望』がテサロニケの信徒たちの迫害を受けている生活の
中で現実となっているからです。信仰:聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、
愛:主と使徒たちに倣う実践、希望:ギリシャ全土を越えてクリスチャンの励ましとなって
います。テサロニケ教会の希望は「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」と
言われます。
 「ああ、早く天国に行きたい」という人は多いですが、「イエスさま、早く来て!」と再臨を
待ち望んでいるでしょうか?迫害下にある信徒たちにとって再臨こそ勝利です。同時に
主に従おうとしない人々にとっては、キリストは思いがけない時にやってきて私たちを審く
恐ろしい方です。今日、主をお迎えできますか?
2015年7月26日  来週は平和聖日を迎えます。今年は1945年に日本が戦争に敗れてから70年を迎え
ます。戦前・戦中の日本の体制を思い起こすなら(人々の多くはもう直接体験していない
のですが、継承しなければなりません)、「戦争をしない。平和を追求する」憲法の精神は、
私たちの信仰から見ても適切なものです。
『悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ』(11節)とペトロは勧め
ます。このように歩んでいるのに苦しみを受けることがあります。歴史の中で多くの
クリスチャンが神のもとの平和を語りながら受難しました。
ペトロはその時にも、私たちの希望を「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明する
ように」と指示しています。
私たちは不義が行われている時に、沈黙し見て見ぬふりをしてはいけません。しかしまた、
「糾弾」するようなやり方も正しくないでしょう。私たち自身も罪人であり、誤った生き方を
してきた者です。どのような罪人に対しても、イエス・キリストはご自身を犠牲にして罪を
赦してくださるのです。ペトロの指針は糾弾ではなく、神への立ち返りを促すものでしょう。
19〜20節は今の私には十分に理解し解き明かすことができません。留保します。
21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」
私たちの抱いている希望(信仰)を証しするために正しい良心をもってせよとありましたが、
洗礼を受ける(受洗者として生きる)とは、そのような態度で神と人々に向かうことです。
2015年7月19日  鈴鹿教会でも他の教会でも、婦人会の働きは大きなものがあります。地区総会に出さ
れる婦人会連合の報告書を見ても壮年会連合や青年部の報告書とは質も量も大きく
違います。
昔は女性の人権が軽く見られていたのですが、教会でははじめから女性たちの働きが
大きかったようです。ルカは主イエスと12使徒の伝道旅行に婦人たちも帯同して彼らの
活動を支えていたことが記されています。イエスさまがよみがえったことを真っ先に知った
のも女性たちでした。旧約ではヨシュアがエリコを攻め取る時にその手引きをしたのが
ラハブという女性だったと記されています。ペルシャ帝国でユダヤ人皆殺しの命令が
出された時に命がけでその命令を撤回させたのはエステルでした。新約のみならず旧約
でも女性の働きがしばしばクローズアップされています。
 新約聖書の時代は女性が指導的地位に就くことこそ認めていませんでしたが、使徒
パウロはこうした女性たちを男性と対等な伝道のために支え合う仲間と見ていたように
思われます。また、祭司には女性はいませんが、預言者にはデボラ、アンナ、フィリポの
娘たちといった女性がいます。神さまは男性も女性も等しく預言者としてお立てになります。
男性でなければできない働き、女性でなければできない働き、そして男性にも女性にも
できる働き、それぞれを見分けながら、協力して福音に仕えていきたいものです。
2015年7月5日  パウロの説教が長かったので、エウティコ青年が居眠りし、窓から転落したという事故
です。使徒言行録はパウロに対して「使徒」という言葉をほとんど用いていませんが、前半
のペトロの働きに対応する出来事がパウロにもついても記され、パウロが使徒であること
を立証しようとしています。この事故についてはペトロがタビタをよみがえらせた記事(9:36
以下)に対応しています。しかし、今日、お話しするように導かれているのは、パウロの
使徒としての権威でも、若者の復活でもなく、説教中の居眠りへの戒めでもなく、説教や
証の長さについての論考でもありません。
 パウロの説教は明け方まで延々と続きましたが、彼らは説教を聞くために集まったので
はなく「パンを裂くために集まっ」たのでした。集会の中心は聖餐であり、パウロの長い
長い長〜〜い説教は、聖餐において一人ひとりが主イエスとの神秘的合一(ガラテヤ2:19-
20)をリアルに体験するための説教です。礼拝の頂点は聖餐にあり、それを確かなものに
するためにみ言葉が解き明かされます。
 すなわち説教で「会衆」に語られたみ言葉は、聖餐において「わたし」の肉となり血となり
ます。そこで「イエス・キリス」トと「わたし」とが一つになります。この経験は私たちの側では
イエス・キリストへの信仰によって、神の側では聖霊の働きによって起こります。従って聖
餐は単なる食事ではなく、イエス・キリストへの信仰抜きでこれに与ることはありえないこと
です。
