2012年11月18日 | 日本キリスト教団信仰告白(63) 問91.幼児洗礼を行う場合、考慮するべきことは何ですか。 答. キリスト者の子である幼児は、すでに罪の赦しを約束する御言葉と御霊の御支配 の中に置かれているので、この神の先行の恵みに対応して、教会と親の双方の 信仰と決意とによって、神との契約のしるしである幼児洗礼を受けます。そのよう にしてキリストのものとされ、その御からだなる教会の肢として封印され、教会 によって養育されることが、信仰の継承という点からみて、望ましいと考えられ るからです。その場合、その子は将来いつの日か、教会と親の双方の信仰と 決意とによって与えられた洗礼の恵みを自分自身のものとして確認するため、 「信仰告白式」を行わなければなりません。 「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠 の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創17:7) 「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」 (出20:6) ※他、聖書参照箇所 (使2:39) (使16:31) (使16:33) |
2012年11月11日 | ― 足跡(Footprints) ― ある夕べ 私は 海辺を歩いておりました はるかかなたの夕暮れの空に 私は 自分の今日までの人生が 走馬燈のように 展開されていくのを見たのです 悲しかったこと うれしかったこと 苦しかったこと 楽しかったこと いろんな出来事のたびに 私は 側の砂の上に 人の足跡が 残されていくのを見ました あるときは それは ふたりの人の足跡であり あるときは それは たったひとりの人の足跡です でも 苦しい 辛いときに限って ひとりの人の足跡しか見られません 「神様! これは どうしたことでしょう 私の悩みのときに限って あなたの御足跡が見られないとは・・・ あなたは 悩みのときに 私と共にいて下さると 御約束して下さったではありませんか?」 優しい御声がかえってきました 「おまえの悩みのとき 私は おまえを 抱きかかえていたのだよ」 |
2012年11月4日 | 日本キリスト教団信仰告白(62) 問90.どんな人が、洗礼を受けることが許されるのですか。 答.キリストの恵みの選びによって自分が救いの中に入れられたことを信じ、悔い改 めて、新しい人生を始めようと決意した人です。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたが たが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父 に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」 (ヨハ15:16) 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、 わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れて は、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:5) |
2012年10月28日 | 日本キリスト教団信仰告白(61) 問89. 洗礼とは何ですか。 答. 洗礼とは、わたしがすでにキリストの十字架によって死に、罪から解放され、 キリストの復活によって新しく生まれたという福音をまこととして受け止める時、 神がそれを良しとして受け入れ、わたしと生涯にわたる恵みの契約を結ばれ、 キリストのものとしてくださった神ご自身の証印です。従って、洗礼は生涯で ただ一度だけのものです。 「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの 名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊 を受けます』」(使2:38) 「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(創17:13) 「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を 尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(申30:6) 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」 (ガラ3:27) |
2012年10月21日 | 日本キリスト教団信仰告白(60) 問88.説教と聖礼典の両方が、どうしても必要なのですか。 答.その通りです。説教も聖礼典も、それ自身の役割を担う福音伝達の手段です。 説教が福音の伝達を「聞く言葉」によって行うのに対し、聖礼典は、神がわたし の信仰をよしとし、それを保証する神の「見える言葉」です。 「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠 の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創17:7) 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼 を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」 (ロマ6:3) |
2012年10月14日 | 日本キリスト教団信仰告白(59) 問86.聖礼典はなぜ説教と並んで「まことの教会のしるし」とされるほど重要なので すか。 答.キリスト御自身が、神の言葉が正しく受け取られるためには、単に耳で聞かれて 頭で理解されるだけでなく、その人自身の体を洗い、またはその舌で味わわれ、 体内に食されることが必要であると考えられたからです。これはまことにわたし たちの肉の弱さを配慮されてのことです。教会はこの主のご配慮を感謝し、二千 年の間、聖書において主が制定された「洗礼」と「聖餐」の二つの聖礼典を伝統 的に大事にしてきました。 問87.主は聖書のどこで、洗礼及び聖餐という二つの聖礼典を制定されましたか。 答.洗礼はマタイによる福音書28章19節において、聖餐はルカによる福音書22章 14節以下およびその並行記事においてです。 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ28:19) 「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15) 「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念として このように行いなさい」(ルカ22:19) |
