日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2011年「命の言葉」
 2009年「命の言葉」



2010年12月26日  < 飼い葉桶 >
飼い葉桶のなかには
生まれたばかりの 赤ちゃん
神さまの愛を たくさん預かって
この世にやってきた
いくつもの虹を 世界中にかけて
喜びをもたらした 赤ちゃん
小さなことで 世界を変える
        (福音書を読むより)

2010年、52回目の礼拝を捧げられ、ここに至るまで導かれた主に心から感謝
してやみません。
「飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃん」主イエスを、神様の憐みによって、
再び私の心の中にお迎え出来たことを感謝し、新年へと歩みましょう。
2010年12月19日  その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。
                              (ヨハネ1:9)

 讃美歌112番「もろびとこぞりて」は、クリスマスになくてならない喜びと希望の
曲です。フィリップ・ドッドリッジ原作を、アイザック・ヴィッツが作詞し、ゲオルク・
フリードリッヒ・ヘンデルが作曲しました。ヘンデルは、あの美しく感動のクリスマ
ス・オラトリオ「メサイア」の作者であります。彼はオペラその他の曲で名をあげ、
女王アンの援助を受けて王室付作曲官として活躍しましたが、この曲はアン女
王が死に、借財をかかえ、しかも病苦のどん底の中から生れた作品であります。
彼は、この作品を書いた時、24日間も家に引きこもりました。神様はあの曲を
ヘンデルに教え諭して、それを休むことなく書き上げたからです。友人達が食べ
物を運んでくれましたが、彼はほとんど食べずに作曲に熱中しました。「ハレルヤ
・コーラス」の部分が完成した時、ヘンデルの目には喜びの涙が溢れ、「僕は目
の前に天国の全てを見たと思うよ。そして、神様ご自身にもお会いしたと思う。」
と友人に語ったとの事です。
 「光は暗闇の中に輝いている」と。どんなに暗闇の中に投げ出されたような状
況であっても、光なるキリストの愛は、その中で輝き出し、信じる者の上に輝い
ているのです。そして、この光なるお方は、なにをもっても消すことの出来ない光
なのです。暗い世に、否私のこの貧しい者の上に注がれている主の光を仰ぎ見
ましょう。
2010年12月5日   天使は言った。「恐れることはない。ザカリアあなたの願いは聞き入れられた。
あなたの妻エリザベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい。…」
                                       (ルカ1:13 )

 クリスマスの出来事は、祭司ザカリアとその妻エリザベトの話から始まります。
2人は子供が欲しかったので、長い間祈っていました。そして2人とも高齢になり
諦めていました。
 ある日、ザカリアは神殿で祈りを捧げる役目に選ばれ、それは祭司としては
素晴しい特権でした。香の煙が立上り、神殿の中で彼はイスラエルの罪の赦し
を求めて、神に祈っていました。神殿の外では大勢の人々も立って、祈ってい
ました。すると突然、ザカリアの前に御使いが現れ「上記…。その子はイスラエ
ルの人々を神のもとに立ち帰らせる。そして救い主が来られる為の準備をする
者である。」と言いました。
 ザカリアは呆気に取られ、「どうしてそんなことが起り得ましょう。私どもはもう
年を取っています。」と。
御使いは答えました。「私は神から遣わされた天の使いガブリエル。あなたは、
私の言葉を信じなかったから、私の言ったことが実現する日まで、話すことが
出来なくなります。」
 やがて神殿から出て来たザカリアは、口がきけなくなっており、人々は驚きまし
た。その後、エリザベトは身ごもり「主は私に目を留め、私の恥を取り去って下さいました。」と神に感謝し、後にバプテスマのヨハネがここに誕生したのです。
また、ザカリアの舌がゆるみ、神を讃美しました。
 私達もザカリアと同様に、祈っていながら、時々不信仰な反応をしてしまいます。
このアドベントの時、神には不可能なことはありません。私達の祈りを整理して、
改めて神に心から信頼し、祈り求めて行きましょう。
2010年11月28日   言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
                           (ヨハネ1:4 )

  ≪ アドベントに入る ≫
 “光陰矢の如し”という言葉通り、一年のたつ早さを思わされます。
しかし、個々人のその歩みを振り返る時、多くの山坂があり、特に猛暑には
悩まされ、その間には神につぶやく事があったことを否めません。
 1年の終りに近づいたこの時節、アドベント(待降節)を迎え、心静めて、改めて
神を求め仰ぐ時が与えられていることを感謝致します。
 アドベントとは、ラテン語で“来る”という意味で、イエス・キリストがこの世に
来臨された意味を思い巡らしながら、救い主の降誕を祝うクリスマスに備える
期間です。6世紀頃から、クリスチャンにとって、“悔い改め”と“期待”の時として
守られて来ました。私達もこの時節を、心して1週1週神に近づいて行きましょう。
2010年11月21日   私を苦しめる者は私の骨を砕き、絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。        ( 詩編42:11 )

 人間は希望が見出せれば、どんな困難の中でも生きて行けます。先日、アメ
リカへ移住した日系一世が第二次世界大戦時に、敵国民として一ヶ所に集め
られ、名前を剥奪され、その収容所では番号で呼ばれ、四六時中監視されて
いた映像が、NHKから放映されました。日系人はその絶望の中で、木の椅子
や石、ひまわりの種その他その辺に転がっている物を用いて、素晴しい作品を
作り、展示会がアメリカで初めて開かれ、多くの人々に希望を与えたという感動
のドキュメンタリーです。

 日系人は暗雲の中でも絶望するのではなく、そこにある物を用いて、新しい
生命を吹き込んだ素晴しいアートを作り出した、否それは生命の真暗闇の中
でも不屈な命の叫びの現れであったと語られました。

 今日、私達を取り囲む状況は政治や経済、教育の面で混乱しており、今年も
自殺者は3万人を超えました。特に将来を担う若者達にとって就職難は深刻で
あります。誰もがどのような環境下にあっても、何らかの希望を見出し得る積極
的な歩みをと願っているでしょう。

 病気の問屋と言われた三浦綾子氏は、多くの病と闘いつつ、常にイエス・キリ
ストを見上げて、聖書を日々読み、文学活動を精力的に続けられました。その
作品を通して、どれ程多くの方々が慰められ、励まされ、キリストへと導かれ
希望を見出していることか。