2015年6月28日  人の罪を赦し救うのは神さまです。私たちは神さまがお救いになった人を仲間として
教会に受け入れます。洗礼は教会という神の民の共同体(=神の国)に人を迎え入れる
ための儀式(しるし)です。
 牧師が人を水の中に沈めた(水を頭にかけた)からその人が救われるわけではありま
せん。それなら洗礼をしなくてもいいのか?それは違います。洗礼は主の命令であり、
受ける人にも教会にも恵みです。ペトロはコルネリウスたちに洗礼を受けるように「命じて」
います(勧めているのではありません)。
 罪を赦し義としてくださるという神の業と、赦された者を仲間に加える(神の民の仲間に
なる)ということは不可分の事柄です。
仲間になることには二重の意味があります。一つは地域の教会のメンバーとして主にお仕
えするというローカルなこと。もう一つは普遍的な教会のメンバーとなるということです。
この普遍性故に転会しても再洗礼は行いません。
 今日の個所では後者の意味で普遍性が示されています。すなわち神とアブラハムの
契約の民であるかどうか(つまり割礼を受け律法を持つ者かどうか)に関わりなく、神は
自由に人に聖霊を降される。無割礼の者は救われないという偏見は捨てて、ただイエス・
キリストを信じる者を、受け入れて洗礼を行い迎え入れるようにと聖霊はペトロに促して
います。
2015年6月21日  キリスト教の洗礼式に関する最初の記事です。集会の場ではなく宦官一人とフィリポ
一人です。伝道者はいつどこでも信じる人に洗礼を授ける権能を主からいただいてい
ます。
 宦官が読んでいたのはイザヤ書53章、人々から捨てられ、結果として捨てる人々の
罪を負って身代わりとなって死んでいく犠牲としてのメシアを描いていました。フィリポは
イエスがそのメシアだと説き、宦官は信じました。36〜37節はとても簡潔ですが、洗礼式
における信仰告白文だったと思います。洗礼が行われたらピリポはその場から取り去ら
れました。
 聖霊の指示とフィリポの応答、み言葉への宦官の応答、主への素直さが大切です。

【父の日】
本日6月第3日曜日は「父の日」です。ワシントン州北部の町スポーカンのソノラ・スマート
・ドッド夫人(1882-1978)は、1909年の母の日に中央メソジスト監督教会(現在は中央
合同メソジスト教会=写真)で説教を聞き、父の日の必要を示されました。彼女の母は、
彼女が16歳の時に亡くなり、父ウィリアムは6人の子どもを男手一つで育てました。最初
の父の日の礼拝は1910年6月19日中央メソジスト監督教会で行われました。父の日には
存命中の父親には赤いバラを贈ります。亡くなった父親には白いバラをもって感謝を表し
ます。
2015年6月14日  この世にはさまざまな宗教があり、それぞれに私たちの信仰と重なる部分があります。
その中でも浄土真宗などは非常にキリスト教に近いと言ってよいでしょう。そのような宗教
の方との対話は大いに益するところがあります。
 けれども、宗教の「構造」(教義)が酷似していても私たちは「その宗教でもいいですよ」
とは言えません。なぜなら私たちの救いは独り子なる神・ナザレ人イエスが罪人として
十字架にかけられて死んだ、そしてよみがえったという歴史的事実の上に成り立つもの
だからです。イエスというお方そのものに教会もクリスチャンも存立がかかっています。
このお方に信頼して歩みましょう。

【子どもの日(花の日)】
1856年米国マサチューセッツ州チェルシーのユニテリアン教会の牧師チャールズ・H・レオ
ナルド博士が、少年少女を信仰に導くため、特別礼拝を6月第2主日に行なったことが起源
です。花の豊富なこの時期、神の恵みを子供達に印象づけようと、花を教会に飾り神に
感謝したことから「花の日」・「子供の日」と言われるようになりました。1881年、メソジスト
教会が年会において、6月の第2日曜日を毎年「子供の日」と定めた後、当時の教会に
ひろまり、世界的に普及しました。また、子どもを神にささげる『献身の日』ともされています。
2015年6月7日  ペンテコステの日、約3000人が悔い改めてイエスさまを信じました。42〜47節にこの人
たちの生活のあり方が描かれています。
 「使徒の教え」と「相互の交わり」は、「互いに愛し合いなさい」の実践です。祈ることに
熱心というのも自分のために祈るというよりは仲間のために祈るとりなしの祈りが中心
でしょう。「主よ、来てください」という祈りももちろんあったでしょう。注目していただきたい
のは46-47節の「毎日」です。この時代はまだキリスト教ではなくユダヤ教の中のナザレ派
と呼ばれた時代ですから、神殿に行って祈ります。彼らは毎日神殿で祈りました。しかし
それとは別にイエスさまを信じる人々は毎日(夕方、仕事が終わってから)仲間の家に
集まって食事を共にしたのです。食事の時には毎回パン裂き=聖餐式が行われました。
「パン裂きを伴う食事」は相互の交わりの中心でした。毎日、主の十字架を覚えて食事を
し、互いの必要のために持っている財産を出し合って、助け合い、愛の実践を行いました。教会には奴隷の身分の貧しい人々も多かったのですが、財産家もいました。それぞれの
財力に応じて互いに出し合って群れの中の貧しい人々を支えました。このような信仰と
実践の一致したところで人々は喜びと感謝に満ちあふれて神を賛美することができました。
賛美は観念的なものではありません。今日もイエスさまと共に食事ができた、仲間を助ける
ことができたor助けてもらった。そういった日常の体験からでてきます。
