日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は牧師からのメッセージです。

今年の「命の言葉」を読む
2012年「命の言葉」
 2010年「命の言葉」




2011年12月25日  東日本大震災で至急被害援助を必要としている教会は、奥羽地区(青森、秋田、山形)
では6教会有り、東北教区(宮城、山形、福島)では10教会以上有ります。
 これ以外に放射能被害が有り、自分の故郷に何時帰れるかどうか、先行き不透明の
ままで寒い年末をむかえようとしている人々も多くおられます。
 ある人が「食料がなくても人間は一週間は生きられるが、しかし、希望がなければ一日
も生きられない」と言いました。
 聖書は「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 (マタイ4:16)とあります。クリスマスの恵みは、正にこの通りです。
 主の照らして下さる命の光が被災者一人一人の心の奥底に届きますようにと切に祈り
つつ、私達もまた心を一つにして祈り、復興の為に手を指し伸ばしていきましょう。
2011年12月18日

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。  〜ヨハネ1:9〜

 東日本大震災から9ヶ月が過ぎ、今回、岩手・宮城・福島と被災の教会訪問をゆるされまし
た。それぞれの教会がやっと復興に向かって歩み出したばかりで、その傷跡が今も生々しい
様を間のあたりにして、心が痛みました。
 岩手の釜石教会は、2階までも津波が押し寄せ、内装の壁がみな流され、外部は形をとどめ
てはいましたが内側は工事現場のように梁はむき出しで、それのみならず、傾いた建物の戸は
閉まらず、シートを張りながら暖をとっていました。しかし、震災直後から、この地に建てら
れた会堂で礼拝と祈祷会を守り続けて来たとの事です。
 今年の6月、ボランティアに参加した人が、ここで結婚式を挙げて欲しいと申し出られ、周囲
を布でカバーしながら、喜びと希望の挙式をあげられたとの事です。
想定外の被害を受けながら、前に向かって、少人数で力を合わせ、神を仰ぎつつ、明日に向か
ってその懸命な姿に心打たれました。
「どうぞ、私達の為に祈って下さい。忘れないで下さい」と訴えられました。

2011年12月11日 飼葉おけに眠っている可愛い顔のイエス様
お星が天で優しく寝顔をじっと見ている(ルター)

 クリスマスが近づくにつれ、私の心にはこの讃美が湧いてきます。それは、私が救われ
て最初のクリスマスのキャロリングに参加した時の事です。一番最後の家は郊外にあり、
寒い寝静まった真夜中になってしまいました。その家に近づくにつれ、闇の中に一つの明
かりが燈されていたのです。私達が喜びをもって感謝の讃美を静かに歌い始めると、その
家の戸が静かに開き、笑顔で迎えられ、一緒に讃美を捧げました。ふと仰いだ夜空にひと
きわ大きな星が輝いており、あたかもじっと私達を見守っているようでした。初めて私は、
主が今ここに共におられる事を実感させられ、大きな喜びと感謝が心の底から湧き上が
ってくるのを禁じ得ませんでした。
 クリスマスは12月25日だけでなく、その日から始まり、そして主のご生涯、十字架の死を
過ぎ越して、復活の命の道を開いて下さったのです。そして私達は主イエスを通して神と
一つに結ばれたのです。それは、今も私達の“インマヌエル”として生きて働き、光をもって
照らし優しく見守っておられるのです。
2011年11月20日  日本キリスト教団信仰告白(34)

 問52、神の選びは、人間の自由を否定するのではありませんか。

 答 そのようなことはありません。自分の業や功績によってではなく、神の一方的な
   恵みの選びによって救われたことを知ったとき、わたしたちは、心の底からわき
   出る自由な喜びと感謝をもって、神を愛し、神に従うようになるからです。反対
   に、神の恵みを知らなかったとき、わたしたちは決して本当の意味では自由で
   はなく、罪の奴隷であったのです。

 「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、
 それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました」
                                      (ロマ6:17〜18)
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
 だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラ5:1)
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受け
 たのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ロマ8:15)
2011年11月13日 ― 足跡(Footprints) ―

ある夕べ 私は 海辺を歩いておりました

はるかかなたの夕暮れの空に私は 自分の今日までの人生が
走馬燈のように展開されていくのを見たのです

悲しかったこと うれしかったこと 苦しかったこと 楽しかったこと
いろんな出来事のたびに 私は 側の砂の上に
人の足跡が 残されていくのを見ました

あるときは それは ふたりの人の足跡であり あるときは それは
たったひとりの人の足跡です でも 苦しい 辛いときに限って
ひとりの人の足跡しか見られません

「神様! これは どうしたことでしょう 私の悩みのときに限って
あなたの御足跡が見られないとは・・・
あなたは 悩みのときに 私と共にいて下さると
御約束して下さったではありませんか?」

