日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2015年「命の言葉」
 2013年「命の言葉」



2014年12月28日  ある年のクリスマスシーズンのこと、パソコン通信のキリスト教フォーラムで、責任者が
フォーラムのトップ画面にリースの画像を表示していましたが、12月27日頃一人の会員
から「もうクリスマスは終わったのに、なぜまだリースの画像を出しているのですか?」と
いう質問がありました。彼は、クリスマスは12月25日で終わりと思っていたのでしょう。
そう思っている人は彼だけでないようです。
 クリスマスは12月25日から始まり、十二夜を含んで1月6日のエピファニーで終わります。
飾りもこの時に外すとされています。エピファニーは日本ではあまり祝われていませんが、
ギリシャ語のエピファネイア(顕れ)が語源で公現日とか顕現日と呼ばれます。神の独り子
が人の姿を取ってこの世に現れたことを(誕生から洗礼までを含め)お祝いする東方教会
の祭りで、クリスマスよりも古く、2世紀から祝われていたようです。4世紀に西方教会に
伝わり、12月25日の降誕日とつなげて、この期間をクリスマスとして祝うようになっています。
 バッハの「クリスマス・オラトリオ」は6部から成っていますが、12月25-27日、1月1日、
2日(日曜)、6日にわけて演奏されました。
 1月1日は12月25日から1週間、幼子が割礼を受ける日で、この日にイエスという名前が
付けられました。それ故「主の命名日」として祝われます。
 年末でもあり、クリスマスをあわただしくお祝いをして終わっていませんか?日数をかけ
て主のご降誕の恵みをじっくりと味わいましょう。
2014年12月21日  ベツレヘムは決して大きな町ではありません。しかし、ダビデの出身地です。そのダビデ
はまだ少年の時にサムエルから油を注がれました。決して「大いなる者」「立派な人物」だ
から選ばれるわけではありません。神さまの一方的な恵みによって選ばれます。私たちに
求められるのは神さまの召しに対する応答です。
 イエスさまは「小さな者のひとり」を大切にし、弟子たちも同じようにすることを求められ
ました。そのことを示すためにイエスさま自身の生まれもそのようでした。貧しい夫婦の
旅先の小さな町の家畜小屋に産声を上げられました。小さな者としての生まれではあり
ましたが、永遠のお方です。この方に繋がる人は永遠の命にも繋がることになります。
2014年12月14日 その存在が恥であるとされる国民!
神はそういう者たちが滅ぼし尽くされてしまわないように残しておくと言われます(3:12)。
彼らこそ主への信仰の第一の担い手となります。日本の最初のクリスチャンのほとんどは
名もなく権力もない農民でした。権力のあるクリスチャンたちはもっと権力のある者から
棄教するよう求められ、自分の権力や家系を守るために棄教しました。しかし、権力の
ない者たちは地下に潜ってその信仰を継承し続けました。隠れキリシタン人々の信仰に
は問題もありますが、主によってわが国に残された人々です。私たちも次の時代へ
「残された者」となり得るでしょうか?
2014年12月7日  「ペンは剣よりも強し」という言葉があります。言論は武力よりも人の心に訴える力が
あるという意味で使われています。たしかに優れた文学作品は私たちをわくわくさせ、
あるいは涙を誘い、また勇気を奮い立たせる力があります。文字ではなく、口から語ら
れる言葉もそうです。演劇、落語なども心に訴えかける力をもっています。名説教家と
いわれる牧師たちの説教も同じ力をもっています。その意味で説教者は名演説家や
落語の名人などに学必要があるのだろうと思います。
 しかし、それとは別に話し手の話術によらない、み言葉そのものの力があります。
パウロは「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によって」
(Tコリ2:13)福音を語りました。主イエスは会堂でイザヤ書を朗読した後、「この聖書の
言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と宣言されました。
ルカ4:32にはイエスの言葉には権威があったとあります。これはイエスさまの話術では
なく、み言葉そのものの権威が現れ出ていたということでしょう。イエスさまが畏れをもって
み言葉に接していたことの表れでしょう。畏れをもってみ言葉を受け止めるならみ言葉
自身がその力を発揮します。
2014年11月30日  ユダ王国はB.C.597年に新バビロニアのネブカドネザル2世に屈し、B.C.586年には
エルサレムの町と神殿が破壊されてしまいます。エレミヤが預言者として活動したのは
B.C.627〜585頃の約40年と考えられています。
 32章でエレミヤは、バビロニアに滅ぼされることを預言したため投獄されています。
しかし彼は獄中にあって、バビロニアに奪われる日が目前の土地を買います。そして
「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所
に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という
主の言葉を聞きます。それを実現するために主は「正義の若枝を生え出でさせ」ます。
私たちを全ての罪からきよめてくださるイエス・キリストがその方です。
 今日の朗読箇所で15節の「公平と正義」の「公正」はさばきとも訳されます。英語では
judgementです。「正義」の方はrighteousness「神の義」などという時の義です。16節の
『主は我らの救い』、ここで「救い」と訳されている言葉は「ユダは救われ」の「救い」では
なく、15「正義」と同じ言葉です。口語訳・新改訳は『主はわれわれの正義』『【主】は私た
ちの正義』です(英The LORD Our Righteousness)。
 公正と正義を行うことが「主の道」です。
「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を
守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、
彼の上に成就するためである。」創世記18:19新改訳
2014年11月23日  ダビデがユダの王となって7年半後、サウルの子イシュ・ボシェトが家来の裏切りによって
死んだため、長老たちがダビデを全イスラエルの王とするというのが今日の個所です。
◆み心を尋ねる 「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあな
 ただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」長老たちは、ただダビデが強い立派な
 人だからということでなく、主の言葉に根拠を置いてダビデを王に推挙しました。
◆神のみ前で民と契約 全イスラエルに求められたから自動的に全イスラエルの王になっ
 たわけではありません。民とダビデの間で契約が取り交わされました。しかもそれは神
 のみ前で行われるものです。教会で行われる牧師・長老の就任式や結婚式も同様に神
 のみ前で行われる契約です。
◆油注ぎ 王(や祭司)の任職では油が注がれます。油を注がれた人をメシアといいます。
 油注ぎは神の霊が注がれたことを表します。祭司だけでなく王(政治家)もまた神のため
 に仕える者であるべきです。更に新約の時代では一人一人のキリスト者にも聖霊の油注
 ぎがなされ聖霊を受けるように招かれています。
「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか?」
2014年11月16日 ◆困難への派遣 主はエジプトから逃れてミディアンで平和な日々を送っていたモーセを
 上の記した言葉でエジプトに派遣します。それがどれほど困難であるかモーセはよく知っ
 ていますから断ろうとします。
◆インマヌエル しかしアブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、モーセとも共にいて
 くださると約束します。この神さまはヨセフが奴隷になった時も囚人になった時も一緒に
 いてくださって、ヨセフが日々誠実に歩むことができるようになさいました。そして遂に
 ヨセフをエジプトの最高実力者にしてくださいました。「インマヌエル」とは「神が私たちと
 共におられる」という意味です。新約聖書はイエス・キリストこそがインマヌエルであると
 言い表しています。
◆『わたしはある』 口語訳「わたしは、有って有る者」、新改訳「わたしは、『わたしはある』
 という者である。」 英語ではI AM THAT I AM. 神さまの名前は英語のbe動詞に相当する
 ハーヤーという動詞が起源のようです。『ある』という大きな肯定の言葉から世界は生み
 出され、守られてきました。すべて存在するものの根源であるお方がモーセと共にいて