2015年5月31日  イエスさまは12使徒とは別に72人を任命して伝道に遣わしました(10:1)。彼らの報告が
10:17です。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。マルコ9:39や
使徒19:13によると、イエスさまの弟子ではなかったのに勝手にイエスさまの名を使って
業を行う者が出てきました。主の名前には力があるからです。力を使ってみたいという
欲求は誰にでもあるものです。72人の弟子たちは悪霊が自分たちに屈服するのを体験
して素直に喜んでいました。
 しかし、大切なことは悪霊を屈服させる力を嬉しがることではありません。神の国の一員
とされていること、言い換えるなら神さまに支配される身となっていることを喜びなさいと
イエスさまはいっておられます。
 今日の後半のところでは、悪霊が屈服したと言って無邪気に喜んでいるような弟子たち、
こういう子どものような弟子たちに聖霊の力が与えられていることがみ心に適っている
のだと言われています。「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子のような者」がイエスさま
の名が持っている力を体験できる。それは他方で、自分の力と勘違いして力をふるって
喜んでいるだけの者になってしまう危険をもはらんでいるのですが、それでも「知恵ある者
や賢い者」よりも「幼子のような者」の方がみ名の力を用いるのにふさわしいとされてい
ます。神のご支配が、私たちのすべての行いを通して顕れていきますように。
2015年5月24日  五旬節の日、彼らに聖霊が降りましたがそれは「炎のような舌」と表現されています。
聖霊がこのような形で降ったのは、1:8の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは
力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果て
に至るまで、わたしの証人となる」を受けています。イエス・キリストを証するための霊を
受けたのです。それまでも弟子たちは集まり祈っていましたが、聖霊降臨によってこの
集まりは伝道する群れとなり、教会と呼ばれるようになりました。
 ある日突然聖霊が降って突然語り始めたのではありません。主が復活して以来弟子
たちはあつまり、主の話を聞き、祈りを合わせてきたのです。祈る群れに聖霊が降り
ました。
 彼らが語った場所は当初、エルサレムでしたが、そこには様々な地域から来た人たち
がいました。決してユダヤ人だけに語ったのではありません。一つの聖霊が別れ別れに
各人に降り、別の言葉で語らせました。もしも世界の言語が一つに統一されたら一つの
言語だけで福音を語ればいいのでしょうか?様々な言葉とは単に言語だけでなく、様々
な社会的ポジションのことも含むのではないでしょうか。地位、資産、職業、価値観…など
の違いにより言葉が通じないこともあります。聖霊はそうした人々の間にある裂け目を
越えて、全ての人にイエス・キリストの救いを伝えていく使命と力を弟子たちに与えられ
ました。
2015年5月17日  教会の使命は「あらゆる国の人々を弟子とする」(新改訳)ことです。そのために多くの
人々が召しを受け宣教師となり未知の土地へ出かけていきました。鈴鹿教会はそうした
宣教師の一人であるハリエタ・ジョンソン先生の奉仕によってキリストの弟子に召された
人が多くいる教会です。

 主の弟子に求められることは何でしょうか?ここでは
 @父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、
 A命じられたことを全て守ることです。
   命じられたこととは「互いに愛し合うこと」です。
  それによって神を愛することが成就します。
 もう一つあります。あなたが行ってキリストの弟子を生み出すことです。
「行って」が大事です。これは自分の場所(教会堂)から出て行って、街角や職場・学校で
伝道するという意味でもありますが、自分の殻の中に安住せず、相手に合わせて伝道する
(Tコリ9:20-22)ことも出て行くことになります。

 例えば、ほとんどの信徒は文語の「主の祈り」や「使徒信条」に慣れていて何の違和感も
感じません。しかしあの「主の祈り」は明治時代の馬太(マタイ)傳福音書によるものです。
今私たちは文語元訳聖書を使いません。それなのに「主の祈り」は130年以上前の聖書を
読みます。こうした「普通のこと」が実は多くの人にとって福音への妨げとなっていることを
意識する必要があります。
2015年5月10日  ローマ軍の隊長が重体の部下を助けてもらおうと、ユダヤ人の長老たちを介してイエス
に来てくれるよう頼みました。ユダヤ人のイエスさまに頼むのですから、この隊長はかなり
ユダヤ人に好意的だったことが分かります。実際、仲介を依頼された長老たちは隊長が
いかにユダヤ人のために尽力してくれたかを説明し、「病気を癒やしてあげるのにふさわ
しい人だ」とイエスを説得します。選挙のとき私たちはどのように投票する人を選ぶので
しょうか。ある人々はどれだけ地元に貢献したか−道路を作った、市民会館を作った、
大きな工場を誘致したetc.−を基準に選びます。もちろん、自分たちの代表ですから、
それも選び方の一つです。イエスさまは隊長のユダヤ社会への理解と貢献に報いるため
に彼の部下を癒やしたのでしょうか?