 私達はどんな時にも、目に見える状況によって振り回されがちですが、しかし
目には見えませんが私達と一緒に居られ、私達を御手に握り締めて導いて下さ
る全能なる愛なる神を仰いで、神に希望をもって生きる者に、三浦氏と同様の
幸いな生涯へと導かれるのです。そして、神は先に召された方々と共に、地上
における私達の生活を守り、やがては神の御元へと導いて下さるからです。
2010年11月7日  一度背かれれば、兄弟は砦のように、いさかいをすれば、
城のかんぬきのようになる。           (箴言18:19)

 過去に、私は入院した経験があります。そこには多くの看護婦さん達が働き、
忙しく各病室を廻り、しかしほとんどの看護婦さんは明るく接し、病人にとっては
有難いと同時に大変な仕事だと深く思わされ、入院しなければ分からない感謝
を新たにしたことを思い起こします。
 ところがある日、ある看護婦さんが暗い顔で不機嫌な様子で仕事をしていまし
た。家で何かあったのか、それとも疲れ切っているのか、また職場で何らかの
トラブルがあったのか分かりませんが、もう10年もたっても、その看護婦さんの
暗い顔を思い出すことがあります。
 私達は人間ですから、いつも機嫌の良い状態ばかりとはいきません。でも明
るい機嫌の良い人に出会う時、いつも救われたような安堵感を、誰もが経験す
ることでしょう。いつも機嫌の良い状態でいる為には、どうしたら良いでしょうか。
いつも誰に対してもわだかまりのない状態であることが必要です。また誰に対し
ても感謝の心を忘れないこと。そして何よりも、愛と憐みに満ちた神を見上げて
生きることです。
2010年10月31日   心配は人をうなだれさせる。親切な言葉は人を喜ばせる。
                           (箴言12:25)

 先日、大き目の荷を片手にして、老婦人が駅の階段を登っている時、さっと
その側に近づいて、「荷を持ちましょう」と明るく声をかけた女学生の爽やかな
一言の優しい言葉に心打たれました。
 私達人間は、言葉を使って日常生活を続けています。そして、私達が毎日口
にする言葉によって、その一言が優しい言葉なら、絶望している人に希望を与え
る力ともなります。一方で批判的な裁きの言葉は、一瞬にして人の心を痛めて
しまい、失望落胆させてしまうことにもなります。
 最近、ある学校の先生が、“きたない”“はなくそ”“死ね”等々を書いたサイコ
ロを作り、出た言葉によって罰を与えるというゲームのことで、教育者として、
その様な言葉をもって生徒を傷つけることは良くないと、批判を受けています。
 人間関係が、少しでも心安らかな、明るい、勇気を与える言葉を使う社会で
あればと願わない者はいないでしょう。三浦綾子さんは「深い心の底から出る
愛の言葉……。その温かさに全身が解きほぐされる様な安らぎを与えられる」
と書いています。何よりも私達の心が、神の愛によって満たされて、今年の標語
“わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:12)”を、
もう一度心に深く留めて、心の底からの愛の言葉を語れる様に、互いに祈り求めて行きたいものです。
 2010年10月24日  そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。私達は知っているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は
私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が
私達の心に注がれているからです。
                                   (ローマ5:3〜5)

“練習は不可能を可能にする”──小泉信三氏

“どんなに悲惨な状態であっても、やがては喜
び歌う日が来るであろうと、その様な希望を
持つ時、人間は不思議な力を与えられるものだ”───三浦綾子氏

 私達の人生においては、しばしば乗越え難い暗い長いトンネルに突入する時
があります。その様な中で、神の言葉である聖書は、私達に明るい確かな希望
を提示してくれます。
 上記の言葉もその一つです。ある牧師が、聖書の中の積極的で肯定的な言葉
全てに、マーカーで印を付けて読み、大きな励ましと希望を与えられ、後に彼は
その時の経験をまとめて、《Powerful Bible》と題して本を出版しました。
 神の言葉、聖書こそ私達にとって大きな慰めであり、喜びであり、希望でありま
す。聖書の言葉に親しみ、神の力に満たされましょう。
 2010年10月17日 破滅に先立つのは心のおごり。名誉に先立つのは謙遜。
                           (箴言18:12)

 カトリック教会では、人間には7つの大罪<傲慢、物欲、色欲、妬み、食欲、
憤怒、怠惰>がある。これらの罪を犯した者は、「罪から来る報酬は死です。」
と、神から死の刑罰を受けなければならない。しかしそこから救われる為に、
悔悛(悔い改め)が必要であると教えています。
 私達はともすると犯罪をした人を、とがめだてしている自分がいることに、全く
気が付かない時があります。人間が生まれながら7つの大罪を持っている為に、
キリストが十字架で身替りに死んで下さったことは、大きな恵みであります。
私達は、このお方なしには生きられない者であることを、心に留めて信仰生活
を一歩一歩噛み締めて行きましょう。
2010年10月3日 私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し、病を全て癒し、命を墓から贖い出して下さる。
慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、
鷲のような若さを新たにして下さる。               (詩編103:2〜5)

 ようやく秋めいて夜が長くなってきました。ある姉妹が最近、聖書を6章づつ読み
続けていると、素晴しい証をされました。私達が神に近づけば、神もまた私達に近
づいて下さいます。素晴しい恵みです。
 上記はダビデの詩です。彼は罪多き者であるにも拘わらず、神の御配慮はなん
と素晴しいかを詠います。病が癒され、死と滅びから永遠の命に生きる者と変えて
下さり、しかも鷲の様に新しい神の命に支えられて生かされる神の愛とその慈し
みが詠われているのです。
 この神の恵みは、今も私達にも同じ様に注がれています。私達は救われた喜び
の信仰をもって、神に近づき祈る時、実はその神の恵みから引き離そうとするサ
タンの力が常に妨害し、心を鈍らせ、神にあって一致するのを、分離させようとし
ているということに注意して行かねばなりません。
 その時、「わたしは既に世に勝っている」と宣言された主イエスに対する信仰の
手を高く挙げましょう。私は弱い、しかし聖霊なる神が共に働いてこの弱い者の祈
りをも、とりなして下さっておられると、その時主イエスが「サタンよ退け!」ととりな
しておられると、御言葉に傾聴して神に近づきましょう。
2010年9月26日  …そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。
                              (ゼカリヤ14:7)