 くださるとおっしゃいます。
◆アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主 にわかにモーセの神になったので
 はありません。ずっと昔から先祖たちと共にいてくださった神さまが今もいてくださる。
 この保証を得て彼は主に応えてエジプトへ向かいます。この神さまはあなたの神さまでも
 あります。
2014年11月9日  今日は召天者記念礼拝です。カトリック教会は11月1日を諸聖人の日、11月2日をすべ
ての死者の日として亡くなった人を記念してミサを行います。プロテスタント教会では聖人
と聖人でない人を区別せず、すべてキリストにあった人を記念して11月第1主日を「聖徒の
日」として記念礼拝を行います。鈴鹿教会は一週ずらして第2主日に行っています。
 人は誰でも命の始まりと終わりを持っています。彼は命のある間、彼なりの仕方で一生
懸命生きようと努力をします。死と共にその努力は終わります。生前の彼を知っていた人
はその努力を評価することができます。しかしその人もまた死んで行き、やがて知る人も
いなくなります。歴史の中から消滅していきます。彼がある時期存在したことはどんな意味
があったでしょうか。
 聖書は永遠なるお方である神に応答して生きる時、私たちの生は死を超えて永遠なる
国にたどり着くと言います。それは私たちの生の根源である神のおられる国=天国で
あり、私たちの命はそこからもたらされた、従って私たちの故郷であるのです。この天国
を望み見つつ、聖徒たちは生きて来ました。私たちも彼らに倣い、天の故郷を望み見、
力を得て今を生きてゆきたいものです。
2014年10月26日  ヨブは彼の全くあずかり知らないところで神様とサタンのやり取りによって財産をすべて
失い、彼自身もひどい皮膚病に悩まされます。見舞いに来た友人たちも彼の様子を見て
言葉を失いますが、ヨブの「自分は正しいのに…」という訴えに彼らは「そんなはずはない」
と因果応報の理屈に立ってヨブの罪が原因でこんな目に遭っているのだと諭します。
しかしヨブは納得できません。議論はさらにエスカレートしていきます。
 そんなやり取りの中で友人たちに対するヨブの最後の弁論の中に上にあげた言葉が
出てきます。28章は全体が神さまの知恵に対する賛美になっています。ヨブは神さまの
知恵がどれほど大きく深いものかをことばを尽くして語ります。
 けれども、彼はやはり自分の今の状態に納得できないでいるのです。「神にわたしの
潔白を知っていただきたい」(31:6)と言います。
 すると今度は3人の友人とは別のエリフという人物が出てきて、「誰が神の道を見張り
『あなたのすることは悪い』と言えようか」(36:23)とヨブを叱ります。神ご自身も「わたしが
大地を据えたときお前はどこにいたのか」と尋ねます。
 結局、ヨブ記は「なぜヨブがこんな目に遭わなければならなかったのか」という問いには
答えていません。私たちが知りえない神のご計画がありその前にひれ伏すのみだという
ことを語っています。神の前にへりくだるとは私たちの愚かさを認めることでもありましょう。
 そのような愚かさの中にある者でありながら、ヨブが語った28章の神の知恵の賛美は
素晴らしいものです。愚かな者に知恵の言葉を語らせる主を賛美しましょう。
2014年10月19日  黙示録の預言はさまざまに解釈され、そこに記されている数の意味が取りざたされます。
今日の範囲の中でも十四万四千人という数字が示され、その内訳としてイスラエル12部
族から一万二千人ずつと記されています。また、3節を根拠として(?)ユダヤ人伝道の
進展によって再臨の時期が決まると考えて、ユダヤ人伝道に励む人々もいます。しかし、
国を持たずに長い放浪を続けてきた現代のユダヤ人の各々のルーツについて、自分が
12部族のどれに属するか明確にわかるのでしょうか?12は全部族の数、12000はその
1000倍、144000はさらにその12倍、要するに神さまがこれでよいとお認めになるという
ことでしょう。
 私たちにとって大事なのはむしろその次でしょう。「あらゆる国民、種族、民族、言葉の
違う民」が集まり神さまを礼拝します。イスラエルの歴史は神さまがアブラハムに「地上の
氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と、彼を祝福の源とされたことから始まります
が、その約束がここで実現します。世界中から集まった数え切れないほどの大群衆が
大声で神さまを賛美しています。
 しかも、彼らは「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのもので
ある。」と叫びます。小羊は祭儀において犠牲としてささげられる動物です。すべての人
の罪が赦されるために犠牲となったイエス・キリストさまを指していることはいうまでも
ありません。
イスラエルのはじめに約束された祝福が、黙示録で成就します。しかし、それはイエス・
キリストの犠牲という神さまご自身の痛みを通してなされます。私たちの賛美はこのよう
な仕方で罪深い者を祝福されるお方への感謝です。
2014年10月12日  イエスさまは100%神であると共に100%人間でした。その人間としての面に注目するなら、
ユダの裏切り、逮捕、裁判、十字架上の死という、これから待ち受けている一連の神様の
ご計画に従っていくことがどれほど不安と恐ろしさと孤独感を増幅させていくか、想像する
ことができます。弟子たちは皆イエスさまを置いて離れ去ってしまう。ペトロは「私たちが
先生を置いて逃げるなんてありえない。墓場まででもついていきます」と言ったけれども、
主が逮捕された時にはペトロをはじめ「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」
のです。
 そんな弟子たちに主は「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われます。私
はこの箇所をただ漫然と座っているのではなく、主の祈られる姿に心を合わせ、祈りの
援護を求めておられると読みます。イエスさまは「恐れてもだえ」地面に突っ伏して「苦しみ
の時が自分から過ぎ去るようにと祈り」ます。ところが弟子たちはこのような主の苦しみに
心を合わせることができず寝てしまいます。なんと情けない弟子たちだろうと思います。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。ところが三度目にはまた寝ていた弟子
たちに「もうこれでいい」と言われます。ギリシャ語は十字架上の「成し遂げられた」
(ヨハネ19:30)と同じ言葉です。
 眠った心で主を理解できない私たちをも救ってくださる主に感謝し、主と共に祈れる者に
していただくよう願いましょう。
2014年10月5日  ユダヤ教の最も大切な祭りが出エジプトを記念する過越祭です。その後の夕食が過越
の食事ですが、イエスさまも弟子たちと共にこの食事をなさいました。各福音書にそれが
記されていますが、それはまた、初代教会の『パン裂き』の原型となり、現在の教会の
聖餐式へとつながっています。ここで主はパンを【取り】、賛美の祈りを【唱えて】、それを
【裂き】、弟子たちに【与えて】という四つの動作をしておられます。礼拝学者はこの四つが
初代教会以来の聖餐の重要な要素だと指摘しています。マルコ福音書は十字架後40年
近く経った70年代に書かれましたし、聖餐式の「制定語」として有名な第1コリントは50年
代に書かれ、パウロはそれを彼自身の独創でなく、主から受けたと言ってますので、教会
でそのように行われていたわけです。
 初期の教会では日曜の仕事が終わってから集まり、食事を共にすることが聖餐式でし
たが、コリント教会などの問題が出て普通の食事と聖餐式が分離していったようです。
 聖餐式は主イエスの十字架を記念します。この記念とはギリシャ語「アナムネーシス」
の訳ですが、昔のことを思い起こすのみでなく「今現実にそのことが起こっていることを
確認する」という意味合いがあります。その内容は主の体と血を受けて、主の十字架と
復活に私も一体となることです。
 初代の教会は集まる毎にこの食事を行いました。カトリック教会は一年363日聖餐を
行います。聖餐のない日が特別な日です。私たちは聖餐のある日が特別だと思っている
のではないでしょうか。
2014年9月28日  「非常に高価なナルドの香油…300デナリオン以上」と言われています。当時の男性の
年収ほどの金額です。彼女はそれをイエスさまの頭にかけてしまった。「もったいない、
無駄遣いだ」と考える人がいるのは当然です。
 彼女はイエスさまの頭にかける香油はいくらぐらいが適当だと考えていたのでしょうか?
果たして300デナリオンが相当だと判断したのでしょうか?
 おそらくそんなことは考えもしなかったのだと思います。彼女はただ自分の持っているも
のの中でいちばん大切にしてきたものをイエスさまのために使いたかった。それがたま
