日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は礼拝説教の概要です。

2021年「命の言葉」



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2022年12月25日
降誕日 
  キリストがこの世に来られた目的が明確に書いてあります。それは「すべての人に救いをもたらす」ことです。イエス・キリストに救われるとはどうなるか。「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活し、祝福に満ちた希望、すなわちキリストがもう一度おいでになって私たちをキリストが支配する国に迎えてくださることを待ち望むことです。
 11節ではこの世における生き方を、12節では神の国を待ち望むことが書かれていますが、それは切り離されたものではありません。神の国の希望に生きる生き方が、つまりこの世を生きる生き方だからです。
 11節では「神の恵みが現れました」という漠然とした表現で、キリストの降誕を語っていますが、14節ではそれを深く言い換えています。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という表現です。救い主の救い方、多くの物語では強いヒーローが現れ、この世の悪を体現するダークヒーローと殴ったり蹴ったり、斬ったり撃ったりして相手を倒します。しかしイエス・キリストは世の悪者と戦って敵を打ち倒すのではありません。御自身を誰に何のために献げたのでしょうか。「神に献げるいけにえ」としてキリストは十字架にかけられました。他ならぬ「私自身の罪」のためです。私を滅ぼすものは、世の悪い奴らではなく、自分自身の心深くに食い込んでいる罪です。自分自身ではどうにも処分することができないほど自分と一体化したこの罪を捨てるには死しかありません。キリストが私の罪を死んでくださる、これがクリスマスの第一の目的です。
2022年12月18日
待降節第4主日 
  先ほど歌った63番は、イザヤが預言したエッサイの根とは、神が人となったイエスのことであるという私たちの信仰を歌っています。
 イザヤはこの世の権力者・実力者がいかに正義を行わないかをよく知っており、主が遣わされ主の霊の留まる者(エッサイの根)だけが正しく世を裁くことができることを告げています。見せかけや噂ではなく、真実に弱い人、貧しい人のためにさばきを行います。6~8節は自然界ではあり得ない光景を描いていますが、強い者と弱い者、富む者と貧しい者が平和的に共存する世界をを描写したものです。そのような平和な世界をもたらすのがエッサイの根、すなわちイエス・キリストです。
 イエス・キリストにとどまる主の霊とは、知恵と識別(鎌野直人先生の講演が「識別力を養う」だったことを思い出しましょう)、思慮と勇気、主を知り畏れ敬う霊です。この霊に満たされる時、世界に平和がもたらされます。世界の歴史を振り返るならば、人間の霊がいかにキリストの霊とかけ離れているかを思わざるを得ません。しかし、そんな中にもガンジー、キング牧師、マンデラのように困難な戦いの中でキリストの霊に生きようとした人びとを私たちは見出すことができます。ただ、それは時間的にも地理的にも限定的でした。
 イザヤは「その日が来れば エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う」と語ります。その実現を待望しつつ、身近な平和を作っていきましょう。
2022年12月11日
待降節第3主日 
  ゼファニヤはヨシヤ王(BC640~609)の時代のユダの預言者とされています(1:1)。ヨシヤ王は宗教改革を行い、偶像を取り除きました。この改革と軌を一にするような預言が、偶像崇拝をする者たちへの警告として「主の怒りの日」という言葉と共に1章に記されています。また2章には諸民族に対する裁きの預言も記されます。
 3章に入ると改革前のエルサレムの罪を指摘します。役人、裁判官、預言者、祭司…。しかし主は決して不正を行いません。主の裁きが厳正に行われ、地上が主の熱情に焼き尽くされた後、清い世界が現れます。諸民族が清い唇でもって、主の名を唱えるようになります。
 14節以下。「娘シオン」はエルサレムの人格化表現です。主に信頼を置く者に対する約束です。神が共にいてくださることの幸いが語られます。私たちは自分を取り巻くさまざまなことに恐れを抱きます。けれども主は「災いを恐れるな」「勝利を与えられる」と約束してくださっています。
 主が私たちのゆえに喜び楽しむというのです。「喜びの歌をもって楽しまれる」どんな歌を主は歌うのでしょうが。。そのとき、主は私たちを「愛によって新たに」してくださいます。神の愛はキリストの十字架と復活を通して私たちに新しい命を与えてくださいました。
それ故に、私たちも救いの喜びを歌いましょう。「罪とがを赦され 神の子とせられ、大いなる喜び われにあり」
2022年12月4日
待降節第2主日 
  安倍晋三元首相の暗殺事件をきっかけに世界平和統一家庭連合(旧世界基督教統一神霊協会)が問題になっています。一つは霊感商法やマインドコントロールによって家庭が崩壊するほどの多額の献金をさせること。もう一つはカルト宗教が政治家に深く食い込んでいることです。
 信仰に立つ宗教団体もこの世で活動すればお金がかかります。そのために献金は必要です。けれども旧約聖書の基準で言えば収入の1/10、現代では交通費など教会に行くのにかかる諸費用全てを含めて1/10が限度ではないでしょうか。
 今日の個所で神は「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。」と招かれます。また、マタイ10章では主イエスは使徒たちを派遣するに当たって「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。」と命じておられます。
 さて、今日の所で大事なことは、「何を求めるか」「誰に求めるか」です。水と穀物は命をつなぐ上で無くてはならないものです。ぶどう酒と乳はさらに命を豊かに生きるためのものと言えるでしょう。「糧にならぬもの」「飢えを満たさぬもの」を私たちは求めているのではないでしょうか。刹那的・感覚的な楽しみではなく「魂の豊かさ」を求めるように唯一の神が招いています。それも今すぐに!私たちの命は有限です。この有限の命がある間に、永遠の命の喜び、魂の豊かさを体験するように招かれています。主の招きに感謝しつつ応えましょう。
2022年11月27日
待降節第1主日 
  アドヴェントはクリスマスというお祝いの準備期間であると共に、イエス・キリストの再臨への備えの時でもあります。それはこの世の終わりであり、新しい天と新しい地が創り出され、救いの完成を待ち望む全ての被造物が、新しい朽ちることのないものとして再創造される時です。
 今日の聖書日課は福音書がルカ21章からこの世の終わりについての予告、使徒書は裁きの時への富める者に対する警告と兄弟たちへの忍耐の勧め、旧約はエレミヤ書33章からとなっています。
 エレミヤ書33章はメシアの到来を予告しています。イスラエルとダビデの家に対する恵みの約束を果たすと言われています。「恵みの約束」は字義通りにはバビロン捕囚からの解放を指しており、エズラ、ネヘミヤによって成就しています。しかし、『主は我らの救い』という名は「イエス」(主は救い)の到来を予告するものでもあります。さらに主イエスが「公平と正義をもって治める」国はこの世の国ではなく、やがて来る新天新地です。ですから、このエレミヤの預言を教会は3重に理解していることになります。
 私たちのクリスマス待望は旧約聖書のイスラエルの救いの出来事と、福音書が示すイエス・キリストによる救いの出来事の上に立って、この世の終わりまで視野に入れたものです。
私たちの信仰は過去と現在と、そして将来を展望するものであることを覚えましょう。
 2022年11月20日
降誕節第5主日
  サウル王と皇太子ヨナタン王子が戦死し、イスラエルは危機に陥りました。将軍アブネルはサウルの子イシュ・ボシェトを擁立してイスラエルの王としました。サウルに命を狙われ、逃げまわっていたダビデは、サウルとヨナタンの死を悼んで歌を詠み、ユダの地ヘブロンに帰りました。ダビデの出身部族であるユダの人々はヘブロンでダビデに油を注ぎユダの王にしました。こうして、イスラエルには二人の王が併存することになり、サウル王家とダビデ王家の戦いが続きましたが、次第にダビデ王家が優勢になっていきました。イスラエルの将軍アブネルは暗殺され、イシュ・ボシェト王も暗殺されました。ダビデはイシュ・ボシェト王を暗殺した者を捕らえ処刑しました。ダビデはサウルに命を狙われていたにも関わらず、一貫してサウル王家の人々に忠義を尽くしました。
 今日読まれた箇所では、そのようなダビデに対してイスラエルの全部族の長老たちがヘブロンのダビデのもとにやって来て、全イスラエルの王になるよう求め、ここに再びイスラエル全体が一人の王によって統一されました。
 ここで注目したいのは、全イスラエルの長老たちの求めによってダビデが王になったことです。また、ダビデは王となるために「主の御前に彼らと契約を結んだ」のでした。
 何よりもイスラエルの長老たちがダビデを王にしたのは、『わが民イスラエルを牧するのは』ダビデだという神の御心を知っていたからです。神の民イスラエルを治めるのは絶対的権力を武力で握るのではなく、神の御心を求める民によって立てられ、神の御心を行おうとする王によるのです。
2022年11月13日
降誕節第6主日 
  今日はふだんあまり取り上げないコヘレトの言葉からお話しするよう導かれています。箴言やコヘレトの言葉は知恵文学と言われ、格言や処世術などが詰まっており、そこに人生への洞察を見ることができます。
 1節前半は語呂合わせです。「名声(シェーム)」と「香油(シェメン)」、「まさる」と新共同訳では訳されていない「良質の」はどちらもトーヴという単語です。意味は「人の尊敬を受けることは富が提供する贅沢な生活よりも益がある」ということになりますが、コヘレトは、人の名声が決まるのは死ぬ時だと考えます。生きている間は評判が変動しうるのです。死んだらもはや何かの事件で評判がガタ落ちになる心配も無くなります。だから、将来どうなるかわからない生まれる日よりも良いのです。
 2節4節、葬式と宴会とどちらがいいか?宴会の方が楽しいに決まっています。けれども誰に対しても死は必ず訪れます。そのことを意識させてくれるのは葬式です。賢者も愚者も差別なく死にますが、死を意識して今日を生きることが大切です。中世の修道士たちは合言葉のようにmemento mori(死を覚えよ)と言ったそうです。
 今日私たちは、この世の生涯を終えた人たちを記憶してここに集っています。一人一人の生きた道、また死に至る経緯は異なりますが、キリストが共に歩まれ、キリストがみそばへと引き寄せてくださったことを覚えて感謝し、私たちの生きる道を確認する時としましょう。
2022年11月6日
降誕節前第7主日 
  3人の人がアブラハムの天幕の前に立っていました。アブラハムはこの人たちを見ると「走り出て迎え、地にひれ伏して」歓迎しました。
「どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」。旅人の足を洗い食事を用意しもてなしました。
この3人の旅人は後の記事を見ると1人は神御自身、他の2人は天使であったことがわかります。
