日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は礼拝説教の概要です。

2023年「命の言葉」



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2025年6月8日
聖霊降臨日
花の日
聖霊の賜物 
 今日の聖書日課の福音書は、マタイ12:14~21ですが、18~21節にイザヤ書42章の引用があります。その最後の部分「異邦人は彼の名に望みをかける」を、教会はイエス・キリストの名(オノマ)に望みをかけると読みました。ただ、ヘブライ語聖書では「島々は彼の教えを待ち望む」であり、七十人訳ギリシア語聖書では「異民族の者たちは彼の教え(ノモス)に望みをかける」です。後で歌う「聖霊きたれり」はイザヤ書42章のヘブライ語もマタイによる引用も意識していることは確かでしょう。
 イエスさまがガリラヤで神の国の福音を説き始め、十字架と復活を経てその働きは使徒たちに引き継がれました。そのために必要不可欠なことが聖霊が降ることでした。
 ペンテコステの出来事はイエスさまひとりが神の国の福音を主としてガリラヤからユダヤにいる人たちに説いていた時代から、全世界の人々へと福音が広がっていく時代への転換点でした。使徒2章では地中海を中心としたローマの諸都市の名前が列挙されていますが、実際、この後エルサレムに成立した教会にはユダヤ人であってもヘブライ語が使えない人たちが含まれていました。そしてコルネリウスなどローマ人も教会に加わり、また帝国内諸都市に宣教がなされ、異邦人教会が成立してきます。こうして教会はあらゆる言語で神の偉大な業を語り、すべての民族の祝福の基となり、アブラハムに対する約束が成就されました。
 2025年6月1日
復活節第7(昇天)主日
キリストの昇天
 イエスさまの時代、聖書は「律法と預言者」と呼ばれていました。今日の個所では「律法と預言者と詩編」と書かれていますが、現代のヘブライ語聖書(ユダヤ教の聖書)は「律法と預言者と諸書」と呼ばれています。私たちの聖書は、ユダヤ教の聖書を旧約として受け継ぎつつ、新約=イエス・キリストによってもたらされた福音:新しい約束を記したものを新約としています。
 イエスさまはある時「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)といいました。新約聖書はすべてイエスさまについての証です。でもイエスさまがお生まれになる何百年も前に書かれた旧約聖書もイエスさまを証しする本です。ただ、そこには「ナザレのイエス」という名前は出てきません。そこに書かれていることがイエスさまのことだとわかるためには字が読めるだけではダメです。心の目が開かれなければなりません。聖書は古代史の文献ではありませんし、パソコンのマニュアルのような取扱説明書でもありません。「文学」というジャンルに入れられることはありますが、小説でもありません。神の霊によって目が開かれると、神さまの心が、イエスさまの行ったさまざまな業の力がわかってくるのです。それだけではありません。心の目が開かれて、聖書に書かれた神の言葉がわかってくると、私たちも聖書の中の登場人物になって活動し始めます。これについてはまた来週も続いてお話しします。
 2025年5月25日
復活節第6主日
イエスの祈り
 祈りには公の祈りと私的な祈りがあります。公の祈りは教会の礼拝という儀式の中で祈る祈りです(礼拝全体もまた「祈り」と呼ばれます)。伝統的にはそれぞれの儀式の主旨に応じて定められた祈りが祈られてきました。それに対して私的な祈りは実に様々です。朝起きたとき、夜寝るとき、家を出るとき、家に帰ったとき、食事をするとき、人と会うとき…、1日に100のことを行うとすれば、祈るべきことも100あます。自分が行うことについての祈りだけでなく、家族・友人…世界の人々のために祈ることもできます。公の祈りと私的な祈りの中間的なものとして、水曜の祈祷会での祈りのようなものがあります。そこでは執り成しの祈りとして私的な祈りが共有されることがあります。
 主の祈りによって祈りの基本を確認しておきましょう。①祈る相手=神さまに呼びかけます。②賛美の言葉があります。「御名が崇められますように」は原文では「あなたの名が聖とされるように」です。③神の御心の実現を願う。私たちの願いよりも先に神の御心の実現を願うのです。④ようやく私たちの願い。まず健康の維持。⑤既に犯した罪の赦しを願う。そのためには自分も他者を赦すことが大切です(マタイ18:21以下「仲間を赦さない家来」のたとえ参照)。⑥わたしたちを罪へと誘う悪い者から守られることを願う。
14,15節は重ねて赦すことの大切さを語っています。主イエスの来臨は罪を赦すためでしてた。教会は罪を赦し天の扉を開くことです。
 2025年5月18日
復活節第5主日
父への道
 前の13章ではは主イエスが弟子たちの足を洗いました。同時にユダの裏切り、ペトロの否認が予告されます。14:1の「心を騒がせるな」は、実はイエスさまこそ心が騒ぐ状況でした(13:21)。でもイエスさまは弟子たちに言います。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。
 実際弟子たちの心は騒いでいました。「イエスさまは救い主ではないのではないか?」そんな思いが心の中を去来します。更に「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言ったり、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と言ったり。
 人間とは弱いものです。イエスさまこそ神から遣わされた救い主だと思って弟子になったのに、自分が求めていた救い主とは違うことを知ってイスカリオテのユダは離れて行きました。離れただけではなく銀30枚で主を売り渡しました。自分の想像を超えた救いを神が用意していることには思いが至らなかったのです。ペトロはどこまでもイエスさまについていくつもりでした。でも、主が逮捕されたときには逃げて、後でこっそり大祭司官邸で裁判の様子を見ましたが、「イエスの弟子だろう」と言われると「違う」と否定しました。
 そんな弟子達にイエスさまは「天国に住むところを用意したら迎えに来る」と約束されます。神さまのもとへ行く道を私たちは誰も知りません。イエスさまを通っていくことだけが示されます。それは父なる神と子なる神の一体性、イエスさまを通して表れ出る神の愛によります。
 2025年5月11日
復活節第4主日
母の日
イエスは復活また命
 ラザロの復活の物語です。マルタ、マリアの弟ラザロが重病になりイエスさまを呼んだのにイエスさまはなかなか動こうとせず、腰を上げたのはラザロが死んでからでした。
 イエスさまが病人の病気を治したり、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出したりしたことは他の福音書にも多く記されています。しかし死んだラザロをよみがえらせたことは病気を癒した奇跡とは違う種類の事柄です。今日読まれた11章17~27節はラザロの復活という出来事が何であるのかを示すところです。
 ラザロが死んでから4日も経ってからやってきたイエスさまをマルタが出迎えました。マリアは家の中に籠もって出迎えません。迎える気分になれなかったのでしょう。多くの弔問客が来ています。イエスさまに対する視線はどんなものだったでしょうか。21節のマルタの言葉「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」は素直な気持ちです。「なぜ今頃来たんですか?葬儀の知らせではなかったのに。弟の病気はイエスさまでも治せなかったんですね」。それでもマルタはなおイエスさまに対する信頼と希望を失っていません。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。この信頼に応えてイエスさまは「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃいます。終わりの日の復活ではなく今、信仰によって与えられる命(永遠の命)。これを主は「信じるか?」と問い、マルタは「あなたが神の子、キリストであると信じています」と答えます。
2025年5月4日
復活節第3主日
新しい命 