たまナルドの香油だったということだと思います。
 ところがイエスさまの弟子たちはこれを無駄遣いだと非難しました。無駄遣いとは結果と
コストの比較から生まれる概念です。ヨハネは康避難したのがイスカリオテのユダだった
と言っています。ユダはイエスさまを裏切る代償として銀三十枚を受け取りました。旧約
聖書によれば奴隷の命の代償が銀30シェケルでした(出21:32)。祭司たちはイエスさま
の命を奴隷相当と考え、ユダも合意したことになります。
 信仰はそのような相対的な価値判断をしません。金額にしていくらかではありません。
私のいちばん大切なもの(「物」とも限らない)をイエスさまにお献げすることです。
2014年9月21日  当時レプトン銅貨2枚で買えるのは小麦粉一つかみだったとのこと。バングラディシュの
人々にはその日使うお米から一つかみ取って備蓄するという習慣があるそうですが、この
女性には一つかみの小麦粉分がすべてだったというのです。すべてを献げてしまった彼女
には残るものはありません。ただ神によりすがる他ないのです。神さまによって生きる。
そこに信仰の醍醐味があります。
 ある方の文章には、「イエスはこの女性を賞賛しているのだろうか。事実を述べただけで
ある。この個所を献金奨励に使う人も文字通り生活費のすべてを献げなさいとは言わない
だろう…この個所を献金奨励に使うのは罪だ…。」とありました。なるほど献金奨励に使う
のは不適切かもしれませんが、10章では金持ちの男に「行って持っている物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい」と言い、それができないと「金持ちが神の国に入るよりも、らくだ
が針の穴を通る方がまだ易しい」と嘆かれたのです。事実ペトロたちはすべてを投げ打っ
てイエスに従ってきました。しかし彼らもイエスの会計から食事をし、服を買ったのです。
私たちが献金として教会に納める以外の財(食費や医療費、娯楽のための金額)も、
神さまのものとして用いることが大切です。
2014年9月14日  名古屋学院(中学・高校)と名古屋学院大学は1883に来日して横浜で伝道を開始した
メソジスト・プロテスタント教会の宣教師フレデリック・チャールズ・クライン博士が、当時
まだプロテスタントがあまり進出していなかった名古屋に設立した名古屋英和学校を
前身としています。
 クライン博士が建学の精神として「敬神愛人」という言葉を掲げました。マタイ22:37〜39
から採ったとされていますが、今日の朗読箇所のマルコも同じ内容です。
 聖書には「主を畏れることは知恵の始めである」とあり、人間のおごりを戒めています。
そして「隣人を自分のように愛しなさい」と、一人では生きていけない人間だからこそ、
他者を愛すことの大切さを説い
ています。
 この「敬神愛人」を英語で表現すると“Awe to God, Love to Humankind.
”神を敬うことが“awe”、すなわち「畏れよ」という意味であることに、現代に生きる私たち
は気づく必要があります。
 人間のおごりを戒め、人との調和を説く、この「敬神愛人」の精神は、名古屋学院
(中・高)と名古屋学院大学、またキリスト教学校各校の中に息づき、神を畏れ人を愛する
人材を世に送り出すための教育が行われています。キリスト教学校のためにお祈り下さい。
2014年9月7日  使徒言行録は上の預言がイエス・キリストの福音として、ペンテコステの出来事を皮
切りに教会の働きによって実現していくさまを描いています。
 まず1:8で「あなたがたの上に聖霊が降ると、…地の果てに至るまで、わたしの証人と
なる。」と予告され、ペンテコステの出来事で諸国からエルサレムに来ていた人たちが
それぞれ自国の言葉で福音を聞きます。ローマ軍のコルネリウス隊長が聖霊を受け
洗礼を受けます。しかしまだ積極的な異邦人伝道は行われず福音宣教は主にユダヤ人
とサマリア人を対象にしていました。
 神さまはアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、
あなたの名を高める。祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて、あなたによって
祝福に入る。」(創世記12:1〜3)と約束されましたが、イスラエルは神さまに逆らい、神の
独り子イエス・キリストを拒みました。ところが神さまはこの不従順を逆手にとって救いが
異邦人へと広がっていくようになさいました。すなわちパウロとバルナバを異邦人の光と
して、異邦人伝道へと赴かせたのです。こうして神さまは人の不信仰・不従順さえも用いて、
伝道の業を進めて行かれます。
 パウロとバルナバはアンティオキア教会から送り出されて、この伝道旅行を行っていま
す。彼らの伝道は教会に対する神さまからの命令によって、教会の業として行われており、
個人的な熱意から出たものではありません(もちろん熱意を持って取り組んでいますが)。
私たちはみ言葉を伝えるために召し集められていることを覚えましょう。
2014年8月31日  人のうちにあった「神のかたち」は人が神さまに背いたために失われました。良心とか
信仰心のような神のかたちの残骸も残ってはいますが、罪に侵された人が自分で自分
自身を罪から解放することはできません。
 けれども人の罪が極まるところで、神さまは救いの出来事を行われます。人の罪が
神さまの独り子をさえ、殺してしまうという大きな罪に至ったところで、独り子は「父よ、
彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と叫びました。冤罪が贖罪に変わった瞬間です。
ここに人が本来与えられていた「神のかたち(=愛)」を見ることができます。また私たち
はこの「神のかたち」を「新しい人」となって身に着けることができますし、そうすべきです。
 それによって「審きの日」は「贖いの日」となります。それを保証してくださるのが聖霊さま
です。聖霊さまは「審きの日」に私たちの救いが完成されるように、日々私たちと共に歩ん
でくださり、アドバイスしてくださいます。聖霊さまの声を聞き漏らさないように、聖霊さまを
悲しませないようにしましょう。
2014年8月24日  今週の箇所は結婚式でよく読まれる箇所ですが、夫婦だけでなく親子、主人と奴隷も
含めて、パウロはクリスチャンホームのあり方を説いています。その根幹は「キリストの愛
に倣う」ことです。私たちは神に愛されている。キリストが私たちのためにご自分の命を
犠牲にしてくださった。だから私たちも家族を愛そうということです。
 「教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、
汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせる」ためにキリストはご自分を献げら
れました。だから教会はそのようになることができます。
 WWJDと書かれたアクセサリーがクリスチャンの間で流行しました。
What would Jesus do? (イエスならどうするか?)の略です。何かをする前に
「イエスさまならどうするだろう?」と自分に問いかけてみましょう。
2014年8月17日  モーセは彼自身の死を前にして、民に語りかけます。「二度とかたくなになってはなら
ない…
あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるの
ではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。」(9:6)。
 私たちがなすべきことは、神さまの愛への応答です。「今、あなたの神、主があなたに求
めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、
主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる
主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ること」。具体的には「人を偏り見ず、賄賂を
取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」
主に倣うことです。
 世界のすべての争いのあるところでこのことが実現されますように!
2014年8月10日  今日は東京神学大学の菊池美穂子神学生を迎えています。伝道者になるために神学
を学ぶとはどういうことでしょうか?
 ある教派では、神さまに自分を献げようとしている人を先輩牧師が教会での奉仕を通し
て訓練し、充分だと判断したら牧師に任命するという仕方をしています。神さまへの信仰
の純粋さと熱心さと人への配慮があれば、本来はそれでいいのかもしれません。人が罪
から救われるのは信仰によってであって、決して神学という学問によってではありません。