2012年10月2日 | 日本キリスト教団信仰告白(58) 問84.主が立てられた教師が聖書に基づいて正しく語った説教であれば、 神の言葉として聴くべきですか。 答. その通りです。わたしたちは説教壇から語られている神の言葉を決して教師が 語る言葉とは考えません。なぜなら、教師の力によって説教が神の言葉になる のではなく、御霊の力によってなるのだからです。 問85.聖礼典とは何ですか。 答. 聖礼典とは、一人一人の人間が説教を通して福音を信じたとき、神ご自身が その人の信仰を良しとして受け入れてくださったという神の「証印」であり、「封印」 です。この聖礼典により、聖霊はキリストと聖礼典の受領者自身との交わりを確 証させます。そのようなものとして、聖礼典は説教と共に、福音伝達の不可欠の 手段です。 聖礼典の二次的は意味は、そこでわたしたちがキリストの体なる教会の生ける 肢であることが、神と人との前で告白されることです。 |
2012年9月30日 | 日本キリスト教団信仰告白(57) 問82.説教や聖礼典の「正しさ」の基準は何ですか。 答.究極の基準はイエス・キリストですが、具体的な基準は聖書です。聖書に基づ いてなされた説教が、主が立てられた説教者の口を通して力強く語られ、また、 聖書に適った仕方で聖礼典が執行されるとき、説教の言葉を通して聖書の言葉 が立ち上がり、御霊の力によって、神の言葉として鳴り響くのです。 問83.牧師と信徒の区別などについては、どのように考えたらよいのでしょうか。 答.牧師、役員(長老)、信徒などのいわゆる「職制」の区別は、神の前での身分的な 区別ではありません。主が御からだなる教会をお建てになるに当たり、必要上 お立てになった奉仕職です。主は、教会の中で任職を受け、職務にある人々に 対し、すべての人が然るべき尊敬と感謝の意を表すことをお命じになりました。 「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、 教師とされたのです」 (エフェ4:11) 「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆 に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」 (マコ10:43〜44) 「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」(Tペト5:5) |
2012年9月23日 | 日本キリスト教団信仰告白(56) 問80.公同の礼拝の中で、中心的に行われることは何ですか。 答.「福音を正しく宣べ伝える」ことと「聖礼典を正しく執行する」ことです。 それらに対する応答として、讃美歌、祈り、信仰告白、献金などが行われます。 問81.なぜ、「福音を正しく宣べ伝える」ことと「聖礼典を正しく執行する」こととは、 教会にとって重要なことなのですか。 答.それは主が、公同礼拝の中で行われる福音の正しい宣教との聖礼典の正しい 執行とによって、神の言葉が語られ、救いがもたらされることを欲せられたから です。 それによって教会の中で義認と聖化が起こるだけでなく、教会がこの世に存在 する使命としての伝道の業が展開され、教会に「愛のわざ」が生まれるのです。 さらに教会の中で神の言葉が正しく語られることによって、教会全体が神御自身 によって真に教会らしくされていくことが期待されます。 「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、 教師とされたのです」 (エフェ4:11) 「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵 みを受け継がせることができるのです」 (使20:32) ※他、聖書参照箇所 (Uテモ4:1〜2)(マコ10:43〜44) |
2012年9月16日 | 最上のわざ この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、 しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。 若者が元気一杯で神の道を歩むのを見ても、ねたまず、 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、 もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。 まことのふるさとへ行くために。 おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ はずしていくのは、真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、それを承諾するのだ。 神は最後にいちばん良い仕事を残して下さる。それは祈りだ。手は何もできない。 けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。 「来よ、我が友よ、我、汝を見捨てじ。」と。 ホイヴェルス随想選集 「人生の秋に」の「年をとるすべ」より |
2012年9月9日 | 日本キリスト教団信仰告白(55) 問79.では、「公同の礼拝」とは何ですか。 答.「公同の礼拝」とは「公の礼拝」のことであり、すなわち、国籍、身分、性別、年齢 等々を一切問わず、全ての人が参加できる礼拝のことです。身を低くされて地上に 来られた主イエスの御生涯の全体が神への礼拝であったと言えるように、わたした ち信仰者は、共に集うとき、主がその中心に共におられ、その執り成しによって神を 礼拝できます。これは、終わりの日に実現する神の国における礼拝の雛形であり、 前祝いである、と言えましょう。 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその 時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23) 「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける いけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」 (ロマ12:1) 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男 も女もありません」 (ガラ3:28) ※他、聖書参照箇所 (黙5:14) (黙21:3〜4)(出24:10〜11)(Tコリ13:12) |