  「しるしを見せてください」。昔も今も人々は証拠を求めます。イエスが救い主である証拠を求めます。ことに現代の人々は「科学的な証拠」を求めます。処女降誕はあり得るのか?死者の復活はあり得るのか?科学的という面では、聖書には非科学的なことがたくさん書いてあります。例えば天地創造の話、太陽より先に植物が生えたなんて科学的にあり得ないでしょうが、聖書は理科の教科書ではありません。聖書が神の言葉であるというのも、科学的な証拠に基づくことではありません。私たちが信仰をもって聖書を読むときに、聖霊によって聖書の言葉が私たちに生きて働くがゆえに神の言葉なのです。
 イエスさまは多くのしるしを顕されました。マタイ12章で言えば9節以下に手の萎えた人を癒し、22節には目が見えず口の利けない人を癒したというしるしがあります。けれどもファリサイ派の人々は「悪霊の頭の力を使ったのだ」などと言って信じなかったのです。ですから、しるしを見たら信じるというのは嘘で、どんなしるしを見ても信じることができないのです。
 そんな人々に対してイエスさまは「ヨナのしるし以外には与えられない」と言います。イエスさまもヨナ同様、「大地の中に三日三晩いる」と死を預言しています。そしてヨナを通して悔い改め救われたのは滅びるはずのニネベの人々でした。知恵を得たのはソロモンに知恵を尋ねに来た南の国の女王でした。イエスさまを信じて救われるのは律法をもたなかった世界の異邦人、つまり私たちです。
 2025年4月27日
復活節第2主日
労働聖日
復活顕現
 インターネットが普及する前、パソコン通信の時代、私の属していたクラブでは「あなたも情報の発信源になろう」というキャンペーンを行っていました。今ではインターネットが普及し、多くの人がXやLINEなどのSNSを用いて情報を交換しています。またYouTubeのような動画配信サイトがテレビに取って代わるような時代になっています。私たちの教会も礼拝の配信を行い一定の視聴者を得ていますが、キリスト教を標榜するサイトの中には“?”をつけざるを得ないものもあります。また選挙が近づくとある候補者を応援するサイトはよいとして、対立候補を非難中傷するサイトも現れてきます。去年の兵庫県知事選挙で見られたように、そうしたサイトが流している情報の信憑性は極めて怪しいものがあります。
 このような偽情報を流布するということは昔から行われてきました。今日読まれたところ、まさに議会指導者・宗教指導者がデマを流布させたという記事です。マタイが福音書を書いたのは80年代と考えられていますから、そのデマは50年以上もユダヤ人の間に広まっていました。けれども、「ナザレのイエスがよみがえった」という報告は「私も復活のイエスと出会った」という報告によって、ユダヤ人を超えて多くの人々に受け入れられていったのです。それから2000年近く過ぎた現在、私たちはよみがえって地上を歩くイエスさまにお会いすることはありませんが、確かに私たちの人生を共に歩んでくださるイエスさまとしっかりと結ばれていることができる幸いを味わっています。
2025年4月20日
復活日 
キリストの復活 
  1~10節:①マグダラのマリア、墓を蓋している石が転がされ、開いているのを発見し、ペトロに連絡。②ヨハネ、ペトロより先に墓に着き、墓の外から中をのぞき込む。③後から着いたペトロはそのまま中に入って二枚の亜麻布を確認。④ヨハネも続いて入り復活を信じた。
外から見ているだけでは信仰には至らない。中に入ってこそ信仰がわかる。
11~18節:マグダラのマリアは二人が帰った後、ようやく墓の中をのぞき込むと遺体がなくていた。天使のことも墓の番人と思ったのかもしれない。「なぜ泣いているのか?」との問いに「わたしの主が取り去られました…」と困惑を表した。彼女の後ろにやって来た人にも同じ事を聞かれ同じ答えをした。しかし「マリア」と名を呼ばれたときに主であることがわかった。「わたしの先生」に彼女の喜びが表れている。初めは墓の中を覗くこともしなかった彼女だが最初に復活の主と出会う恵みをいただいた。
 2025年4月13日
四旬節第6 棕梠の主日
十字架への道
 イエスさまの頭上に掲げられた罪状「ユダヤ人の王」はローマへの反逆者であり、十字架刑が相当であることを示すピラトの口実です。
 十字架の前を通る人たちがどれほどイエスさまのことを知っていたのか?人々はとりあえず犯罪者として処刑されたイエスさまを侮辱しました。よく知らないけど周りに合わせておこうという風潮、私たちの社会も似ていませんか?
 3時頃イエスさまは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」叫びました。旧約には「見捨てないでください」という祈りが多数あります。信仰者にとって神に見捨てられるほど恐ろしいことはありません。神さまもまた「決して見捨てない」という約束を多くの個所でしてくださっています。でもイエスさまは見捨てられて死にエリヤは助けに来なかった。
これは神がイエスさまを罪人として裁いた結果だ、と多くの人は理解したはずです。しかし、マタイが見た景色は違うものでした。隔ての中垣が取り払われ、死者が復活し、神の国が出現するその入口に他ならなかったのです。
 2025年4月6日
四旬節第5主日
十字架の勝利
 マルコ10:35-45ではヤコブとヨハネが主にお願いしていますが、マタイでは彼らの母が願ったことになっています。どちらにしても主は本人たちに「私が飲もうとしている杯をのむことができるか」と尋ねます。二人は「できます」と答えたけれど、その意味をわかっていなかったでしょう。それは殉教です。私はこの杯を聖餐の杯とも重ねて理解します。
 よく分からずに答えたけれど、それは現実になります。ヤコブは斬首、ヨハネは遠島の刑に処せられました。殉教にも様々な事情があります。しかしイエスさまはそれによって序列をつけることはなさらないし、私たちもまた序列(権力)を求めてはなりません。神と人とを愛し、誰よりも低い者となって仕えること、それが主イエスが実践なさったことであり、私たちにもそれを求めておられます。
 よくわからずに「信じます」といって洗礼を受けた人もいるでしょうが、それもまた恵みです。
 2025年3月30日
四旬節第4主日
主の変容
 先週の16章では「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」(16:27)と言われました。今日のところは3人の弟子がそれを先行して見せていただいたものということができます。しかもイエスさまお一人ではなく、モーセとエリヤがイエスさま一緒にいて会話をしていたというのです。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表。当時は旧約聖書のことは「律法と預言者」と呼ばれていましたので、この二人がイエスさまと共にいたということは、イエスさまの栄光の姿を旧約聖書が確認した・証明したということを意味しています。
 ペトロがこの素晴らしい出来事に圧倒されて何か言い出していますが、それを遮るかのように光輝く雲から声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。この声はイエスさまが洗礼をお受けになったときに聞こえた声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と対をなしています。受洗の時の声がイエスさまが伝道に出るときの神さまの認証であり、今回は死と復活への歩みに対する神さまの認証です。
 9節では、復活までは今見たことを誰にも言うなと命じます。モーセとエリヤがイエスさまと話していたという光景は大変なものですが、復活後に初めてイエスさまがいかなるお方かがわかったのです。そして事実、弟子たちの宣教は、死から復活したイエスさまのことであり、聖霊によって語ったのでした。また、メシア到来の前にエリヤが現れるという理解について、洗礼者ヨハネこそエリヤだと悟らされます。
 2025年3月23日
四旬節第3主日
受難の予告
 イエスさまのたとえ話に「家と土台」(マタイ7:24以下)という話があります。岩の上に建てた家は「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたから」です。反対に砂の上に建てた家は「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」というのです。