 神と天使たちは2つの目的をもって、この地へ来ました。一つは20年以上前から約束されているのに未だに実現していないアブラハムの後継ぎ。その誕生の予告、もう一つは甥のロトが住んでいるソドムと隣のゴモラを滅ぼすことでした。もし、アブラハムがこの旅人たちをもてなすことをしなかったならば、ロトは町と共に滅びてしまったでしょう。サラはその1年後にイサクを生むことができたでしょうか?
 今日はイサク誕生の予告についてのみ読まれましたが、そこには神の約束に対する私たちの態度が示されています。アブラハムは旅人が神と天使であることに気がついていません。けれども精いっぱい彼らをもてなしました。旅人はⅠ年後には男の子が生まれていると予告します。けれどもその話を聞いたサラは信じる事ができませんでした。「サラはひそかに笑った」とありますが、バカにした(しかし寂しさも含まれた)笑いだったでしょう。ひそかにわらったはずなのに主はお見通しで「なぜサラは笑ったのか…主に不可能なことがあろうか」とアブラハムに問います。共同体の最小単位としての家庭の信仰が問われています。
2022年10月30日
降誕前第8主日 
 最初の人、アダムとエバが神に背きました。彼らの息子カインは弟アベルを殺しました。創世記は神が造った「良い」ものが悪に染まっていく様子を描いています。6章では「神は人を造ったことを後悔し、心を痛められ」人も家畜も鳥も滅ぼすことにします。一度は、そう思われたけれども、神の人に対する愛は未練がましいほどです。愛という言葉は、仏教では良い言葉ではなかったと聞いたことがあります。愛とは執着心であり、捨てるべきものだというのです。しかし私たちの神は、悪に染まっている人間になおも執着して滅ぼし尽くすことはせずに、ノアとその家族、そしてノアによって集められたあらゆる動物を滅びから逃れさせます。ノアはどれほど完全な人であったかというと、全然完全な人ではありません。洪水の後、酒に酔って裸で寝て、息子にバカにされています。それでも聖書は「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創6:9)とノアを称賛しています。
 洪水後、新しい世界がノアとその家族から始まります。その時、神は一つの約束をしてくださいました。「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。神は虹をその約束のしるしとなさいました。虹を見る時に、私たちは来るべき終わりの時の審判を思い浮かべるべきです。その時にも滅ぼし尽くされることはないと約束してくださっています。
2022年10月23日
降誕前第9主日 
 リストラは小アジア(トルコ)南部にあった町です。直前にいたイコニオン(現在のコンヤ又はコニア)から南西に40kmの所にありました。イコニオンで信じようとしないユダヤ人に石を投げられそうになり、パウロとバルナバはリストラに避難しました。この町の足の不自由な男をパウロは歩かせました。すると町の人々は恰幅の良いバルナバをゼウス、パウロをヘルメスとして崇め犠牲を献げて礼拝しようとしました。二人はビックリして、自分たちは神ではなく人間だと言って、人々が二人に犠牲を献げるを止めさせました。
 リストラの人々が二人を神々だと思ったのは生まれつきの障がいで歩けなかった人を歩かせたからです。神でなければとてもできないことをやったからです。まさに神業です。日本人の神観も似ています。神という言葉は上にあるものを指します。人間をはるかに超える力あるもの、それは巨木であったり、生物に限らず大きな岩や滝も御神体として崇められます。人間については使徒たちのような偉大な力のある者、また家系の上流である先祖もカミとして崇められます。
 けれども、聖書はどれほど偉大・壮大であっても、この世界にあるものは全て被造物、神の作品とします。神の力は被造物を通して現されていきます。宇宙や自然の景色の中にも、また顕微鏡で見る微生物の世界にも神の力は表れています。そして、何よりも人が自分の周りの人々を愛する時、そこに神が現れます。私たちは神の恵みを受けて生き、その生をもって神の創造の業に参与していきます。
2022年10月16日
聖霊降臨節第20主日 
  ヨハネの黙示録は新約聖書正典に含めるかどうか、最後まで確定しなかった書物です。またさまざまな関心で読まれた書です。新エルサレムには何人入れるのか?今日の箇所がその人数ならイスラエル144,000人+数え切れない異邦人です。入りきれるのか?新エルサレムの面積は約493万㎢でオーストラリアとインドの中間です。しかし、面積や人数や年数といったことにこだわるべきではありません。数字は神の業の完全さを表すものです。
 今日の個所では12000×12という数字でイスラエルの救いの完全を表現し、異邦人は「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」による賛美が描かれているのです。
 福音書ではイスラエル議会と異邦人(総督)の裁判によってイエス・キリストが否定され、使徒言行録ではイスラエルと異邦人に対して伝道がなされ、黙示録ではイスラエルと異邦人が天国に入れられるのです。世界の人に対する神の愛には驚かざるを得ません。
 天国の門は差別無くどこの人にも開かれています。朗読箇所からは外れますが14節には「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」とあります。「朱に交われば赤くなる」のが世の常識ですが教会では「主に交われば白くなる」のです。賛美、栄光、知恵、感謝、、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように。
2022年10月9日
聖霊降臨節第19主日 
  私たちはイエス・キリストの十字架による和解を受けて、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としていただきました。この福音から離れないようにと勧告されています。
 パウロは福音の希望を伝える使命のために教会に仕える者となりました。それは世の初めから隠されていた秘められた計画が神の聖なる者=キリスト者に明らかにされたからです。
秘められた計画とは「あなたがたの内におられるキリスト、即ち栄光の希望」だと言います。
どんな希望か?「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となる」ということです。
  ところで24節の「キリストの苦難の欠けたところを身をもって満たしている」とはどういうことでしょうか。十字架上のキリストの苦しみは足りない?そういう意味ではありません。
「わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けた…」。ここではキリストの体である教会のことを指します。もしキリストの十字架上の苦難が完全なものでそれ以後苦難はないというなら、パウロも教会も教会につながる人々も、信仰さえあれば一切苦難が無くなります。けれどもそうではない。教会はさまざまな苦難の中に生きています。私たちが受ける苦難をキリストが共に受けてくださったのであり、また私たちはキリストの苦難に与ることで、キリストの勝利にも与る者となります。
2022年10月2日
聖霊降誕節第18主日 
  ヘブライ人への手紙の著者は、地上の聖所は天の聖所の「写し」ととらえています。地上の聖書では神とイスラエルの契約である律法の書が読まれ、私たちの罪の赦しのために動物の血が流されます。動物の血にが振りかけられることによって民は赦され、きよめられます。
しかし、契約(律法)に基づいて毎年祭司が行うこの行為は、あくまでも天において神が行ってくださる行為を可視化したイミテーションに過ぎないというのです。
 しかしキリストは、牛や羊といった人間の代わりの動物ではなく、独り子なる神であるキリストご自身が犠牲となって私たちのために血を流してくださった。永遠なる神が血を流してくださったのですから、一度で永遠に有効です。しかも、キリストは再び来られると約束されています。それは、また罪を負うためではありません。キリストと共に天において歩むことを切望している人たちに救いをもたらすために現れてくださいます。その約束を保証するものとして、キリストは聖餐を定めてくださいました。
 聖餐は単なる儀式としてなりません。パンがキリストの体に、ぶどう汁が血に変化するわけではありませんが、キリストの約束を信じて聖餐に与るとき、確かに私たちはキリストの体、キリストの血に与り、キリストの命がわたしたちの中で生きてくださいます。
2022年9月25日
聖霊降誕節第17主日 
  コリント二8~9章は献金のことを扱っています。献金といっても自分たちの教会のための献金ではありません。パウロは各地を回って異邦人に対して伝道するかたわら、ユダヤの貧しい人々のための献金を集める役割もになっていました。パウロは、この献金のことを新共同訳では「惜しまず差し出したもの」(9:5)と訳していますが、聖書協会共同訳「祝福の業」、新改訳2017「祝福の贈り物」と呼んでいます。なぜ献金は祝福の業なのか。
 8章を見ると「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」について証しています。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった…聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」。つまり厳しい生活の中でも神の祝福があふれでて、献金に参加する願いが与えられたのです。だから「祝福の業・祝福の贈り物」なのです。この言葉はギリシア語ではユーロギアです。9:6では同じ単語が「豊か」と訳されます。なぜ豊かなのか。9章ではコリントの人々に献金を用意しておくように依頼しています。その基準は「不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」です。人から強制されるのではありません。強制されたら金額の多少に関わらずその心は貧しい献げものになります。神の恵みの豊かさによって助け合うところに教会の互助の原点があります。
2022年9月18日
聖霊降臨節第16主日 
  ガラテヤの信徒への手紙は冒頭の挨拶が終わったとたんに「私はあきれ果てている」という嘆息の言葉で本文が始まっています。パウロはガラテヤの信徒達が他の福音、つまり似て非なる教えに侵されつつあることに最大の警戒を表しています。パウロがガラテヤを離れた後、他の伝道者がやってきてパウロとは違う教えを説きました。具体的には割礼を受けるべきだという教えです。ガラテヤの教会の信徒達はほとんどが異邦人であったと思われます。ユダヤ人であれば、生まれてすぐに割礼を受けているが、パウロによって信仰に入った異邦人信徒は割礼を受けていません。ユダヤ人キリスト者が大多数であり、ユダヤ教の一派という自己認識のあるエルサレムの教会では、割礼を受けている方が何かと都合が良いのです。少なくとも割礼を受けておいて損はない。だったら割礼を受けておこうか、そんな気持ちになっても不思議ではありません。
 しかし、パウロは断固として反対します。彼はこの問題を律法の行いによって救われるのか、信仰(約束)によって救われるのかという対立として捉えています(2:15~4:7)。
 パウロがこれにこだわるのは、キリスト教はユダヤ教の律法を守ることで神の民として救われているという理解から、キリストが御自身を私たちの罪のために献げてくださったというキリスト教の福音への転換が危ういものになってしまうという危機感からです。
2022年9月11日
聖霊降臨節第15主日 
  エルサレムに留まっていたイエスは、生まれつき目の見えない人を見かけた。弟子たちは、この人が盲目で生まれたのはだれが罪を犯したからか、と尋ねた。世界には因果応報という秩序があり、誰かの罪が原因で苦しみが起こると理解していたからだ。