優しい御声がかえってきました
「おまえの悩みのとき 私はおまえを抱きかかえていたのだよ」
2011年11月6日  日本キリスト教団信仰告白(32)

 第四部 わたしたちが受け継いだ選び・義認・聖化についての信仰

 問50 「日本基督教団信仰告白」の第三段落はどのようなことを告白していますか。

 答 福音主義教会が宗教改革の伝統から受け継いだ基本的な信仰が告白されて
   います。すなわち、恵みの選び、ただ信仰のみによる義認、そして聖化の教えです。

 問51 神の恵みの選びをどのように理解すればよいのですか。

 答 天地創造以前の永遠の昔から、神はわたしたち一人一人を愛し、御子イエス・
   キリストのみ体なる教会に連なる者として、一方的に救いの恵みの中へと選ば
   れた、ということです。それはひとえに神の恵みによるものなので、「恵みの選び」
   と呼ばれます。

 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者
 にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にし
 ようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって
 与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェ1:4〜6)
 「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ロマ9:16)
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハ15:16)
2011年10月30日  日本キリスト教団信仰告白(31)

 問49 「ただ一度ご自身を完全な犠牲として神にささげ」とは何を意味しますか。

 答 旧約の贖いの儀式とは違って、キリストの十字架における犠牲の死と死人の
   中からの甦りは、「ただ一度限り」で完全なものとして、父なる神に対してささげ
   られました。それによって全人類に対して力を持つ罪の贖いが為し遂げられた、
   ということです。

   「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、
    現れてくださいました」(ヘブ9:26)
   「しかし、わたしはわが名のために、彼らがその中に住んでいる諸国民の目の
    前では、わが名を汚すことがないようにした」(エゼ20:9)
   「み名のためにわたしを正しい道に導かれる」(詩23:3、口語訳)
2011年10月23日  日本キリスト教団信仰告白(30)

 問48 どのようにしてあなたは、かつては罪の奴隷であったのに、今は恵みの力の
    もとに生きる者となったのですか。

 答 キリストの身代わりの死によって、古いわたしが罪に対して死にました。
   更にキリストの甦りによって、キリストの御霊がわたしにも注がれ、わたしは
   キリストのものとなり、キリストの恵みの力のもとに生きる者となりました。

   「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ロマ7:25)
   「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」
                                           (イザ53:11)
   「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、
   『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」
                                           (マコ15:34)
   「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくだ
    さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)
   「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに
    結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(同6:11)
   「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることは
    ありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との
    法則からあなたを解放したからです」(同8:1〜2)
   「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために
    復活させられたのです」(同4:25)
2011年10月16日  日本キリスト教団信仰告白(29)

 問47 すべての人が罪を犯したのですか。

 答 その通りです。キリストがすべての人のために死んだのですから、だれ一人として、
   キリストの贖いによらなければ救われないのです。すべての人は罪と死の力の
   支配下に置かれ、現実に罪を犯して死ぬのです。

   「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべて
    の人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ロマ5:12)
   「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときもわたしは
    罪のうちにあったのです」(詩51:7)
   「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを
    洗ってください/雪よりも白くなるように」(同51:9)
2011年10月2日  日本キリスト教団信仰告白(28)

 問46 怒りの神は、憐みの神と矛盾しませんか。

 答 神は確かに憐み豊かなお方です。しかし同時に、神は全世界を統治される義なる
   お方でもあります。もし、神が罪を放置されるなら、神はもはや世界の義しい統治
   者ではなく、人類を愛してもいないことになります。しかし、神は事実、罪人をも熱情
   によって愛されるので、犯された罪に対しては激しく怒り、悔い改めと償いを求めら
   れるのです。

   「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、
    自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラ6:7)
   「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出20:5)
   「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は
    天から怒りを現されます」(ロマ1:18)
2011年9月25日   日本キリスト教団信仰告白(27)

 問45 罪の結果は何ですか。

 答 罪によってわたしたちは神との交わりを断たれ、神の怒りの対象となり、まことの命
   から引き離されました。そのため、わたしたちは罪が更に罪を生み、悪が更に悪を
   生むという悲惨な悪循環の中に固く閉じ込められ、死を免れることができず、神の
   永遠の裁きを恐れなければならなくなりました。

   「わたしたちも皆・・・生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェ2:3)
   「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知って
    います。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ロマ7:18)
   「罪が支払う報酬は死です」(同6:23)
   「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。
    この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(同2:5)
   「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたし
    を救ってくれるでしょうか。」(同7:24)
2011年9月18日 最上のわざ(ホイヴェルス随想選集より)

この世の最上のわざは何?