2012年8月26日 | 日本キリスト教団信仰告白(54) 問78.伝道をどのように考えたらよいのでしょうか。 答.伝道は、主イエス・キリスト御自身とわたしたちの希望が、福音があまねく宣べ 伝えられ、御国が来ることである以上、キリストの御意志と御命令に従う業であり、 それによって、教会がこの世にある意義と目的が満たされる業です、キリストは、 まだ教会の外にいるが、しかしわたしたちと同様御自分の民である者たちを愛 され、御国に招かれるのです。 伝道は基本的には、公同礼拝における福音宣教によってなされます。さらに、 礼拝から押し出されたすべてのキリスト者がこの世に遣わされ、言葉と業と生活 を通して福音を証しし、求道者を招いていくことが大切です。その力は祈りを通し て授けられます。 「折が良くても悪くても励みなさい」(Uテモ4:2) 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった 民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださっ た方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Tペト2:9) *他参照聖書箇所 (使18:10) (ヨハ10:16)(マタ10:16) (マタ10:20) (マタ28:19〜20) |
2012年8月19日 | 日本キリスト教団信仰告白(53) 問77.神の国に与るために、あなたは教会の肢となる必要がある、と言うのですね。 答.そうです。わたしはそこで、絶えず新たに聖霊を与えられ、主イエス・キリストとの 交わるの中で信仰を養われ、聖徒の交わりに与り、永遠の命に導かれます。 そして、わたしたちはこの恵みを世の人々に宣べ伝えるのです。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられ るからである」 (使1:4〜5) 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝 が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた がたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」 (ヨハ15:4) 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべて の人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。 そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」 (ヨハ17:21) 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも わたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と 御子イエス・キリストとの交わりです」 (Tヨハ1:3) |
2012年8月12日 | 日本キリスト教団信仰告白(52) 問76.「神の国」とは何ですか。 答.「神の国」とは、わたしたちの究極の救いが完成し、わたしたちが神とキリストの 永遠の支配のもとで共に神を賛美する国です。それは、福音があまねく世に宣べ 伝えられ、主イエス・キリストが再び来られる日、あがなわれた者が復活の栄光 に与り、永遠の命を受けることによって完成します。 「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。 それから、終わりが来る」 (マタ24:14) 「御国が来ますように」(マタ6:10) 「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に乗って来るのを見る」 (マタ26:64) 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではあり ません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると ともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者と され、わたしたちは変えられます」 (Tコリ15:51〜52) |
2012年8月5日 | 日本キリスト教団信仰告白(51) 問75.では、「主がふたたびこられるのを待ち望む」とは、何を意味するのですか。 答. 教会の希望は「神の国」であり、人間の努力や業によって実現されるものでは なく、ただ主の再臨によってだけ実現されるものです。そして主は、その時まで、 御国の福音が宣べ伝えられることを教会に委ねられました。ですから、教会の 公同礼拝、説教、聖礼典、愛の業などのすべては、皆この希望の中で営まれる のです。また、すべての業は御国の福音の宣教という、主が教会に厳かに委託 された業を目的としています。 「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。 それから、終わりが来る」(マタ24:14) 「御国が来ますように」(マタ6:10) 「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくだ さった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」 (Tコリ15:28) 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と 聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るよう に教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 (マタ28:19〜20) 「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙22:20) |
2012年7月29日 | 使徒信条の「イエス死んで葬られ」についてある神学者が以下のように記して います。 「もはや誰ひとり、一人ぼっちで死ななければならないという事は無くなったのだ。 イエスが私達の死を、ご自分の中に受け入れて下さった事により、私達の死の 意味が変わってしまっているのだ。「イエスと共に」と言う事によって、死はもはや 望みなきものではなくなった。神を軽んじていた私達の死、神との交わりをすっか りないがしろにしていた私達の死を、イエスは一挙に取り除いて下さっている。 一切の命の根源である神からそのように切り離されていたという事にこそ、死の 厳しさがあったのである。しかし、イエスが死んで下さった後には、私達の誰ひと りとして、そういう死に方をしなくて済むようになったのである。」と。 私達にとって何とすばらしい慰めでしょう。喜びであり、希望であります。 |
