日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2010年「命の言葉」



2009年12月27日 「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。    (マタイ1:23)

 12/24(木)PM7:30からクリスマス・イブ礼拝が捧げられました。比較的穏やか
な夕べで、ホット致しました。出席者は、男31名、女43名でした。前日より、当日
の為の色々な準備がなされ、特に中高生のページェント、ハンドベルと危ぶまれ
ましたが、それぞれ良きものが捧げられました。礼拝後は、婦人方のケーキが出
され、その品数の多いこと、食べ切れないほど豊富に、笑顔に溢れた夕べでした。

 クリスマス、それはインマヌエル、「神が共におられる」。この主のご降誕に始
まり、「世の終りまで共にいる」との約束で結ばれているのです。その約束は人生
の苦難の時にも人を支え、生きる力を与えてくれるのです。
 ヨセフは婚約者のマリアが身ごもっていることを知って、非常にショックを受けま
した。しかし天使によって、生まれてくる子が「インマヌエル」という名であることを
知らされ、その悩みから解放されて、マリアを妻として迎え入れました。何故なら
人間の不可能と思われることの中に、「神が共にいて下さる」と、そう信じたから
です。その時、彼の心には希望と力が与えられたのです。

 「インマヌエル」という言葉は、私達にも大きな力を与えてくれるのです。今年の
10月に93歳で母は天に召されました。骨折をし、肺炎を起こし、その最後は老衰
で静かに平安の内に天に召されました。召される約4時間前に、母は深い眠りか
ら目が開きました。私はずっと母の耳元で、祈りながら讃美し、み言葉を告げ続け
てきました。その時「イエス様が一緒におられるから大丈夫よ」と声をかけると、そ
の目に一瞬、笑顔を浮かべたかのように見えました。そして、また深い平安に満ち
た眠りに入り、その晩9時頃、天に召されました。

 神は私達と今も一緒におられることを、母の死を通して改めて教えられました。
私達の人生には、なにが起るか分らない世にあって、インマヌエルの主にあって、
希望と力に満たされて歩むことが出来ます。ハレルヤ!
2009年12月20日 先週、夕方6時30分頃階下に下りて行ったら、ホールの薄明かりの中、なんと大きな
ポインセチアが5鉢も置いてありました。赤い色がパッーと目に飛び込んできました。
今年は高価で購入出来なかったのですが、何と感謝なことでしょう。クリスマスカラー
と言うと、赤、緑、白で「血」「生命」「勝利」をそれぞれ表わしていると言われています。
ポインセチアの赤は、主イエスのゴルゴダの丘で流された血を表わします。メキシコ原
産で、この国には次のような話があります。
 クリスマスには、飼い葉桶に寝かされたイエス様に贈り物をする習慣がありました。
一人の貧しい少年は捧げる物がありません。そこで「僕は心から祈りを捧げます」と祈
った時、そこに真っ赤なポインセチアが咲き出し、少年はそれを摘んで主イエスに捧げ
たということです。クリスマスは嬉しいことですが、その嬉しさは「受けるよりも、与える
方が幸である」と聖書にありますように、イエスが罪深い私達の為に十字架に架かられ、
しかも復活され永遠の生命を約束して下さいました。この主に、私達の真心を捧げる日
でもあるのです。私達は何を捧げたでしょうか。
2009年12月13日 天使は言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたの為に救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。」               (ルカ2:10〜12)

 今年も残すところわずかになりました。政権交代した画期的な年ではありましたが、
政権はまだまだ不安ですし、経済的な環境は益々厳しさを増すばかりです。日本の未
来を担う若者達の就職難があり、暗雲に被われ望みも打ちのめされ、また新型インフ
ルエンザの流行と、次々に追い打ちでつぶされそうな年でもありました。
 しかし、イエス様のお生まれになられた時代は、もっともっと闇の時代だったので
はないでしょうか。草も木もみな眠っている闇の中で、世の片隅に追いやられ、寒さ
との中で夜通し羊の番をしていた羊飼いは、不思議な良きおとずれ(福音)を聞きました。
御子は、この闇の世に光をもたらし、希望を与えて下さいました。私達は闇を持ちな
がら、この光を仰いで希望をつなぎます。そしてこの希望に支えられながら、足元を
照らす光も無く、出口も見つからず、心の闇に行き惑う人達の隣人になるようにと導
かれているのです。東の国の博士達のように、上を仰ぎましょう。福音の恵みの大き
な明星が輝いています。そして大きな喜びに満たされ、苦しければ苦しいほど、心の
底から真の光である主を讃美しましょう。
2009年12月6日  悪を避け、善を行えば、とこしえに住み続けることができる。
主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく、
とこしえに見守り、主に逆らう者の子孫を断たれる。
主に従う人は地を継ぎ、いつまでもそこに住み続ける。   (詩編37:27〜29)