 障害をもって生まれてきたのは誰かの罪が原因ではないとイエスは断言し、因果応報を否定した。イエスは弟子たちとは異なる世界理解をしているのだ。世界は複雑で、不思議である。因果応報なしに苦しみが襲いかかるし、悪い人によいことも起こる。
 因果応報では理解できない現実に対して、イエスは「この人に神のわざが現れるためだ」と答えた。人の抱えている問題こそ、神が働かれる場所である。そして、神はこの世界で今も働かれている。イエスを遣わし、世の光であるイエスを通して、闇の世界でご自身のわざを行っている。そして、イエスを通してこの人は癒やされ、癒やされた彼を通して人々はイエスを求めるようになった。神のわざを通して、神が証しされたのだ。
 今、世の光であるイエスは地上にはおられない。しかし、イエスは私たちをを世の光とし、この複雑な世界に遣わされた(20:21)。私たちこそ、闇に輝く世の光である。そして、イエスを通して働かれた神は、世の光とされた私たちを通して働く。そして、私たちを通してなされる神のわざを通して、世の光であるイエスは証しされる。         
2022年9月4日
聖霊降誕節第14主日 
  ピシディア州のアンティオキアでの出来事です。パウロたちはまずユダヤ教の会堂でユダヤ人にキリストの福音を語りました。ここでも最初の土曜礼拝では多くの人がパウロの説教を聴いて喜び、次の週にも語ってほしいと頼みました。ところが次の週には、「ほとんど町中の人」が集まって来ましたが、ユダヤ人(おそらくいつも会堂で説教しているラビ達?)はパウロの説教にヤジを飛ばし、口汚く罵って説教を妨害したのです。
 46、47節はパウロとバルナバが妨害するユダヤ人たちに語った言葉です。神の約束の実現は、神に従うことばかりではなく、神に従わない者もいるという現実の中で成就していきます。ここでは、旅の説教者であるパウロたちが語ったら普段の礼拝よりもはるかに大勢の人が教会にやってきたことに対して、ねたみを起こした人たちの妨害行為が、異邦人伝道の端緒となっています。こうしてイザヤ書49:6が成就していったとルカは記しているのです。
 パウロたちを嫉む者は町の人々(神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々)を煽動して、パウロとバルナバを追い出します。やむなく二人は出て行き次の町へと行きますが、それでもパウロたちの伝道は確実に回心者を生み出していました。
 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」伝道者の迫害・追放という事が起こっている中でも、彼らの伝道は無駄にはなりません。信仰を持ち喜びと聖霊に満たされる弟子たちが生まれていきます。こうして今私達にも福音が届いることを感謝しましょう。
2022年8月28日
聖霊降誕節第13主日 
  「異邦人」(ギバルバロイ)という言葉は、元々はギリシア語を話せない人たち=異民族のことですが、野蛮人を意味するようになり、聖書では異教徒の意味で使われています。しかしキリスト教はイエス・キリストを通してあらゆる民族の救いを語ります(来週へ)。
 エフェソのアルテミス神殿は世界の七不思議の一つに数えられるすばらしい神殿で、エフェソの教会はさしずめ伊勢神宮のお膝元の山田教会のような存在だったでしょう。パウロはこの教会の人々に異教徒の生き方を捨てて、キリスト者らしい行き方をするようにと勧めています。異教徒の生き方とは「愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさ」と、散々な悪口ですが、核心は「情欲」に従って、放縦な生活・ふしだらな行いに生きることです。
 それに対してキリスト者の生き方は「神にかたどって造られた新しい人」としての生き方です。神は御自分にかたどって人を造りましたが、神のかたちが罪によって壊された。それをキリストが再建された。(洗礼と信仰告白という方法で)キリストに結ばれることによって、私たちは神のかたちとして、本来の人の生き方をすることができるようになります。また、そのように生きることを期待され、命じられています。
具体的には25節以下。キリスト者は自分一人で清く正しく生きればいいのではありません。「互いに(キリストの)体の一部」として人々との関係に生きます。裁きの日に私たちの保証人となってくれる聖霊を悲しませないように…。
2022年8月21日
聖霊降誕節第12主日 
  まず断っておかなければならないのは、聖書は永遠の神の言葉を、時代と文化の限界の中にある人間の言葉で表現するものだということです。従って聖書の字面をそのまま神の言葉(御心)とするのは危険な場合があります。ことにLGBTQも含めてジェンダーの問題はその一例です。神は男にとって「ふさわしい助ける者」として女を作ったのだから、女は男より下等な存在であると解釈することは可能です。可能ですがそれを神の御心とするのは不適当だと現代に生きる私たちは考えます。むしろ互いに助け合い、補い合う存在と理解します。
 エフェソ5:21以下でも「妻は夫に仕えなさい。夫は妻の頭だから」とあります。これだけ読むと男尊女卑が正当化されているように思えますが、キリストが自らの命を差し出して教会を愛した、そのように夫は妻を愛しなさいというのがパウロの本旨です。
 子供に対しては十戒の「父と母を敬いなさい」を引用します。十戒は神との関係の掟と対人関係の掟に分かれます。、多くの学者は第5戒「父と母とを敬え」を対人関係の掟としますが、私が習った先生は神との関係の掟としていました。いずれにせよ、ここでも父親は子供を怒らせてはならず、子供自身が主の諭しを求めるよう教育することが期待されています。
 2022年8月14日
聖霊降臨節第11主日
  ヘブライ人への手紙12章の背景には迫害があることは確かです。4節の「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉も迫害が想定されます。
ただ迫害されるのではなく、罪を犯さないため抵抗するのですから、例えば皇帝礼拝を強要され、拒んで殉教したということでしょうか。私たちの国ではどうだったかといえば、教団は「宮城遙拝は偶像崇拝に当たらない」として宮城遙拝を認め、さらに教団統理は伊勢神宮を参拝しました。皇帝を礼拝せず神のみを礼拝して、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルたちとは大違いです。
 信仰者が辛い目に遭うと「自分は神に愛されていないのではないか」と思う人もあります。けれどもヘブライ人の手紙への著者は、愛しているからこそ鍛えるのだと言います。
 リハビリで大事なことは筋肉を使うことです。筋肉が弱ったからといって使わずにいるとどんどん衰えていきます。適当な負荷をかけることが大事です。同様に霊的な訓練を神さまから受けないと信仰は成長せず退行してしまいます。萎えた手と弱くなったひざをまっすぐに!
そして歩くべき道も真っ直ぐにするのです。
2022年8月7日
聖霊降臨節第10主日 
 「教会はキリストの体」(エフェソ1:23)であり、「あなたがた(教会)はキリストの体であり、また、一人一人はその部分」(Ⅰコリ12:27)と言われています。
 教会にはさまざまな人たちがいます。初期の頃から、身分の高い人もいれば奴隷身分の人もおり、裕福な人もいれば幼子を抱えた寡婦もいました。また、厳格なユダヤ教徒だった人もいれば、かつてはギリシアやローマの神々を信じていた人もいました。ユダヤの教会にはイエスさまに会ったことがある人もいたでしょうが、コリントの教会にはおそらくイエスさまに会った人は一人もいなかったでしょう。
 しかし、誰も誇ることのできる人はいませんし、誰もいなくていい人はいません。それどころか、「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言われています。「あの人がいなければ教会はもっと良くなるのに…」と思ったことはありませんか?しかし神さまは「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。
 各人は欠けの多い者かもしれないが、聖霊によって、愛をもって互いに受け入れ合うときキリストの体としての教会が立ち現れます。
 2022年7月31日
聖霊降臨節第9主日
恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(コリント二6:2) 
主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて 民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。(イザヤ49:8)
 パウロはコリント二6章1~10節で、イザヤの預言を引用し、今が恵みの時、救いの日だと言い、パウロ自身の生きて来た生き方を語り、この時代に生きる者がどのように生きるべきかを説いています。
 救世軍で日本人最初の司令官となった山室軍平の墓は東京の多磨霊園にありますが、墓碑には10節の御言葉が文語聖書で刻まれています。
 神の恵みに生きる人は、山室軍平がそうだったように自身は何ももたない者でありながら、多くの人を富ませ、すべてのものを持っているのです。
2022年7月24日
聖霊降誕節第8主日 
 William D. Longstaff (1822-1894)
Take time to be holy, speak oft with thy Lord;
Abide in Him always, and feed on His Word.
Make friends of God’s children,
help those who are weak,
Forgetting in nothing His blessing to seek.
Take time to be holy, the world rushes on;
Spend much time in secret, with Jesus alone.
By looking to Jesus, like Him thou shalt be;
Thy friends in thy conduct
His likeness shall see.
Take time to be holy, let Him be thy Guide;
And run not before Him, whatever betide.
In joy or in sorrow, still follow the Lord,
And, looking to Jesus, still trust in His Word.
Take time to be holy, be calm in thy soul,
Each thought and each motive
beneath His control.
Thus led by His Spirit to fountains of love,
Thou soon shalt be fitted for service above.
中田羽後訳(聖歌553番)
聖なる者となさんとて主我らをば召したまえば
聖なる物を追い求めて俗なる物と手をば切らん
聖なる者とならんため聖なる君の言う言葉を
信じて学び実行せば大御心に沿うことを得ん
聖霊の火よああ我らに天より降り聖別成し
主イェスきみに愛せらるる全き者となしたまえ
聖なる者とならんため主ただ一人仰ぎ求め
愛する宝愛するもの残らず君の手に委ねん
 2022年7月17日
聖霊降誕節第7主日