2012年7月22日 | 日本キリスト教団信仰告白(50) 問73.これら五つの事柄を遂行することにおいて、キリストが教会の主また頭であら れることは、どのように保持されますか。 答.次のようにしてです。 先ず、教会の主また頭がキリストであられるとは、教会の活動の一切がキリスト によってキリストのためになされる、ということです。なぜなら、一切がキリストに よって、キリストのためになされるとき、キリストはわたしたちのために益となる 一切のことをなして下さるからです。 次に、キリストは一切のことを御自身によって、御自身のために行われるために、 御自身の僕たちの会議を開かせます。これを、「教会会議」と言います。 「神は・・・キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」 (エフェ1:22) 「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの なのです」 (Tコリ3:22〜23) 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ のです」 (ロマ14:8) 問74.これら五つの事柄を、さらに説明してみましょう。 答.「公同の礼拝」は教会の最も基本的な業です。次に、「福音を正しくのべ伝える」 ことと「バプテスマと聖餐との聖礼典を行う」こととは、特に宗教改革者たちが 「まことの教会のしるし」として重んじた最も中心的な事柄であり、礼拝に欠か せないものです。「愛のわざ」は、そこから当然出てくる教会の在り方と言えまし ょう。最後に「主がふたたびこられるのを待ち望む」ことは、地上の教会が時間 と歴史の中にありながら、希望によって生きていることを告白しています。この 終末待望が、他の四つの業すべてを総括し、それらすべてに意味を与えています。 |
2012年7月15日 | ―教区婦人部研修会を終えて― <U教会に仕える喜びと希望−堀一善牧師> ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。 (フィリピ1:27) 1.主イエスは私の罪を最後まで完全に引き受けて、離れる事なく共におられ、先頭 立って進まれるお方。 2.<教会形成とは何か> これは組織の拡充でも、公平秩序正しい温かな居心地の良さを求める事でもない。 教会形成の目指すべきは、罪からの救いとその恵みに与かり、主が一生涯この私 の全ての責任を負って、共にいて下さる喜びと感謝に溢れているかである。具体的 には「御言葉」に生きる事である。 3.礼拝で「御言葉」説教が語られるが、説教者は、@説教にあらゆる努力配慮を惜し まない、A「御言葉」を信じて語る事、Bその信じた信仰を相手に伝道しようと切に 願っているか・・と問いを投げかけられた。 4.信徒は、礼拝で語られる「御言葉」を黙々と聖霊の助けを求めつつ、神からの「御言 葉」を信仰によって受け止め、礼拝を守りぬく。生きた礼拝となるためには、祈りが なくてはならないのである。 5.最後にキリスト者は、救われた喜びと感謝、御言葉を信じ、神の愛と力に押し出され て、教会に仕え、この福音の恵みを周囲の人々と分かち合いましょう。 |
2012年7月8日 | ―教区婦人部研修会を終えて― わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます 豊かになり、・・・・・(フィリピ1:9) 7/2(月)〜3(火)富山県砺波において中部教区婦人部研修会が開催されました。 (参加教会63、参加者305名) 講師は堀一善牧師で、T「信仰生活の喜びと希望」、U「教会に仕える喜びと希望」 と題して、フィリピ1章から2回の講演をされました。 開口一番「あなたは今、何を誇りとして、何を頼みとして生きているか」と問われ、 パウロと同様に「自分はキリストの僕」と言い切る事が出来ますかと、続けられました。 これは「キリストの十字架によって罪赦され、復活されたキリスト以外には、私の誇り はない」という事である。贖罪により、神の子とされ、神の一方的な恵みを信じ、受け 入れる時、心の中に喜びと平安で満たされるのである。このつきない恵みと喜びに 生きる事の出来る秘訣は<みことは>であり、<礼拝>でです。主の恵みは努力し て勝ち取るのでなく、<みことば>の前に無条件で自らを差し出していく時に、恵み に与るのです。神は熱愛を持って、私達一人一人を生涯「キリストの僕」として生きる ようにして下さるのであると。 40年の伝道生涯における、これが私の証であると語られました。Uの講演は次回に 記します。 |
2012年7月1日 | 日本キリスト教団信仰告白(49) 問71.教会が「恵みによって召された者の集まり」であるというのは、どういうこと ですか。 答.教会は人間の集まり、すなわち、「会衆」として理解されています。しかも、その 一人一人は「恵みの選び」によって召された者でありますから、決して人間また は信仰者が自分の意志で集まって教会を形づくっているわけではありません。 むしろ、キリストの体なる教会がまず先にあり、教会の主であられるキリストが 「恵みによって召された者」たちをその中に招き入れることによって、教会の肢 とする、と告白されています。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」 (ヨハ15:16) 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、 御父に近づくことができるのです」 (エフェ2:18) 問72.それでは、教会は何をするところですか。 答.教会は「キリストの体」として、キリストの救いの御業を継承します。その意味で、 日本基督教団信仰告白では五つのこと、すなわち、「公同の礼拝を守る」こと、 「福音を正しくのべ伝える」こと、「バプテスマと聖餐との聖礼典を行う」こと、「愛 のわざに励む」こと、「主がふたたびこられるのを待ち望む」ことを述べています。 |
2012年6月24日 | 日本キリスト教団信仰告白(48) 問70.「キリストの体」とは何ですか。 答.「キリストは教会の頭であり、一人一人はその部分である」と言われています。 ですから教会は単なる人間の集まりではなく、まず何よりも、聖霊によって 生まれ、形づくられたものです。それは、すでに天に昇られたイエス・キリストが、 霊においてこの地上に現臨し、形づくっておられる体です。このキリストの体は 信仰によって捉えられるものなので「見えない教会」とも呼ばれます。 「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初 に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」 (コロ1:18) 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って 来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」 (ヨハ14:18〜19) *他参照聖書箇所 (Tコリ12:13) |