 9/19(日)礼拝に12名の高齢の方々、久し振りの方、車椅子の方などが出席
され、敬老の祝福の祈りが捧げられました。、当教会も御高齢者が多くなり、
なかなか礼拝に出席するのが困難になっている方々がおられるのが現状です。
その方々には後日訪問し、共に交わりの時を持ちました。
 聖書には上記の御言葉が口語訳では「夕暮になっても光がある」とあります
が、老いることは誰しも、悲しくも寂しくも辛く苦しくもあります。しかし、人生の
夕暮になっても光がある歩みが出来るなら、何と力強く慰めに満ちた御言葉で
しょう。
 ある姉妹は今年88歳になられ、大腿骨骨折で自宅療養されておられますが、
まだ教会には来られません。キャスター付の補助具で家の中を歩いておられ
ます。
いつもニコニコと笑顔をもって迎えて下さいます。先日、突然の高熱に冒され、
救急車で病院へ運ばれました。丁度その時、孫が側に居てくれたお蔭で助け
られ、今は、もう大分快くなって来ましたが、神様はいつも共に居られることを
改めて教えられましたとのことです。
 主と共なる人生は、夕暮になっても光の内を歩み、又たとえ失敗してしまう
様なことがあったとしても、全てのものを、万事を益にして導いて下さる生涯
です。そしてこれは主を頼りに生きる全ての人に、神が“今”共に居られ、あな
たを常に光の中へと導いておられるのです。
2010年9月12日 「…しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共にお
り、これからも、あなたがたの内にいるからである。」     (ヨハネ14:17)

 上記の御言葉は、聖霊が「共におり、内におられる」と。洗礼を受ける決意は、
聖霊の感化を受けて救われ、聖霊がその人の内におられ、心が潔められ、神
の御旨が鮮やかにされて、神の平安と喜びと感謝に満たされることです。
 この聖霊を受けるためには、
@「…あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与える
 ことを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる
 (ルカ11:13)。」と記されているように、祈り求めなければなりません。
A「…私達はこの事実の証人であり、また神が御自分に従う人々にお与え
 になった聖霊も、この事を証しておられます(使徒5:32)。」
 これは求める時には、何よりも心を低くし神に服従の態度で求めることで
 あります。
B「…アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に
 及ぶためであり、また私達が、約束された“霊”を信仰によって受けるため
 でした(ガラテヤ3:14)。」とあります。
  聖霊を服従の心で求め、求め続ける時に働いて下さるとの主イエスの
 御約束を、そのまま信じ受入れることです。

 主イエスは、今も私達に「聖霊を受けよ!」と呼びかけておられます。聖霊を
求め続けて歩みましょう。必ず、必ずあなたの上に、神の平安と喜びと感謝が
溢れるからです。
2010年9月5日 なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に
行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
                         (Uコリント5:10)

 ある求道者と学びをしている時、聖書の御言葉が砂に水が吸い込まれる
ように、素直に受入れられるよう聖霊の働きと導きを感謝しました。
 ある機関紙のコラムに「人生売ります!」という見出しで、次のように記さ
れていました。─オーストラリアの男性(40才)が約3,900万円相当の自宅、
車、友人や仕事をひっくるめて「人生すべて」をインターネットで競売にかけ
ました。自分は「こんな人生はもうたくさん」、すべて譲りますということです。
競争社会の中で他人との比較で、全て自分に自信を失い落ち込み、もう前
に進めない─というのです。もし、この人がキリストを知っていたら…、自分
のありのままを受入れてくださるキリストにあって、新しく創造される道を知
っていたら…。
 私達の周囲にも、人生に疲れている人がおります。稔りの秋を迎え、私達
自身がキリストに結ばれて、新しく創造された新しい命に生かされている者
であることを確認し、この福音の恵みを持ち運ぶ者として下さいと、祈り求め
て行きましょう。
2010年8月29日 泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。
                                 (詩編30:6)

 CSデーキャンプに参加して、暫くぶりに渓流に足を浸しながら、自然の恵み
を心いっぱい満喫しました。
 上記の御言葉は神様の約束です。“泣き悲しむ夜があっても、朝の様に必ず
喜びが来る”というのです。絶えず川上から一方的に川下に流れ続ける流れを
見ながら、本当に神様の一方的な恵みから来る祝福を教えられました。どのよ
うな苦難の中でも信じて従う者の心の中に、泉のように湧き上る「喜びと平安」
です。「苦しみに遭ったことは、私には良いことです。(詩119:71)」とあるように、
必ず朝の喜びが来るのです。
 ある方が「死」が怖いと言われました。今の幸せが壊れるのが恐ろしいと。
しかし神様を信じ従う者には、死の向うに待っている素晴らしい天国への喜びを
約束されたのです。神様を仰ぎましょう。神様はあなたを何よりも御自分の瞳に
入れても良い程に、愛し慈しみ見守っておられるのです。今日も、明日も、永遠に!
2010年8月22日 ─光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。─ (エフェソ5:9)

 「歩む」とは「足の裏で踏む」ことであり、それは実際に一歩踏み出して経験
することです。光の国とは、主の御顔の光り輝く所であり、それは主が何より
も喜ばれる所です。私達は、光の子とされました。それは常に「主はこれを何
よりも喜ばれますか……」と問いつつ歩む道であり、この道はいつも明るいの
です。「わたしは世の光である。」と言われた主と共に歩むからです。
 光は真相を明らかにし、また肉なる人間の罪をも浮き上がらせます。「しかし、
神が光の中におられるように、私達が光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、
御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Tヨハネ1:7)」とありま
すように、人間の罪を赦し清められるのは、必ず光の中においてであるのです。
主はその為に十字架上で犠牲となられました。
 私達は心の中で常に問いましょう。「主はこれを何より喜ばれますか。」と。
そしてそれに従って行動しましょう。
2010年8月15日 その日、即ち週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分達のい
る家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方
に平和があるように」と言われた。                (ヨハネ20:19)