 それではなぜ神学を学ぶ必要があるのでしょうか?私たちの熱心さや純粋さは必ずしも
正しさを保証してはくれません。信仰は反省を必要とします。誤った方向に純粋に熱心に
進んでいくと異端となります。
 自らの信仰が進んでいる方向が正しく神さまに向かっているかどうか検証が必要です。
それは主として聖書と教会の伝統に基づいてなされます。使徒たちの時代から既に教会
の中に異端的思想が入り込んできました。使徒たちはそのような思想と戦って教会に
手紙を送りました。それが私たちの信仰と生活の基準となっています。使徒たちの後の
時代にも教会はさまざまな異端的思想と戦って数々の信仰告白を積み重ねてきました。
 神学生を生み出し、神学を学んだ教職を生み出すことは教会が正しく神に栄光を帰す
ために必要なことです。
2014年8月3日 ひきつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹いている少年、現代なら適切な診断
と治療が可能であるかもしれません。しかし、この当時は原因もわからず治療の方法も
ないような病気は悪霊の仕業として恐れられていたのでしょう。こうした医学で対処でき
ない場合に活躍するのが霊的な力を持っている人たちでした。今日でも所によっては
医師の代わりに霊能者が活躍する地域があるようです。
 それでは、医学の進歩した時代・所では霊的な力に頼る必要がないのでしょうか。実は
そのような問い立て自体が間違っています。悪霊とその力が私たちに対してなす作用は、
私たちを神さまから引き離すことです。もし医学の進歩が私たちを信仰から遠ざけるなら
それは悪霊の働きです。しかし医学の進歩によって健康を取り戻して感謝し神に仕える
なら医学は神の道具です。つまり医学そのものはニュートラルで、それをどう用いるか、
どう受け取るかという人の心の問題に帰します。
 どのような素晴らしい学問や技術であっても、それを用いるのが人間である限り、限界
があります。その限界を超えたところというのは常にあります。私たちが最善を尽くして
なお及ばないところは祈り、すなわち神さまにゆだねるしかないのです。
 そうしてみると、この子の父親の言葉は味わい深いものがあります。「信じます」と言い
ながら「信仰のないわたし」と続けています。委ねきれないものを持ちつつ、委ねるしか
ない私たちを代表する言葉だと思います。
2014年7月27日  3:16の「信心」は他の訳では「敬虔」、「秘められた真理」は「奥義」「神秘」、
英訳はmysteryまたはsecretです。「すなわち」より後にあるのは、信仰告白か聖歌の
一部を引用したもの。日本語の聖書は「キリストは…」で始まっていますが原文には
主語がない(ので一部分と考えられます)。「現れ」などの動詞が三人称単数の形
なので「キリストは」を補いますが、ルターのドイツ語訳以来の伝統でGodとする訳が
あります。文法的に読むなら先行する名詞「神秘」が主語となり「神秘は肉において
現れ…」となります。内容はキリストであることには変わりありません。
 引用部分は肉と霊、天使と人、地上と天上という2行ずつの3組の対比になっており、
出現→認知→栄化という順序になっています。
 リビングバイブルは次のように敷衍します。
「神様を敬う生涯を送ることは、決して、なまやさしいものではない、と言われますが、
まさにそのとおりです。 しかし、その解決はキリスト様のうちにあるのです。
キリストは人として地上に来られ、その霊において汚れなく、 きよらかであることが証明
され、御使いたちに仕えられ、 諸国民の間に宣べ伝えられ、 至る所で信じられ、 再び
栄光のうちに天に引き上げられたのです。」
真理の柱、土台である教会でどのように生活すべきか(15節)の根底がここにあります。
2014年7月20日  「パン種」とはパンをふくらませ,特有の香味をつけるために使う酵母。イースト(三省堂
『大辞林』)。旧約では「酵母を入れないパン」と表現され、過越祭に続く1週間は除酵祭
として酵母を入れないパンを食べることになっています。新約では「パン種」を急速に
膨張させるもののたとえとして使っています。「神の国はパン種に似ている」が2回、
「ファリサイ派等のパン種に警戒しなさい」が5回、「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」
が4回です。11回中9回はネガティブな意味で使われています。ガラテヤで言われている
のは「古いパン種」つまり旧約の「律法による義」とその象徴である割礼を指しています。
このような考えを持つ人々を放置しておくとあっという間に教会全体に広がってしまうから
気をつけなさいというのです。
 旧約聖書は私たちにとって信仰と生活の唯一の規範である誓書の一部です。しかし、
旧約の律法を六法全書のように読み、そこにある条項を遵守するということをキリスト教会
はしていません。私たちは週の第7日ではなく第1日に礼拝をします。豚もウナギも食べま
す。それは旧約を守るべき律法としてではなく、イエス・キリストにおいて成就された預言と
して受け止めるからです。旧約を読む時もキリストの姿を探しましょう。
2014年7月13日  ペルシャの時代、首都スサにモルデカイというユダヤ人がいました。彼の養女エステル
は美人コンテストで王妃に選ばれました。
 モルデカイは傲慢な大臣ハマンに対して、跪くことをしませんでした。これに腹を立てた
ハマンはユダヤ人を撲滅する命令を作り、王の勅令として全土に発布しました。
 モルデカイは、この勅令の撤回を進言するように頼みました。しかし、王妃といえども
自由に王の前に出ることは許されていません。機会がない旨返事をすると、更にモルデ
カイはエステルを説得したのがこの言葉です。
「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時に
あたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、
あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の
位にまで達したのではないか」エステルは命がけで王の前に出て王を説得し、民族の
危機を救いました。今この時、私たちがキリストに召されている目的を知り行動しましょう。
2014年7月6日 伝道は簡単なことではありません。しかし、私たちが十分な研鑽を積み、万端な備えをし
よく祈ってかかれば必ず成功する…とも言えません(だから準備をしなくていいというわけ
ではない)。
 主イエスの伝道もいつもうまくいったわけではありません。金持ちの青年が永遠の命を
得たいという求めからイエスのもとに来ましたが、ガッカリして帰って行きました。今日の
個所ではイエスをよく知っている地元の人々が、人間イエスをよく知っているがために
自分たちの知らないキリスト・イエスを知ろうともしなかったことが記されています。
「私はもう信仰があるからそれで充分」と言ってはいませんか?神さまはあなたをもっと
深い救いの平安へと招こうとしておられます。
 地元の人たちに拒否されても主イエスの伝道は止まりません。弟子たちを伝道に遣わ
します。この伝道の業はペンテコステを経て教会に継承されて今日に至っています。
2014年6月29日  信仰的な歩みをしようとする時に、正しい信仰から外そうとする力が働きます。祈りの
場に行こうとする時、つまり神さまを礼拝しようとしている時に悪い霊が働きます。しかも
その霊は「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているの
です」と言います。何か間違ってますか?占いの悪しき霊のいう通りです。
 占いをしてはいけないと聖書は厳しく言います。占いがデタラメだからではありません。
もちろんデタラメな「占い」もあるでしょうし、確率論的な推論を「占い」っぽく示すものもあ
るでしょう。けれども確かに霊的な力によってなされる占いもあるのです。それはデタラメ
なことを言うのではありません。霊的な力によって相当正しく言い当てることができるの
です。当たればいいのか?違います。占いの霊に頼る時、私たちは神から引き離されて
います。そこに罪があります。力をもって私たちを神から引き離そうとする悪霊は神では
ありません。神に対して勝利することはできません。イエス・キリストの名によって私たち
はこのような霊を打ち破ることができるし、打ち破るべきです。
 占いの女を支配していた霊は出て行きましたが、この女の主人は金儲けの霊に取りつ
かれていたのでパウロとテモテを投獄しました。しかし二人は獄中にあっても主に守られ
「聖霊」に導かれていました。
2014年6月22日  ペンテコステの日に聖霊が降り、集まった人々にペトロが説教すると3000人ほどが
イエスを信じました。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに
熱心であった」(2:42)。この一文に教会がなすべきことが凝縮されています。