2012年6月17日 | 日本キリスト教団信仰告白(47) 問67.聖霊が「そのはたらきを完成されます」とは、何を意味しますか。 答.聖霊が罪の赦しに基づいて更に信仰者を潔め、義の実を結ばせ、隣人愛と伝道 の業に勤めるその信仰の生涯を導いて、ついに永遠の命を受け継ぐ者にふさわ しい完全な者としてくださる、ということです。 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、 まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを 知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」 (Tヨハ3:2) 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け 継ぐための保証であり、こうして、わたした ちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」 (エフェ1:14) 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業 を成し遂げてくださる」 (フィリ1:6) 第五部 わたしたちが受け継いだ教会についての信仰 問68.「日本基督教団信仰告白」の第四段落は、どのようなことを告白していますか。 答.福音主義教会が宗教改革の伝統から受け継いだ教会観を告白しています。 問69.教会とは何ですか。 答.教会は「主キリストのからだ」であり、また、「恵みによって召された者の集まり」 です。 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておら れる場です」 (エフェ1:23) 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」 (Tコリ12:27) |
2012年6月10日 | 日本キリスト教団信仰告白(46) 問66.聖霊が結ぶ「義の実」とは、感謝の実のことですか。 答.そうです。すべては神の恵みであり、恵には感謝をもって応えることがふさわし いからです。聖霊はわたしたちの内に働き、神の救いを信じさせ、それに対する 溢れる感謝を起こさせます。その感謝が、神と隣人への愛、福音伝道、神に喜ば れる生涯を生み出すのです。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、 キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」 (Tテサ5:16〜18) 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。 これらを禁じる掟はありません」 (ガラ5:22〜23) |
2012年6月3日 | 日本キリスト教団信仰告白(45) 問65.それは、戦いや努力を意味するのですか。 答.そうです。わたしたちの内にはなお言わば罪の炎の「燃えさし」のようなものが 残っていますから、祈りにより、御霊の力に頼ることなしには、罪の力に勝利 することはできません。 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に 対して保証されているのです」 (エフェ4:30) 「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」 (ロマ8:26) 「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう なことはありません」 (ガラ5:16) 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることは ありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法 則からあなたを解放したからです」 (ロマ8:1〜2) 「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」 (Tヨハ5:5) 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」 (エフェ6:11) |
2012年5月20日 | 日本キリスト教団信仰告白(44) 問64.「聖霊はわたしたちをきよめて、義の実を結ばせ」とは、何を意味しますか 答.わたしたちの内に信仰を惹き起こし、イエス・キリストとの交わりにわたしたちを 与らせた聖霊が引き続きわたしたちの内に働て、わたしたちが、滅びに向かって 生きる古い人を脱ぎ捨て、絶えず新しく神にかたどって造られた新しい人を着、 自由な良心で神に喜ばれる行いをするようになる、ということです。 「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しく され、真の知識に至る新しき人を着たのである」 (コロ3:9〜10、口語訳) 「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け・・・」 (エフェ4:23〜24) 「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてし まったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って また前進しましょう」 (ガラ5:24〜25) 「神はあらかじめ定められた者たちを召しし、召し出した者たちを義とし、義とされた 者たちに栄光をお与えになったので」 (ロマ8:30) |
2012年5月13日 | ─母の日礼拝の由来─ 母親の信仰深い愛に感謝をこめて、1908年5月10日にミス・ジャービスが母の大好き なカーネーションを沢山飾って追悼式を行った事に端を発しています。母アンナは20年 間教会学校の教師をしていました。その母を尊敬して、白いカーネーションを飾り、亡き 母を称えました。 後に赤いカーネーションは母親が生きている事を表し、白は召された者に使用される 様になりました。 この出来事にデパート王と言われたジョン・ワナメーカーが感動して、沢山のカーネー ションを皆にプレゼントしました。そして、その出来事が全米に広がりました。 日本には大正時代に教会を通して入ってきました。 我が母への感謝を思い起こし、その母をこの世に誕生させ導いて下さった神へ、心か ら感謝を捧げましょう。 |