 今日は終戦記念日です。神の平和がこの地に、世界にありますようにと祈り
ます。
 神様は真の平和をこの地にもたらす為に、神の御子イエスを、この世に遣わ
されました。そしてひたすら苦難の道を歩まれ、十字架につけられて殺されま
した。その直前、それまで共に歩んでいた弟子達は、主を見捨てて逃げ去りま
した。そんな彼らのもとに、姿を現わされた復活の主は「あなた方に平和がある
ように」と第一声をかけられました。
 先日、一人の青年が当教会を訪ねて、手の平を開いて什分の一献金と書いた
メモを示し、封筒を差し出しました。彼は、マレーシア人で日本に来て1年目、
「仕事は、あまり日本人の好まない仕事だが、一生懸命に働いた。また結婚して
家庭が与えられた。日曜日は休めないので、礼拝には来られない。しかし母国
では、クリスチャンとして毎週礼拝を守っていた。この1年間守られた感謝を献げ
たい。」と申し出られたのです。何と尊い献げものでしょう。国境を越えて、主に
対する真心と信仰を、この献金に託したのです。
 十字架の贖いによって与えられた真の平和は、国を越え、全ての者に与えら
れた真の命と平和の源であることを改めて深く思わされ、聖名を崇めます!
2010年8月8日 信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に
根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さる様に。  (エフェソ3:17)

 連日30度を越える猛暑続きで、鉢植の千日草が枯れそうになり、あわてて
水をやって、ようやく元気を取り戻しました。周囲を見ると熱さの中でも、高い
樹が天にいっぱい両手を広げて、ゆらゆら風に揺れています。根を深く地中に
張っているから、暑さにも負けないで、成長もし続けることが出来るのです。
 私達の信仰はどこに堅固な基盤を置くのでしょうか。パウロはキリストを住ま
わせ、キリストの愛に根ざして、しっかり立つようにと勧めています。キリストは
神に敵対し、裁かれるばかりの人間に対して、キリストによって開かれた愛に
根ざして、生き生きと生きよと言われるのです。キリストは神の愛に生きること
が出来るように、私達の罪の身替りとなって十字架に架かり死んで下さったこ
とによって、罪赦され永遠の命に生きる道を開いて下さったのです。このキリスト
の十字架を、私の罪の贖いと信じ従う者の内に、神は聖霊を注いで、この神の
愛の内に生き、喜びと平安そして神にある一致をもって歩むようにして下さいま
した。私達は真実な神の愛に、実はもう捕まえられているのです。暑さの中に、
主の十字架と復活を信じ、神の愛に包まれて従って行きましょう。
2010年8月1日 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておら
れるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を
献げられた神の子に対する信仰によるものです。 (ガラテヤ2:20)

 私達が、今こうして生きているのはキリストの愛のゆえです。この愛から
離れては、私達の生命も安全も幸福もありません。それでは、どうしたら
その主の愛の内に留まる事が出来るでしょうか。キリストはヨハネ15:5で
「わたしは葡萄の木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながって
おり、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。…」
と言われました。キリストに「つながる」とは、例えば旅行に行って、そこで
良い時を持つという様なつながりではありません。それは、毎日キリストと
共に、キリストを見上げて共に生活するという事です。私達は、直ぐこの世
のものに心奪われ、また自我によってキリストから離れてしまい易い者です。
がしかし、これもキリストを信じる者にとっては、どんなにキリストから離れさ
せようとしても、十字架の愛の前には、全く力を失うものです。私達は罪を
犯し易い、失敗や弱点の多い者でありますが、その時何よりも、十字架の
下に立ち続け、留まり続ける者となり、キリストを称えましょう。
   《讃美歌529》
胸の波おさまり、心いと静けし、
われもなく、世もなく、ただ主のみいませり。
歌わでやあるべき、救われし身の幸、
称えでやあるべき、み救いのかしこさ。
2010年7月25日 互に親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を
赦して下さったように、赦し合いなさい。        (エフェソ4:32)

 神は御独子キリストの十字架の死の犠牲を通して、私達の罪を赦して
下さったばかりでなく、生れ変らせて、神の子として下さいました。しかも、
キリストの再臨の時には、その神に同化され、神の国の子として下さる
望みを頂く者とされたのです。何と大きな神の愛でしょう。私達は、ただこ
の神の愛の故に少しでもこの愛に添う者とされたいのです。
 神の愛に倣う者の
第1は、人を赦すことです。赦さない心は、神の愛の流れを堰き止めること
になるのです。常に御言葉に親しみ、神の愛に溢れさせて頂きたいもの
です。
第2は、人に与えることです。ルカ6:35以下に「人に善いことをし、何も当て
にしないで貸しなさい。」とあります。私達は物惜しみ無く、喜んで分け与え
ることが出来る様に、全てのものを与えて楽しませて下さる神に望みをおき、
既にこの神に愛されている子供ですから、日々神に近づき、人に与える恵み
に与らせて下さいと神に求めて行きましょう。神は必ず求める者に与えて下
さいます。
2010年7月18日 「 神の愛 U 」
主が望まれるのは主を畏れる人、
主の慈しみを待ち望む人。
        (詩編147:11)

 太陽が沈めば闇となります。と同様に神が愛であることを信じない人は、
闇の中に日々を送っている人であります。神の愛を受け入れない人の心は、
罪の闇に深く閉されているからです。
 神は福音(十字架と復活)の使者を遣わされ、人の心の中を叩いて開かせ
ようとされています。福音を宣べ伝えること、これが主の証人としてのキリスト
者の生き方であり、使命であります。
 しかし既に信じている者も、その為には心して誘惑の暗雲を払い除けて、
愛の光を日々充分に受けなければなりません。「神の愛」の内に自分を守る
ことは、「神の愛」の光を直接に受けて輝く生活を送ることです。
 その為には、神をキリスト者の心の王座にお迎えし、自己はそれに仕える
僕となることが、日々問われるのです。主が望まれるのは主を畏れる人。
「主を畏れる人」とは常に私の心の王座を、神に明け渡して生きる人のことです。
2010年7月11日  神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる、私達の主イエス・
キリストの憐れみを待ち望みなさい。            (ユダの手紙21)

 キリスト教の根本真理は、「神の愛」であり、私達の平和も幸福もみなここに
あります。
「天地創造の前に、神は私達を愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者
にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(エフェソ1:4)」神は天地創造
の前から、私達を愛して下さったのです。
@ 神は、何故人間を愛されたのでしょうか。
 「私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。
 愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。
 (Tヨハネ4:16)」
 神御自身の性質は「愛」だから、人間は神によって創られ、神の愛の内に生
 きる様にして下さっているのです。
A どのような「愛」でしょうか。
 「私達が未だ罪人であった時、キリストが私達の為に死んで下さったことにより、
 神は私達に対する愛を示されました。(ローマ5:8)」神は、神から離れて敵対する
 生き方をしている者の為に、生命をかけて愛し通されたのです。(つづく)
2010年7月4日 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、
真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
                                   (Tコリ13:4〜7)