 岡田はるみ先生の就任式の際、説教は中部教区議長 高橋 潤先生が詩編37篇で
御勧めをされました。
 今日、私達全ての教会は悪事と不義の者に囲まれています。しかし、その様な中で
弱く貧しく、いらだちを覚えたりする者ですが、神はその者達に教会を託され、神の教会
を立てさせようとしておられるのです。この37篇で「地を継ぐ」という言葉が5回出てきます。
どんな人がこの地を継ぐことが出来るのでしょうか。
@主に望みを置く人(9,34)、A貧しい人(11)、B神に祝福された人(22)、C主に従う人(26)、
自分の力でこの地を継ぐのではなく、繰り返し繰り返し主に望みをおいてへりくだって
主に従う人、その人こそ神に祝福された人であるとのお言葉です。神に召された者は、
主を仰ぎ、主に望みをおいて行く者に、神ご自身がこの邪悪な地にあって、必ず神の栄光
をそこに表わして下さるのです。
派遣された地にあって、苦しく、弱く、貧しく見えることがあっても、<主に望みをおく>人は
必ずこの地において、福音の恵みを継ぐ者として導いて下さるのは主です。この主に望み
を置き、主の約束を信じ、祈りをもって主のみ言葉に従って、それぞれが託されている教会
の使命を果たしてゆく者として、教会に仕えてゆきたい。岡田先生と恵泉教会の上に神の
祝福が豊かにありますように。
2009年11月29日  沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や、悪だくみ
をする者のことでいら立つな。          (詩編37:7)

 いよいよアドベント(待降節)に入りました。1年が何と早いことかを思わされます。
救い主イエス・キリストの御降誕を、私達自身が御子をお迎え出来る様に、喜びと感謝を
もって心の準備をする時でもあります。
 この師走の月に、キリストがお生まれになられた。何故この忙しい時期にお生まれにな
られたのかと思われる方は多いのではないでしょうか。
 待つことよりも、動くことの方が簡単で、じっとしておられない時期だからこそ、待つ
ことの方が重要なのだと、神は言っておられるのではないでしょうか。何故ならば、沈黙
して神を待ち望む者に、神様は私達に必要な働きをして下さっておられるからです。
 もし待つことを嫌って、動いてしまうなら神が私達にしようとしておられることを、妨
げてしまうことになるのです。待つことは、私達にとって一番難しいことですが、神様は
敢えてこの師走のアドベントの時、私達一人一人に先ず「沈黙して、主に向かい、主を待
ち焦がれよ」と言われるのです。
2009年11月22日 神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
                                         (詩編91:4)

 雌鶏が、ひなを集める時にする4つの鳴き声があるそうです。1つは、夜の鳴き声で、ひなたちを守る安全な避難場所が見つかった時の鳴き声。2つ目は、食事の鳴き声で、ひなたちの為に見つけた美味しい食事を口に入れるように促す鳴き声で、3つ目は、危険を知らせる鳴き声で、鷹が襲って来るとか危険に陥っている時の鳴き声です。4つ目は、愛の鳴き声で、母親の思いをもってひなを翼の下に集め、胸のぬくもりの中に抱こうとする時の鳴き声だそうです。
 愛の主は、私達の先立ちとなり、しんがりとなって、ご自分の羽を広げ、私達を見守り続けておられるのです。一人一人に主の平安、シャロームあれ!
2009年11月8日  神は私達の避けどころ、私達の砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。
                                         (詩編46:2)

日々の生活に慣れっこになり、全てに対して無関心になってしまうことがあります。例えば電車に乗る時、乗車券さえ求めれば、どこへでも行くことが出来ますが、誰かがレールを敷いたのですし、誰かが運転しているからこそ電車は動きます。そのことを思えば、感謝、感謝ですね。私達は自分のことは自分が一番知っているのだから、自分の思うように生きていいのだと。そしてやがて慣れっこになり、自分の生き方にも無関心になってしまいがちです。実は、私達に命を注いで下さった神は、私達の髪の毛までも一本残らず数えており、内側も外側もみな御存知のお方であります。そして人生の途上にあって砦となり、苦難の時には必ずそこに居て助けて下さるお方です。このお方が「私は世の終りまで、いつもあなた方と共にいるのである」と言われました。このお方に身を委ねて、日常生活を歩んで行きましょう。
2009年11月1日  第二も、これと同じように重要である。
「隣人を自分のように愛しなさい。」   (マタイ22:39)