 楽しい心で年をとり、働きたいけども休み、しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、従順に平静におのれの十字架をになう。
 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人の役にたたずとも、親切で柔和であること。
 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
 まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
2011年9月11日   日本キリスト教団信仰告白(25)

 問44.罪とは何ですか。

 答.罪とは、神の聖なる御名を汚し、神の御意志に背くことです。それはまた、神が
   啓示された神の戒め(十戒)に背く不法もあります。しかし、最大の罪は、愛に
   います神を信じないことです。

   「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあが
    めることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く
    暗くなったからです」(ロマ1:20〜21)

   「罪とは、法に背くことです」(Tヨハ3:4)

   「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハ6:29)

   「その掟とは、神の子キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられた
    ように、互いに愛し合うことです」(Tヨハ3:23)
2011年9月4日  日本キリスト教団信仰告白(25)

 問43「贖い」とは何ですか。

 答、「贖い」とは、わたしたちが罪の力の下に置かれ、罪の奴隷であったのに、
   キリストの十字架と復活の救いによって罪の力から解放され、キリストの
   恵みの力の下に生きる者とされたことです。

   「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物
    となさいました」(ロマ3:25)

   「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配
    された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
    死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死ん
    だのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(同6:6〜8)

   「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。
    わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Uコリ5:21)

   「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフェ2:5)

   「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に
    移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪
    の赦しを得ているのです」(コロ1:13〜14)
2011年8月21日  日本キリスト教団信仰告白(24)

 問42、「わたしたちと全く同じ一人の人間となられた」とはどういうことですか。

 答、御子は罪は犯されませんでしたが、わたしたちと同じように誘惑されうる肉の
   弱さを持ち、苦しみを味わうことができ、死ぬこともできました。そして、実際に
   わたしたちの罪を担われました
   
   「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなか
    ったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」
                                           (ヘブ4:15)
   「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」
                                           (マタ4:1)
   「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に
    おちた」                                (ルカ22:44)
   「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』
    これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』
    という意味である」                         (マコ15:34)
   「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」
                                        (Uコリ5:21)
2011年8月14日  日本キリスト教団信仰告白(23)

 問41、 「み子はわたしたち罪びとの救いのために人となり」は、どのように理解
     したらよいのでしょうか。
 答、それは、神の御独り子が、全く神でありながらも、わたしたち罪人の救いのために、
   父から遣わされてわたしたちと全く同じ一人の人間となられた、ということです。
   御子はわたしたちと全く同じ人間の生を生きておられました。
   「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは
    思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ
    ました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に
    至るまで従順でした」(フィリ2:6〜8)
   「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ1:14)
 2011年8月7日  日本キリスト教団信仰告白(22)

 問39、聖霊も父なる神や子なる神と本質を同じくし、永遠より永遠まで生き給う完全な
    神なのですね。
 答、その通りです。「永遠の”霊”によって」(ヘブ9:14)

 問40、神とはどのようなお方なのでしょうか。
 答、聖書において知られる唯一のまこと神は、われわれ被造物とは異なり、永遠か
   ら永遠まで生きておられ、物質の諸法則に支配されない霊的存在であられ、
   不変にして自由であられ、聖にして愛であられ、義にして憐れみに富んでおられる
   お方です。神は全知全能の御手をもって万物を無より創造し、世界とその歴史を
   統治し、その御計画に従って完成へと至らせるお方です。
   「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、
    あなたは神」(詩90:2)
   「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)
   「神は霊である」(ヨハ4:24)
   「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です」(ヘブ13:8)
   「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(出34:6)
   「神は愛だからです」(Tヨハ4:8)
   「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」(詩139:1)
   「わたしは全能の神である」(創17:1)
   「初めに、神は天地を創造された」(同1:1)
   「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、たしは万物を新しくする』・・・と言われた」
   (黙21:5)
2011年7月3日  日本キリスト教団信仰告白(21)

 問37、もし三位一体が曖昧にされたり、否定されたりすると、どのようなことが起こり
    ますか。
 答、もしイエス・キリストが神と等しいお方として神ではなくなると、結局はただの人と
   なり、われわれの罪の贖いができなくなります。また、もし聖霊が神御自身では
   ないなら、信仰は神の業ではなく、人間の業であることになます。これらはいずれ
   も福音を否定することになります。