 ペトロとヨハネは神殿の門で、足の不自由な男を癒しました。この男が歩いているのを
見て驚いた人々に、イエスの名がこの男を強くしたことを証し、悔い改めて立ち返るよう
に勧めました(3:16,19)。イエスをキリストと信じる人々は5000人ほどに増えました。

 翌日最高法院が召集され、神殿で語る権威をめぐり使徒達を裁判にかけました(4:7)。
ペトロは足の悪かった男の癒しを挙げ、「わたしたちが救われるべき名は、天下にイエス
の名のほか、人間には与えられていない」(4:12)と断言しました。議員たちはイエスの名
によって教えてはならないと二人を脅しましたが、二人は上記の言葉で答えました。

 二人が教会に戻り最高法院の様子を報告すると「聞いた人たちは心を一つにし、神に
向かって声をあげて」祈りました。
@預言通り、指導者と民が主とキリストに逆らっている。
A彼らの脅しに屈せず大胆に御言葉を語れるように。
Bイエスの名によってしるしと不思議な業が行われるように
と祈りました。
 主は彼らの祈りに応えて「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ
て、大胆に神の言葉を語りだし」ました。どのような状況にも屈しない主への信頼と熱い
祈りに応えて、主は聖霊与えてくださいます。
2014年6月15日 日本基督教団は「日毎の糧」という小冊子を発行しています。これは年間の聖書通読
プランと主日の礼拝における聖書日課を併せたもので、週日の通読プランは6年で聖書
のほぼ全体が読めるようになっています(週報の【聖書ごよみ】)。主日の聖書日課は
旧約書・使徒書・福音書・詩編が提示され、4年間でほぼ聖書全体が朗読されるように
なっています(現在のところ鈴鹿教会ではその内の一箇所と詩編だけを取り上げている
ので聖書全体が朗読されるようにはしていません)。
今日の日課は旧約書は申命記6:4〜9「心を尽くし…主を愛しなさい」という箇所、使徒書
はローマ8:12〜17、福音書はマルコ1:9〜11主イエスに聖霊が降ったところ、詩編は97篇
「神に従う人よ、主にあって喜び祝え」です。これらの聖書が示している今日の主題は
聖霊を受けて、聖霊に従う(肉に従うの逆)人は神の子、キリストの弟・妹になるということ
です。何という恵みでしょう!感謝と賛美をささげましょう。
2014年6月8日  ペンテコステとは50日目という意味のギリシャ語です。過越祭(今年は4月14日〜22日)
の7週後に行われる七週祭(春の収穫祭)のことです。この日にイエスさまの弟子たちに
聖霊が降ったのでキリスト教では収穫祭としてではなく聖霊降臨祭として祝われています。
この日聖霊が降ったことによって弟子たちにどんな変化が起きたでしょうか。