 去年1月1日の能登半島地震は能登半島の先端の珠洲市が震源でしたが、最大震度は輪島市と富来伝道所のある志賀町で震度7でした。液状化が揺れと被害を大きくしました。水を多く含む砂地の上に造成された住宅地でした。しっかりした一枚岩を土台としてそこに家を建てれば安全です。
 7章で「天の父の御心を行う者だけが天国に入る」といわれていたことが、今日読まれた16章の個所では、ペトロに天国の鍵を開けてもらった者が天国に入るとされています。ペトロが行った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を土台としてキリストの教会が建てられ、教会の業として天国の鍵を開くのです。これこそ陰府の力に打ち勝つキリストの教会の力です。陰府の力とは人を神さまから引き離して滅びへ導く力であり、教会の力とは人を神のもとへと立ち帰らせる力です。教会の門をたたく私たちは多くの罪がある者ですが、渇いている人に水を一杯あげたというささいな愛の業ゆえに、教会の持つ鍵によって天の国に入れてくださるのです。
2025年3月16日
四旬節第2主日
悪と戦うキリスト 
 イエスさまの時代、病気や障がいは罪の報いであるとか、悪霊に取りつかれているためと考えられていました。ここでは「目が見えず口の利けない人」が悪霊に取りつかれているためとされています。この人をイエスさまが癒し、目も見え話しもできるようにしました。人々は驚きました。「この人はダビデの子ではないだろうか」というのは言い換えれば「救い主ではないか」ということです。しかしイエスさまに反対する人たちは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出したのだ」とケチを付けます。それはどう考えたって矛盾しています。
 イエスさまの活動は神の霊(=聖霊)の力によるものです。神の霊の働きによってこの世から悪霊が追い出されていくということは、すなわち神の国が来ているということです。
 イエスさまの活動を神さまの働きと認めるならば、私たちのところには神の国が来ています。「教会は神の国である」とはイエスさまの活動が聖霊によって、使徒たちとその後継者たちによって今も継続して行われていることを表しています。29節は難解な聖句として有名ですが、イエスさまが聖霊の力によって悪霊を縛り上げることによって、今まで悪霊に支配されていた人を解放し、神にお返しすることと理解したらいいと思います。
 31,32節、どんな罪も赦されます。しかし聖霊に言い逆らうこと=あらゆる罪や冒瀆を赦そうとする神さまの御心への拒否は、自ら招く滅びとなります。
 2025年3月9日
四旬節第1主日
荒野の誘惑
 先週の水曜から四旬節(受難節)に入りました。主イエスの受難を覚え、自分の罪深さを嘆き悔い改める期間です。教会は伝統的にこの期間を祈りと断食と慈善をもって嘆きと悔い改めを表しました。この期間は四旬節と言われるように40日です。主イエスの40日の断食に倣っているのでしょう。
 イエスさまが40日の断食を終えた時、悪魔がやって来てイエスさまを誘惑しました。そもそもこの断食は「悪魔から誘惑を受けるため」聖霊に導かれて荒れ野へ行ったのでした。従って悪魔の3つの誘惑も背後に聖霊がいらっしゃると考えられます。
 第一の誘惑は食欲に関わるもの。食べることは私たちにとって必須のことです。けれども食べることだけが私たちに必要なわけではない。もっと大事なこともあるのだ、イエスさまは申命記から私たちに何よりも神の言葉によって生かされていることを語りました。
 第二は神さまご自身への信頼です。神殿の屋根から飛び降りる必要があるでしょうか?ありません。どんな時にも神さまが私たちを助けてくださることを信頼していれば良いのです。
 第三はこの世界との関わり方の根本です。悪魔は自分を拝むなら世界の繁栄を与えると言います。私たちの世界との関わりは支配ではなく愛です。愛の出所は神のご支配に服することなのです。「神は愛である」ここから他者との関わりが生まれます。自分自身との関係も世界との関わりも、すべては神さまとの関わりの内に規定されています。
 2025年3月2日
降誕節第10主日
奇蹟を行うキリスト
  今日の個所は五千人の給食と呼ばれる奇蹟の後に続くところです。イエスさまは大勢の群衆を見て深くあわれみ、人々の病をいやし、お腹を満たしてから、群衆を解散させました。また「強いて」弟子たちを舟に乗せ、先に次の地に向かわせましたが、その理由は一人で祈るためでした。教会の礼拝での祈りは公同の祈り(主の祈りや賛美歌による祈りなど)が中心ですが、個人的な祈りも大事です。主イエスもしばしば、弟子たちから離れて一人、山や森の中に入って祈る時を持っておられました。
 弟子たちは、イエスさまと別れて先に舟でガリラヤ湖を渡り始めました。彼らは元漁師だった人が多いので、舟の操縦はお手のもののはずですが、風に阻まれ進めず、一晩中舟の中にいたのです。イエスさまが不在の弟子たちの様はこのようなものです。そのあげくに現れたイエスさまを幽霊だと思ってしまうのでした。
 イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃいます。ペトロはイエスさまが湖を歩いているのを見て、真似をしたくなります。そして歩き出します。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけます。ちゃんと歩き出していたのに!イエスさまが「来なさい」とおっしゃった招きに全幅の信頼を寄せることができていたなら、沈むことはなかったのではないでしょうか?それでもイエスさまは手を差し伸べて支えてくださいます。二人が舟に乗ると強風が止み、弟子たちの礼拝が始まりました。
信仰[礼拝]は恐れを去り、信頼を与えます。
 2025年2月23日
降誕節第9主日
いやすキリスト
 今日読まれた個所には主イエスが多くの病人や障がいのある人をいやしたことが書いてあります。さまざまな事情によって苦しみの中に置かれていた人が、そこから解放されてイスラエルの神を賛美した。その一つの典型としてカナンの女の物語が置かれています。
 29節以下の記事はガリラヤ湖のほとりでのことですから、そこにいた人々はガリラヤに住むユダヤ人だったと考えて良いと思います。しかし21節からの出来事はユダヤ人ではなくカナン人です。けれども彼女は誰かからイエスさまの評判を聞いたのでしょう。イエスさまに娘の病をいやしてくださいと頼んだのでした。それは悪霊に取り憑かれているというものです。けれどもイエスさまの返事は冷たいものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。つまり「あなたは異邦人だ。私は異邦人には遣わされていない」。異邦人を犬扱いすると、おそらく現代なら炎上するでしょう。ところが彼女は引き下がりません。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエスさまはこの言葉に「あなたの信仰は立派だ」と称賛され、「あなたの願いどおりになるように」とおっしゃいました。
 このカナン人女性の言葉に信仰のあり方が表れています。ファリサイ派やサドカイ派をはじめ、多くのユダヤ人は自分たちの信仰について過剰な自信ともいうべきものを持っていました。けれどもイエスさまはあくまでも謙虚であることを求めていらっしゃいます。
2025年2月16日
降誕節第8主日
たとえで語るキリスト 
 今日の朗読個所の前には「種を蒔く人」のたとえ、後にはたとえの解説があります。イエスさまが語ったことは「神の国の福音」と呼ばれますが、その多くは「神の国はこのようなものである…」と、たとえ話で語られています。今日の個所はなぜたとえで語るのか?です。
 弟子たちは天の国の秘密を悟ることが許されているが、一般の人たちは許されていない、と主は言います。そしてイザヤ書6:9~10を引用します。そこに書かれているのは、「目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」民に語れ、と主はイザヤに命じたのです。
 たとえ話は、一見わかりやすいように感じますが、あくまでもたとえ話であって、神の国を描ききることはできません。おぼろげに、それっぽいイメージを与えるだけに留まらざるを得ません。それでもイメージが与えられるというのは大きなことだと思います。やがて何かのきっかけで回心した時に、たとえ話で聞いたイメージが福音理解に役立つはずです。