 問38、それでは、御子イエス・キリストは、完全に神なのですね。
 答、その通りです。父なる神と本質を同じくし、造られたのではなく生まれたお方であり、
   われわれから礼拝を受けるにふさわしく、永遠より永遠まで生き給う独り子なる神
   です。
   「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分
    の力ある言葉によって支えられておられますが、人々の罪を清められた後、天の
    高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(ヘブ1:3)
   「言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハ1:1)
   「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」
                                             (コロ1:15)
   「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(ロマ9:5)
   「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った」(ヨハ20:28)
2011年6月26日  日本キリスト教団信仰告白(20)

 問36、どのような聖句によって、それが示めされますか。
 答、父が御子を遣わされたことについては、「こうして、あなたがわたしをお遣わしに
   なったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、
   世が知るようになります」(ヨハ17:23)と語られています。父と子が一体であること
   については、「わたしと父は一つである」(同10:30)と証されています。
   また、聖霊については、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしに
   なる聖霊」(同14:26)と言われ、また、「ここであなたがたに言っておきたい。神の
   霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、
   また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
   (Tコリ12:3)とも証しされています。
   「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、
   近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのき
   ない方です」(Tテモ6:15〜16)
   「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」(出33:20)
   「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る
   者はいません」(マタ11:27)
2011年6月19日  日本キリスト教団信仰告白(19)

 問35、三位一体とは何ですか。
 答、イエス・キリストにおいて御自身を啓示された神は、天にいます父なる神であられ、
   同時に、父から遣わされて人となり、地上に来られた子なる神であられ、さらに
   同時に、父ならびに子から遣わされてわたしたちの内に住まわれる聖霊なる神で
   あられます。このように、神は常に父・子・聖霊という区別をもって存在しておられ
   ますが、しかも、決して三人の神々なのではなく、あくまでもひとりであられます。
   「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。/主の栄光は、地をすべて覆う」(イザ6:3)
   「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共に
    あるように」(Uコリ13:13)
2011年6月12日   日本キリスト教団信仰告白(18)

 問34、神様はただひとりであるというのは、どういうことですか。
 答、聖書に啓示された神は、大勢の神々の中の最高神である(多神教)とか、
   ほかにも沢山の神々がいる中で、自分はこの神だけを拝む(拝一神教)
   ということではなくて、文字通りただひとり永遠より永遠に至るまで生きて
   おられるお方(唯一神教)です。このただひとりのまことの神は、この世界
   を超えておられ、万物を無から創造され、統治され、完成されます。
   「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申6:4)
   「わたしが主、ほかにはいない。/わたしをおいて神はない」(イザ45:5)
   「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない
    ことを、わたしたちは知っています」(Tコリ8:4)
2011年6月5日  日本キリスト教団信仰告白(17)

 第三部 わたしたちが受け継いだ三位一体とキリストへの信仰

 問32、「日本基督教団信仰告白」の第二段落は、どのようなことを告白していますか。
 答、教会が受け継いできた最も基本的な信仰が告白されています。すなわち、
   三位一体の教えとキリストの受肉・贖いの教えです。

 問33、「主イエス・キリストによって示され、聖書にあかしされている」とは、どういうこと
     ですか。
 答、「示され」とは「啓示された」ということです。啓示は、神が特定の人々に対して、
   御自身や御自身の救いに関する奥義、すなわち、一般には隠されている真理
   を啓き示すことです。主イエス・キリストは神がどのようなお方であるかをわたし
   たちに啓示されました。旧新約聖書はその奥義を証ししています。
2011年5月29日  日本キリスト教団信仰告白(16)

 問30、聖書が「信仰と生活との誤りのない基準であります」とは、何を意味しますか。
 答、聖書が教会の「教理」とキリスト者の生活(「倫理」)の誤りのない基準(規範)
   である、という意味です。それゆえ、聖書は教会と教会の中にあるあらゆる
   権威よりも高い権威を持ちます。同時に、すべての信徒が聖書の前では平等
   であり、だれでも聖書を繰り返し読むことによって正しい聖書解釈へと導かれ
   ることができ、信仰においても行いにおいても向上できるのです。聖書を正典
   と告白する教会には、信徒が聖書に親しむよう教育する務めがあります。

 問31、わたしたちが聖書を神の言葉として読むためには、どのようにして読んだら
     よいのでしょうか。
 答、聖書は何よりも、信仰により、聖霊の導きを求めながら読むべきものです
   (問17、20参照)。次に、十字架と復活のキリストにお会いし、福音の真理を悟る
   ように読むことが大切です(問21〜23参照)。第3に、ひとりよがりな読み方をしな
   いために、礼拝の説教を「主よ、お話ください。僕は聞いております」と祈るような
   気持ちで聞くことが大切です(問 7参照)。第4に、聖書に親しむ生活(聖書日課
   や家庭礼拝など)が大切です。聖書は全体が神の言葉ですから、まんべんなく
   読む必要があります(問28〜29参照)。
   最後に、聖書は教会のあらゆる権威よりも上にあるものですから、聖書は聖書
   そのものによって解釈されることが大切です。「聖書の最良の解釈者は聖書自身
   である」、といわれてきました(問30参照)。
   「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべき
   ではないということです」(Uペト1:20)
   「どうぞお話ください。僕は聞いております」(サム上3:10)
2011年5月22日  日本キリスト教団信仰告白(15)