1.恐れがなくなった。彼らは主の復活を知った後も恐れていました。しかし聖霊によって
  迫害も恐れず大胆に語るものとなりました。

2.誰に対しても語れるようになった。弟子たちの多くは学問もない人々でしたが、諸国
  からエルサレムに集まっている人々が皆自分の母国語で福音を聞きました。

3.語るべきことは聖霊が教えてくれる。諸国の言葉で語り出すとはまさに奇跡ですが、
  語る内容も大切です。彼らが語った内容も「“霊”が語らせるまま」でした。

4.教会の形成。ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われます。教会の役割はこの世
  に向かってキリストを証しし、新しい弟子を生み出すことにあります。

私たちも聖霊の賜物を求めるべきです。パウロは次のように言っています。
「(あなたがたも)霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、
それをますます豊かに受けるように求めなさい。」(Tコリント14:12)
2014年6月1日 キリストは父なる神から委ねられた人々にすべてに、永遠の命を与えることができます。
永遠の命とはまことの神とイエス・キリストを知ること。「知る」とは単なる知識ではなく
全人格的に交わることを意味しています。
1.神の御名の力:キリストは神が託された人々に神の御名を現し、御名によって彼らを
  守りました。
2.彼らはキリストを通して語られたみ言葉を守りました。一言でいえば「愛し合いなさい」
  です。
3.世を去るキリストは「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守って
  ください」と祈ります。この祈りは聖霊降臨によって応えられ、聖霊が神の御名によって
  イエスを主と告白する者を守ります。
4.神の御名によって守られる人々はどうなるか?@天における一体・地における一体・
  天と地における一体。Aキリストの持つ喜びが教会の内に満ちあふれるようになる。

【子どもの日(花の日)】
1856年米国マサチューセッツ州チェルシーの牧師チャールズ・H・レオナルド博士(写真)
が、少年少女を信仰に導くため、特別礼拝を6月第2主日に行なったことが起源です。花
の豊富なこの時期、神の恵みを子供達に印象づけようと、花を教会に飾り神に感謝した
ことから「花の日」・「子供の日」と言われるようになりました。1881年、メソジスト教会が
年会において、6月の第2日曜日を毎年「子供の日」と定めた後、当時の教会にひろまり、
世界的に普及しました。また、子どもを神にささげる『献身の日』ともされています。
2014年5月25日  イエスさまは「別れを乗り越えた出会い」を弟子たちに語ります。それは「死を乗り越えた
命」がもたらす再会でした。これによって彼らは「悲しみを乗り越えた喜び」を受けます。
ここには三つ出来事が重ね合わせられているように思えます。
 第一は十字架と復活。ユダヤ解放を夢見ていた弟子たちは、イエスさまの死によって
絶望します。しかし復活された主と出会い、喜びと希望を持ってふたたび集まります。
 第二は昇天と聖霊降臨です。主は天に昇られ弟子たちは地上に残されます。弟子たち
は無力でした。イエスさまの国が霊的な国であることを理解してもそれを作る力はなく、
最高法院による弾圧を恐れていました。しかし聖霊を与えられて、彼らは恐れることなく
福音を伝えて歩くようになりました。
 第三はこの世に生きる私たちと再臨の希望です。聖霊をいただいた私たちはイエスさま
の御国の希望を持ってはいますが、現実は困難の中にあります。喜びはイエスさまが再
び来られ、この世界が滅び天国が実現される時まで与えられないのでしょうか?地上に
おられたイエスさまは、イエスさまの周りにいる人としか接することができません。イエス様
が天に昇られたからキリスト教はグローバルな宗教になることができました。イエスさまは
天におられて、私たちが世界中どこにいようと私たちの祈りを聞き、常に執り成してくださ
います。悲しみに満ちた世ではあってもイエスさまが執り成してくださり、私たちの願いを
聞いてくださり、再臨の日に主とまみえる希望から喜びをもって今を生きることができます。
2014年5月18日  今週はぶどうの木と枝を例として、先週に引き続き「愛」について語られています。
農夫=父なる神さま、ぶどうの木=子なる神さま、ぶどうの枝=私たちです。
 私たちが豊かに実を結ぶために必要なことが二つあります。

1.手入れが行き届いていること。
 農夫である神さまが手入れをなさいます。実を結ぶ枝か、結ばない枝かを見分け、
実を結ばない枝は切り落とし、実を結ぶ枝は豊かに実を結ぶように手入れをなさいます。

2.木としっかりつながっていること。
 木につながっていない枝は根から栄養を受けることができません。最も大切なことは枝
が木としっかりつながっていることです。

 私たちが豊かな実を結ぶとは、どのようなことを意味しているのでしょうか?聖書が述べ
ているのは「唯一の掟」である「互いに愛し合いなさい」をその通りに生きることです。
互いに愛し合う者がキリストの弟子であり、神に栄光を帰することができます。
 愛し合うことは、私たちの歩みを振り返れば簡単でないことがわかると思います。神を
賛美する共同体の中で愛とは反対のことが行われます。現実から目を背けず、しかし
「教会なんてどうせ罪人の集まりだ」と開き直るのでもなく、創造の時に与えられた神さま
のみ姿を回復し、神さまに栄光を帰したいと思います。私たちが自分自身の力によって
それをなそうとしても無理ですから、聖霊さまのお働きに期待し、聖霊さまに自分を委ね
ることが大切です。そのように祈りましょう。
2014年5月11日 「互いに愛し合いなさい」という掟は始めからの掟ですが、実践するには、常に新しい
事態の中で、どうしたら最もよいのか祈りのうちに対処していくことが必要です。
 「互いに愛し合いなさい」ですから、愛を受け入れることも大切です。例えば電車の
中で若者から席を譲られたら、自分はまだ席を譲ってもらうほど弱くないと思っても、
親切を受け入れ感謝して座るなら、席を譲った若者の徳を高めることになります。
 イエスさまは『掟』として「互いに愛し合いなさい」と言われました。愛は心の問題と
思っている人もいるかも知れませんが、掟は心ではなく行為を規制するものです。
心にある愛が行動になってはじめて掟に従ったことになります。
 一方、心の法則と体の法則が食い違っている現実もあります。それも踏まえながら、
前へ進んでいく勇気が必要です。 愛は「好き・嫌い」という自然な感情とは違って作り
上げていくものです。力が必要です。その力は十字架上で裂かれた主イエス・キリスト
の体と流された血潮にあります。畏れをもって聖餐に与ることは、私たちに人を愛する
勇気を与えます。聖餐に与るときは、十字架に死んで復活された救い主によって愛の
人に変えられる自分をイメージして与りましょう。
 2014年5月4日 【母の日の由来】