2012年4月22日 | 日本キリスト教団信仰告白(43) 問63.この信仰義認の教えは、ありのままの状態に満足した怠慢な人間を作り ませんか。 答.いいえ、そのようなことはあり得ません。なぜなら、聖霊によってキリストと一つ とされたキリスト者は、キリストとの絶えざる交わりの内に、感謝と義の実を結 ぶようになりからです。 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている なら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊 によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロマ8:11) 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶ ことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタ7:17〜18) 「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は」(詩119:1) |
2012年4月15日 | 日本キリスト教団信仰告白(42) 問62.なぜ、よい行いは義と認められないのですか。それはせめて、義の一部とは ならないのですか。 答.神の前に認められるような、一点の落ち度もない完全な義は、人間に不可能で あるばかりか、人間は神の前に不完全な義をあたかも完全な義であるかのよう に考えて誇示し、隣人を裁く高慢不遜のゆえに、かえって神の激しい怒りを招く からです。 「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について 有罪となるからです」(ヤコ2:10) 「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなた は、神の裁きを逃れられると思うのですか」(ロマ2:3) 「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」 (ロマ2:5) |
2012年4月8日 | ―祈り― あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム ばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの 証人となる。 (使徒1:8) 神様、「あなたこそ私の神」と信じる信仰を与えて下さった恵みを感謝する時、春の 陽光が心に射し込んできます。 もし、あなたを神と信じていなかったら、どんな人生であったかと思うと、心が寒くなり ます。どんなに寒い時も、あなたは温もりを与え、どんなに暗い夜もあなたは避けどこ ろとなって、光で包んで下さいました。けれども・・・ 神様、この春の陽光を知らず、暗い冷たい寂しさの中で、ついには自らの命を賭する 人々が絶えません。どうぞ、それらの人々を顧みて下さい。 そして・・・そして神様、この小さく弱い私が冷たい暗闇の中にいる人々に、あなたの 命の光を、愛を差し伸べる事ができるよう、聖霊の油を注いで下さい。全地の四面の ものが強く息づく時、あなたの十字架と復活の福音を持ち運ぶ者として用いて下さい。 |
2012年4月1日 | ―祈り― 神さま、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ・・・ 屠り場に引かれる小羊のように・・・ 口をひらかなかった。」と旧約の預言者が語ったとおりのお姿で、イエス様は十字架に かかられました。 人々をいやし、慰め、養い、生かし続けてこられた方が、人々からののしられ、唾を 吐きかけられ、嘲られつつ、黙って十字架につかれまた。罪なき方が十字架に釘づけ にされ、すさまじい苦痛とたたかいながら、息を引き取られました。 神さま、この方の十字架の死が、私の罪の贖いであるとは本当ですか。自己中心的 で罪だらけの私でも赦されるのですか。「父よ、彼らをお赦しください。」という、イエス様 の十字架上の祈りが心を揺さぶります。私のような者も主に祈られている、何とありが たいことでしょう。 神さま、「多くの人の過ちを担い、背むいた者の為に執り成しをしたのは、この人であ った。」という御言葉を信じます。 ―信徒の友より― |
2012年3月25日 | 去る3月20日、地区の信徒修養会が津教会で開かれ、15教会と103名の出席でした。 テーマは「東日本大震災の教会の現状と、今、教会に求められていること」と題し、 岡本知之師(教団副議長)により、具体的に語られ、示唆が与えられました。 1.教会の復興状況が報告され、「地域の復興なくしては教会の復興はない」と。また 原発事故は人災である。目先の利便や利潤を追求してやまない人間の欲望の結果 であると。 聖書には「富と神とに兼ね仕える事は出来ない」と記されてあるが、この「富」とは 「偶像崇拝」であり、その本質は人間の「傲慢」と「貧欲」である。今回の3.11以後、 徹底して教会に問われていると。 2.「今、教会に求められていること」は、教会の使命である「宣教」である。聖書は「神 の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。「福音」とはイエス・キリストの 十字架と復活である。それは「キリストへの」信仰の原点に立つ生活の転換が 私達一人一人に神が問ている。 放蕩息子のように神から離れやすい自らであったとしても、神のもとに立ち返っ て(悔い改め)神を仰ぐ者に、神は愛と真心をもって、神の子としての祝福を与え ようと待っておられる。今こそ、この十字架のイエス・キリストへの信仰の霊性に 満たされるように、そしてそれを滅びゆく人々に宣教せよと熱く語られました。 |
2012年3月18日 | 日本キリスト教団信仰告白(41) 問61.なぜあなたは「ただ信仰のみによって」と言うのですか。 答.憐れみに富んでおられる神は、わたしが自分の義により頼むことを断念させ、 キリストがお与えになる義により頼ませてくださいます。わたしの全身全霊は、 ただ、この神が賜る信仰のみによって、完全に義とされるのです。ですから、 どのような立派な業も、神の前には一片の値打ちすらないのです。 「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ロマ9:16) 「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないから です。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3:20) |
2012年3月11日 | *3・11を覚えて祈りましょう* 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 (マタイ11:28〜30) 本日は3月11日です。昨年の今日、東日本震災が発生し、大津波により多くの人命 が失われ、家や財産や仕事場をすべて押し流される被害が広い地域に生じました。 また、これに伴って起こった人災である原子力発電所の事故の為に、多くの人々が 故郷を奪われ、放射能汚染の不安が広い地域に及んでいます。 日本基督教団に連なる多くの教会も様々な被害を受け、その復興はまだ緒についた ばかりです。 震災から一周年のこの日、私たちは心を一つにして被災地の人々と教会の痛みを 分かち合い、主の慰めと支えと力が豊かに注がれるように祈りましょう。 |