 問28、全部で66巻ということは、その全部から神の言葉を聞かなければならない、
    ということですか。
 答、その通りです。その一部を読んだだけでは、偏りや歪みが生じてしまうからです。

 問29、なぜ、旧約聖書も読まなければならないのですか。
 答、神は救いの永遠の御計画を、歴史の初めから実行に移されました。ですから、
   イエス・キリストは歴史の初めにもおられ、中心において来られ、終わりにも再び
   来られるお方なのです。この神の救いの歴史をその全貌において知ることによって、
   わたしたちは歴史の中の今がどのような時であり、何をなすべきかを知ることが
   できます。そのためには、旧約聖書も読まなければなりません。
   「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。
   『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙1:8)
   「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(へブ13:8)
   「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語ら
   れたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(同1:1〜2)
   「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがた
   を永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんであなたがたを
   完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(Tペト5:10)
2011年5月8日   日本キリスト教団信仰告白(14)

 問26、正典の範囲を決めたのは人間ではないのですか。
 答、そうではありません。教会が正典の範囲を定めたとき、教会は聖書各巻の真の著者
   であられる聖霊の強い導きと証しを受けていたと信じます。
   「それに何も加えられなかった」(申命5:22)
   「これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられ
    る。また、この預言の書の言葉から取り去る者があれば、神はこの書物に書いてある
    命の木と聖なる都から、その者が受け取る分を取り除かれる」(黙22:18〜19)

 問27、正典の範囲が定まっていることには、何か深い意味があるのですか。
 答、その通りです。なぜなら、神の言葉はその範囲が定まっていて、初めて全体の輪郭が
   明らかとなるからです。また、神について、救いについて、必要にして十分な知恵と知識
   とがこの中にある、と確認することができるからです。
   「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与える
    ことができます」(Uテモテ3:15)
2011年5月1日   日本キリスト教団信仰告白(13)

 問24、「完全な知識を与える」とは、どのような意味ですか。
 答、私が神と救いとについて知ることによって、神の御名を呼び、永遠の救いに入れ
   られる為に必要にして十分な知恵と知識とが、聖書の中に含まれている、という
   ことです。
   「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えること
    が出来ます……人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」
                                          (Uテモテ3:15〜16)

 問25、教会はキリストを証しし、神と救いとについて述べている書物を、全て聖書と考える
     のですか。
   答、いいえ。聖書とは、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合せて66巻のことです。教会は
     これらを「正典」と呼び、これだけを教会にとって権威ある書物とします。ですから、
     聖書は、その他の全ての文書とは厳密に区分されます。
2011年4月17日  日本キリスト教団信仰告白(12)
 問23.聖書が「聖霊によって、神と救いとについて、完全な知識を私達に与える
    神の言葉である」とは、どういう意味ですか。
 答.神は聖書の言葉を通して、ご自身の御名を私に知らせ、救いについての知識
   を知らせてくれます。そのようにして、私は神を人格的に知るようになります。
   更に神は、聖書を通して、私の名をお呼び下さるので、私は神の御名を呼び、
   祈ることが出来るようになります。但しそのためには、神の救いを知った私が、
   神に背を向けていたことを悔い改め、神の方に向き直らなければなりません。
   このようにして、神は御自身と御自身の救いに関する完全な知識を私に与え、
   聖書を通して永遠の命に与る者としてくださるのです。
   以上のことは私自身の力によってではなく,ひとえに聖書の働きによってのみ
   可能です。

   「この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵み
    を受け継がせることが出来るのです」(使徒20:32)
   「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
    イエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)
   「神はモーセに『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、
   『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしを
    あなた達に遣わされたのだと。』」(出3:14)
   「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで,『あなたこそエル・ロイ
    (私を顧みられる神)です』」と言った(創16:13)
   「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたははわたしを崇める
    であろう」(詩50:15)
2011年4月10日  日本キリスト教団信仰告白(11)