 6/27(日)、茶売先生と中村順也先生(ジーザス・ライフハウスチャーチ東京)を
お迎えして特別伝道礼拝が捧げられました。上記の御言葉を通して、先生の
笑顔、神の愛の素晴らしさを具体的にお話し下さり、大変恵まれた礼拝でした。
“さんびの集い”を前に、お手製のちらし寿司、西瓜等、話しもはずみ、身も心も
満たされました。さんびと順也先生の証は、皆心いっぱい主を崇めることが出
来ました。
 神の愛によって、どんな時にも笑顔で、また困難を乗り越える力を頂き、周囲
の人々に従順に仕え、互に励まし合い助け合って、神の愛に満たされていること
を常に確認してゆきましょう、とのお勧めを頂きました。先生方は、オーストラリヤ
から派遣された日本の宣教師として、7年前位に東京に於いて数人で伝道された
教会が、現在は1,000人を越えて5回礼拝を持っているとのことです。
 私達も神の愛に包まれ、心身共に潤され、笑顔をもってお互いに神の愛に生か
されている者であることを確認し合い、そして神に仕え、崇める教会を求めて祈り
ましょう。
 お互いが他人の徳を高める言葉をもって、仕え合って行きましょう。
2010年6月27日 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、
自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を
喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私達の知識
は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは
廃れよう。
幼子だった時、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えて
いた。成人した今、幼子のことを棄てた。
私達は、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを
合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり
知られているように、はっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大い
なるものは、愛である。                    (Tコリント13:4〜13)
2010年6月20日 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
 たとえ、人々の異言、天使達の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは
騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、
無に等しい。
 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に
引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
                                 (Tコリント13:1〜3)
2010年6月6日 日本キリスト教団教憲教規の要項を記します。

 教憲(日本キリスト教団の設立の基本的原点)

「神は万国万民のうちからキリストに在って聖(みこ)意(ころ)に適う者等を
召して、これを聖別し、恩寵と真理とを現して、聖霊による交わりに与らし
めたもう。これが即ち聖なる公同教会である。

 この教会は見えない教会として存在すると共に、又見える教会として
現存し、主イエス・キリストをその隅の首石とし、使徒と預言者との基の上
に建てられ、代々主の恩寵と真理とを継承して、福音を宣べ伝え、聖礼典
を守って、主の来りたもうことを待ち望み、その聖(み)旨(むね)を成しとげる
ことを志すものである。

 わが国における30余派の福音主義教会及びその他の伝統をもつ教会は、
それぞれ分立して存在していたが、1941年(昭和16年)6月24日くすしき摂
理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重し
つつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った。かくして成立したのが日本
キリスト教団である。」
2010年5月30日 あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストの為に
苦しむことも、恵みとして与えられているのです。     (フィリピ1:29)

 内田みずえさんの「痛み」というこんな詩があります。

 痛い、痛いとうなっていた時は
 痛くて、痛くてたまらなかった時は
 神様助けて、神様早く痛みを
 取り除いて下さい。
 とにかく楽にして下さい、
 としか祈れませんでした。
 少し楽になって、
 ようやくイエス様の十字架の痛みを偲ぶことができました。
 でも、その何分の一、何十分の一、
 何百分の一しか分かっていません。
 お心の痛みは、もっと分かっていません…。
 もっと深く感謝する者にして下さい。

 私達も、否この私が同じ様な者であり、もっと深く神様に感謝を献げる
者とさせて下さいと切に求めて祈ることです。神様が私達に求めておら
れるものは、物や能力、知識ではなく、私達自身が神の前に切に神の
御旨を求め祈ることです。そして神様は弱い私達を用いようとして、
「あなたが必要だ」と待っておられるのではないでしょうか。
2010年5月16日  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
                           (マタイ5:4)

 悲しんでいる人がどうして幸せなのだろう……と、聖書を初めて目に
した時に、持った印象は私だけではないと思います。しかし、後にそれ
は慰め主が来られたからであるのを知った時の喜びを忘れることは出
来ません。
 ナインの町に一人の息子に死なれたやもめがいました。悲嘆に沈む
彼女は、大勢の町の人々に付添われて葬式の列におり、この悲しみの
行列が町の門に近づいた時、イエス様一行に出会ったのです。悲しみ
と絶望の中にあるやもめを見た時に、はらわたが千切れる様な思いが、
イエス様の心に走りました。そして近づいて「泣かないでいなさい。」と
言われ、棺に手をかけ「若者よ、さあ起きなさい。」と言われました。
すると死人は起き上がって、ものを言い出したのです。これを見た人々
は「大預言者が現れた。」「神はその民を顧みてくださった。」と言って、
神を褒め称えました。この人こそ主なるイエス・キリストであられるの
です。
 そして主イエスは死人より甦られて、今、私達にも「泣かないでいな
さい。」と語りかけて、慰めをもって近づいて来てくださるのです。目を
この主に注ぎましょう。ほら、主があなたに近づいておられ、愛の御手
が伸ばされていますよ。
2010年5月2日  主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
                                   (ルカ1:45)

 昨年の10月に母が召されて6ヶ月が過ぎようとしています。この6ヶ月の
間に、母も私も親しく交わって来た友人2人、そして大好きな叔母2人が
いずれも亡くなりました。今まで経験しなかった事が、何故次々と起る
のか……。
 私達の人生には、突然の信じ難い黒雲に覆われることがあると、三浦綾子
さんが「道ありき」の中で、次のように語っています。「2人の一生には、いか
なる悪天候があるか予測できない。しかしどんな悪天候の日であっても、その
黒雲の上には必ず太陽が輝いているのだ。雲はやがて去るだろう。だが太陽
は去ることはない。私達は、私達の太陽であるところの神を決して見失っては
ならないと、深く胆に銘じた。」と。
 この突然の出来事もみな神の御手に覚えられていることを知る時、苦しみや
悲しみや寂しさの闇の向うに光を見出すことが出来るのですね。決して神を見
失ってはならない。黒雲の上には必ず太陽が輝いていることを信じて歩んで行
きましょう。
2010年4月18日  イエスは言われた。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、
イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなた
にこの事を現したのは、人間ではなく、私に天の父なのだ。」
(マタイ16:15〜17)