5月第2日曜日は母の日です。米国ウェストヴァージニア州のアンデレ・メソジスト
監督教会にアン・リーヴス・ジャーヴィスという教会学校の教師を26年も奉仕した
女性がいました。彼女は1876年に教会学校で「私は誰かがいつか、母親が人の
生活の一つ一つの分野で無比の奉仕をしていることを記念し、母の日を見出す
ことを希望し祈ります。母親にはそれを受ける権利があります」と祈りました。
アンの娘アンナ・マリー・ジャーヴィスは母親が天に召されて3年後の1908年5月
10日に彼女の母親と全ての母親のために教会で記念会を計画し、出席者に
この日の意義の説明し500本の白いカーネーションを配布し、お母さんを偲び
ました。百貨店王ジョン・ワナメーカーはアンナに協力し母の日制定を推進しま
した。1914年にはウィルソン大統領が5月第2日曜を母の日と定め宣言しました。
日本ではクリスチャン実業家森永太一郎が母の日の普及に努めました。
2014年3月30日 日本キリスト教団信仰告白(106)

問143. 「永遠のいのちを信じます」は、どのように理解しますか。

答. 永遠の命はこの世を生きるキリスト者の中ですでに始まっていますが、終わりの日
  に初めて完全な形で与ることができます。すなわち、罪が最終的に洗い清められ、
  死すべき体が死の力から贖われることによって、わたしたちが被造物として造られ
  た最初の目的が成就するときに、神の命である永遠の命が与えられます。
  わたしたちはその時、わたしたちの魂が愛し、慕い続けたキリストの聖顔に
  まみえ奉り、その御名を 呼び、至福の中で主を讃美するでしょう。また、
  まったき聖徒の交わりの中で、互いに地上での罪を赦し合い、愛し合うでしょう。
  それはまさに、教会が神の命そのものにあずかることが許される、ということです。

「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔と
を合わせて見ることになる」                    (Tコリ13:12)

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わし
になったイエス・キリストを知ることです」               (ヨハ17:3)

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや
悲しみも嘆きも労苦もない」                      (黙21:4)

※他聖書参考箇所
(ヨブ19:27)(Tヨハ3:2)(コロ3:4) (黙21:2)
2014年3月23日 ─ 滝口牧師より ─

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指して
ひたすら走ることです。                          (フィリピ3:13〜14)

鈴鹿教会に招かれて15年、過ぎてしまえば、あっという間でありました。しかし、ここに至
るまで未熟な者の為に、背後にあって多くの祈りと心温まるお支えがありましたことを、
心より感謝申し上げます。
 特に母と共にこの地で最後を過ごすなど、夢だに思いませんでしたが、愛する方々の
愛の御労とお祈りを頂き、どんなに支えられ慰められたことでしょう。皆様には御世話様
になり、衷心より誠に有難う御座いました。
 上記の御言葉のように、今後も残された生涯がどの位あるか分かりませんがただ目標
を目指してひたすら走り続けて参りたく願っています。お覚えくださり、御加祷頂ければ
感謝で御座います。
 霊の恵みに満たされ御健康が守られ、石田聖実先生を中心として、益々主を証する
教会として豊かに祝されますようお祈り致します。
2014年3月16日 日本キリスト教団信仰告白(105)

問142. 「からだのよみがえり」を信じるとは、どのようなことを信じることですか。

答. 終わりの日にわたしたちは墓の中から甦らされ、最後の審判を受けた後、もはや
  死ぬことも朽ちることもない霊の体へと変えられる、ということです。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますよ
うに。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして
守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないも
のとしてくださいますように」                      (Tテサ5:23)

「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立た
れるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ
見るであろう」                               (ヨブ19:25〜26)

「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わ
せて見ることになる」                            (Tコリ13:12)

「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」
                                         (Tコリ15:52)

「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」
                                      (Tコリ15:20)

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい
体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」     (フィリ3:21)

「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされ
ること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」
                                         (ロマ8:23)

「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Tコリ15:44)
2014年3月9日 日本キリスト教団信仰告白(104)

問141.「罪のゆるし」を信じるとは、どのようなことを信じることですか。

答. 罪の赦しはすでにキリストの十字架の出来事において、その唯一の根拠が与えら
  れています。わたしたちはそれを信じて洗礼を受け、義とされ、キリスト者としての
  信仰の生涯を歩んでいます。その者が、終わりの日の裁きにおいて最終的に罪の
  汚れから洗い清められ、永遠の命に入れられることを信じる、ということです。

「あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、
神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」(Uテサ2:13)
2014年3月2日 日本キリスト教団信仰告白(103)

問140.教会をこのように信じることは、なぜ大切なのですか。

答. わたしたちの目に見える教会は、いずれも不完全に思われるかもしれません。
  しかし、この見える教会が、同時に見えない、キリストの体なる教会であることを
  信じることによって、教会の主がキリストであり、その御言葉と聖礼典が教会を
  清めるという希望を持つことができ、失望せずに祈るようになります。もし教会
  を信じる信仰を失い、教会から離れてしまうなら、それは信仰を失う一歩手前の
  危険な状態です。
  また、日本基督教団の場合、教会員が教会の会議に加わることが許されています。
  教会の主はキリストですが、教会員は教会を共に建てる僕たちです。それゆえ、
  教会を信じる者は、教会会議において、御霊に導かれた建徳的で適切な発言を
  することによって、キリストに対しても、兄弟姉妹に対しても、必要な奉仕をする
  ことができます。
2014年2月23日 マザー・テレサの祈りを聞きましょう。

1 主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、
  私のこの手をお望みでしたら、きょう、私の手をお使い下さい。

2 主よ、今日一日、友を欲しがっている人々を訪ねるために、
  私の足をお望みでしたら、きょう、私の足をお貸し致します。

3 主よ、今日一日、優しいことばに飢え ている人々と語り合うために、
  私の声をお望みでしたら、きょう、私の声をお使い下さい。

4 主よ、今日一日、人は人である理由だけで、どんな人でも愛するために、
  私の心をお望みでしたら、きょう、私の心をお貸し致します。
 2014年2月16日 日本キリスト教団信仰告白(102)