 ある家を訪問した帰りに、その家の男の子が、「はい」とティッシュに包んだくしゃくしゃの物を私に渡しました。「ありがとう」と言って開けて見たら、紅葉した一枚の葉っぱでした。私は大きな感動を覚え、その子の手をギューと握りました。何をしたかが問題ではありません。どんな心でしたかが問題です。いらいらして、つい文句を言ってしまったり、ほめられることを期待したりしては何もなりません。たとえつまらないと思われる仕事でも、感謝し、静かな心、愛の心で果たしたのであれば、それで充分です。何をしたかではなく、心を、精神を、思いを尽したかが、一番大切ではないでしょうか。
2009年10月25日  主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神。 
                          (詩編68:20〜21)

 神様は365日、私達の重荷を担い下さると言っています。毎日、様々な困難、問題、心配事が次々と起り、のしかかって来ます。新改訳聖書は「ほむべきかな。日々私達の為に重荷を担われる主。私達の救いであられる神。」と記し、リビングバイブルは「神様が毎日重荷を肩代わりして下さる。」と言っています。抱えている重荷を背負い下さるだけでない、一番重くて厄介者の私まで担って下さるのです。このお方は「主」です。万物の創造者であって、命の源です。私達はこのお方によって、生かされているのです。ですから日毎に支え助けて下さる「主」を、私達も「日毎に呼び求め」て「主」に信頼して歩んで参りましょう。 ── (祈りの花束より)
 私自身このみ言葉によって慰められ支えられてきました。創造の主が、命の源なる主が、この私と共に居て、その重荷を担って下さるとは……。教会員の祈り、助けを頂き、また濱崎先生の礼拝の御用を心より感謝申し上げます。
2009年10月6日  主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実で
あったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
                            (マタイ25:21)

 「木を植えた人」、その著者はジャン・ジオンというフランスの作家です。フランス南東部、無人の丘陵地帯、荒れ果て乾燥し風が吹く地方を一人の旅人が水を求めて歩くうち、羊飼に出会い、その50代の羊飼の家に泊りました。羊飼は、夜ドングリの良い実を100個そろえて、翌朝、鉄棒を地面に突き刺して穴を作り、その中にドングリを入れて土でふさぎます。心を込めて一粒づつ、何年も何年もかけて、樫の木の種やブナの種も植えました。この人は、丁寧にたゆまず淡々と種を植え続けて行って、見事な森が創り上げられたのです。著書の中で「本当に世を変えるのは、権力や富ではなく、粘り強く無私な行為」であると書いています。自然や環境破壊の問題は、今日の大きな課題でありますが、この羊飼の生き方が心に響いてきます。質素、粗食。贅沢や華美の反対。規則正しく穏やかな仕事。人に知られぬ所で力まない日常……。私達にとって、神へ歩むべき信仰者の姿に似ているのではないでしょうか。秋深い今日この頃、人知れず無私な心で、神の前にひざまづきましょう。
2009年9月27日  敬老の日の特別集会に、クリスチャン医師で、現場で多くの高齢者と接しておられる渡辺佳夫先生をお迎えし、礼拝において証を、そして礼拝後、手作りの美味しい昼食を頂き、「クリスチャンと認知症」と題して講演して下さり、良き学びの時を持ちました。
 高齢化社会で肉体も脳も老化し、認知へと進み行く時、クリスチャンとしてこの地上においてどのような生涯を全うするかは、大きな課題であります。「認知とは何か」から話し始められ、そして具体的対策をも語って下さいました。
 食事療法、運動療法、生活習慣の改善をする等、方法はありますが、その最も根本的な部分は、老いることを主にあって理解することであると語られました。老いることはクリスチャンにとって、主の御許に近づくことであり、本来の魂の核(自分が最も大事にしているもの)、神(御言葉)を日々大事にして、自分の核を保って生きることであると強調されました。
 私達は、最後まで大事にして行くものは、今日というこの時を自分の核内に生きることが出来るよう、先ず日々神との交わりを深めて生きることであると改めて考えさせられました。有難う御座いました。
 出席者は他教会員、求道者を含めて、男11名、女16名、計27名でした。
2009年9月20日  わたしは、あなたがたをみなしごには しておかない。あなたがたのところに
 戻って来る。  (ヨハネ14:18)

最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気一杯で神の道を歩むのを見ても、
ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ
はずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを承諾するのだ。

神は最後にいちばん良い仕事を残して下さる。
それは祈りだ。手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを
求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、我が友よ、我、汝を見捨てじ。」と。