 教会は上記の御言葉を告白し、そのもとに建てられたキリストの体なる
地上の教会であります。教会の頭はキリストであります。それ故、教会
総会は神の前における自らの神への信仰告白の場であります。神の御旨
を祈り求めつつ、責任をもって出席しましょう。
 教憲教規に、教会総会について定められています一部を紹介します。
第94条 教会総会は、教会担任教師及現住陪餐会員(礼拝を守り、聖餐
     に与り、教会員としての務めを果たしている者)たる信徒をもって
     組織する。
第95条 @教会総会は毎年1回定期に招集しなければならない。但し教区
      総会議長もしくは主任者なる教会担任教師(牧師)において必要
      と認めた時、又は役員(長老)の2/3以上の要求があった時は、
      臨時に招集する事ができる。
     A教会総会の定足数は、教会規則において定める(当教会は
      現住陪餐会員の1/3以上)。
      但し現住陪餐会員総数の1/5を下ってはならない。
2010年4月11日  イエスは言われた。「わたしは復活で あり、命である。わたしを信じる
者は、 死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して
死ぬことはない。このことを信じるか。」       (ヨハネ11:25〜26)

 ホーリネスの群の年会が、いつもこの4月上旬に開催されます。全国
から60数教会と約170名の教職、信徒代表が集まり、1年の計画、東京
聖書学校の件、そして何よりも四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)の
信仰を土台に、これを宣べ伝えるべき集会が毎晩開かれました。四重の
福音とは次の様になります。

 新生とは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」
                                  (ヨハネ3:3)。
 聖化とは「実に神の御心はあなた方が聖なる者となることです」
                              (Tテサロニケ4:3)。
 神癒とは「わたしは彼を癒し、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう」
                                (イザヤ57:18)。
 再臨とは「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る
 者は、幸いである」                    (黙示録22:7)。

を信仰の基に、戦後改めて日本キリスト教団が発足した時、教団の中に
あって、この信仰を証する群として留まったのです。日本キリスト教団信仰
告白「神は恵みをもて我らを選び………聖霊は我らを潔めて義の実を
結ばしめ、その御業を成就したもう。」のところは、このホーリネス信仰
が告白されている部分であります。これは聖書の御言葉に立ち、十字架
と復活の信仰に生きることであります。
岡田はるみ先生も信徒の方と一緒に、お元気で出席されていました。
2010年4月4日 私達の本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として
来られるのを、私達は待っています。        (フィリピ3:20)
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家には一人減じたり
門を入るにも死別の哀れに堪えず
内に入れば空しき席を見るも涙なり
さはあれ、はるか彼方に、我らの行くを
待ちつつ、 天に一人増しぬ
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天に一人増しぬ
曇りし日も、この一念に輝かん
感謝、讃美の題目更に加わり
我らの霊魂を、天の故郷に引き揚ぐる鎖
の環、更に一つの環を加えられしなり。
-------------------------------------------------------
家には一人増しぬ
分かうることの絶えて無き家に
一人も失わるることなるべき家に
主イエスよ、天の家庭に君と共に座すべ
き席を、我らすべてにも与えたまえ。
               (ストック著)

 地上において私達に必ず訪れるのが“死”であります。それは、私達の
身を容赦なく引き裂いてゆきます。しかし、天にあっては一人が増したの
です。主イエスによって、天に座すべき席が用意されているからです。
主イエスの十字架と復活を仰ぎ、このいたいけな私の為にも、席を用意
していて下さる。先に召された親しき者との相交わる時が約束されてい
ます。
 「私達の本国は天にあり。」 ハレルヤ!
2010年3月28日 一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、
それを裂き、弟子達に与えて言われた。「取りなさい。これは私の体
である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは言われた。「これは、多く
の人の為に流される私の血、契約の血である。」
                            (マルコ14:22〜24)

 3/22(月)三重地区信徒修養会が、当教会で開催され、教会員の方々
が温かい心遣いで奉仕され、参加の方々に感謝されました。
 「聖餐の奥義」と題して、関川泰寛師(東京神学大学教授)が講演され
ました。私達クリスチャンの生命は、礼拝を捧げ、そして聖餐に与ること
である。この事は主イエスの御言葉通り、今日に至るまで神の奥義が
目に見える形に表されて、世界中で継承されて来たことを語られました。
その際、どの時代にあっても聖書の御言葉に従い、それを信仰をもって
受止めて、聖餐という神の奥義を受け継いで来たとのことです。
 最近この聖餐を人間の側の都合の良いように解釈して、未信者にも
配餐している教会があり、これは教会の世俗化であると警鐘を鳴らされ
ました。
 私達の教会は、月に1回または特別の記念の時に聖餐式を行ってい
ます。そのことを神の言葉に従い、信仰をもって受止めて、その恵みに
与りますが、この時、私達の心の内を悔い改めなくては、神の奥義(神の
生命)に触れることは出来ません。聖餐式を大切にし、互いに愛しあい
ながら、主の再び来られる日を待ち望みつつ、信仰の道を歩みましょう。
2010年3月21日  しかし、あなた方はそれではいけない。あなた方の中で一番偉い人は、
一番若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
                                  (ルカ22:26)

 日本の最大手のクリーニング会社 白洋舎の創立者 五十嵐健治さんが、
こんな便りを三浦綾子さんに送ったとのことです。「人間は恵まれる時は、
一番警戒を要する時です。それは既にご存知のことですが、益々己を空
しうして、神に信頼なさるように。お得意にならないようにして下さい。」と。
ご主人の光也さんは「ありがたい忠告」と、何とこの手紙を額に入れて
飾ったとのことです。忠告を謙遜に受止め、高慢になることを警戒した三浦
御夫妻の生きる姿勢に心打たれます。

 もう40年位前、日米クリスチャン大会がハワイで開催されました。アメリカ
に渡り苦労した日本人クリスチャンとの第一回の交わりが始めて持たれた
大会でした。その時、五十嵐健治御夫妻が出席されました。通常ですと、
メーンテーブルに着かれることになっていたのですが、しかし「私達は皆さん
と一緒に」と、最後までそこに留まられた謙遜な御姿を思い出しました。
クリーニングの仕事は、汚れたところを綺麗にしてお渡しする。それはどこま
でもどこまでも、神に人に仕え続けられたその生き様そのものであります。
仕えるとは“塵をくぐる”と言う意味があります。喜んでどんな時も、神に人に
仕える者を神は待っておられます。
2010年3月14日  あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた
方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名
によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を
任命したのである。                   (ルカ15:16)