 問21.「福音の真理を示し」は、何を意味していますか。
 答.聖書の内容が、「福音」、即ち、神が私達に告げる喜ばしいおとずれで
   あることを告白しています。

 問22.福音の内容を要約すると、どうなりますか。
 答. 福音とは、イエス・キリストにおいて与えられる永遠の命にかんする喜ばしい
   報せです。永遠の祝福の中で神を讃美する命が私達に与えられる、
   という報せです。しかもそれは、単に死んだ後だけでなく、この悩み多い地上
   を生きている時から、既にその永遠の喜びに与ることが許されている、
   という意味においてです。
   「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
    イエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)
   「それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなた方に告げ
    知らせた人達が、今、あなた方に告げ知らせており、天使達も見て確か
    めたいと願っているものなのです」(Tペトロ1:12)
   「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、
    言葉では言い尽くせない素晴しい喜びに満ち溢れています。それは、あなた
    方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8〜9)
   「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリ6:2)
2011年4月3日  日本キリスト教団信仰告白(10)

 問19、聖書が「キリストを証し」しているとは、どういうことですか。
 答、聖書の主題が、イエス・キリストである、と告白しています。
   即ち旧約聖書はやがて来られるイエス・キリストを預言し、新約聖書は既に
   来られたイエス・キリストが今も生きておられ、再び来られることを証ししています。
   「あなた達は聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
    ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)
   「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書か
    れていることを説明された」(ルカ24:27)

 問20、そうすると、聖書を歴史上この世に生きておられるイエス・キリストについて
    の証しとしても読むことが出来ますか。
 答、出来ます。ですから、聖書の言葉は様々な学問的研究の対象にもなります。
    しかし、このイエス・キリストは永遠の神の御子ですので、神の奥義を啓示する
    聖霊が聖書の唯一の正しい解釈者なのです。
   「この世の支配者達は誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解して
    いたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(Tコリ2:8)
   「私達には、神が“霊”によってそのことを明らかに示して下さいました。“霊”は
    一切のことを、神の深みさえも究めます」(Tコリ2:10)
2011年3月27日  日本キリスト教団信仰告白(9)

 問17.「神の霊感」とは、どの様な意味ですか。
 答.聖書の本来の著者は聖霊であるということです。従って聖書は、古代の人間の
   書いた文章ではありますが、その本来の著者であられる聖霊によって正しく
   解釈されたときにだけ、神が今のわたしに向かって語っている誤りのない言葉
   となるのです。
   「まことにあなたは御自分を隠される神」(イサ45:15)
   「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(Tコリ2:11)

 問18.どうしてその様な事があなたに分るのですか。
 答.聖書が決して単なる人間の言葉ではなく、私を慰め、癒し、戒める神の命の言葉
   である事を私の心に確信させて下さるものは、聖書の真の著者であられる聖霊
   御自身の証しです。
   「二人は『道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私達の心は
    燃えていたではないか』と語り合った」(ルカ24:32)
   「今日に至るまでモーセの書が読まれる時は、いつでも彼らの心には覆いが掛かっ
    ています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主と
    は、“霊”のことです」(Uコリ3:15〜17)
   「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでも
    なく、神によって生まれたのである」(ヨハ1:13)
2011年3月20日  日本キリスト教団信仰告白(8)

 問16.なぜ、聖書は神の言葉であると言われるのですか。
 答.神の言葉そのものであられるイエス・キリストは、聖書が御自分を証しするもの
   であると確証されました。聖書各巻は、それぞれが誰かある人によって書かれ
   たという意味では、全く人間の言葉です。しかしその際に、それらの言葉を用い
   て神が直接私達人間に語りかけておられるという意味では、神の御霊がその
   真の、本来的な著者であられます。
   「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)
   「聖書は全て神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に
    導く訓練をするうえに有益です」(Uテモテ3:16)
   「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない……なぜなら、預言
    は決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて
    神からの言葉を語ったものだからです」(Uペトロ1:20〜21)
2011年3月13日  日本キリスト教団信仰告白(7)

 問14.この信仰告白はどのように分けることができますか。
 答.「旧新約聖書は」から始まる四つの段落が、この信仰告白の実質的部分の前半部
   です。
   この部分はこの信仰告白のために独自に作成されたものです。それに対して、
   「わたしたちはこのように信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白します」という
   言葉によって、公同教会最古の信条である「使徒信条」が導入されます。これが
   後半部です。私達の「日本基督教団」という教会は、「使徒信条」を告白することに
   よって代々の教会、即ち二千年来の使徒的信仰を受継ぐ教会となっています。
   前半部は「使徒信条」をどのように受止め、解釈したらよいかを述べている大事な
   部分です。

 問15.「日本基督教団信仰告白」の第一段落は、どのようなことを告白していますか。
 答. 聖書は神の言葉であると告白しています。
2011年3月6日  日本キリスト教団信仰告白(6)