聖書と説教動画

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  ガラテヤの信徒への手紙5章2節でパウロは「断言」しています。教会の中にはいろいろな考えの人がいてもいいのではないか?たしかにそういう事柄もあるでしょうが、少なくともパウロはこの事に関しては各々の自由・多様な意見は認めません。それは旧約律法についてです。もしもキリスト者となるために、割礼が必要であるとするなら、その人はキリストの恵みによって救われるのではなく、律法の行いによって救われることを目指すものです。律法によって救われるためならキリストは必要ありません。そういう人は律法全体を守る必要があります。十戒も同様です。十戒を守るべき掟とするなら、十戒は旧約律法の憲法のような部分ですから、律法全体を守るべきです。使徒会議が異邦人キリスト者が守るべきこととして定めたのは「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避ける」ことだけでした。
 それにも関わらずある人々がガラテヤにやってきて「割礼を受けなければ救われない」と教え、教会の人々を混乱させました。
 13節以下になりますが、キリスト者は自由です。けれども、各々好きな方向に行けばよいのではありません。「隣人を自分のように愛する」ことへと召し出されたのがキリスト者です。したがって、個人の密室の祈りにおいても、プライベートは活動においても、そして教会としての祈り、また活動においても、「愛の実践を伴う信仰」を現していくよう招かれています。
2022年7月10日
聖霊降誕節第6主日

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 使徒言行録13:13からの話は41節まで続いています。今日読まれたところではモーセから救い主イエスの来臨まで、26節以下では主イエスの死と復活を証しています。
 パウロはその人々にイスラエルの歴史を思い起こさせます。モーセの昔から今日に至るまで神は常にイスラエルと共に歩んでくださり、彼らの罪を耐え忍び、彼らを救い続けてくださった。これがモーセからの旧約歴史です。
 そして主の言葉として『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』を挙げ、「神は約束に従って、このダビデの子孫から…救い主イエスを送ってくださった」としています。注解書を見ると
22節=詩89:21+サム上13:14+イザ44:28
と書いてあります。しかしもう一つルカ3:22他「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という主イエスに聖霊が降った時のお言葉を連想します。
 私たちは日常の出来事を「今」の問題として受け止めます。しかしそれは神の永遠の計画の一コマでしょう。砂漠の中を行く時も、「イエスを十字架につけよ!」と叫ぶ時も、そして国の指導者が銃弾に倒れることも、神の計画の中に織り込まれているのだと思います。その意味は今はわからないとしても。 洗礼者ヨハネは偉大な宗教家でしたが、私たちもこの態度を見倣いたいものです。「わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない
2022年7月3日
聖霊降臨節第5主日

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  パウロはⅠコリント12:28でキリストの体である教会の各部分として「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…」を挙げていますが、 アンティオキア教会は、宣教師としてバルナバとサウロに按手し送り出しました。
 彼らは島の東側つまりアンティオキアに近い港サラミスに上陸し、ユダヤ教の会堂をいくつか回って伝道しました。 そして島の西側のパフォスまで来たときに、おそらく二人の噂を聞いたのでしょう。 島の総督セルギウルス・パウルスが二人を招いて話を聞こうとしたのです。ところが邪魔をする者がいました。 それが「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという偽預言者」。 バルイエスとは「イエスの子」という意味ですが、ユダヤ人でありながら魔術師とはなんとも怪しげな人物です。 当時キプロス島はさまざまな宗教が混じり合ってこのような怪しげな宗教家もいたようだと言われています。 この人は地方総督に取り入って、地方総督に仕える魔術師&顧問という地位を得ていたようです。 彼はバルナバとサウロ(ここからパウロという名が使われるようになる)が自分にとって危険なことを察知して、二人を総督から引き離そうとします。
 けれどもパウロが聖霊に満たされて、彼をにらみつけたとき、彼は目がかすんで見えなくなりました。 言い換えるなら、本物の神が見えていなかったことが明らかになったということでしょう。 このバルイエスがイエス・キリストの子となったかどうかは不明ですが、総督セルギウス・パウルスはイエス・キリストを信じました。
2022年6月19日
聖霊降臨節第3主日

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  3章でペトロとヨハネが神殿の「美しい門」に座っていた男をイエス・キリストの名によって歩けるように癒しました。 多くの人が使徒たちと共に歩いているあの男を見、使徒たちの話を聞いてイエスを信じました。 サドカイ派の人々は使徒たちを捕らえ、翌日議会を招集し二人を尋問しましたが、使徒たちが(ガリラヤ弁の)無学の者たちだと知って驚きました。 なぜなら彼らは祭司や学者にも負けない堂々たる態度で確信を持ってイエス・キリストの復活と救いを語ったからです(主イエスが逮捕されたとき、二人は他の弟子たち同様逃げてしまったのです)。 議員たちは二人によって癒された男を前にしてはどうすることもできず、イエスの名によって語ることを禁じて釈放します。 二人の返事は「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」でした。
 教会ではおそらく二人が捕らえられたと聞いて熱心に祈ったことでしょう(12:5参照)。釈放されて戻ってきた二人からことの顛末を聞いた教会の人々は神を賛美しこう祈りました。 「今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」教会の伝道は常にサタンによって邪魔されます。 迫害によって、あるいは教会の腐敗によって。しかし熱心な祈りは、人々のいる場所を揺り動かし、どのような恐れをも払い、大胆に神の言葉を語らせてくださいます。
 2022年6月12日
三位一体主日