 先週、中部教区社会部委員会が金沢教会で開催されました。前夜より
冷たい雨で、3月なのに寒い朝でした。名古屋から金沢まで電車で3時間、
太平洋から日本海に向って、電車の窓から梅の花が咲き、麦も青々と、
枯木々も冷たい雨に打たれながらも、何となく色づいているかのように見え
ました。途中、敦賀に向う長いトンネルを潜り抜けた途端、あっと驚きの声
が車内に沸き起こりました。そこには田畑も森も、何と白一色の冬景色に
変っていたからです。

 ある人が「人生の旅路は神様の御計画です」と言われました。私達は
神様の御計画の電車に、イエス・キリストを通して乗せて頂きました。この
電車に乗っている限り、神様は神様の御計画の内に、私達を運んで下さる
のだと改めて強く思わされました。しかも、主イエスは上記の御言葉のよう
に約束しておられるのです。
 聖名を崇めます!
2010年3月7日  御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、
命に与ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
                              (ヨハネ3:36)

 2月の月はあっという間に過ぎ、早や3月を迎え、レントの期間の一日
一日を積み重ねています。主イエスは十字架への道を一歩一歩進み行
かれます。三浦綾子さんは「神を信じる者にとって、死はない」と書いて
います。全ての人は100%死ぬ運命にあり、「自分に死はない」等と言え
ないのが、一般的に考えられるからです。そして人間は死ぬべき存在と、
もがきながらも認めざるを得ません。黙々と死の現実を受け入れ、諦めよ
うとしています。
 しかし三浦綾子さんは「神を信じる者にとって、死は無い」と、更に「永遠
の命を信じているから」と続くのです。十字架での死後3日目に、死を打ち
破って復活されたキリストがおられ、このお方を信じ仰ぐ者に、永遠の命を
与えて下さるキリストを信じておられるからです。キリストは今も私達に永
遠の命を与える為に、十字架を背負って一歩一歩進み行かれています。
2010年2月28日  わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが
わたしの掟である。                   (ヨハネ15:12)

 松阪教会は、10年位前に新築され、木の香りのする会堂です。正面
玄関の上に、大きな十字架が建てられて教会の大きなシンボルです。
どこの教会に行きましても、外側に十字架そして講壇の上に十字架が
挙げられ、私達は毎日曜日そこにひざまずき、礼拝をささげげてきました。
それは昔も今も変ることはありません。
 十字架は、神と人との関係を暗示しています。神と人との関係を縦の
関係とするなら、人と人との関係は横の関係と言えます。神様を愛しな
がら人を忘れたり、隣人を愛しながら神様を忘れるならば、意味があり
ません。神と出会い、人と出会う中に十字架が生まれ、その時に、人は
主日ごとに主の十字架の前にぬかずくのです。神の赦しと愛を頂いて、
福音の恵みを持ち運ぶ者と整えて頂きましょう。
2010年2月21日  これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成さ
せるきずなです。                    (コロサイ3:14)

 人間には、目、耳、手、足、は2つづつあります。それは2つが一緒
になって、より良き豊かな働きを通して、生活を維持するためです。

 人という字は、縦棒にもう1本はそれを支える2画で出来ています。
これは、人は一人では生きられないということを表しているのです。
しかし私達は日常生活で、何と人間関係に悩まされ、そしてその
ストレスにより心身ともに壊されてしまうことでしょう。

 ある人が次の様に記しています。「自分が正しくて、相手が変って
ほしいと人は考えます。片手では拍手出来ない様に、自分が変ら
ないと相手は変りません。祈りに支えられて、私を変えて頂く可能
性を信じましょう。」と。私を変えて下さるお方は、主イエスの十字架
を通して、一方的に注がれている神の愛による以外にありません。
上記の御言葉は、口語訳では「愛はすべてを完全に結ぶ帯である。」
とあります。
 レント(受難節)に入りました。先ず「この私を、あなたの愛を注いで
変えて下さい。」と神の御前で切に祈り求めましょう。
2010年2月14日  あなた方の中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失っ
たとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し
回らないだろうか。                     (ルカ15:4)

 今年、大雪にみまわれている新潟「敬和学院」の月刊紙に、教育につ
いての一文がありました。
 戦後の日本教育は競争の原理に基き、他者と比べ優劣をつけ評価し
て来たが、手段と目的がすり替わってしまい、偏差値を上げる為には、
手段を選ばないという誤った価値観がまかり通るようになった。しかし
敬和学院は自分を見つめ、自分を伸ばすことを目標として歩む「自分
捜し」を大切にして教育をして来たとのことです。それは聖書にある
「迷い出た羊の話」を通して、次のように記されていました。

 「100匹の羊の内、1匹が迷い出てしまう。羊飼いは99匹を残して、
その1匹を捜しに行く。効率を優先するなら、その1匹は捨てるべきで
しょう。でも敬和では、どこまでも生徒を追う先生がいます。そして残さ
れた生徒も落着いて待つのです。それは、次は自分かも知れない。
その時は、自分も捜し出してもらえるという安心感があるからです」と。

 今日、教育に一番必要としているのは、この羊飼いである神様の愛
の内に、一人一人が生かされ守られているという、神の愛を先ず知る
ことではないでしょうか。教会学校の働きの重さを考えさせられます。
2010年2月7日  すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ
十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内
に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
                               (Uコリント12: 9)

 造り主なる神よ!
 あなたは、私の老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こうと宣言
して下さいました。あなたの御言葉にどれだけの人々が慰められ、立ち
上がらせて頂いたことでしょう。「今日、朝の目覚めが与えられたら、今日、
神に生きることを許されている。」と、ご高齢の信仰の先輩が、微笑んで
話してくれました。そんな風に朝を迎えることが出来るのかと、私は驚い
てしまいました。
 不自由な体を歩行器に預けるようにして、一歩一歩踏みしめながら、集
会に集う信仰の先輩がおられます。弱い体で外出すると、疲れきってしま
うはずなのに、ただひたすらに神の言葉を慕い求めて。
 神よ、あなたの恵みは十分であり、真に力は弱さの中でこそ十分に発揮
されています。年若き者にも、年老いた者にも、今日のこの日、どうぞキリ
ストの力が豊かに宿りますように。        ( 信徒の友より )
2010年1月31日  何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた時がある。
   (コヘレト3:1)