 そうではありません。@彼の謙遜です。百人隊長はいわば中間管理職ですが、その土地
にあっては武力と権力をもって治安を維持します。しかし彼はとても謙遜でした。イエスを
家に迎えるどころか、自分からイエスの前に出る資格すらないと言います。A自分が部下
を動かす権威を持っているように、イエスには病をいやす権威があることを確信しています。
 イエスはこのイエスの権威への確信を賞賛しました。「イスラエルの中でさえ、これほど
の信仰を見たことがない。」イエス・キリストの権威を認め、その権威に従う信仰者であり
ましょう。
2015年5月3日  イエス・キリストの命じることを行うならば、私たちはキリストの「友」とされます。
イエスさまが私たちに命じること、それはとても単純なことです。「わたしがあなたがたを
愛したように、互いに愛し合いなさい」これがすべてです。
 ユダヤの人々、とりわけファリサイ派の人々は旧約聖書とそこから派生した数々の掟を
守ることに熱心でした。そして守れない人々を罪人と呼んで軽蔑しました。
 イエスさまはすべての律法は@神さまを愛することとA隣人を愛することに集約されると
説かれました。しかしこの二つは別々の掟ではありません。神さまを愛するとは、神さまが
私を愛してくださったことを喜んで受け入れることです。神さまの愛への応答です。そして
その応答は、神さまの愛を周りの人々に分け与えていくというしかたになります。
 「神さまは愛するけれど、人は愛せない」。これはほんとうの意味で神さまを愛している
ことにはなりません。なぜなら、神さまはどんな罪人でも愛し、立ち返りを願っているお方
ですが、神さまが愛しておられる人を愛さないとしたら、神さまの御心と対立することに
なります。
 しかし、私たちが互いに愛し合うことができたなら、イエスさまとの関係も上下関係では
なく、横のつながりとされるというのです。なんというもったいないことでしょう!
 この恵みをくださるためにイエスさまは私たちのために命を捨てて友となってくださいま
した。救い主にして最良の友達であるイエスさまに感謝しましょう。
 2015年4月26日  「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(6:33)。人々がそのパン
を求めるとイエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃいました。永遠の命を得る
とは、死なないということではありません。人は死にます。イエスさまによって墓の中から
よみがえらせてもらったラザロも歳を取って死んだと思われます。聖書の中で死を見ずに
地上を去った人は二人います。エノク(創世記5:24)とエリヤ(列王記下2:11)です。イエス
さまは死によらずに地上を去った三人目ですが、前の二人と違って死んで葬られました。
そしてよみがえり天に昇られました。
 今日の聖書の前後に「終わりの日に復活させる」という言葉が4回出てきます。永遠の命
は不死とは違い、終わりの日の復活です。それでは終わりの日までどうなるのでしょうか?
 今日のタイトルは「命のパン」です。私たちの体は食べ物によって保たれ働くことができ
ます。しかしイエスさまが言う命は永遠の命です。「わたしのもとに来る者は決して飢える
ことがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは死んだ後どうなるかではあり
ません。死んだ後は終わりの日の復活です。ここで言われているのは、今をどう生きるか
でしょう。「命のパン」を食べる、すなわちイエスへの信仰に生きる、それはイエスの業を
行うこと=神と人とを愛して生きることです。その生き方の中にこそ永遠の命が輝いてい
ます。復活の命を先取りして死ぬべき命の中で生きています。
2015年4月19日  以前私は「今は天国も地獄もありません」と申し上げたことがあります。先日ある方から
「死んだら(すぐに)天国に行くのではないのか?」という趣旨の質問をいただきました。
肉親を亡くして悲しみの内にある方にはそういう言い方が慰めになるのかもしれません。
しかし、死んだらすぐに天国に行くなら、終わりの時に復活する必要はありません。
キリスト教の信仰はギリシャ思想の『霊魂不滅』ではなく、ユダヤ教の系譜にある『死者の
復活』であることを確認したいと思います。
 死んだ者=滅んだはずの者が復活するということは、@体と魂は分離せずに体と共に
魂も死ぬことを意味します。A復活は体と魂が復活することを意味します。Bそのことは
死が人の存在を究極的に終わらせるものではなくなったことを意味します。
 復活の希望に生きる人は苦難にも絶望しません。喜びと感謝の内に主の業に励みます。
2015年4月12日  この二人の弟子たちはイエスの遺体がなくなったことについて語り合っていました。
天使が「イエスは生きておられる」と告げたことも知っていましたが、信じられず暗い
顔をしていました。彼らの話に割って入ったのがイエスさまご本人でしたが、それにも
関わらず彼らはイエスさまであることがわからなかったのです。死んだ人が生き返る
はずがないという常識にとらわれて、現に目の前にいるイエスさまを認めることが
できませんでした。
 イエスさまは諄々と聖書を解き明かされました。彼らはその話に引き込まれていき
ました。彼らが泊まる予定の場所に着いたとき、彼らはイエスさまに一緒に泊まるよう
願いました。夕食の場でイエスさまがパンを取って祈り、裂いて彼らに渡したときに、
彼らはそれがイエスであることを知りました。