ホイヴェルス随想選集
「人生の秋に」の「年をとるすべ」より
2009年9月13日  神はあらゆる苦難に際して、私達を慰めてくださるので、私達も神からいた
だくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
                               (Uコリント1:4)

 母の入院を通して、お医者さん、看護師さんを始め患者同志、その関係者と
多くの方々に接する機会が与えられました。同じ言葉でも非常に心温まる慰め
となり、その反対に、淋しい心痛む時もあります。では、私は自らの心の中では
どうなのかと問われました。「慰め」とは、聖書で大変重要な言葉です。その意味
は、相手を思いやり、安心させ、優しく語りかける行為であります。そこには、誠実
さが求められます。一般的には、人間相互の横の関わりで用いられますが、神が
人間に示される行為、縦の関係で用いられています。
 特にイザヤ書には頻繁に出てきます。「主はその民を慰める」、ここでは一貫して
慰め主は神として示されています。ある人の言葉によると、「その神の「慰め」とは、
贖いであり、憐れみであり、救いだと言うことができる」と記されていました。その
通りであります。そして、それが具体的には、イエス・キリストを通して、誠の「慰め」
の恵みが全人類に注がれたのです。「Uコリント1:4」の約束を頂いていることを
感謝し、この慰めを求めつつ、相互に仕えてゆきたいものです。
2009年9月6日  私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった
善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達は、そ
の善い業を行って歩むのです。        (エフェソ2:10)

 8/30(日)礼拝後、残暑の中にありましたが教会員、その子供達、求道者と共に、
駐車場の草刈り、教会周りの清掃をしました。わいわいがやがや、幼い子達も、
一生懸命に働いている大人について草をむしったり運んだりしていました。そして
終ってから美味しい昼食を共にしました。何と素晴らしい神様の家族でしょう。
 私達は神様の似姿に創られています。ですから、神様の寛大さに学び行かなければ
なりません。そして、神の栄光を現す者として生かされています。それ故に、日々溌剌と
暮らすこと、人が生き生きとしている姿は神の栄光そのものを現し、それを次の世代に
証して生きることです。人は暗く下を向いて暮すようには創られていません。いつも内から
輝く人として、神ご自身が共に働いておられるのです。
2009年8月30日  その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。私は彼等をあなたの手
に渡す。」       (士師記7:9)

 2009年は、プロテスト・キリスト教の宣教師が太平洋をはるばる越えて来日し、福音
伝道に着手して以来ちょうど150年に当ります。日本での伝道は種々の原因により、な
かなか難しいと言われて来ました。
しかしこの年、全国各地で福音伝道の業が進められています。当教会でも、どのように
伝道したらよいか、長老会で色々話し合いが為されていますが、先ず出来ることからと
いうことで、ギデオンの聖書を白子駅で配布することになり、8/25(火)に4名で行い、約
90冊を人々の手に渡しました。
 ギデオンがミデアン人135,000人と戦う為に32,000人のイスラエル人がハロドの泉の
側に集結しました。数の上では到底勝ち目はありません。しかし神はそれにも拘らず未
だ多いと言われ、10,000人から更に300人まで兵士を減らされたのです。ギデオンは「主
が勝利させて下さる」と兵士を励まし、主の導きのままにミデアン人と戦って勝利したの
です。
 どんな小さな業でも、主の勝利を信じて進む者に、主は必ず勝利を約束して下さるという
素晴らしさを教えられました。
 次の配布時には、ギデオン300人にあなたも選ばれている1人です。主を信じ、主に委ね
て従い行きましょう。
2009年8月23日  わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。誰でも、聞くのに早く話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。   (ヤコブ1:19)

 言葉上の失敗は誰にでもあることです。後で後悔しても、し切れない苦い経験を持た
ない人はいないでしょう。CMCC(クリスチャン・メンタル・ケアー・センター)の働きがあります。電話
の向うの相手の話を、ひたすら傾聴し続けることの難しさが話題になりました。つい答
を出してしまい易いことですが、相手が自分で解決へと気付かされるように、相手の話
を聞き続ける奉仕です。これは非常に大切なことだと思います。
上記の御言葉のように、口から出る言葉で、人を汚すことが出来るのは人間だけです。
手も足も耳も二つあるのに、口は一つしか与えられていません。このことを私達は忘れ
ないで、先ず相手に対して耳を傾ける者とされたいものです。
2009年8月16日  いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れ
のほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがないその人の
することは全て、繁栄をもたらす。           (詩編1:1〜3)