 弟子たちは天の国の秘密を悟ることが許されていると言われていますが、わかっていたのでしょうか?彼らがそれを悟ったのは、おそらくペンテコステ以後です。弟子たちの知識や理解力ではわからない。聖霊によってしか悟り得ないのです。主の弟子とは主の霊である聖霊に従って物事を見極めていく人です。それが許されているとは、なんと大きな恵みでしょう!人智を越える力を下さる主に感謝します。
 2025年2月9日
降誕節第7主日
教えるキリスト
 主よ、あなたを知ることができ、あなたが御心を示してくださることを感謝いたします。私自身と私の生活をあなたに服従させますので、今日知るべきことをすべてお知らせください。「これが道だ。これに歩め」(イザヤ30:21)というあなたの御声を聞くことができるようにお助けください。あなたのみこころが私の生活のすべての分野で行われますようにお祈りいたします。
 あなたのみこころの知識で私を満たしてください。知恵と霊的な理解力をお与えください(コロサイ1:9)。あなたに喜ばれる生活ができるようにお助け下さい。イエスさまが心から祈られたように、私も「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)と祈ることができるようにお助けください。あなたのみこころは、私の欲求や願いよりも大切です。
Stornie Omartian『10分間の祈り』より
 2025年2月2日
降誕節第6主日
新しい神殿
  壮麗な神殿を建てたソロモンは、献堂式の祈り(歴代誌下6章)で、この神殿は神をお納めすることはできないけれども、神が神殿に目を注いで、王と民の祈りを聞き、罪を赦してほしいと願いました。この祈りには繰り返し、「祈るとき罪を赦してください」という言葉が出てきます。神殿礼拝において願うことは、罪・過ちがただされ、悔い改め、赦されて神に立ち帰ること、ソロモンはそのような場として神殿を建てたのでした。
 さて、ソロモンから1000年近く後の主イエスの時代、バビロン捕囚後にペルシャの資金で再建され、ヘロデによってソロモン時代に勝るとも劣らない規模に拡張された神殿ですが、神殿内にさまざまな商売人が入っていました。売店利用によって礼拝を便利にするためのものです。聖書に挙げられているのはいけにえの動物を売る店、ローマの通貨(献金に使えない)をイスラエル古来の通貨に換える両替商など。遠くから礼拝に来る人は財布だけ持ってくれば、必要なものは現地調達できる便利さです。けれども、そこは商売です。神殿と祭司以外の商人が儲けるようになっています。主はこのことに怒りを覚えました。
 神殿の境内で、主は盲人や足の不自由な人をいやし、神の国の到来を証されました。いやされた人や見ていた子供らは「ダビデの子にホサナ」と主イエスをダビデの子、救い主とほめたたえました。子供たちが挙げられているのは、誰にも忖度しない人々の代表でしょう。世俗の権威となった祭司や律法学者に無縁の者から真の神への賛美・祈りが始まります。
 2025年1月26日
降誕節第5主日
宣教の開始
 主イエスの伝道はガリラヤが主な舞台です。「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」を読むと、「自分も逮捕されるのを恐れて、ガリラヤに逃げた」と感じるかもしれません。しかしヨハネを逮捕したのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスでした。だから「ガリラヤに退く」というのはヨハネを逮捕した者の領土に入っていくことでした。昔のガリラヤはイザヤの預言にあるように、異邦人も多く、貧しく、病人、障がい者も多い辺境の地でした。
 福音はこのような片田舎から始まりました。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」は3:2では洗礼者ヨハネの言葉です。でも同じ言葉を語っていてもそこには違いがあります。ヨハネは「わたしの後から来る方は…」と言いました。主イエスはナザレの会堂でイザヤ61:1-2を朗読し「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。ルカ17:20-21では「神の国はいつ来るのか」という問いに対して「神の国はあなたがたの間にある」と答えています。プロテスタント教会の教会の定義は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)ですが、主と共にある教会の交わりこそ神の国(天国)です。
 天の国に入るために必要なこととして、主イエス(と洗礼者ヨハネ)は悔い改めを求めています。悔い改めのギリシア語メタノイアは方向を変えることです。自分勝手なことを考え、自分勝手なことをしていた生き方から、神さまの方を向く生き方、神さまのみ心を尋ね求める生き方へと変えることです。聖霊の働きに自らを委ねることを求めましょう。
 2025年1月19日
降誕節第4主日
最初の弟子たち
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってペトロとアンデレを、さらにヤコブとヨハネの2組の兄弟をお召しになったことが今日の個所の中心であり、新共同訳聖書の小見出しも「四人の漁師を弟子にする」となっています。イエスの弟子というと12弟子=12使徒と思ってしまうのですが、イエスの弟子は大勢いたのです。
 聖書の読み方として4:23~25は5章よりも前の出来事とは限りません。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え(5~7章)、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた(8~9章)。」その結果、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」ので12人を選び、派遣した(10章)のです。新聞記事のようにまず要約があり、そのあと本文で詳細に語られるという構造です。
 大勢の人たちがイエスに従いました。これは別にイエスの伝道旅行に大勢の群衆が帯同したわけではありません。けれどもイエスに従うということの意味が4人の漁師たちを召す話に示されています。「すぐに網を捨てて」「舟と父親を残して」従っています。仕事と家族を置いて従います。でもイエスに従った群衆がみんなそのようにできたわけではありません。それでも弟子とされているのは恵みです。後で多くの弟子たちがイエスを離れ去っていきます。主イエスご自身はなおも弟子として扱ってくださいます。
 2025年1月12日
降誕節第3主日
イエスの洗礼
 洗礼者ヨハネという人物がイエスさまより少し前に現れました。彼は悔い改めを説き、罪を告白し悔い改めた者に、しるしとして洗礼を授けていました。罪人とされる人々はもちろんのこと、多くの人々が彼から洗礼を受けるためにやって来ました。洗礼を受けに来た人々の中でも当時のユダヤ教のエリートであるファリサイ派やサドカイ派に対して、ヨハネは辛らつな批判をしています(3:7~10)。
 ヨハネは自分の後にもっと優れた方がおいでになると預言していました(3:11~12)。
 イエスさまもヨハネから洗礼を受けようと、ガリラヤから出てきました。ヨハネはイエスさまを一目見て、自分より後から来る優れた方がイエスさまであることを見抜き、自分こそイエスさまから洗礼を受けるべき立場だと言いました。
ヨハネが授けた洗礼は罪の悔い改めのしるしです。罪なき神の子がなぜ洗礼を受けなければならないのか?けれどもイエスさまは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」と言って洗礼を受けました。神が人となって地上に来られたとは、罪人と同じ様になったということです。罪を認める人と一体化するところに神が人となった意味があります。
 しかし、イエスさまの洗礼はそれだけで完結していません。イエスさまが洗礼を受け水から上がると、神の霊が鳩のように降ってこられました。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声がありました。罪人として悔い改めの洗礼を受けることが、神の独り子、神の霊をもって生きる者であることを示す時ともなりました。