 問12、信仰告白には、その他の意味がありますか。
 答、あります。
   第一に、信仰告白は教会に属する者がそのもとに一緒に集い、お互いが人生観や
   価値観や境遇などをではなく、同じ信仰を共有することによって信頼し合い、心を
   一つにすることが出来る為の、教会の一致と信頼の基礎です。
   次に、それは対外的には、教会の信仰を言葉で言い表したものとして、伝道と教会
   形成の指針となり、戦いの為の旗印ともなります。
   「体は一つ、霊は一つです。それはあなた方が、一つの希望に与るようにと招かれ
   ているのと同じです」(エフェソ4:4)
   「主は諸国の民に向かって旗印を掲げ、地の四方の果てから、イスラエルの追放
   されていた者を引き寄せ、ユダの散されていた者を集められる」(イザヤ11:12)

 問13、では、それはどの様な内容なのですか。
 答、私達の教会が告白する「日本キリスト教団信仰告白」に示されている通りです。
2011年2月27日   日本キリスト教団信仰告白(5)

 第1部 公同の教会

 問10、公同の信仰とは何ですか。
 答、公同の信仰とは、私が聖霊の導きによって、門を叩く様導かれた公同の教会が、
   使徒の時代から受継ぎ、神と人との前に告白してきた信仰のことです。この公同
   の信仰を学ぶことを通して、私の個人的な信仰は一層完全な、即ち主が喜ばれる
   信仰へと養い育てられます。
   “あなたに委ねられている良いものを、私達の内に住まわれる聖霊によって守り
   なさい。(Uテモテ1:14)(エフェソ3:18〜19)”

 問11、私達の「日本キリスト教団信仰告白」は「私達は信じて、告白します」とあります
    様に、公同の信仰を言葉にして、神と人との前で公に言い表したものです。
    それはあなたにとって、どうして大切なのですか。
 答、私達がそれを礼拝において、神の前で共に告白することは、神を褒め称え、神に
    栄光を帰することになるからです。更にそれは、私達がそれによって信仰を教え
    られ、自分の信仰が増し加えられる指針となるからです。
    “あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい(申26:5)”
    “口でイエスは主であると公に言い表し、心で神はイエスを死者の中から復活させ
     られたと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)”
2011年2月20日  日本キリスト教団信仰告白(4)

 第1部 公同の教会

 問8、信仰とは何ですか
 答、信仰とは神が御言葉によって私達に啓示されたことを、全て真として受入れること
   だけでなく、勇気をもって神に自分自身と一切のものを委ね、その御意志に生涯
   従おうとする信頼です。私達はこの信仰によって、罪を赦され、私達の命の希望
   を確かなものとされます。“イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から
   降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(マタイ14:29)(ローマ4:18)”

 問9、信仰は学ぶことが出来るものですか。
 答、「神に勇気をもって信頼し、生涯従おうとする信仰」は、只聖霊により神の言葉を
   聞くことを通して起るのであり、人の力ではどうすることも出来ません。しかし、聖霊
   の導きに喜んで従う人は、教会が信ずる公同の信仰を全て真とする信仰を通して、
   更に信仰を増し加えられます。“聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは
   言えない。(Tコリ12:3)(エフェソ4:14〜15)”
2011年2月13日  日本キリスト教団信仰告白(3)

 問6、他には、神の言葉を聞きイエス・キリストと出会う機会はないのですか。
 答、直接私に神の独り子なるイエス・キリストを証しているものは、聖書と聖礼典を伴った
   説教だけです。他のものは、たとえイエス・キリストを信じる信仰へと私を促したとしても、
   キリストを直接証しているとは言えません。

 問7、つまり、あなたは一人で聖書を読むだけでは、完全な信仰に達することが出来ない
   のですね。
 答、その通りです。一人で聖書を読んでイエス・キリストへの信仰が得られたとしても、
   それは未だ独りよがりの信仰でしかありません。聖書が私の中に働いて、「母なる教会」
   へと行かせ、教会の交わりの中で説教を聞くようにと促します。それは、私が神に本当に
   喜ばれる信仰を持ち、「私達は信じて告白します。」との信仰告白をしつつ、永遠の命の
   祝福の中で生涯を全うするようになる為です。私はこの聖書の促しに、心から従いたい
   と思います。
2011年2月6日  日本キリスト教団信仰告白(2)

 問3、何故イエス・キリストという神の言葉が、それほどに必要なのですか。
 答、必要な人も、物も確かにたくさんあります。しかし、私の地上の命には限りがあるので、
   私はいつか必ずそれら全てを失うでしょう。
   神の言葉は私にとって、この世と来たるべき世における命の源であり、私の生と死の
   全責任を取って下さる神の真実な言葉です。
   それ故私はどの様な時にも、イエス・キリストと呼ばれる神の言葉に全幅の信頼を置き、
   無条件に従いたいと心から願うのです。(ヨハネ1:1〜4)