 ある信仰の師が「人をうらやんだり、憎んだりすることは周囲の人々を遠ざけ、不安や
いらいらを増します。置かれたところ、植えられたところで咲きなさい。周囲を自分に合わ
せようとするのでなく、自分を周囲に合わせましょう」と。まさにその通りであると思います。
 神の支配の中に生かされている私達は、「ただ主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口
ずさむ人」。ここに隣との平安を創り出す最大の秘訣があるのではないでしょうか。
2009年8月9日  死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。 (詩編23:4)

 「苦しみは人の数ほどある」と昔からよく言われています。それは苦しみを持たない人
はいないということでありましょう。苦しみや悲しみが私達を神へと目を向けさせて、神へ
と導いて、神からの助けを与えて下さるところへ繋がることは確かです。苦しみが苦しみ
だけでなく、神が共におられることを確信し、希望と力を新に与えて下さる時でもあります。
 この度、93歳の母の転倒、骨折、手術を通して、背後の祈りによって一つ一つ平安の内
に進められたということを心より主にあって感謝致します。母は手術の前、病室でベットに
伏し天井を見つめていましたが、「不肖の私ですが、皆様にお世話になりました。有難う
ございました。」とお礼を宣べて手術室へ運ばれて行きました。多分、母は死を覚悟して
いたのでしょうが、PM3:30からPM7:00迄手術がかかり、病室に戻って来た時は、涙声で
「ああ、帰って来た。有難う、有難う」と連発していました。私にとっても貴重な体験でした。
上記の御言葉に支えられ、今後も、今のこの時を大切に御言葉の約束を信じて進みたい。
2009年8月2日 その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻っ
て来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。   (ルカ17:15〜16)

 主イエスは重い皮膚病を患っている10人の人を癒され、そのうちの1人だけが自分が
癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足元にひれ伏して
感謝した。この人はサマリヤ人だった、という出来事がありました。
 通常は歴史的な事情から、ユダヤ人とサマリヤ人とは交わりを持ちませんでしたが、
しかし重い患いという共通の痛みによって「彼らは声を張り上げて、私達を憐れんで下さ
い。」と願いました。それに対して、イエスは「祭司達の所へ行って体を見せなさい」と。
その言葉に従って行く途中で癒され、9人のユダヤ人達はそれぞれ自分の家に帰りまし
たが、サマリヤ人だけがイエスの足元にひれ伏して、神を賛美したのです。このサマリヤ
人は癒された感謝のみならず、ひれ伏しています。これは神を礼拝する意味です。このサ
マリヤ人はイエスを神と認めて礼拝したのです。
 これから本格的な暑さが続きます。私達はイエスの十字架と復活によって、罪赦され、
神の子として頂いたことを忘れることなく、このサマリヤ人の信仰にならう者として頂きた
い。神の憐れみによって、今朝の聖餐を感謝します。
2009年7月26日 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
何よりも先ず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わず
にもてなし会いなさい。  (Tペトロ4:7〜9)

 毎週木曜日の聖書研究で“ペトロの手紙”を学んでいます。私達の信仰生活に役立つ
言葉が具体的に書かれていて、ハットさせられます。
 人間は自分の我を棄てることは、なかなか困難なことです。自分の我を棄てて、自分
に敵対する人、自分を利用する人に対しても、優しい心で接する者となりたい。何故なら
キリストによって与えられた神の愛は、神の子キリストが罪人の為に死んでまで、その罪
人を赦し愛された愛であるからです。どんな人にも優しく接し続けられるようにと切に願う
ものです。たとえその優しさが他の人に利用されたとしても、その生き方を貫きたいもの
です。いつか相手がその心を悟った時、相手は心底から変われる時が来るでしょう。他人
の欠点は神に委ね、良点のみに心を向けて、愛と優しさをもって仕え合う教会となります
ように……。
2009年7月19日  私はこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた方の愛が益々豊かになり、
本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とが
められる所のない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れるほどに
うけて、神の栄光と誉れとを称えることが出来るように。   (フィリピ1:9〜11)

 暑い日々が続き、未だ体が慣れないせいか、ダウンしそうになってしまいます。幼子や
高齢者、体調のすぐれない方々にとっては辛いことですね。
 早朝の散歩に、母と一緒にしばらくぶりに出掛けました。以前よくお会いした方々にも
数人会い、毎日の生活に励んでおられる様子が伝わって来ました。
 私達は毎日の生活の中で、何に重点を置いて暮らしているかを、絶えず注意していか
なければなりません。何を優先にしているかによって、自分が社会に埋もれてしまうか、
進歩向上に心掛けているかが分かります。子供達も、もう夏休みです。うだる様な暑さが
2ヶ月は続くでしょう。そのような中で、もう一度何を優先するか……。そうです、何よりも
先ず、私達の霊の糧を頂き、上よりの力によって、朝毎に潤して頂きましょう。それによっ
て、私達の生活の優先順位も鮮明にされて、暑さに負けないで過ごせるのではないでし
ょうか。
2009年7月12日 私達は四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げ
られても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私達はいつもイエス
の死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
                                (Uコリント4:8〜10)