 聖書の解き明かしとパン裂きが彼らにイエスさまを悟らせました。私たちの礼拝に
おいても説教が語られそれを聞き、パンが裂かれ受け取ります。心が燃えるように
説教が語られないといけないし、またそのように聞きましょう。目が開かれるように
パンを渡し、また受け取りましょう。
2015年4月5日  ペトロとヨハネは、マリアからの知らせで、墓に駆けつけ、遺体を包む布が置かれて
いるのを見、復活を信じて帰って行きました。ただ聖書が復活を証していることを知る
のはもっと後です。他方、マリアは墓の中を見ることをせず、主の復活を知ることが
できずにいました。
 天使と主イエスが「なぜ泣いているのか」とマリアに問います。彼女が泣いているのは
イエスが死んだからではなく、遺体がなくなったからでした。人が死んでも遺体がそこに
あることに安心感を覚えるものです。写真や位牌、墓石で故人を形に残し、その人と近く
にいようとします。けれどもそれは、かつて生きていたしるしです。主が彼女に見せたの
は現に生きておられるご自身でした。
 マリアはどのように復活の主を知ったか?主が「マリア」と彼女の名を呼んだからです。
主に呼ばれなければ私たちは復活の主を認めることはできません。私たちは昔の聖人
イエスなら自分の頭や心で理解し尊敬し、そんな人になりたいと思えるかもしれませんが、
死者の中から復活し、私たちにも新しい命を与えるお方は受け入れられません、彼自身
が私と出会い、呼んでくださるのでなければ。あなたは主が呼ばれる声を聞こうとして
いますか?
2015年3月29日  「時」を表すギリシャ語にはクロノスとカイロスがあります。クロノスは時刻を表すのに
用いますが、カイロスはある機会を表すのに用います。「時」を主題とした聖書の個所で
有名なのはコヘレトの言葉第3章ですが、預言書には「主の日」という表現で神さまが
世界を裁く恐ろしい時が語られています(私たちは「主の日」という言葉でキリストの復活
の日=礼拝の日を表します)。
 イエスさまを亡き者にしようと、大祭司や律法学者たちは何度か逮捕を試みました。
しかし、イエスさまはその度にうまく逃げて福音宣教を続けてこられました。逃げるという
言葉に抵抗を感じる人もおられるかもしれませんが、要は、まだイエスさまにはこの世で
為すべき使命が残っていたのです。しかし、地上での使命を終えた今、彼らの時=闇が
力を振るう時になりました。実は闇が力を振るう中でもう一つの、そして最大のイエスさま
の使命が果たされていきます。
 私たちが生きている時代は、イエスさまが十字架上で私たちの全ての罪を負って身代
わりとして死んでくださった(=私たちは神さまの裁きから逃れている)という救いと、しかし
世界では悪しき者たちが世を支配しているという現実の中にあります。このような「時」に
私たちはどのようにあるべきか、イエスさまは教えてくださいました。
「誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい」
誘惑は私たちの霊的感性を眠らせ、み言葉に対する感覚を鈍らせます。苦しみもだえ
ながら切に祈られたイエスさまに従って祈りましょう。
2015年3月22日  『隅の(親)石』という言葉は旧約聖書で4回出てきますが、新約では5 回使われ5 回とも
詩編118:22 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたち
の目には驚くべきこと」が引用されています。
 隅の親石とは、土台になる石のことと考えられていました。日本の建物で考えるとそれが
自然でしょう。しかし、実はアーチを組んでその最上部の中央、これがないと崩れ落ちて
しまう石だということです。
 建築を司る者が不要な物として捨てた石が最も中心的なものとなったのです。
人々は「そんなことがあってはなりません」と言いました。
しかし現に神さまの一人息子でイエスさまは捨てられ殺されました。
 教会の使命は隅の親石として、神の愛する小さな人々が崩れ落ちないようにイエスの愛
で結び合わせることです。しかし時として教会の組織を守るために大事な石を不要な物と
考えて捨ててしまうことがあります。そうならないように注意深く歩みましょう。
2015年3月15日  35節「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」。
天の声は2回目。最初はヨハネから洗礼を受けて、聖霊をお受けになった時でした。この
時イエスさまは大工から伝道者へと変わります。そして今日の個所から後は十字架への
道を歩まれます。「これはわたしの子」という言葉の中には、神さまのみ心・み業を担う者
として独り子が派遣されたということが含まれています。
1回目は神の国の福音を宣べ伝えるために、2回目は人々を罪から救うためにです。
 旧約聖書は「律法と預言者」と呼ばれていましたが、律法の代表モーセと預言者の代表
エリヤが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。
イエスさまの死は旧約の成就であることを示唆しています。また、モーセはシナイ山で神
さまから律法を受けている間にその顔は輝き、下山した後も顔に覆いを掛けなければ人々
がモーセを見ることができませんでした。エリヤは死ぬことなく天に挙げられた人です。
 けれどもこの出来事は間もなく終わり、元通り主イエスと弟子たちだけになります。短い
間の啓示を福音書記者は書き残しました。「しるし」は永続的なものではありませんが、。