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 教会暦はイエス・キリストの生涯を1年間の日常生活の中で辿るものですが、三位一体主日は三位一体の教理から作られた祝日です。
 また行事暦として今日は子どもの日(花の日)です。今年は聖霊降臨に続く三位一体主日に子どもの日が重なったことですので、ローマの信徒への手紙から、神の子とされる恵みを味わいましょう。
 イエス・キリストは「神の独り子」です。ところがイエス・キリストがこの世に来られたのは私たちをも神の子とするためでした。私たちはイエス・キリストの兄弟・姉妹にされたのです。
 パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた」と言います。これ大事なことです。私は洗礼を受ける前は「洗礼を受けたらこうならなくちゃいけない」とか、「あんな事をやっちゃいけない」とか束縛されるように感じていたのです。つまり、人を奴隷にする霊に支配されていたので洗礼を受けることができなかったのです。しかし、高校2年の冬Hi-B.A.のキャンプで聖霊が私を覆いました。キャンプから帰るとすぐに洗礼を受けました。
 この霊は「わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。私たちはどんな時にも神さまを「お父ちゃん」というくだけた言葉で祈ることができるのです。神さまはそれほどに私たちと親しくしてくださいます。そして神さまの国キリストと共同で相続する者としてくださっています。
この恵みを感謝しましょう。
2022年6月5日
聖霊降臨日

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  主イエスの「弟子たち」から「教会」へと発展させ、キリストの福音を全世界に拡げていく力となったのは、聖霊に満たされることでした。
 この日、彼らは元々の自分の能力と違う力を出しました。習ったこともない諸外国の言葉でイエス・キリストのことを語り出したのです。彼らがこのようなことができた理由を尋ねることは、現代の教会が力を得るために必要でしょう。
 ①主イエスに従う者たちは12使徒をはじめとして120人ぐらいの人々が「一つになっていた」(1:15)いました。一つになることが大切です。それぞれは身分も職業も家庭環境も違ったでしょうが、イエス・キリストへの信仰において一つであり、一つの場所に集まっていたのです。今も感染予防のため集まらずにライブ配信等で礼拝を続けている教会がありますが、それは緊急避難的な措置で、一日も早く集まることを祈り求めるべきです。②聖霊に満たされること。聖霊が満ちるということは、100%聖霊になるということです。自分のすべてを聖霊に明け渡すこと。③聖霊に従う。「〝霊〟が語らせるままに」語り出した。するとそれは習ったこともない外国語だったのでした。『聖歌』に「御声を聞かば今すぐに御霊の言える如くせよ」という歌があります。わあ氏たちはどうもいろんなことにこだわりを持ちたがりますが、こだわりを捨てる、捨てなくてもひとまず脇に置いて、一つになることを優先することが大事です。鈴鹿教会がこれからの時代にどんな方向に進むべきなのかということもまた同じです。
2022年5月29日
復活節第7昇天主日

聖書と説教録画


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  2週同じ説教題ですが、先週は聖霊によって与えられる喜び、今週はイエス・キリストの喜びに満たされることです。
 1節、5節で「わたしに栄光を与えてください」と祈られます。しかしその栄光とは「世界が造られる前に」御子がもっていた栄光です。
1節、5節の間にイエス・キリストが成し遂げた業が記されています。それは人に永遠の命を与えること。永遠の命とは神と地上に遣わされた独り子キリストを知ることです。
 キリストを知るとはこういうことです。神によって選ばれ、キリストに与えられた人々は、キリストの言葉を受け入れ、キリストのもの=キリスト者となり、キリストの業を行います。「御言葉を守りました」というのがそれです。キリストの業とはキリストが私たちの罪を赦すために行ってくださった贖罪の業、すなわち罪人として十字架にかけられ死なれたという、その愛によって私たちも人々を愛することです。
 11節は少し面白い表現です。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。「聖なる父」という言葉は新約聖書中ここにしか出てきません。神の御名は聖であるから聖なる父という表現になったのでしょう。神の御名ヤハウェは「存在」を表す言葉です。そうすると私たちはイエス・キリストによって存在する者であり、神とイエス・キリストが一体であるように、キリスト者もまた一体となるというのです。複数の位格の一体性が、教会の愛の交わりとしての一体性となり、そこにキリストの喜びが満ちあふれます。
  2022年5月22日
復活節第6主日

聖書と説教録画

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  2週連続同じ説教題ですが、今日は聖霊によって与えられる喜びについてお話しします。  16節のイエスさまの言葉、弟子たちは考えてもわかりません。13節にあるようにイエスさまの死と復活、また再臨ということは私たちの知性では理解できません。イエスさまと約3年毎日寝食を共にした弟子たちでさえもわかりません。真理の霊=聖霊によって初めて了解できる事柄です。  よみがえられた主イエスが共に歩んでくださる、これはなおさら理解しがたいことです。イエスさまが死んでしまった、よみがえったけどすぐにまたいなくなってしまった。これは弟子たちにとって大きな悲しみだったでしょう。この先どう生きたらいいのだろう?  前任の尾陽教会の一人の婦人。彼女の長男は障がいを持って生まれました。夫は「お前がキリスト教を信じてるから障がい児が生まれたのだ」と彼女を責めました。そのため、何年間も教会に行くことができませんでした。ずっと祈り続けました。教会の人たちも彼女と長男そして夫のために祈りました。祈りは聞かれ私が着任した頃には毎週礼拝に出席することができていましたが、それだけではなく、この障がいを持った長男は神さまからのプレゼントだと感謝するようになっていました。夫が亡くなる前私は何度か見舞いに行き祈ることができました。そして最後も祈りのうちに臨終を迎えました。辛い出来事、悲しい出来事も喜びに変えられたのです。
  2022年5月15日
復活節第5主日

聖書と説教録画

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  現代イスラエルの主要農産物はグレープフルーツ等の柑橘類ですが、イスラエルを含む中東では早くからワイン造りが行われていました。聖書にはぶどうの話が多く、主イエスもよくぶどうの話をします。今日の個所では農夫=神、ぶどうの木=キリスト、枝=私たちです。
 果樹園の目的はおいしい果物を多く生産することです。そのために農夫は様々な手入れを行います。ルカ13章にはなかなか実がならない木を忍耐強く手入れする園丁の話があります。
 ところで枝はどんな努力をするのでしょうか?枝は何の努力もしません。木につながっているだけです。風が強いときには風圧を弱めるために枝をしならせたりという努力があるかもしれませんが。つながっていれば豊かに実を結ぶのです。
 ぶどうの木である主イエスとしっかりとつながっているとはどういうことでしょうか。人間の体が血管を通して隅々まで栄養を行き渡らせるように、木も根から吸収した栄養を管を通して枝葉の隅々まで行き渡らせます。それによって花が咲き実を結びます。その管とはみ言葉に聞き祈りと黙想によって主イエスとつながることです。一本の木には多くの枝があります。そして果樹園には多くのぶどうの木があります。それぞれの教会がキリストの体としてぶどうの木であり、そのような教会が多く集まった教団は神が所有するぶどう園です。多くの実を結ぶなら神に栄光を帰することになります。
 2022年5月8日
復活節第4主日

聖書と説教録画

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  「互いに愛し合う」ことはヨハネ文書の、そしてキリスト教の中心的な教えです。新共同訳で「愛」という字の回数を数えるとマタイ~ルカ39回、ヨハネ56回。手紙ではパウロ163回、ヨハネ64回、他42回。ページあたりにするとパウロ1.3回、ヨハネ7.1回、他1回です。
 今日の前半では、ユダの裏切りによって主イエスは栄光を受けた。主イエスが栄光を受けるだけではありません。「神も人の子によって栄光をお受けになった」というのです。これはユダというイエスさま自身が選んで使徒とした側近の弟子の裏切りを皮切りに、ユダヤの指導者たちと世界を支配するローマ帝国がそろって神の子イエスを殺すという大きな罪が、実はそれによって神と主イエスが行う神ご自身をいけにえとする贖罪の出来事の完成を意味しております。
  34,35節で語られる愛は、愛する弟子に裏切られ、なおも愛して「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)と言われ、ユダの裏切りを受け入れる主イエスの愛に基づいています。「愛し合いなさい」と言われる「愛」とは裏切りをも受容する愛です。それこそがイエスの弟子であることを証しする愛でしょう。
 SDGsという言葉が流行っています。教会ではずっと昔からラテン語のSoli(ソリ) Deo(デオ) Groria(グロリア)「ただ神にのみ栄光」の略です。神に栄光を帰すること、それが私たちの礼拝の目的ですが、私たちが互いに愛し合うことが父なる神と子なる神イエス・キリストの栄光を証しするものです。神の愛に応えて互いに愛し合う群れとなるよう聖霊の助けを求めましょう。
 2022年5月1日
復活節第3主日