 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、
破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時………。

 すべて神によって定められた時があるということです。以前、TVで夥しい
鮭の群れが川を上ってくる画面を見たことがあります。それはすさまじい様
で、産卵の為に雄同士が必死で雌の奪い合いをする。やがてカップルにな
った鮭は、川底のそこかしこで産卵を始め、自分達の遺分子を残し終えた
直後、力尽きて死ぬ。その鮭が川面に川底に累々とその姿をさらけ出す。
それを見て、私は感慨に打たれました。子孫を残す為に命懸けで、しかも
より強い子孫を残す為に幾多の困難と闘い、乗り越えて、自分の生まれた
川辺に戻って来た終局なのです。

 人間は、子が生まれた後も、長く長く生きる余裕の時間が与えられてい
るのは何故なのでしょうか。ただ一つ言えることは、今各々に与えられてい
る「時」は、神の定められた時に、神の御手の中に覚えられて生きているこ
とです。今のこの「時」を、どの様に生きていくかは、神様に定められている
のであれば、私達は神の御旨を祈り求めて生きていかなければなりません。
そして与えられた時を、神の喜ばれるところの時として生かされているのです。
また私達の地上での生には限りがあります。神によって定められ、私達が
生かされているこの時、心一つにして神の聖名をほめ称えて、神の御旨に
沿う者と整えて頂いて生きるのです。
2010年1月24日  遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもって
あなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。    (エレミヤ31:3)

 私はかって、柴又へ行ったことがありました。寅さんの映画が好きだった
からです。映画「男はつらいよ」は、国民的人気のあった映画です。寅さん
の映画を見て、多くの人は笑ったり泣いたり、そして映画を見終った時には、
心がほのぼのと温かくなる経験を何度もさせられました。何故こんなに、
この映画は人々の心を引き付けるのでしょう。寅さんの眼差しが温かい、
どんな人にも冷たくないからと指摘されています。

 私達の為に、どんな人にもいつも冷たい目ではなく、温かい眼差しを向け
ていて見守って下さるのが、天の父なる神様です。上記の御言葉は、私に
とって忘れられない御言葉です。私自身、教団紛争の為に数年間、教団教
師試験が中断された時期がありました。神学校を卒業して5年も経過して、
ようやく試験が再開されたその時、奉仕教会は新会堂建築の最中で、準備
らしい準備が出来ないままに受験しました。駄目かと思っていたのですが、
合格通知を受取った時、只々神の憐れみであり、上記の御言葉の真実を知
らされました。
 神様の愛は真実であり、永遠の愛をもって、私達一人一人に注がれ見守
っておられます。このことを心に秘めて、私達もまた、あの人この人愛されて
いる存在であることを覚えて、互いに愛し合って仕え合って行きましょう。
2010年1月17日  愛する者達、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに
愛し合うべきです。                    (Tヨハネ4:11)

 私達人間は愛し、愛される者として造られています。しかし、ともすると愛
することよりも、「愛されたい」「もっと愛されたい」と切に願う者であります。
いつも愛されていないと、つい不満を感じたり、空しくなったり、孤独や闇の
中へ落ち込んだりしがちです。こういう時、思い切って発想の転換をしてみ
てはどうでしょうか。即ち、「相手から愛されたい」という願いをあきらめて、
むしろ自分の方から相手を愛して行くということを実践してみることです。
先日、何か気まずい思いのまま別れた方に会い、先ず自分の方から挨拶
をしたら先方の固い表情が和らぎ笑顔になり、そのわだかまりが、すっかり
解き放たれました。感謝!
 有名なアッシジの聖フランシスコの「愛されるよりも愛することを」との祈り
を思い出します。実は、このことの方が能動的で積極的な人生の姿勢と言え
ます。なぜなら人は他者を愛することによって、愛されることを知っているから
です。私達の教会標語を心に留めて、愛の源である主イエスを仰ぎ、愛する
ことの素晴らしさを、より広く、深く体験させていただきましょう。
2010年1月10日  起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包 んでいる。しかし、あなたの上には
 主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。    (イザヤ60:1〜2)

 母を天に送り、クリスマス、新年と独りで迎えることの淋しさが心の中をふと
駆け抜けて行く。そんな時、人間の弱さ、もろさを深く思わされます。しかし、
同時に「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」
との御言葉の約束に出会った時、主にある者には「決して明けない夜は無い」
と確信し、心の中に喜びと平安が与えられました。
 どんなに長いトンネルに入っても、その先に明るい出口があるから、私達は
平気で暗く長いトンネルに入っても、パニックにならずに運転し続けることが
出来ます。私達の人生においては、しばしば暗いトンネルに入って、明るい
希望が少しも見えてこない時がありますが、しかし必ず主は「起きよ、顔を上
げて!わたしを見よ!」と言われます。そうするならば、「主の栄光はあなたの
上に輝き、あなたの上に現れる」と。
 この1年、この方に顔を上げて、仰いで行きましょう。どんな時にも、その暗さ
の先に主の輝きの光が約束されているからです。
2010年1月3日 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
                               (ヨハネ10:10)

 多くの若者達は「生きるとは何か?」「人生の目的とは何か?」と考えます。
私も20代にその事で悩み苦しんでいる時、聖書に出会い、神に創造された
人間は、神の心を心として生きることが最上の幸せであることを知らされて、
明確な答が与えられ、それは今日にまで至っています。

 三浦綾子さんは「人間は生きている限り、如何なる人間であっても、使命が
与えられているという言葉がある。人からは、どんなにつまらなく思われる人間
にも、神にとっては廃品的存在という人間は無い。」と言っています。
 不透明で不安、その上不況の世にあって、昨年は自殺者が3万人をはるかに
超えています。生きる意味が見出せず、この世の圧力に押し潰されてしまった
人々が何と多く、悲しいことであります。「いかなる人間にも使命がある」と言わ
れましたが、もし、真の神様を知っていたら…と心の痛みを覚えることです。
 今年、私達は何よりも福音の恵みを誰かに伝える為に、生かされていることを
心に留意して行きましょう。何故なら、どんな時にも私達は良い羊飼いである
イエス様に愛されているからです。

今年の「命の言葉」を読む
2011年「命の言葉」
 2009年「命の言葉」


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