しるしが指し示す永遠の事柄をしっかり見ながら日常を生きていきましょう。「わたしたちは
見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えな
いものは永遠に存続するからです。」Uコリント4:18
 2015年3月8日  ナザレのイエスという方は一体どのようなお方か?これは今も昔も繰り返し問われ、
一人一人が答えなければならない問です。昔の預言者の再来だと答える人も、ヘロデに
首を切られた洗礼者ヨハネのよみがえったものと答える人もいました。現代には革命家や
人権活動家と答える人もいます。それらも部分的には当たっています。しかし、イエスさま
の神髄はペトロが答えたように「神からのメシア」です。メシアとは「油注がれた者」の意味
でギリシャ語ではキリストと訳されます。旧約では王・祭司・預言者のような民を守り、危機
から救い出す職に任ずる時に油を注いだのです。だから「救い主」と呼ばれます。「イエス
さまは救い主です」というのがキリスト(救い主)教の信仰です。信じるというのは心で信じ
ますが心「だけ」信じますということはあり得ません。心で信じるなら、それは生き方に表れ
てきます。
 その生き方は「愛・喜び・平和・寛容…」でありましょう。ここでは「わたしについて来たい
者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
 イエスさまを救い主とする人は@イエスに従い A自分を捨てて B自分の十字架を背
負うという生き方をします。AとBはどういう関係にあるでしょう?「自分の十字架」=よく
使われるように「辛い身の上」でしょうか?
 自分を捨てる時、自分がこれまで背負ってきた諸々の辛いものも棄ててしまいます。
従って「自分の十字架」とはイエスさまから与えられる「軽い荷」(マタイ11:30)です。
 2015年3月1日  イエスさまの福音は神の国の到来を告げ知らせるものでした。そのしるしとして病気の
人々が癒やされ、悪霊に取りつかれた人々から悪霊が追い出されました。前にも見た
ようにこれらは、罪が赦されること、すなわち神さまとの本来のあるべき関係を妨げて
いる諸霊の束縛から解放されることの『しるし』としてなされたものです。故に悪霊が追い
出されるとは神さまとの正しい関係(聖書の用語では『義』)に入ることであり、別の言い
方では創造の時に人に吹き込まれた神の霊が再び吹き入れられること=『神の像』の
回復を意味します。
 ところがある人々はイエスさまが悪霊を追い出しているのは『悪霊の頭』の力に依るの
だと言いました。親分の命令に子分は従うということでしょう。
 もちろんそれは論外の非難ですが、カルトから解放する働きを考えてみます。この働き
を積極的に行っているある方々は「カルトから解放された人々に我々の信仰を押しつけ
てはいけない」とおっしゃいます。けれども放置しておくと、元のカルトあるいは同様な別の
カルトに行ってしまう場合が少なくありません。
 人は心を空っぽにしておくわけにはいかないのです。悪しきものを追い出したなら、それ
に代わって善きもので満たされていることが大切です。悪霊の頭の力によって悪霊を追い
出しても、代わりに入って来るのはやはり悪霊です。しかし、イエスさまが私たちの中に
入れてくださるのは聖霊なる神さまです。
2015年2月22日  神の独り子である神が悪魔の誘惑にさらされる、これは驚くべき事ではないでしょうか。
イエスさまは神であったけれど、同時に普通の人間が遭遇する様々な問題に直面し、
格闘されました。
 悪魔はイエスさまが単なる人間ではなく、神の力を持つお方であることに着目して攻撃
します。特別な力を持つ者は本来その力を行使するべきでない時にも使いたくなるもの
です。悪魔はそこを突いてきます。飢えには食べ物です。石をパンに変えることができ
たら…イエスさま一人の空腹を満たすだけではありません。その力を飢えている人々の
ために用いたらどれほどの人が救われることでしょう!しかしイエスさまはそのようなこと
はなさらなかった(できないのではない。5つのパンで5000人の人々を満腹にできるの
です)。イエスさまの答は「『人はパンだけで生きるものではない』と(申命記8:3に)書いて
ある」でした。
 次に悪魔は権力と繁栄を与えるから自分を拝めと言います。これに対しても「『あなた
の神である主を拝み、ただ主に仕えよ』/と書いてある」(申命記6:13or10:30)と答えます。
 次は悪魔も聖書(詩編91:11〜12)で誘惑します。気をつけましょう。み言葉が誘惑の
根拠にされるのです。しかし、この場合もイエスさまは聖書(申命記6:16)の言葉で答え
ます。
 誘惑に打ち勝つ力は聖書のみ言葉にあります。特に主なる神さまのみに信頼し、仕え、
そのみ言葉によって生きる時、悪魔のつけいる隙はありません。
2015年2月15日  主は12人弟子に悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けました。彼らは村から
村へと福音を告げ病気を癒しました(9:1-2)。
 ベトサイダ近くの人里離れたところに主と弟子たちは退きましたがそこにも群衆がいやし
を求めて集まります。主の働きは限りなく続いています。たまりかねた弟子が解散を求め
ました。この調子でいくと夕食も食べずに野宿になる。そう心配したのかもしれません。
 しかし主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいます。わずかな食べ
物しか手元にないのに!