聖書と説教録画

礼拝全体の動画
  ヨハネによる福音書10章は9章の出来事を受けてのコメントです。9章ではイエスさまが生まれつきの盲人を見えるようにしたことでイエスさまを支持する人と非難する人に分かれます。そして盲人だった人はイエスさまを救い主と信じました。こうして「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようにな」ったのです。
 今日読まれた箇所でイエスさまは「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」と二つのことを言っています。門を通る羊は羊飼いに導かれる羊です。羊飼いに導かれて豊かな牧草を食べ、おいしい水を飲むことができます。しかし、門を通らずに囲いから出る羊は盗まれた羊です。ただちに殺されたり転売されてしまうことでしょう。門を通るということは安全が保たれていることを示します。
 もう一つのたとえ「良い羊飼い」。単なる雇われ羊飼いは狼に襲われると羊を放り出して逃げてしまいます。しかし主は羊のために命を捨てると言ってくださいます。
交読した詩編23篇「主は(わたしの)羊飼い」の「わたしの」を新共同訳はカットしているのは日本語の「羊飼い」が文字通りの意味しか無いためです。しかし英語では「指導者」の意味があります。
 イエスさまが命をかけて私たちを救って下さる方である、盲人だった人はそのことを理解しました。けれどもファリサイ派の人々は自分たちは聖書に詳しいという自負は持っていましたが、イエスさまを理解できませんでした。素直な心でイエスさまの声に耳を傾ける、そのような心を持たせていただきましょう。
2022年4月24日
復活節第2主日

聖書と説教録画

礼拝全体の動画 
  弟子たちは最高法院が自分たちを逮捕し処刑するのではないかと恐れ鍵をかけていました。しかし、鍵をかけた家にもイエスは入ってこられ、真ん中に立たれました。教会は主イエスが真ん中に立っておられるところです。教会の中で争うのは主を押しのけ隅っこに追いやる、あるいは外へ追い出すことになるでしょう。弟子たちは恐れに取り憑かれていましたが主は「あなたがたに平和があるように」と言われました。ヘブライ語の挨拶としては「こんにちは」と訳してもかまいませんが、ヨハネはギリシア語の「こんにちは」に訳さずに、「あなたがたに平和があるように」と文字通りに訳しました。
 21,22節は派遣と聖霊の付与、ヨハネ版のペンテコステです(ペンテコステの記事はルカだけです)。そして教会のなすべき業は罪を赦すことであることが言われています。私たちが赦さなかったら、その人の罪は赦されないままになってしまうのです。
 24節以下には不在だったトマスのことが書いてあります。先週はイエスの体を包んだ布を見ても復活を信じられなかったマグダラのマリアにイエスさまが現れてくださったことを読みましたが、トマスも多くの仲間が「イエスに会った」と言っても信じません。そのトマスにも主は姿を現し、指を釘の跡、槍の跡に入れるようにとまでおっしゃいました。これを聞いたトマスはひれ伏して「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。イエスを「神」と呼んだのはトマスが最初です。福音書の目的は、イエスを見たことがない者もイエスを信じて永遠の命を得ることです。しかし、主イエスと出会う場を主が用意してくださいます。 
 2022年4月17日
復活日

聖書と説教録画

礼拝全体の録画 
 マルコは復活の最初の証人として3人の女性を挙げています。「ヤコブの母マリア」というのはゼベダイの妻なのか、「小ヤコブとヨセの母マリア」(15:40)なのか明瞭ではありません。またサロメは洗礼者ヨハネの首をヘロデに所望した娘ではなく、イエスの母マリアの姉妹(ヨハネ19:25)だと言われています。彼女らは安息日を前にあわただしく葬られたイエスの体に香料を塗るために早朝に墓へ向かいました。問題は墓の入口を塞いでいる大きな石を女の力でどかせるかどうかでした。ところが墓について見ると石はどかされてあり、中には白い衣を着た若者が座っていました。右側は多くの人は右利きなので、力のある側を指すのに用いられています。ここでは復活の力、あるいは復活証言の力の強さを示しているのでしょう。「若者」も生命力を指しているのだと思います。若者の知らせは「ガリラヤでお目にかかれる」です。ガリラヤは弟子たちが主と出会い、主に従うようになった場所です。
主はガリラヤで人々を教え、力ある業を行い、神の国を現してきました。けれども弟子たちはそのイエス・キリストを誤解していました。イエスの死と復活を見た今、弟子たちはガリラヤでのイエスの教えと行いを振り返るように促されます。 
2022年4月10日
受難週

聖書と説教録画

礼拝全体の録画  
  主イエスの苦しみの中での祈りは、私たちもならいたい祈りです。「アッバ」は父(ヘブライ語でアーブ)のアラム語による親称(お父ちゃん)です。苦しみの中で一層神との近さを感じつつ「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っておられます。
 しかし、今日は苦しみの中で祈る主と共に祈るように言われていた弟子たちに注目します。使徒たちの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネは特別な存在です。後にパウロが「教会の柱」として挙げたのもペトロ、ヤコブ(ただし別人)、ヨハネでした。ところがこの3人、イエスさまが祈っている間に寝てしまいます。他人の祈りに付き合うのはたいへんです。しかもこれが3度続きます。3度:ペトロがイエスを知らないと言った回数、イエスがペトロに「わたしを愛するか?」「私の羊を飼いなさい」と言った回数です。神の憐れみを感じる数でもあります。
  2022年4月3日
四旬節第5主日

聖書と説教録画

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 主イエスの栄光とは、罪人として鞭打たれ、十字架で処刑され死ぬことを意味していたことは先週申し上げました。しかし弟子たちは理解しておらずヤコブとヨハネは「栄光をお受けになるとき」には我々を右大臣・左大臣にしてくれと頼みます。主が「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねると「できます」と答えます。もちろん主が尋ねたのは32~34節で予告した迫害と死を自分も引き受ける覚悟です。意味もわからぬまま「できます」と答えていますが、彼らは殉教の覚悟を表明し、その通りになっていきます。他の弟子たちも意味がわからぬまま、二人を抜け駆けしようとしたと憤ります。
 主は彼らを諭します。皆に仕える者、すべての人の僕となる者こそが、神に喜ばれる者であり、イエスご自身も仕えるために、多くの人のために自分の命を献げるために来たと。
あなたは主に何を願いますか? 
 2022年3月27日
四旬節第4主日

聖書と説教録画

礼拝全体の録画 
イエスさまの姿が白く輝いた。輝くことは文字通り栄光を示しています。栄光と対になる言葉として勝利を挙げることができるでしょう。去年の東京オリンピック・パラリンピック、今年の北京冬季オリンピック・パラリンピックなどスポーツの世界でも最も早くゴールした選手や最も美しいく難度の高い演技を決めた人が勝利と栄光を手にします。途中棄権・脱落した人は栄光を手にできません。主イエスの当時の人々にとって圧倒的な力を持つローマに反旗を翻しイスラエルの再建を目指す者に栄光があると考えられていましたが、イエスさまの場合は違っていました。
 モーセとエリヤが主と語り合っていました。イエスさまの当時旧約は「律法と預言者」と言われています。律法の代表はモーセ、預言者の代表はエリヤです。つまり旧約聖書とイエスさまの福音との対話です。言い換ええると旧約の成就として新約の福音があるということです。旧約の成就とは何か。当時のほとんどの人には想像もつかないことでしたが、イエスさまが(何度も予告されていましたが)祭司長や長老、律法学者たち=ユダヤの指導者たちと異邦人であるローマ帝国の総督ピラトによって処刑されることでした。イエスさまはユダヤ人と(当時の感覚で)全世界であるローマの罪を負って死なれる。しかも、世の罪の身代わりとなって死んで終わりではない。復活があるという。当時の弟子たちには復活とは何か、現象も意味も理解できません。わかるのは聖霊が彼らに降ってからのことでした。 
 2022年3月20日
四旬節第3主日