 昨年に引続き、茶売君枝先生が礼拝と午後の研修会の御用をして下さり、
主にあって感謝致します。
 先生はお若い時、キャンパスクルセードで大学生伝道に従事しておられました。
その頃キャンパスクルセードの研修会が名古屋で行われ、私も参加した時に初めて
お会いし、お世話になり忘れられないお一人であります。いつもこぼれるような笑顔
です。数々のご苦労をされたにも拘らず、内なる主にある喜びが全身を覆っておられ
るその笑顔に心引き付けられました。
 私達の人生には、神さまの見えない沈黙の時を迎えることがあります。ある方が次
のように言われました。「一番苦しい時、大事な時に神さまは隠れてしまわれることが
あります。しかし、この時こそ貴重な時間です。その沈黙の中でも、神さまを求め、信じ
続けていくことが大切です」と。その通りであります。
 今朝、神に期待をもって耳を傾けましょう。神はあなたに、一番大切でふさわしい事柄
をプレゼントされています。
2009年7月5日 「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子
と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と。そして、彼はそこを
たち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つ
けて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。   (ルカ15:19〜20)

 イソップ物語の一つに「兎と亀」という有名なお話があります。塾の講師をしている
ある教会の信徒の方が、その塾の生徒達に「兎と亀」について話し、次の様に質問
しました。「兎は何を見ていたの」と。 「兎は亀を見ていた」。それでは「亀は何を見て
いたの」と続けて質問しました。亀は兎を見ないで、ゴールを見ていた。そう生徒達に
話したのです。受験のため人と競争し、勝つことだけではなく、ゴールを目指して最善
を尽すことを教えたのです。
 全ての人の人生のゴールは、主イエス・キリストであります。特に不況の世にあって、
生活苦があり、家族や本人の健康について重荷があり、その他次々に人生の難題に
さらされているのが現実です。しかし、目標を目指して走り続けなければと、あえぎ力
尽きた私達のもとに主ご自身が駆け寄って来て、抱きしめてくださるお方であられます。
このお方がいつも私達と共におられ、目標のゴールへと導いてくださるとは、なんと幸い
なことでしょう。
2009年6月28日 アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して言った。「お客様、
よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないで下さい。水を少々持って来させますから、
足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさって下さい。何か召し上がるものを調えますので、
疲れをいやしてから、お出かけ下さい。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのです
から。」その人達は言った。「では、お言葉通りにしましょう。」   (創世記18:2〜5)

 この度93才の母と共に、新潟へ行って帰ることが出来、心より感謝します。背後の祈り
と出会の方々の温かなご好意が身にしみる思いです。
 アブラハムは旅人を心からもてなしました。その結果、多くの祝福が与えられることに
なりました。
 もう30年程前、北海道へ2台の車で伝道に行きました。早朝東京を出発し、八戸に着いた
のが午後7時頃で、小樽までフェリーに乗りました。丁度夏休み中で、船中はごった返して、
足を伸ばすことも出来ず、10時以降はクーラーも切られ、眠れず苦しい旅で、夜明けに
小樽に着いた時は、ホットしました。誰も知った人は居ない筈なのに、私達を出迎えて、
自宅へ連れて行って、シャワーと朝食をご馳走して下さった。その時の味噌汁の味は
忘れられません。よく聞いてみると、知人のお兄さん宅に私達の予定が知らされていた
とのことでした。そして、鋭気を得て、次の目的地へ向かいました。真心をもってもてなし
に与かった者には、生涯忘れられない宝物なのです。
2009年6月21日 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神で
ある主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じよう
に重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つ
の掟に基づいている。」                      (マタイ22:37〜40)