2012年3月4日 | 日本キリスト教団信仰告白(40) 問60.「キリストを信ずる信仰」とは、どのようなことを言っているのですか。 答.それは、イエス・キリストがわたしを愛し、わたしの罪からの救いのために 十字架にお架りになってわたしの罪の呪いを完全に引き受けてくださった ので、わたしは自分がすでにキリストと共に罪に対しては死んだ者であり、 今は義とされて甦り、神に対して生きている者であると信じてよい、という 福音を信ずることです。 「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに 結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6:11) 「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように 思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義では なく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、 キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリ3:8〜9、口語訳) |
2012年2月26日 | 日本キリスト教団信仰告白(39) 問59.どのようにして、あなたは神の前に罪を赦され、義とされるのですか。 答.ただ、キリストを信ずる信仰によって、です。 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6) 「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、 信仰によると考える」(ロマ3:28) 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると 知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラ2:16) |
2012年2月19日 | 日本キリスト教団信仰告白(38) 問57.「恵みの選び」の教えが否定されると、どのようなことが起こりますか。 答.救いが人間の良い行いや律法の義によるいう考え方がたちまち頭をもたげ、 信仰が人間の業となり、恵みを否定することになります。 問58.罪の赦しとは何ですか。 答.わたしの過去と現在と将来の一切の罪にもかかわらず、神はキリストの十字架 の贖いのゆえに、わたしの罪をすべてお忘れくださり、わたしがあたかも未だ かつて一度も罪を犯したことがないばかりか、キリストが神に対して示した完全 な義と服従とが、あたかもわたし自身が行ったものであるかのように、わたしを 義しくきよい者と見なし、そのような者として受け入れ、これから後も、御自分の ものとしてお守りの内に置いてくださる、ということです。 「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」(詩32:1) 「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。 たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる」(イザ1:18) 「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい /あなたの罪を思い出さないことにする」(イザ43:25) <他聖書参考箇所> (Tコリ1:30) (ロマ3:23〜25)(Uコリ5:21) |
2012年2月12日 | 日本キリスト教団信仰告白(37) 問55.自分の中に確かさがないことは、あなたを不安にしませんか。 答.それは、わたしが傲慢な人間となり、神への信仰を失うことがないようにとの、 神のわたしへの愛から出ていることです。わたしは与えられた御霊によって この神の愛を確信しているので、不安にはなりません。 「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に 基づいて切に待ち望んでいるのです」(ガラ5:5) 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、 わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」 (エフェ1:14) 「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」 (エフェ4:30) 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Tヨハ4:18) 問56.結局、この「恵みの選び」の教えは、何を言いたいのですか。 答.第一に、わたしの救いが全く一方的に神の恵みによるものである、ということ。 第二に、それゆえわたしは、あらゆる艱難の中にあっても忍耐し、自分の救い について不必要な恐れや思い煩いを抱かず、永遠に変わることのない御心の 成就を待ち望みつつ、心を高く上げて歩むことができる、ということ。 そして第三に、わたしが自分自身の救いについて神の恵みの契約の成就を 期待できるように、他の人の救いについても期待し、それゆえにまた、伝道に 励むことができる、ということです。 「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフェ2:5) 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」 (Tテモ2:4) 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、 自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8) |