聖書と説教録画

礼拝全体の録画 
 イエスさまは「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いておられます。評判を気にするというよりは、ナザレのイエスという人物の本質を世間がどう理解しているかということです。人々の評価は、エリヤ=古代イスラエルで活躍した預言者の代表格です。洗礼者ヨハネ=つい最近悔い改めを迫り、ユダヤの人々に大きな影響を与えた預言者です。
 主は改めて、今度は「あなたがたは…」と弟子たちの認識を尋ねます。ペトロが答えました。「あなたは、メシア(キリスト=救い主)です」。主はそれを誰にも話すなと言われます。弟子たちも主イエスが救い主であることの意味をわかっていなかったので、それを人に言い触らすととんでもないことになるのです。
 主イエスがメシアであるとは、すなわち苦しみを受け、ユダヤ教社会から排斥されて殺されることなのだと説明をされると、ペトロは主をいさめたと書いてあります。イザヤ書53章の「苦難の僕」こそイエスであるとは、この時のペトロや弟子たちには想像もできませんでした。メシアは人々から期待され、歓迎され、勝利をもたらす存在でなければならない。それがこともあろうに同胞である最高法院で排斥されるなどあってはならないこと…。
 ペトロが熱心な信仰者であったことは間違いありません。しかしその熱心な信仰は誤った信仰でした。神の御心をたずねるのではなく、自分の望むメシアをイエスというに重ねたのです。その違いがわかった時に人々は主を十字架につけました。ペトロも主を否みました。しかし、そこから主に従う者へと変えられました。 
 2022年3月13日
四旬節第2主日

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 イエスさまの話を聞こうと大勢の人が集まってきます。しかしそれを嫉む人たちはイエスさまを狂人扱いし、ベルゼブルに取り憑かれていると言いました。ベルゼブルとは本来はペリシテの町エクロンの人々が拝んでいた神バアル・ゼブールで、「宮殿の主」「家長」、日本風に言えば氏神様といった意味です。ユダヤのラビはそれをバアル・ゼブーブ(ベルゼブブ)「蝿の主」と言って揶揄しました。ベルゼブルは上述のように氏神様ですが、新約聖書では悪霊のかしらの名前として用いられています。
 イエスさまを嫉む人々は、病人の癒しや嵐を静めるなどイエスさまの行われる力ある業を、悪霊のかしらの力を借りてやっているのだと言い触らしていたのです。
 サタンの働きは私たちを神から遠ざけることです。アダムとエバの昔から今に至るまで変わることがありません。死、病気、災害…、それらは本当に辛いものです。あらゆる機会を用いて神さまに対して疑念を抱かせ、私たちを神さまから引き離そうとします。今日配布された教区通信の巻頭説教で地多政枝先生(松阪教会)は「神さまを見失うことこそ命を失うことだ」と述べています。それがサタンの狙いです。
 けれどもイエスさまの行う業は、病気を癒し死者をよみがえらせ、神から切り離された罪人の罪を赦し、神にあって生きる者に造りかえます。そのような業でサタンを縛りその力を無力化し、サタンに乗っ取られている家を解放して本当の神の家に加えていく働きです。 
 2022年3月6日
四旬節第1主日

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  聖書協会共同訳では「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった」と訳されています。「すぐに」です。洗礼を受けるとすぐに誘惑がやって来る。自分は神の子になった、特別な力があるんじゃないだろうか…。マルコは誘惑の内容を書いていませんが、野獣と共にいたと言います。野獣に襲われて死ぬ危険を連想しますが、他方では野獣の仲間になったとも読めます。荒れ野とは人も野獣化する所かもしれません。しかしイエスには天使が仕えていました。天使が共にいることで安全でした。→イザヤ65:25、ダニエル6:23。
 「40」というのはノアの洪水で雨が降り続いた日数、ヨナが告げたニネベ滅亡までの日数、そして出エジプトの旅の年数でした。危険を示す期間です。信仰に入ってすぐは嬉しいし、元気もあっていいのですが、危険もある。天使に守られて試練を通り抜けることが大事です。
 ヨハネが逮捕された後、イエスはヨハネと共にいたユダヤからガリラヤへ移りました。一つにはユダヤが危険と思ったのかもしれません。あるいは故郷での伝道を志したのかもしれません。けれどもそれ以上に、ガリラヤはイザヤが「異邦人のガリラヤ」(8:23)、「闇の中を歩む民…死の陰の地に住む者」(9:1)と言った地域でした。そのような地こそが真っ先に福音に与るに相応しい地だったと言えるでしょう。イエスはこの地で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語ります。「そのうちに」ではありません。時は満ちています。神の国はすぐ隣までやってきているのです。心の扉を開けるのか逃げるのか問われます。
2022年2月27日
降誕節第10主日

聖書と説教録画
 
礼拝全体の録画
 教会は人々に救いを提示し、救いに入るよう招きます。人々が求める救いは様々ですが、教会が人々に示す救いは一つです。前にお話ししたように病気の癒しを求める人に主イエスが与えたのは罪の赦し(神の像(かたち)回復)でした。神の前に罪を赦された者は、社会で健全に生きることができるようになります。主イエスが行った数々の奇跡は、神との関係を健全にされたしるしです。→ヘブライ2:1~4参照
 今日の個所は病気ではなく、突風とそれによって起こった高波です。このため主イエスと弟子たちが乗っていた舟は水浸しになり沈みそうになりました。弟子たちが寝ていた主を起こします。イエスさまが風と湖に「黙れ、静まれ」と叱ると風が止み、湖は穏やかになりました。イエス・キリストは人を救うだけでなく、自然をもあがなう方です。→ローマ8:19~21
 今日はもう一つのことに注目します。35節の弟子の言葉、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。ここに現れているのは何でしょう。自分のために役に立つ神を求めてはいないでしょうか?もしそうなら、それは利己的な宗教です。「商売繁盛、家内安全」を願うことは悪くありませんが、キリスト教信仰はそれ以上のもの「神の御心がこの地上においても実現すること」を求めます(主の祈り)。主イエスは弟子たちの利己的な要求に応えてくださいます。が続いて「まだ信じないのか」と問われました。マルコはこのやりとりを「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いで閉じています。「風や湖も従える方」は答ではなく問いのきっかけです。答えるのはあなたです。 
 2022年2月20日
降誕節第9主日
マルコ2:1~12

聖書と説教

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 脳卒中の後遺症で体が動かない人が4人の男に担がれてきた。家が人でいっぱいなのを見て彼らは屋根に穴を開け、イエスの前に床を吊り降ろした。たいへんな人たちです。けれどもイエスは彼ら=4人の「信仰」を見た。病人本人ではなく連れてきた人たちの信仰です。どんな信仰?イエスならこの友人の病気を治せるに違いないという信仰です。
 しかしイエスは、この病人に対して「あなたの罪は赦された」と宣言した。新共同訳は「あなたの罪は赦される」となっていますが、文語訳、口語訳、新改訳3版、新改訳2017、聖書協会共同訳どれも「赦された」となっています。ギリシャ語では完了形が用いられています。この人は、赦されて罪なしとされた状態が今も続いているということを表しています。神が与える赦しは「仏の顔も三度まで」「七回赦せばよい」というのではなく、限りない赦しであるとイエスは言っています。
 この人の友人たちは彼の体を動くようにしてもらうためにイエスの前に連れて来ました。イエスは彼の体を後でいやしてくれました。しかし、人が本当にいやされなければならないのは肉体以上に「神のかたち」として創られた人間のからだです。神のかたちの回復ということがキリストの救いの主たる内容です。
 主イエスは「子よ」と呼びかけます。ヨハネ1:12に「神の子となる権能」(聖書協会共同訳)「特権」(新改訳)を与えたとあります。罪を赦され、神の子とされて生きることが人の健康で、イエスを信じることが健康を得る事です。
 2022年2月13日
降誕節第8主日
マルコ4:1~9

聖書と説教

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 先週もお話ししたようにイエスさまは人々に教える時に多くのたとえを用いました。種蒔く人のたとえは13節以下に解説が付いている珍しい箇所です。
 多くの種が蒔かれますが、種が落ちた土地が4つ取り上げられます。これらは御言葉を聞いた人たちを表しています。
①道端の種:鳥が食べてしまった。現代なら車に踏み潰されてしまうでしょう。福音がその人の内で芽を出すに至らないケース。御言葉を聞いても、何も考えたりしない人です。
②土の浅い石地:芽は出ました。しかし根を張ることができず、太陽が照りつけたらまもなく枯れた。御言葉を喜んで聞いても、迫害や艱難に遭うと耐えることのできない人です。
③茨の中:十分に陽が当たらず、伸びたことは伸びたけれど実を結ぶことができなかった。これはこの世の誘惑によって祈りの生活・礼拝の生活を塞がれてしまったために実を結べなかった。
④私たちはこの世へと遣わされています。この世において神の国の光となるためにはイエスさまがしばしば行ったように、この世から退いて祈るときが必要です。信仰共同体としての祈りの場は礼拝や祈祷会です。同時に神と1対1で相対する場も必要です。礼拝すること(御言葉を聞くこと・祈ること・賛美すること)は心を柔らかくし、養分を染みこませ、自分の体を、豊かな実りをもたらす良い土地に造りかえていくことにつながります。
 教会で、日々のデボーションで目に・耳にする御言葉(の説教)にどんな態度で臨みますか。
2022年2月6日
降誕節第7主日
マルコ4:10~12, 21~34