 2025年1月5日
降誕節第2主日
エジプト逃避
  1月5日はクリスマスの最終日、明日1月6日は公現日、顕現日とか栄光祭と呼ばれる祝日で、イエスがすべての人の救い主として世界に来られ、人々に現れてくださったことを祝う日です。なお教団で用いている教会暦は「公現後」も併せて「降誕節」としています。祭色は降誕節は白、公現日は白、公現後は緑ですが、次週以後の週報では降誕節の表記で祭色は緑を用います。
クリスマスイブ礼拝の表紙と左の絵は共にジョットがスクロヴェーニ礼拝堂に描いた絵です。
 東方の学者たちは星に導かれてベツレヘムでイエスさまを礼拝し、神のお告げでヘロデの王宮へは寄らずに帰っていきました。ヘロデは博士たちが約束を破ったと知って、ベツレヘム近郊の3歳以下の男の子を皆殺しにします。しかしヨセフはその前にエジプトへ逃げます。今日は三つの点を見ておきます。
1 神さまからのシグナルをキャッチする。ここでは夢が用いられます。エジプトに逃げる時も、エジプトから帰る時も夢のお告げです。
2 逃げる先はエジプト。ヘロデ大王の権限が及ばないところへ逃げる必要がありました。それは、アブラハム以来、飢饉などの時の避難先であったエジプトでした。エジプトは聖書において特別な国です。
3 旧約の成就。2:13~23の間に「預言者を通して言われていたことが実現」という言葉が3度出てきます。イエス・キリストは旧約の預言を成就するお方であることが確認されます。
 
2024年12月29日
降誕節第1主日

 マタイはイエス・キリストの誕生を描くにあたって東方の占星術の学者たちが不思議な星を見つけ、ユダヤの新しい王の星であることを知って拝みに来たという物語を書きました。これは、イエス・キリストの到来が、ただ単にイスラエル(ユダヤ人)のためのメシア、すなわちイエスさまの時代であれば、ローマ帝国によって支配されているユダヤの独立を果たすような軍事的政治的メシアではなく、国家や民族を超えたあらゆる民の救いを果たす、キリスト教的なメシアの到来を告げる物語と言うべきでしょう。
しかし、実はこうしたイメージは旧約の中に既に見られるもので、マタイはイザヤの預言の成就として、2章の博士たちの物語を記したのでしょう。   イザヤ書はバビロン捕因から解放された人々が続々とエルサレムに帰還することを預言したのでしたが、初代のクリスチャンたちは主イエスのもとに世界中からやってくる人々を読み取ったのです。
主イエスがこの世に来られてから2024年経ちました。世界の中で、そいて特に日本においては主イエスのもとに来ない人々が多いのが現状です。
けれども、「だからこの預言は外れた」のではありません。先日「預言は山脈のようだ」という話をしましたが、単純に当たった外れたではありません。
来るべき神の国への展望を示している個所でもあるのです。
6節は「こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」とあります。誰が誰に宣べ伝えますか?
2024年12月22日
待降節第4主日
降誕日礼拝
キリストの誕生 
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」クリスマスは光の祭典です。夜中に野原で羊の番をしていた羊飼いたちを照らした主の栄光、東方の博士たちをベツレヘムに導いた星の光。
しかしイザヤは単なる灯りとしてではなく、軍事力を背景とした国際関係の不条理の中で、苦難にあえいでいる人々に光が当てられたと語っています。損なわれていた人の尊厳が回復されたのです。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」はエジプトでのイスラエル人の苦しみを思い起こします。「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服」はアッシリアやバビロニアによる侵攻と征服を思い起こします。しかし外国による侵略だけが彼らを苦しめるのではありません。自国政府の神への不従順と無策が民を苦しめています。
 けれども、その苦しみは終わりを告げます。ひとりの赤ちゃんの誕生によって。その子は権力とは無縁でした。けれども権威があります。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の12番の合唱はこの聖句を歌います。私たちのために生まれてくださったイエス・キリストがこのような名を持っておられることを喜び歌いましょう。
 2024年12月15日
待降節第3主日
告知
 アハズ王は紀元前735-715年、20年間ユダを治めた王です。彼はアラム(現在のイラク)がエフライム(北イスラエル王国の支配的な部族)と同盟したと聞いて動揺します。結局彼は当時最強の国アッシリアと同盟を結びますが、やがてそれが災いとなっていきます。
 アハズはイザヤの言葉になかなか聞き従おうとしません。それにもかかわらず10節は「主は更に…」と言われます。私たちの神は辛抱強く私たちが主の道に立ちかえるのを待ってくださる方です。けれどもアハズは「主を試すようなことはしない」と言います。一見すると信仰深い言葉のように思えます。けれども視点を変えるなら、「試みる」のは私たちが神を試みるのではなく、神が私たちを試みるのです。要は自らを神に委ねるかどうか、の問題です。
14節「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
「インマヌエル」とは「神が私たちと共におられる」という意味です。「アラムとエフライムの領土は捨てられる」(15節)とイザヤは預言しますが、同時にインマヌエルを選びとらなかったアハズにはアッシリアの恐怖が迫ると予告されます。イエス・キリストを信じる生き方は、神と共に歩く人生です。
2024年12月8日
待降節第2主日
旧約における神の言葉 
 12節には罪に関する3つの言葉が出てきます。「背きの罪」(「ペシャ」פֶּשַׁע)、わたしたちの「罪」(ハッタート」חַטָּאת)、「咎」(「アーヴォーン」עָוֹןֹ)。2番目に出てきたハッタートがギリシア語で「ハマルティア」(άμαρτια「的外れ」)と言われる「罪」です。この罪から「背きの罪」も「咎(ひずみ、悪、不義)」も生まれてきます。この結果、人の業からは正義が退き、恵みの業からも遠く離れて行き、真理も正義もない社会になっていきます。「悪を避ける者も奪い去られる」という言葉に恐ろしさを感じます。
 16節の「主は人ひとりいないのを見」というのは、過疎化を指しているのではありません。「人格者」と言ったらいいでしょうか、「悪を避ける者が奪い去られた」結果を指しています。神の前に人の罪を執りなす者がいないというのです。本来なら祭司がその職務にあるはずです。けれども祭司すらその職務を果たさずにいる。人が人を救うことの限界が示されているかもしれません。神ご自身が贖う者として来られるというのです。
 私の妻はホーリネス教団の出身で、小林和夫という東京聖書学院の院長の先生から洗礼を受けましたが、私も時々、小林和夫先生の説教などをうかがっていました。小林和夫先生によると59章をメシアの第一降臨(初臨)とし、18~21節を第二降臨(再臨)として、この個所に二十のメシアの来臨が預言されていると説明されます。
 2024年12月1日
待降節第1主日
主の来臨の希望
 今日の朗読個所はイザヤがユダとエルサレム、すなわち(南)ユダ王国について見た幻ということです。先週ミカ書の話で少し触れましたが、ミカも同じ時代に活動した預言者です。そしてイザヤ2:2~4とミカ4:1~3はほぼ同じです。どちらが先かという議論はありますが、私たちは両者とも同じ内容を主から示されたと受けとめれば良いと思います。
 イザヤやミカの時代の後、ユダは滅ぼされてしまいます。けれども滅ぼされて終わり、ではありません。今は神を神とも思わない大国の権力者たちが力を振るっているけれど、それもいつしか終わりの日が来ます。その時には主の神殿の山が最も高くそびえる、つまりただひとりの神さまが崇められます。
 その時人々は互いに「神の家に行こう」と呼びかけます。何のため?生きる道を示していただくためです。終わりの日といえば、主のもと、つまり天国に移される時、と思っている人が多いと思います。それは正しいでしょう。けれども天国で何をするのですか?美しいところでまったりしているだけですか?あるいはみんなで賛美歌を歌っているだけですか?