 問4、あなたは今日、どこでイエス・キリストと出会うことが出来ますか。
 答、イエス・キリストを正しく証している旧新約聖書を通してです。ですから聖書の言葉もまた、
   神の言葉であると言えます。(ヨハネ5:39)

 問5、それでは聖書を自分で読む事によって、イエス・キリストに出会えるでしょうか。
 答、いいえ、聖書を自分で読む事が信仰のきっかけになる事はあっても、教会による説き
   明かしがどうしても必要です。何故なら、神はこの聖書が教会において、イエス・キリスト
   御自身によって立てられた説教者によって、現代に生きる私達に親しく説き明かされる
   事を良しとされたからです。更にイエス・キリストは、罪の赦しと永遠の命を約束する言葉
   を体で味わう様にと、見える言葉である聖礼典を定めて下さいました。ですから、教会に
   おいてこそ、私達は神の言葉であるイエス・キリストと出会えるのです。(ローマ10:17)
2011年1月23日   日本キリスト教団には約1400の教会があり、また30有余の教派が、戦後一つになって
成立した教団です。昨年、教団宣教研究所編として、信仰の手引き「日本キリスト教団
信仰告白、十戒、主の祈りを学ぶ」という問答式の小冊子が出版されました。これは私達
の信仰の基盤であります。大変分り易いので、先ず、信仰告白から共に学び、神の恵み
を共有して行きましょう。

『序:命の言葉』
 問1、あなたにとって、無くてならない只一つのものとは何ですか。
 答、 神の言葉です。
    「無くてならぬものは多くない。否一つだけである。」(ルカ10:42口語訳)
    「人は主の口から出る全ての言葉によって生きる。」(申8:3)

 問2、神の言葉とは、何ですか。
 答、 神の独り子なるイエス・キリストが、神の言葉です。神はイエス・キリストを通し、
    わたしに一切の罪の赦しと永遠の命を、確かなものとして約束して下さると同時に、
    わたしの全生活をもって、神に従うよう求めておられます。
    「言は肉となって、私達の間に宿られた。」(ヨハネ1:14) (14:6、ヘブル1:1〜2) 
2011年1月9日  キリストと結ばれる人は誰でも、新しく
創造された者なのです。古いものは過ぎ
去り、新しいものが生じた。
               (Uコリント5:17)

2011年の富広さんのカレンダーを開き、その一枚一枚の絵を見るのを楽しみ
にしています。淡いピンクの秋海裳の絵にこんな詩が添えられていました。
  痛みを感じるのは  生きているから
  悩みがあるのは   生きているから
  傷つくのは     生きているから
  私は今      かなり生きているぞ

 今年の教会標語は、朝な夕なに御言葉を口ずさむ者となりましょうと、スタートしました。
目には見えませんが“インマヌエル”の主が共におられ、この一年思い掛けない幾多の
試練を乗り越えて行かねばならないかも知れません。その痛みや悩み、悲しみ、傷つく中に、
主が共に働いて下さり、主を仰ぐ者に慰めを与え、励ましを与え、喜びをそして希望を約束
されているのです。

 目には見えねども  我がそばにまして
 常に助けたもう   主ぞ懐かしき
 所を備えて     我を待ちたもう
 君にまみゆる    日ぞ懐かしき

 目には見えねども  我が行くべき道
 常に示したもう   主ぞ懐かしき
 所を備えて     我を待ちたもう
 君にまみゆる    日ぞ懐かしき
                 (聖歌595)
2011年1月2日 < 祈り >
神さま、詩編の作者はあなたの御言葉を「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」
とうたっています。
自分は神さまの御言葉をこれほどまでに、慕い求めているか、
と反省させられました。
しかし、神さま、何に感動したのか、突然、詩編第1編を声を上げて
読んだ若い日のことが想い出されます。
受洗を決意したのは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。」という御言葉に打たれた時でした。
それ以後の歩みを振り返ってみると、あの時この時と人生の大切な節目で、
あなたは御言葉を与えてくださいました。
いつのまにか私はあなたの御言葉に養われ、育てられてきたのです。感謝します。
神さま、1年の初めにあたり祈ります。
この年も朝ごとに御言葉を賜い、その言葉によって生かし、導いてください。
まことに、御言葉がなくてはならぬ糧であることを、身に沁みて分らせてください。

今年の「命の言葉」を読む
2012年「命の言葉」
 2010年「命の言葉」


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