聖書と説教

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 今日の個所は4:13~20を飛ばしていますが、「種を蒔く人」は来週お話しします。
 「種を蒔く人」、「ともし火」、「秤」、「成長する種」、「からし種」、この他にも福音書には多くのたとえ話が載っています。
ともし火 闇の世界で活動する者…しかし、光を当てると彼らの悪は露見します。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。キリストは全てを明るみに出す光です。
 妻はよく人から話しかけられます。そして愛想良く応答します。某精肉店の量り売りでは妻が注文した量を測って値段のシールをプリントした後で少し増量してくれることがしばしばありました。愛をもって人と接していると相手も愛をもって接してくれます。人を愛することは私たちの愛をさらに豊かなものにします。
成長する種 農夫は種を蒔きます。水をやったり肥料をやったりはしますが、種から芽が出てそれが成長し、豊かな実を結ぶのは神の働きです。その神の働きの成果を私たちは収穫します。ここに神と人との協働があります。
からし種 様々な野菜の種の中でも小さな種、しかしどんな野菜よりも大きくなる。からし種はしばしば「最も弱い者」「最も貧しい者」のたとえとされ、そのような者が天においては大いなる者とされることをあらわしています。
 ここで語られているたとえはすべて神の国とはどのような所かを表すたとえです。悪が隠れる場はなく、愛に満ちあふれ、神と人との関係も円滑で、小さな者も豊かな者となります。
2022年1月30日
降誕節第6主日
マルコ1:40~45

聖書と説教

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 かつては「らい病」と書かれ、新しい聖書では「規定の病」とかヘブライ語のまま「ツァラアト」と書かれているこの病は、容姿、特に顔かたちを変形させてしまうことがあるために恐れられてきました。この病の人たちは町中に住むことが許されず、道を歩くときも「私はこの病人です」と言わねばなりません。出会う人は彼から遠ざかってすれ違います。
 英語の聖書はleper(レパー)のままです。レパーはハンセン病ですが「(社会の)嫌われ者」という意味にも使われます。
 一人のこの病気の病人が「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と跪いて願いました。イエスさまはこの人がそれまで社会の中でどんな扱いを受けてきたか、どのような思いで跪いているのか察しました。「深く憐れんで」は体の内部の臓器、心臓や胃腸などを指す言葉が使われています。この病人の深い辛さにイエスさまも深く憐れみました。英語はcompassionとなっています。パッションは苦しみを受けること、comは「一緒に」です。イエスさまはこの病人が受けてきた苦しみを共になさり、「御心ならば」に対応して「わたしの心だ。きよくなれ」(新改訳2017)と言って、彼の体をきれいになさいました。イエスさまの奇跡は簡単に、手品のように行われるものではなく、苦しむ者と共に深く苦しむところからなされるものであることを見ることができます。癒されるとその嬉しさからつい言い触らしたくなります。イエスさまはそれを戒めます。祭司に体を見せ、律法に従って献げ物をする=公式に癒されたことを証明する。それが最も良い福音の証しです。それでも彼は喜びのためにイエスさまのことを語らずにはいられませんでした。 
 2022年1月23日
降誕節第5主日
マルコ1:21~28
聖書と説教

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 安息日のユダヤ教会堂での礼拝、そこで中心になるのはモーセの律法の朗読と預言者の書の朗読です。そして朗読された言葉の説きあかしがあります。人々はイエスが「律法学者のようではなく、権威ある者として」教えたことに驚きました。学問の世界では論文を書くときは先行する研究論文に言及しないといけません。ユダヤ教のラビも先輩ラビ達の教えに言及しながら教えたようです。それはまた学閥の表明でもありました。しかし主イエスはイザヤ書を朗読した後で「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と教えました。著名なラビの権威に依存しない、イエスさま自身の権威によって語る。当時の会衆には衝撃的なことでした。
 この会衆の中にイエスが何者かをわかっている者がいました。汚れた霊です。これに取り憑かれた男が叫びました。「正体はわかっている。神の聖者だ」。説教のタイトルは神の王者としてしまいましたが、聖者は人の言葉を聞く耳を持ち、慰めと裁きを語る口を持つ王者でしょう。汚れた霊はイエスが終わりの時に王として来臨し、自分を滅ぼす方であることを見抜いて恐れました。汚れた霊は「かまわないでくれ」と言いますが、主は放置しておくことはできません。「黙れ、この人から出て行け」と叱りました。すると汚れた霊が出て行きました。
 悪霊との戦いを強調する人々がいますが、ここでは戦いは不要です。命じれば従います。これがイエス・キリストの権威でした。権威ある新しい教えは、すべての霊を裁く権威を持つお方の言葉です。教会はこの言葉を絶えず新しい教えとして語り続けています。 
2022年1月16日
降誕節第4主日
マルコ1:14~20
聖書と説教 


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  今日の聖書日課の旧約はエレミヤの召命、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」と主はエレミヤに言われました。
 使徒書はサウロの回心です。キリスト者を迫害していたサウロはダマスコ途上で目が見えなくなり、主はアナニアにサウロのところへ行くように命じます。アナニアはサウロがどんなに酷いことをしてきたかを聞いていたので渋りますが主は「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と言います。
 先ほどの4人の漁師がイエスさまの弟子になった記事、「わたしについて来なさいい」と言われると、いともあっさり従ってしまうのが不思議です。それぞれ家族があったり、家業はどうなるのかなどいろいろな問題があったに違いありません。なのになぜすぐにイエスに従ったのでしょうか。福音書に出てくる「すぐに」という言葉を数えるとマタイ5(20)回、マルコ17(34)回、ルカ8(10)回、ヨハネ3(7)回使われています(括弧内は新改訳2017)。ですから「すぐに」というのはマルコ愛用の言葉ですが、この箇所ではマタイも「すぐに」従ったと書いています。それを考えるとやはりこの漁師たちは生まれる前から主に知られており、主によってキリストの弟子として立てられていたということでしょう。それはまた、私たち一人一人もまた、生まれる前から主に知られ、主に従うように召されていたのです。主の召しに応えましょう。
2022年1月9日
降誕節第3主日
マルコ1:9~11
聖書と説教

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 主イエスは人の子として生まれ、、30歳になった頃、ナザレを離れユダヤに来ました。当時ユダヤでは洗礼者ヨハネが、神の国の到来を預言し、盛んに悔い改めを説いていました。そしてまもなく来るであろう救い主について「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と預言していました。

 マルコがヨハネのこの言葉を記録したのは、イエスこそその方であることを示すためです。主イエスは(悔い改めるべき罪を犯してはいないけれども)女から生まれた者(すなわちアダムとエバ以来罪に傾きやすい人間)として洗礼を受けました。その後で今度は天から“霊”が鳩のように降りました。鳩はおそらく平和を象徴するものでしょう。この時に天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声は重要です。ここでは“霊”はこの声を保証あるいは証しするものとして働いています。今日の聖書日課の使徒書はⅠヨハネ5章が示されていますが、イエスは水と血によってこられ、“霊”がそれを証しする。“霊”と水と血は一致すると言われています。 水と血はイエスの肉体=人性を指すと考えられます。“霊”は神の霊を指しています。イエス(神の独り子)が天から人性を取って来られた。聖霊がそれを証しします。

 マルコの今日の記事は、人として生きてこられたイエスが、しかし神の愛する子であることを聖霊が証し、また、洗礼者ヨハネによれば、私たちも聖霊の洗礼によってイエスを証しする者とされることを示しています。主に感謝。

2022年1月2日
降誕節第2主日
ルカ2:41~52
聖書と説教

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 ユダヤでは12歳というのが日本風に言えば元服の年齢。一家は毎年エルサレムに上っていたでしょうが、この年はイエスさまが一人前のユダヤ人として神殿で礼拝したので特記されたのだと思います。

 迷子のイエスを神殿の境内で見つけたときの両親言葉に対して、イエスの返事はずいぶん生意気です。少年イエスが本当にこんなに生意気な言い方をしたとは思えませんが、大人になったイエスは神殿を金儲けの場としていた商人達に「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:16)と言っています。ルカは、イエスが神の独り子であることを少年時代も意識しておられたと言いたいのでしょう。イエスの全生涯は十字架と復活へ向けての歩みであったということです。マタイとルカはクリスマスの出来事を記しています。マルコとヨハネはクリスマスの出来事を記さず、四福音書が一致するのは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降り、ここから公生涯が始まったことです。ルカは少年時代からイエスが神との親子関係を意識しておられたと指摘します。

 けれどもマリアもヨセフもイエスの言葉の意味がわかりませんでした。神のご計画は私たちにはわからないことが多いのです。ただ、マリアのすばらしいところは「これらのことをすべて心に納めていた」ことです。今はわからなくても、やがてわかるときが来る。

 この年、主が私たちになしてくださることをマリアのように心に納めていきたいものです。

2021年「命の言葉」
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