 実は弟子たちは主から授けられた力と権能によって彼ら自身の力を超えた働きをして
きたばかりです。私たちの力ではなく主の力によって神の国の宣教といやしの働きは展開
されます。主の力が私たちの手足を通して働くことを信じ、主の手足になれるよう祈り求め
ましょう。
2015年2月8日  今日の個所に『らい病』と書いてある方、『重い皮膚病』に訂正してください。この病気は
ヘブライ語でツァラアトと書かれており、ギリシャ語でレプラと訳され、『らい病』=ハンセン
病と理解されてきました。しかしレビ記が書かれた時代のイスラエルにハンセン病があっ
たかどうか疑わしいし、『建物のツァラアト』も書いてあるので、ハンセン病に限らず人や
建造物の表面に起こる広範な症状を想定すべきだと思われます。ハンセン病患者が長い
間受けてきた扱いを思うならばツァラアトをらい病と訳すのは不適当だと言えるでしょう。
また新共同訳の『重い皮膚病』というのも果たしてツァラアトの全てが重いと言えるかどう
かわかりません。
 さて、このツァラアトの患者に対するイエスの言葉は「清くなれ」でした。ツァラアトは「けが
れ」であり、そのいやしは「清くなる」ことでした。体の表面(皮膚)のけがれが清くなったの
で群衆は感心しイエスの名は広まっていきました。しかしイエスのいやしの本領は体の
表面の清めではありません。この患者は体の内側が清くされたのです。次の中風の人の
いやしはイエスのいやしの業の本義が「罪の赦し」にあることを明らかにしました。律法
学者やファリサイ派は正しくも「神の他に誰が罪を赦すことができるだろうか」と言いました。
イエスが人となられた神でなければできないことです。
 イエスは中風の人の信仰だけでなく、彼を連れて来た人たちの信仰を見て「あなたの罪
は赦された」と言われました。とりなしの大切さを示されます。
2015年2月1日  たとえ話は難しいことをわかりやすくするために用いるのが普通です。しかしイエスさま
は、『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』ようにたとえで話すと言われます。
わかったつもりになるけれど実はわかっていないという状態でしょうか。福音の言葉は誰が
聞いてもわかるものではありません。新共同訳では「悟る」という訳語を当てていますが、
「知る」でも良いと思います。聖書では知るという言葉はしばしば体験的に知ること(体得)
を指しています。聖書を専門的に研究していながら信仰のない人がいます。聖書について、
イエス・キリストについて豊富な知識を持っていてもイエス・キリストを自分の救い主とする
ことができないのです。では、キリストを知る、神の国の秘密を知るとはどのようなことで
しょう。
 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ
人たちである。」 新改訳聖書によって言い直すと「正しい、良い心でみことばを聞いて、
それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」。その実はどのようなものでしょうか。
「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(ヤコブ3:18)
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」
(ガラテヤ5:22-23)。神の国の秘密を知る者とは、神との平和、隣人との平和を求めて、
み言葉に聞き従い歩む人のことです。
2015年1月25日  「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」。主イエスのこの言葉
は、主がご自分の使命をよくご存じであられたこと、また使命に生きられること、それに
よって預言が成就されることの宣言でありました。実に、主イエス・キリストの到来は人々
に解放をもたらすものです。貧しい人に、捕らわれている人に、目の見えない人に、圧迫
されている人に解放と自由を与える神の霊が、人となったイエスさまを通して人々に働か
れます。
 この福音の知らせを受けたナザレの人々はイエスさまを歓迎しほめたたえました。けれ
ども残念ながら「大工の倅なのによく勉強したものだ」といったレベルの賞賛であり、「地元
を発展させてくれ」といった期待でした。イエスさまが地元の利益の期待に応えてくれそうも
ないとわかると、一転して崖から突き落とそうとしたのです。同じルカ福音書の19章では
主イエスがエルサレムにお入りになるとき、大勢の弟子たちが歓呼して主を迎えています。この「弟子たち」は後に教会の中核となった弟子たちではなく、流行を追いかけているよう
な人々ではないでしょうか。この時はエルサレム中に「歓迎イエスさま」の声が満ちていま
した。しかし数日後には「イエスを十字架につけよ」という叫び声がエルサレムに満ちます。
 私たちの信仰心というのはあまりあてになるものではありません。信仰深いときも不信仰
なときもあります。しかし、私たちの心の動きに係わらず救いの業は確実になされていき