 イザヤやミカが描く終わりの日は違うようです。さまざまな人々の生活があります。そこには利害関係があるはずです。今は喧嘩や裁判や戦争で、地位の上下関係で有無を言わさず決着を付けたりしていますが、その日には主が裁きを付けます。人々は主の言葉を喜び、戦いではなく協力に熱心になります。平和を作り主の光の中を歩むことが喜びです。
2024年11月24日
降誕前第5主日
収穫感謝日
王の職務 
 ミカは「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」に「サマリアとエルサレムについて幻を見」ました。つまり(北)イスラエル王国と(南)ユダ王国についての預言です。同時代の預言者はイザヤです。
 1章2節から神の厳しい審判の言葉が連なっています。預言者が発する神のさばきの言葉はミカに限らず厳しいものが多くあります。
ところで、エレミヤ書26章17~19節に興味深い記事があります。ミカが神さまのさばきを預言したところ、ヒゼキヤ王をはじめユダの人々が主を畏れ、恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたというのです。ミカの預言とヒゼキヤ王たちの態度、そして主の応答が、人々に覚えられ、必要なときに想起されたのです。
 さて、ミカの預言は主のさばきだけではありません。今日読まれた2:12, 13は「復興の預言」という見出しが付けられていますが、2つの異なる場面のように感じられます。12節は散らされた民を呼び集めて「ひとつにする」そして「彼らは人々と共にざわめく」と言われます。再会した喜びの声が会堂内のあちこちで聞こえる様子が浮かびます。13節は「打ち破って外に出」て進んで行くというのです。何を打ち破るのか明確でありませんが、彼らを束縛し、閉じ込めていたものを打ち破るのでしょう。新しい場へと進んで行きます。どこへ行くのかも明確ではありません。けれども「彼らの王が彼らに先立って進み 主がその先頭に立たれる」のです。教会は仲良しクラブに留まってはなりません。新しいところへとアブラハムのように歩き始めるのです。
 2024年11月17日
降誕前第6主日
救いの約束(モーセ)
 今日の朗読箇所申命記18章15~22節には「預言者を立てる約束」という小見出しが付けられていますが、その前の9~14節との対比になっています。イスラエルの民がこれから入って行くカナンの地の先住民たちは占いなどによって神託を得ていました。神は占いや呪術、霊媒などを禁じています。それではどのように神託を得るか?神はモーセのような預言者を立てるといいます。預言者は特殊な能力を持つ霊能者ではありません。「あなたの同胞の中から」というのは、身近な人の中からという意味でしょう。実際、預言者たちの中には羊飼いだった者、農民だった者などさまざまな人々がいます。神は彼らを召して民に神の言葉を語る者としました。民は預言者の言葉に聞き従わなければなりません。
 16節のホレブにおける集会の日というのは、モーセが民に十戒を提示した日のことで、申命記5章に記されています。火の中から神の声が聞こえたのですが、長老たちは「大きな火が我々を焼き尽くそうとしている」と恐れ、モーセを通して神の言葉を聞くことにしました。モーセはやがて世を去りますが、モーセに代わって神の言葉を聞き、民に伝える者が必要です。それで預言者が立てられるのです。
 けれども、預言者も人です。民が預言者に聞き従わなければならないのと同時に、預言者は真正な神の言葉を語らなければなりません(民が望まない事柄であっても!)。預言の言葉の真正さは成就によって担保されます。
 2024年11月10日
召天者記念礼拝
 旧約聖書の中で、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉は知恵文学と呼ばれています。古代イスラエルの人々の知恵がここに現れていると言って差し支えないような書物です。今日の個所はその中で「時」がテーマになっています。
2節から8節には「生⇆死」のような14組の反対の事柄を並べ、それぞれに神の定めた時があると言います。
 今日、ここに逝去された方々の写真を飾り、この方々を覚えて礼拝をしておりますが、この中には長生きされた方も、また短い生涯だった方もいらっしゃいます。また亡くなった原因もさまざまです。「定められた時」というのは、神さまはAさんの寿命を○年と○日と決めておいた、というのではありません。今日の朗読個所のすぐ後の11節には「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」他の翻訳は前半を「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と訳しています。
 愛する者が世を去った、いつものあの笑顔を見ることができなくなった。それは寂しいことではあります。けれども、全く別の視点から見るとき、神さまは必要なときに必要な人をこの世に存在させられ、その人の役割が終わったときにその命を神さまのもとに戻されたということだと思うのです。私たちもやがて神さまのもとに戻される日が来ます。時至ってすべての命が新しい体を与えられて新しい世界で見える時を楽しみに待ちましょう。
 2024年11月3日
降誕前第8主日
堕落
  通常の教会暦では12月25日の5週前まで聖霊降臨後の期節が続きますが、教団の教会暦はクリスマスの準備をレント並みに十分取るため降誕前節を9週取っています。アドベント(今年は12月1日から)前の5週を「契約節」とする提案がありましたが、結局表記は「降誕前」となっていますが、その5週の主題は契約節として提案された創造・堕落・神の畳の選び・救いの約束・王の職務となってます。
 今週は「堕落」が主題ですが、今日取り上げられているイザヤ書44章は偶像の空しさを語っています。
 9節以下で金属や木で偶像を製作する者たちの仕事ぶりを描いています。「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする」けれども、彼らは人間です。神の像を造り出すために空腹になり、咽が渇き、力がなくなります。「木工は寸法を計り、石筆で図を描き のみで削り、コンパスで図を描き 人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り 神殿に置く」。しかし同じ木で暖を取り、パンを焼き、その残りで作られた偶像を拝んでいる。なんと空しいことでしょう。
 まことの神は、人に造られる神ではありません。人を、またあらゆるものを造った創造主です。「イスラエルを贖う」神と呼ばれています。
イスラエルとは地理的・政治的な中東の共和制国家ではありません。「神が支配する」人々です。「贖う」とは代価を支払って買い取ることです。つまり、神の独り子の血の値をもって、神の支配の中に入れられた人々がイスラエルです。神はこうしてイスラエルを作るのです。
2024年10月27日
降誕前第9主日
創造 
 箴言8:22の「造られた」は天地創造の「創造する」とは異なる単語で、創世記4:1のエバの言葉「わたしは主によって男子を得た」の「得た」と同じ言葉が使われています。新改訳2017やいくつかの英語訳は「得たpossessed」を用い、他の訳は「造ったcreated」を用いています。
 いずれにせよ、知恵は天地創造より先に神と共にあったことを示しています。そして、時間の流れは天地創造と共に始まったと考えるなら、時間以前、永遠に神と共にあったと考えられます。ヨハネは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という書き出しで福音書を書きましたが、その根底には箴言8:22以下があったに違いありません。
 パウロもまたキリストがすべてのものの創造に先立って存在したことを語っています。コロサイの信徒への手紙1:15~17がそれです。
 381年にコンスタンティノポリスで開催された公会議で決定された信条(ニカイア・コンスタンティノプル信条)は「主は神のみ子、御ひとり子であって、代々に先だって父から生まれ…」と記され、今でもエキュメニカルな信条として世界の教会で告白されています(使徒信条は西方教会だけの信条)。