2012年2月5日 | 日本キリスト教団信仰告白(36) 問54、あなたは自分の救いは絶対に確かだ、と言えますか。 答、わたしが自分自身を見ているかぎりは確かだとは言えません。けれども、 このわたしが何の功もないのに、恵みによって救いへと導かれ、今は救わ れている、という事実を、わたしは御霊の証しによって確信しています。 「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリスト によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、 御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた 今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたち の主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリスト を通して和解させていただいたからです」(ロマ5:9〜11) 「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって 証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかも キリストと共同の相続人です」(ロマ8:16〜17) 「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ロマ5:20) 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、 まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを 知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(Tヨハ3:2) 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、 それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Tコリ4:3〜5) 「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみ にとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」(ロマ11:22) |
2012年1月29日 | 日本キリスト教団信仰告白(35) 問53、神がある人々を救いへと選ばれたのなら、残りの人々は滅びることになるの ですか。 答、それは、わたしたちにはわからないことです。ただ、わたしが確信できることは、 神には永遠の昔から救いの御計画があり、その善い御計画がキリストと御霊に よって御心通りに成就する、ということです。この御計画に従って救われ、福音を 宣べ伝えることによって、この御計画に仕えるのです。 「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 唯一の不死の存在、近寄 り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です」 (Tテモ6:15〜16) 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽く し、神の道を理解し尽くせよう」 (ロマ11:33) 「わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエル の子らの全部族の中から、刻印を押されていた」 (黙7:4) |
2012年1月22日 | 15日は教会のファミリ―デーとして子供達と一緒に餅つきをしました。子供の人数は 新しく参加した子供達を含めて13名でした。教会学校では子供達の為にプログラムを たて、讃美、お話、三本の木の物語、ゲーム等をして楽しく過ごしました。そして大人と 共に餅をつき、つきたての餅をお腹いっぱい食べて満笑でした。この日の為に、多くの 方々が祈り、準備し、当日も奉仕して下さいました。皆様の労があっての事です。 心から主にあって感謝します。(全参加者37名) 終了後、ある幼い男の子が「神さまはいつも僕と一緒にいるんだよね」とぽつりと言い ました。この子は礼拝を休まず、椅子に静かに座っておれないくらい元気な子です。 聖霊なる神は、幼子の心の中に生きておられる事を教えて下さっているのです。 田舎の軒下に石が並べて置いてあるのを見ました。その固い石の真ん中が窪んで いたのです。それは軒下に落ちる雨水で少しずつ窪みができたのです。 私達の信仰も同様ではないでしょうか。初めはよくわからないが、しかし継続しつづけ ていると、見えない神の力が目に見えるようになるのです。できる限り、忠実に礼拝を 守れるよう、神の憐れみを仰ぎつつ、努力していきましょう。 |
2012年1月15日 | この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、 第七の日を神は祝福し、聖別された。 (創世記2:3) 2012年、各々、今年も神の御前に真心をもって礼拝を守っていこうと決心してスタート された事でしょう。 礼拝はこの世の煩わしさから切り離されて、神の御前で身も心も安息する貴重な時 であります。神を礼拝する者を何よりも神が喜ばれ、その者に大いなる祝福を約束して 下さっておられるのです。 新しい年、これから何が現実の世に起こるかわかりません。その現象に目も心も奪わ れ、振りまわされて押しつぶされてしまいそうな事が起こってくるかもしれません。ある人 は「忙しい」という字は「心が亡びる」と書くと言いましたが、神から離れた生活はやがて 心が亡びるのです。私達は祝福の基であり、安息の主であられる神を礼拝する事を 生活の第一として、礼拝から礼拝へと歩む一年でありますようにと祈りたいものです。 御言葉の光に照らされて一歩一歩神の導きを仰ぎましょう。 |
2012年1月8日 | 「信徒の友」に次の祈りがありましたので紹介します 神さま 古くて しかも新しいもの 聖書です ありがとうございます いつも確かな支え 安心しておまかせできる導きを 心をうるおし 満たし 豊かにし 暗闇のともしびのように 行く手をしめし 照らしてくれる み言葉 ― 聖書 ここにあなたがおいでです キリストさまがおいでです だからわたしは恐れません 世間やひとの顔を見ません しっかりとみ言葉につながり たっぷりとみ言葉をたくわえ すこやかに元気に養われます 一日 一週 一か月 一年 新しい始まりがいつも み言葉 ― 聖書と共にある ありがとうございます 神さま |
2012年1月1日 | 2011年教会標語は「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結ぶ。」(詩編1:2〜3)でした。 各々「聖書通読表」を用いて、毎日聖書を読み、ディボーションは進んでいるでしょうか? イブ礼拝・クリスマス礼拝と祈りつつ備え、よきものを捧げることができました。12月25日 のクリスマス礼拝は昨年最後の52回目でありました。この礼拝に新来会者1名(チラシで)、 また久方ぶりの方々が来られ、主の御降誕を心から崇めました。この日礼拝後、昼食を 共にし、イザヤ書66巻通読を14名が挑戦し、6時間をもって完読しました。最後まで参加 した人は 7名で、キャンドルを囲み、感謝をもって祈りと讃美を捧げました。 2012年教会標語は詩編119編105節の御言葉が与えられました。神様は私達一人一人 に新しい年、何かを成させようと期待しておられるのではないでしょうか。神様は重くのし かかった悲惨な暗闇の中に、その一すじの光をもう射し込めておられます。 新年「御言葉」の光に照らされ、導かれ、主を待ち望みつつ歩みましょう。 |