問139.「聖徒の交わり」とは何ですか。

答.二つの意味に理解できますが、それらは互いに補い合うものです。
  一つには、教会 に属する一人一人は皆、「公同の礼拝を守り、福音を正しくのべ
  伝え、バプテスマと聖餐との聖礼典を行ない、愛のわざにはげみながら、主が
  ふたたびこられるのを待ち望む」(日本基督教団信仰告白)と告白された教会の
  業に共に参与することにおいて、キリストの恵みを共に喜び、味わうことが許され
  ています(この場合、「聖なる事柄の共有」という意味になります)。
  もう一つには、どの人も、自分に与えられた聖霊の賜物を他の人の救いと慰めの
  ために用いる責任があります(この場合は、「聖徒の交わり」という意味になります)。
  かくして、教会はたとい「罪人の交わり」として、この世の交わりと少しも変わらない
  ように見えても、しかもなお、それはキリストの恵みにあずかる「聖徒の交わり」
  である、と信じることが許されます。そのことを最も良く現わしているものが、聖餐
  です。

※聖書参考箇所
(Tヨハ1:3) (Tペト4:10)
2014年2月9日 日本キリスト教団信仰告白(101)

問138.「きよい公同の教会」とは何ですか。

答. 第一に、教会は神によって生まれ、やがてキリストの花嫁(黙21:2)となるべきもの
  として、「きよい(聖なる)」ものだということです。次に、教会はキリストのものである
  ゆえに、人種・民族・国籍・性・年齢・社会的階層等によって限定されることなく、
  むしろ、あらゆる時代のすべての国々の人々に対して開かれ、万人がその恵みを
  共有しうるという意味で、「公同の」ものです。この信仰は、教会に勇気と広がりを
  与え、教会が特殊化したり閉鎖的になったり私物化されたりする危険から守ります。

※聖書参考箇所
(エフェ4:1〜5) (Tコリ1:2) (ガラ3:28)
2014年2月2日 日本キリスト教団信仰告白(100)

問137.聖霊とは何ですか。

答.聖霊は父と子と共に永遠にあがめられるべき神であられ、父および子から遣わされ、
  このわたしに与えられています。聖霊は「御父と御子を結ぶ愛の絆」とも呼ばれてき
  ました。それと同様に、聖霊は教会においてキリストとわたしたちを一つに結ぶ絆の
  働きをします。すなわちわたしたちの心の奥深くにキリストの愛を悟らせ、わたしたち
  が神によって贖われた子であることを確信させます。そのようにして、わたしたちに
  キリストを愛する愛を注ぎ込みます。また、わたしたちが互いに愛し合う愛をも与えま
  す。更に聖霊は、わたしたちに奉仕の賜物を与えて互いに仕え合うようにし、キリスト
  の体なる教会を建てさせます。そして終わりの日への希望を確かなものとします。
  このように、聖霊はキリスト者が信仰と希望と愛に生きる力を与えてくださるのです。
  それゆえ、聖霊を求める祈りが大切です。

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ14:26)
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(ヨハ15:26)
※他聖書参考箇所
(ガラ5:22〜23)(Tコリ12:3)(ロマ8:16)(ロマ5:5) (ルカ11:13) (Tコリ12:7〜8)
2014年1月26日 日本キリスト教団信仰告白(99)

問135.なぜ、キリストの十字架と復活の後に、すぐ終末が来なかったのですか。

答. キリストは復活された後、弟子たちに福音宣教を命ぜられてから、昇天されました。
  復活から再臨までのすべての時間は、教会が伝道し、世の人々が悔い改める
  ために、神が備えられた恵みの時間です。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリ6:2)

「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る」                       (マタ24:14)

「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と
寛容と忍耐とを軽んじるのですか」                    (ロマ2:4)


問136.第三の部分では、何と告白していますか。

答. 「わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
  からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と告白しています。
2014年1月19日 日本キリスト教団信仰告白(98)

問134.「そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」は、
    どのように理解しますか。

答. 主が終わりの日に再び天から降ってこられ、すでに死んだ者も、その時まだ
  生きている者も、共に審判の座の前に引き出し、その行いに応じて正しく裁かれる、
  と理解します。この時、恵みによって彼と結びつけられた者は皆、朽ちない者に
  変えられ、永遠の命に入れられます。しかし、彼に適する全てのものは完全に
  滅ぼされるでありましょう。その後で、キリストは国を父なる神に渡され、神の国と
  神の義が成就します。神の国と神の義の成就をわたしたちは待ち望みます。
  なぜなら、最終的に神の審判が行われることは、この世の不義がだれか神以外
  の者によってではなく、神御自身によって完全に裁かれ、御国が成就し、神が神と
  なることを意味するからです。かくして、人間によって破られたモーセの第一戒
  (出20:3)が、神御自身のよって回復されます。それなしに人間の救いは無かった
  のです。

「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない
からです」                                    (Uコリ5:10)

※他聖書参考箇所
(Tテサ5:9)(ヘブ9:27)(ロマ6:23)(Tコリ15:26)(Tコリ15:28) (マタ6:33)
2014年1月12日 日本キリスト教団信仰告白(97)

問133.「全能の父である神の右に座しておられます」とは、何を意味しますか。

答. 主が全能の父なる神の「右」、すなわち、「支配」の座につかれたことを意味します。
  それは、死に勝利した復活の主が、全被造物を支配し、もはや何ものも、「恵み
  の契約」の成就に向かう歴史の歩みを阻止し得なくなった、ということです。
  主は、このように万物の支配者ですが、同時に、キリスト教会の頭となられ、
  その肢であるわたしたちに豊かな霊の賜物を注ぎ、わたしたちのために執り成しの
  祈りをささげておられますゆえ、わたしたちもまた祈りを通してこのキリストの
  勝利に与り、この世と罪と死の力を恐れることなく、福音宣教と教会形成の業に
  励むことができるのです。

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において
御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばか
りでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、す
べてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として
教会にお与えになりました」(エフェ1:20〜22)

※他聖書参考箇所
(ロマ8:34) (エフェ4:11〜12) (ヨハ16:33) (Tヨハ5:4〜5)
2014年1月5日  「今年こそ」     水野源三作

鳩の群が  飛び去った
サッシの窓には  雨が激しく降る

今年こそは 今年こそは 今年こそは
小さな小さな私も  祈り求める

争いが絶えない  この世界
真の平和が   人々の胸に
真の愛を


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