 今日の朗読個所の最後は、知恵の役割を記しています。「主を楽しませる」そして、「人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」ことです。神を礼拝すること、それはキリストと共に楽しむことです。
 2024年10月20日
聖霊降臨節第23主日
信徒伝道週間・教育週間
天国に市民権をもつ者
 かつてパウロは熱心なユダヤ教徒として誇ることのできるものを持っていました。3:5~6に書かれている諸々です。けれどもキリストを知った今はそれらは損失、屑だと言います。
 以前は律法を守ることで神の前に義と認められようと努力しました。でも律法は己の罪深さを指し示すばかりで、義には達しません。ただ「キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります」(聖書協会共同訳)。新共同訳や他の日本語訳では「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」となっており、大切なのは「私の信仰=私がナザレのイエスを救い主として信じること」と、私の行いとしての信仰だとされています。聖書の原文は「キリストの信仰(真実)」となっており、それを多くの訳では「キリストへの信仰」と解釈して訳しています。聖書協会共同訳では、私たちのあり方としての信仰ではなく、キリストのあり方としての「真実」(信実と表記する人もいる)が私たちに救いを開くことを指し示しています。
 それゆえ、律法や割礼のあるユダヤ人だけでなく、全世界のあらゆる人に救いは開かれています。その救いは死者の中からの復活だとパウロは言います。復活へ向かってパウロは走ります。救いはじっと座っていればやってくるものではありません。キリストの後に従って、私たちも走るのです。完全な者ではないので躓くこともあります。しかし、それでも走る者をパウロは完全な者と言っています。かの日に復活の体に変えていただくことを期待しつつ。
 2024年10月13日
聖霊降臨日第22主日
神学校日・伝道献身者奨励日
犠牲
 ヘブライ人への手紙の著者はエルサレムの神殿以前に行われていた幕屋での儀式をモデルとしてイエス・キリストによる贖罪の業を解説しています。幕屋では大祭司が毎年山羊や牛を屠って犠牲として神に献げ、その血によってイスラエルの民の贖いとしました。
 しかし、イエス・キリストは人類の全歴史を通してただ一度だけ、イスラエルだけでなくすべての人の罪の贖いのために血を流されました。動物の血とイエス・キリストの血は何が違うでしょうか?14節「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」。キリストの犠牲は「永遠の“霊”」によるもので、自らのための犠牲を必要とする人間の大祭司によるものとは違うのです。大祭司が執り行う儀式でも私たちを清い者とす恵みに満ちているのであれば、キリストの犠牲は私たちを清めないはずがありません。
 15節「キリストは新しい契約の仲介者」と言われます。旧い契約とは旧約・モーセの律法です(19-20節)。そこでも血が流されました。契約は血をもって交わす約束です(朱肉も)。
新しい約束は「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:28)という主イエスの言葉に基づいています。神とイスラエルの仲介者であったモーセ自身は血を流すことなく動物の血で代用しましたが、神とすべての人の仲介者である主イエスは自らの血によって人を贖ってくださいました。召された者たちが永遠の財産を受け継ぐために。
2024年10月6日
聖霊降臨節第21主日
世界聖餐日・世界宣教の日
キリストにある生 
 パウロがキリスト教信仰と宣教ゆえに監禁されていることが多くの人に知られた。そのことはかえって福音の前進に役立った、とパウロは喜んでいます。パウロへの愛と善意vs妬みと争い、両方の人間がいるけれども、どちらにしてもキリストが告げ知らされているのだから喜ぶとパウロは言います。
 パウロ自身は「生きるとはキリスト、死ぬことも益」と思っているわけですが、フィリピの教会のためには、「肉にとどまる方」が良いと判断しています。自分自身のことよりも、教会の人々の役に立てるかどうかで決めています。
 今日は教団の行事暦で世界聖餐日です。世界中のキリスト者が主の食卓につくことによって一致し、互いに認め合うことを願って始められた世界聖餐日は、第二次世界大戦によるさまざまな対立が深刻化していた1940年にアメリカNCCの前身であるアメリカ連邦教会協議会によってエキュメニカルな祝日とされました。また、世界宣教の日でもあります。言うまでもなく、エルサレムで起こったイエス・キリストの十字架と復活がすべての人を救う出来事であったことは、パウロをはじめとする宣教師たちによって世界に広められ、私たちのところにも到達しました。戦国時代に、明治時代に、第2次大戦後に多くの宣教師が日本で福音を伝えました。その人たちはこのパウロの覚悟を受け継いだ人たちです。日本からも各国に宣教師が送り出されています。自国で働く牧師たちも同様です。味方する者、敵対する者、それを超えて福音は前進します。
 2024年9月29日
聖霊降臨節第20主日
永遠の住み家
 世間には人は死ねば終わりと思っている方もいらっしゃると思います。しかし、聖書は人の命はこの世の者ばかりではないことを語っています。主イエスは私たちのために天に住まいを用意して、私たちを迎えに来てくださると約束(ヨハネ14:2,3)してくださいました。パウロはそれを待ち望んで地上の幕屋で苦しみもだえていると言います。「天から与えられる住みかを上に着る」とはおもしろい表現ですが、カタツムリや亀を連想します。しかしカタツムリの殻も亀の甲羅も壊れることがあるし、彼らはやがて死にますが、パウロと共に私たちが待ち望んで着ようとしている天の住みかは永遠の命です。3節の「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」の「それ」は「地上の幕屋」ですが、単に住宅や衣服を指すだけではありません。私たちがこの世で持っている肩書きや財産、業績など一人の人間の魂と身体に付随したあらゆるものを指しています。富める青年は自分の財産を全部売り払って主イエスに従うように言われたときに、それらを捨てることができませんでしたが、それらがなくても主イエスに従って行くときに生きることはできるし、本当はその方が豊かな人生になったはずなのです。
 5節は天の家に住むにふさわしい者の要件は私たち自身にあるのではなく、神の恵みであり、その保証として聖霊を与えてくださっていることが述べられています。それゆえ、私たちは生にあっても死にあっても、主に喜ばれるものでありたいし、そうなれます。聖霊により。
 2024年9月22日
聖霊降臨節第19主日
神の富と知恵
 前に、ソロモンが神殿を建てたときに、「天も天の天も神を納めることはできない、ましてや自分が建てた神殿などなおふさわしくない」と祈ったことをお話ししました。神さまの大きさはあらゆるものを凌駕しており、人が神さまの全体を把握することはできないことを弁えるべきです。そのことを私たちは良く弁え、自分が知らない神の恵みがあるということを心に置き、いわゆる「神学論争」(答えの出ない議論)に陥らないように気をつけなければなりません。しかし一方で自分に与えられた恵みで満足することも大事です。
 さて、現在の世界情勢の中でイスラエルとハマスの対立で、ガザの人々がハマスの戦闘員であろうがなかろうが、イスラエルの爆撃によって死者が4万人を超えたと報じられています(8月16日BBC)。さらに最近ではレバノンのシーア派組織ヒズボラの通信端末が相次いで爆発し多くの死傷者が出ています。こうしたイスラエルのかたくなさはモーセに対するファラオのかたくなさを思い起こします。ファラオをかたくなにしたのは神であり、そのことが高じて最大の不幸を招きモーセ率いるイスラエル人はエジプトを脱したのです。パウロはイスラエルのかたくなさについて「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる(25,26)」と述べています。それでもなお、私たちは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」ことに希望を置きたいのです。