 主イエスは、聖書の教えを上記の様に要約し、最も大切なものとして示されました。
 奉仕とは、この「神を愛し、人を愛せよ」という神の大命令を私達の根本精神とし、
それを具体的な「仕える」という形に表して行動するということであります。「仕える」
を表すギリシャ語は、「デアコニア」という言葉です。新約聖書には、沢山用いられて
います。これは他人の必要を満たす為に、ちりをくぐるという意味があり、そこから
「仕える」「働く」「手伝う」「自分をささげる」等などの意味となります。自分をささげて
相手の必要を満たすことは、なかなか困難なことです。このことを真実に成し遂げて、
今も生きてとりなして下さるのはイエス様だけです。イエスの十字架の贖いと復活の
命に与かった私達は、イエスの憐れみにすがりつつ、「神を愛し、人を愛せよ」と言わ
れた神にお仕えさせて頂きたい。
2009年6月14日 この人達は皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、
はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分達が地上ではよそ者であり、仮住まいの者
であることを公に言い表したのです。                  (ヘブル11:13)

 「人生は旅」であると古来から言われています。聖書には、「人はみな旅人であり、寄留者である」、そしてまた「私たちの国籍は天にある」とあります。私たちは神の家族、私たちの国は天にあるのです。今いる所は、仮の住まいです。本当の住まいを目指して、これからどのような旅をすればいいかを、今日ほど問われている時代はないと思います。もちろん、旅をする為には多少の蓄え、物が必要ですが、決してそれ自体が目的ではありません。見えないものをしっかり見据えて、天に国籍を約束された者であることを覚え、真直ぐに歩んで行きたい。その為に必要ないものは少しづつ捨てて、生活をシンプルにして、暗い旅ではなく、明るくこの世にあって生きる時、主が共にいて下さることを心に刻みつつ、約束目指して歩みましょう。
2009年6月7日 あなた方は地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が
付けられようか。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけら
れるだけである。あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることが出来ない。                                               (マタイ5:13〜14)
 
 6/2(火)〜3(水)と千葉幕張メッセで、全国教会婦人会連合40周年全国集会が開かれ、当教会より3名の方が出席され、大きな恵みに与かって来られました。主題は「地の塩、世の光 ─ 教会の肢として明日の宣教を担う」と題し、全国より約1,200名が集まり、その最後に聖餐式が行われ、主にあって一つとなって受ける恵みの素晴らしさに感動したとのことでした。
 “Life is a gift. Time is a gift.”命と時だけは作り出すことは出来ません。私達が置かれた所で、私達の命と時をもって神にどうお応えしていくかは、生涯の課題でもあります。神の恵みを分ち合い、共に神に向かって褒めたたえて行きましょう。
2009年5月31日 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
                                  (使徒2:3)

 ペンテコステとはギリシャ語で「50番目」という意味。これは旧約聖書に記されている様に、イスラエルの三大祭(過越祭、仮庵祭、七週祭)の一つ、七週祭の事です。
 イスラエルの民は「五旬祭」として、丁度小麦の穂に鎌を入れた七週を数えて、神から受けた祝福を感謝し、収穫の捧げ物をする祭として祝われました。これが、新約において教会の「ペンテコステ」となったのです。「50日目」とは、主イエスの十字架にかかられ、三日目に復活され40日目に天に昇られ、50日目に聖霊が一人一人の上に注がれて、そこに教会が誕生したのです。そして、弟子達は十字架と復活の証人として力強く伝道し、その日、3,000人程の人が仲間に加わったのです。私達にとって「ペンテコステ」は聖霊に押し出され、イエスの証人として伝道の幻を持って再出発する日です。
2009年5月17日  イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 
                                      (ルカ21:1〜4)

 先日、教会の婦人方とお交わりをしている時、献金がなかなか出来ないと言う話になりました。一方の婦人は、以前その様な時があったが、他人様から物を頂いた時等、それを時価に換算して、その1/10を別に貯めておいて、それを献げたとの素晴らしい証をして下さいました。生活の中に主への感謝を覚えて、それを実行する。何と尊い献物でしょう。額にかかわらず、真心から感謝をもって献げる姿を、主イエスは褒めて下さいます。上記の聖書を思い起し、主に感謝します。
2009年5月10日

お母さん有難う。いつまでもお元気でいて下さい。

 母の愛は、無条件に子に注がれています。愛、思いやり、親切心は使えば使うほど豊かになります。決して出し惜しみなく、人に尽し、無条件の自発的愛は疲れを知りません。否、体は疲れても心は疲れないからです。というのは、主の愛がその人の上に注がれ続けているからです。

2009年5月3日 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あんたがたもいることになる。」 (ヨハネ14:3)

 心地よい候となり、木々も草花もこの季節を讃歌しているように見えます。天国とはどんな所かしら……と人は色々想像します。花園のような所であるとか、きれいな川が流れているとか、聖書には「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と書かれています。天国が天国である最も幸いな理由は、主イエス・キリストがそこにおられることにあります。それは、主イエスが十字架にかかられる直前に「あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われたからです。主イエスがおられる所、そこが天国です。主と共におられることが最も幸いである。これがクリスチャンの確信です。天へ凱旋された方々に倣い、み言葉の光に照らせれて日々歩みたい。
2009年4月12日 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 (ヨハネ11:40)