ます。
2015年1月18日  「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスさまはシモン・ペトロに言われました。
ペトロたちは漁師です。イエスさまは大工でした。永年の経験のある漁師が最もよく獲れる
時間帯、場所で漁をしたけれども何も獲れなかったのに漁のことなどほとんど知らない
大工上がりの若いラビが何を言うのか?と思ったかもしれません。しかし「お言葉です
から…」と網を降ろしてみると大漁になりました。これを見てペトロが言ったのが上に掲げ
た言葉です。
 旧約では神さまの聖性は恐ろしいものです。神の聖性に触れた者は生きていることが
できません。純金で覆われた神の箱に触った者は直ちに打たれて死にました(サム下6:7)。
イザヤはセラフィムが飛び交い神を賛美するのを見て「わたしは滅ぼされる」と言いました。
ペトロも大漁をもたらした主に、神々しさと恐ろしさを感じて「離れてください」と言ったので
しょう。
 キリストはそのような罪深い者に「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語りかけ、
彼を弟子となさいます。清らかな人、優秀な人、包容力のある人だから…弟子になれるの
ではありません。ただキリストが目を留め呼びかけてくださったということにかかっています。
弟子になったのは呼びかけを受け、すべてを捨ててイエスさまに従った者のみです。
 「沖へ漕ぎ出しなさい」。お前は自分の足が届く浅瀬でしか漁をしていないのではないか?
私はそう問われているように感じます。
恐れず大胆に主に従って沖に漕ぎ出すとき、神さまの力が働くのを見ることになります。
 2015年1月11日  ヨハネは人々に悔い改めを迫り、罪の赦しを得させる洗礼を授けました。ヨハネから
洗礼を受けたイエスさまはどんな罪を悔い改めたのでしょうか?イエスさまは罪のない方
ですから罪の赦しを得るための洗礼ではありません。
 イエスさまの洗礼は、ヨハネの後に続きヨハネを超える働きを始めるそのスタートのため
でした。福音書が私たちに教えるイエスさまの宣教は、「神の国は近づいた。悔い改めて
福音を信ぜよ」というヨハネと全く同じ言葉で始められています。
 しかし、イエスさまはヨハネと同じ働きで終わるのではありません。ヨハネが備えた道を
先へと前進して行きました。それが「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」こと
です。
 イエスさまが洗礼を受け、(水から上がり)祈っていると聖霊が降りました。この出来事も
三位一体の神であるイエスさまと聖霊においては必要のないことであったのかもしれませ
んが、洗礼を受けたことも聖霊を受けたことも、私たちが通るべき道の先を歩んで示して
くださったのです。
 さて、今週注目したいのは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは違うということ。
そして、水のバプテスマ、ことに「ヨハネの洗礼」ではなく「イエスの名による(水の)洗礼」
の場合は、(水の)洗礼で完結せず、聖霊のバプテスマに至ることが期待され、
そのようになるために受けるものだということです。
2015年1月4日  イエスさまは生後8日目にレビ記12:3の規定に従って割礼を受け、「イエス」という名が
付けられました。そしてマリアの清めの期間33日が経過して後、神殿で献げ物をしマリア
の贖いの式をしました。この時二人の老人が彼らに目を留め、声をかけます。
 シメオン老人の言葉は、「わたしは神さまの救いを見たからもう死んでもいい」ということ
です。もう一人84歳のアンナも「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のこと
を話した」とありますから、彼女も生後1ヶ月のこの赤ん坊が救い主だと確信したのです。
 この二人の老人の言動からわかることは…
@ユダヤの人々はとても強く救いを待ち望んでいた。当時ユダヤはローマの属国で一応
「国」ではありましたが、その王はユダヤ人(バビロン捕囚まではダビデの子孫が王位に
あった)ではなくローマ皇帝から金でユダヤ王位を買ったイドマヤ人ヘロデでした。人々は
ダビデ家による支配を回復したかったのです。
Aしかし、シメオンは「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする
ためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」と言います。
イスラエル人を喜ばせるのでなく、むしろ反対を受けると言います。彼の目にはイザヤ書
後半の苦難の僕の姿が、この赤ちゃんから見えていたのです。 「救いを見た」とは、自己
を犠牲として献げる神の独り子を見たことです。
あなたならどうしますか?

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