先週、兄弟の一人が新潟の母校 敬和学院(ミッションスクール)を訪ね、洗礼の恵みを報告する為に帰郷されました。現在、学院はすばらしく立派な校舎、体育館、チャペル等々すっかり変身し、この学舎で学べる学生達は幸せだと思われたのです。と言うのは彼は約40年前、創立されて間もない学院で学び、開拓途上で作業にも精を出していたとの事でした。主に信頼し、使命をもって歩む者への祝福がそこに現実に証明されているのを目の当たりにされたのです。
オーグ・マンディーノ著の中に「人生というゲーム」の17ヶ条のルールがあります。例えば「今日一日限りの命」「恵まれている点に目を向ける」「小さな事をおろそかにしない」「大きな夢を毎日少しづつやれば達成できる」等々。
私達は十字架と復活の主への信仰を深め、どんな時にも「もし信じるなら、神の栄光を見る」と言われたお方に信頼し、生涯仰ぎ続け、復活の生命に与からせて頂きたい。主の御約束を信じ!
2009年3月29日 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 (ヘブライ2:18)

 かって、ある兄弟がJ・Sバッハの「マタイ受難曲」が大好きで、一度聴いて下さいと言われた言葉を、レントのこの時節になると特に思い出されます。私も59番のソプラノの「ああ、ゴルゴダ」の美しさに心打たれたり、曲の中核をなすコーラル「血潮したたる」(讃美歌136)に深い感動を覚えている一人です。
 教会音楽は、信仰生活に豊かな糧を与えてくれます。キリスト者は、教会を通して語られる御言葉により信仰の歩みに導かれますが、讃美歌や教会音楽によって信仰に導かれ、姿勢を正され、ある場合には再び教会に「立ち寄る」事もあることです。その意味で信仰生活に果たすべく役割は大きいと思います。私にとっても様々な場面で、この「マタイ受難曲」に導かれ、励まされ、慰めを受けて歩んで来ました。どなたにも、この讃美歌でいつも慰められ、力づけられるという曲があると思います。変動の嵐の世にあって、「なお神に近づき、讃美歌に傾聴し、神の計り知れない御愛に安らぎましょう。」
2009年3月15日 「草は枯れ、花はしぼむが私達の神の言葉はとこしえに立つ。」 (イザヤ40:8)

 ある姉妹が春のおとずれのつくしんぼうを沢山摘んで来られ、その一本を手にしました。まだ寒さが残る枯れ野から芽を出し、天に向かって真直ぐに春一番のつくしんぼうに、何か十字架と復活の主イエスへの信仰の姿勢を教えられました。
 「草は枯れ、花はしぼむ」罪深い人間の存在は草の様で、また栄光に輝く美しい花でも、やがて枯れはてしぼんでしまう存在でしかありません。その様な者達へ神は更に「私達の神の言葉はとこしえに立つ」と。この「神の言葉」への信仰こそは、永遠に私達を支えてくれるのです。揺れ動く時代にあっても、多くの人々が傷ついて心のすさんでいる時にも、私達一人一人の心の内に、永遠につながる命の道を開いて下さったからです。神はその独り子主イエスによって、神の愛を鮮やかに示されました。
 この私の為に、主イエスの「十字架と復活の命」、その神の無限大の御愛を心に留めて、レントの時を過ごしたいものです。
2009年3月8日 「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出てある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。」  (使徒12:10)

「門がひとりでに開いた」この言葉は、ペテロが牢獄に捕らえられるという絶対絶命の状況で記された言葉です。この箇所には3つの象徴的な言葉があります。「牢獄」「祈り」「天使」と。ペテロは牢獄の中につながれ、16人の兵士の監視の下、明日は処刑になる前夜でありました。

 私達もこの世の囚われの中にあり、最近はとみに失望と悲しみを経験する事です。しかし、全能の父なる神に祈る事が出来ます。「教会は彼の為に熱心な祈りを神に捧げ続けた」のです。祈ることこそ教会の武器であり、皆が心を合せ、力を合せて祈っていると、突然、御業が起ったのです。天使の出現、これは神の歴史への介入を表しています。全く不可能と思っていた事が現われ、重い大きな鉄門がひとりでに開いたのです。そしてペテロは解放されました。 私達にとって、祈りは最も力ある武器なのです。


今年の「命の言葉」を読む
2010年「命の言葉」


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