 2024年9月15日
聖霊降臨節第18主日
キリストの住まい
  パウロは「ひざまずいて祈る」と言います。主イエスのゲツセマネでの祈りもそうでした(ユダヤ人は普通は立って、両手を上に挙げて祈ります)。このことはパウロの思いの強さを表しています。エフェソの町ではクリスチャンは少数者です。異教社会の中でキリスト者として良い証しを立てていくこと、また、世間に流されず信仰にある交わりを保つこと、また、時には白い目で見られたり、あからさまな嫌がらせや迫害を受けること、さまざまな困難の中で常に神にあって希望に生きてほしいという願いがあったことでしょう。
 祈りの冒頭に「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」とあります。あまり見かけない表現ですが、家族という言葉のギリシア語パトリアは父(パテール)の派生語です。全ての人々が神によって造られ、保たれていることを表しています。
 祈りは3つの「~ように」で構成されています。①キリストの内住によって愛に依って立つ者となるように。②キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、神の豊かさで満たされるように。③私たちの内に働く御力(聖霊の力)により、私たちの求め・思いを超えることをなす方=神に栄光があるように。ここで「教会により」という言葉に注目しましょう。エフェソの教会の人々を指す「あなたがた」、パウロとエフェソの人々を指す「わたしたち」、いずれも教会を指します。この祈りは教会のための祈りです。
 2024年9月8日
聖霊降臨節第17主日
上に立つ人々
 私にあなたのきよさを着せ、
 あなたのへりくだりを与えてください。
私に輝く衣を、私の魂にあなたをください。
あなたの似姿を回復し、
 御名とご性質のあかしをさせてください。
主よ、あなたの十全で私を満たし、
 愛の十分な者にしてください。
『メソジストと呼ばれる人々
のための賛美歌』105番

 私は、偉大できよい神であるあなたの御前にへりくだらなければなりません。それは、主権者なるあなたに対して、思いにおいて、言において、行いにおいて、日々罪を犯しているからです。あさはかな思いを克服し、空しくして、不純な思いを避けることができるようにしてください。これらの思いが私の心を占領することはありませんが、私の心をよぎるとき、みだらな思いを残します。努力して自分の心を見張ることができるように助けてください。心の中に考えていることから、日常の問題が生まれるからです。なんと多くの思いにおける罪を私は犯してきたことでしょうか。この隠れた罪から私をきよめてください。心にあることが、言葉に表れるからです。むなしく、無益な言葉から私を守ってください。そして、私の神よ、うやうやしく、謙遜な態度で、しかも真剣にあなたのことを語ることができますように。アーメン。
『スザンナ・ウェスレーの祈り』より
2024年9月1日
聖霊降臨節第16主日
神に属する者 
 今日はヨハネの手紙一の5章から、イエス・キリストについての証しと永遠の命についてお話しするよう導かれています。
 朗読箇所の直前、6節以下も見ておきましょう。イエス・キリストは水と血を通ってこられた方だと言っています。水は洗礼者ヨハネからうけた洗礼を指していることでしょう。そして血は十字架を指しています。普通に考えれば、洗礼を受けて宣教活動を始め、最後に十字架で死んだということですが、ヨハネは洗礼と十字架を通って私たちの所に来たと言います。十字架を通ってきたから救い主なのです。
それを証しするのが聖霊。聖霊と水と血の証しは一致します。この証しをヨハネは「神の証し」と呼びます。
 で、今日の所、イエスを信じる者は神の証しを信じる者、イエスを信じない者は神の証しを信じない=神を嘘つきとすることになります。
神の証しの内容:永遠の命が私たちに与えられた。それは死から復活したイエスの命です。
 13節以下は永遠の命を得ている者の特権(?)について。神の御心に適う願いは何でも聞き入れられる。願ったことは既にかなえられている。このことは私たちの自己中心的な欲望を神が満たしてくれるのではなく、私たちの願うことが神の御心に一致するように聖化されることを言っています。
 とりなしについて、死に至る罪と死に至らない罪を分けて、死に至らない罪を犯した人のために執りなせと命じます。どんな神であれ神を否定したら恐らく滅びるしかないでしょう。
 2024年8月25日
聖霊降臨節第15主日
新しい人間
 今日の朗読個所の直前に「光の子として歩みなさい」(8節)、その歩み方の基本は「何が主に喜ばれるかを吟味」すること(10節)です。11節以下は光の子として歩む歩み方の具体的なことが述べられています。
・暗闇の業に加わらず、むしろ明るみに出す。
・細かく気を配る。パウロは死人の復活という世の人々にとって愚かなことを福音として宣教しますが、生き方においては細かく気を配っていました。特に信仰の弱い人をつまずかせないようにという配慮は随所に見られます。
・時をよく用いる。「今は悪い時代だ」と言いますが、良い時代があったでしょうか。今は過ぎ去ると戻りません。「時が良くても悪くても」(テモテ二4:2)今やるべきことを行うこと。
・主の御心が何かを悟る。これが難しい。自分の考えと主の御心を混同しがちです。自分の思いから解放され、主の御心を悟れるよう祈りが必要です。
・酒に酔わず、霊に満たされて賛美する。酒は判断力を鈍らせます。現代は自動車や機械の運転では飲酒厳禁ですが、対人関係、対神関係も同様です。
・何でもキリストの名により、神に感謝する。私たちが神さまとコミュニケーションする手段は、イエス・キリストの名によって祈ることです。
 2024年8月18日
聖霊降臨節第14主日
霊に従う生き方
  律法は生きている人間に対して効力を持つものだ、というのは当たり前の話です。パウロは結婚の例を出して、夫が死ねば妻は夫と自分を結びつけていた律法から解放されて他の男と一緒になることもできると言います。現代日本の社会を考えると、家族・親族との関係から難しい場合もありそうな気がしますが、法的にはパウロの言う通りでしょう。
 パウロが言いたいのは、私たちの生き方の問題です。キリストを知る前は律法が私たちを支配していた。「いや、ユダヤ教徒じゃないから律法は知らなかった」というかもしれませんが、別に儒教道徳でも武家諸法度でも現代の日本の諸法律でもいいのです。法が「こんなことをしてはいけません」と規定すると、私たちはそれをしたくなる(したくなるようなことだからわざわざ禁令を定めている)のです。パウロはそのようなあり方を「肉に従う生き方」と呼びます。その結果は(霊的な)死に至ります。
 それに対して、キリストと結ばれた今はどうなのか。律法に対して死んだ者となった、律法が自分の(心だけでなく)五体の中で働くということから解放されているのです。
 文字に従う生き方は「これはクリスチャンとしてOKかNGか?」とおそれながら生きる生き方になるでしょう。自分の中に生じる欲望と葛藤して、抑えたり流されたりします。〝霊〟に従う新しい生き方はWhat Would Jesus Do(イエスならどうするか)と主イエスを基準とした生き方になります。鍵は「仕える」という語です。
 2024年8月11日
聖霊降臨節第13主日
神からの真理
 今日の早天礼拝のところに書いてある聖書日課は2:11~3:9となっていますが、この礼拝の朗読箇所は2:11~16に短縮しました。
7月28日にお話ししたように、コリントの教会では派閥争いがあったようで、3章でも触れられています。アポロは非常に雄弁な説教者だったようです。パウロは手紙は堂々としているけど、実際に会ってみるとそうでもないし、雄弁でもなかったようです。第1回伝道旅行ではパウロはバルナバと一緒に各地を回りましたが、人々はバルナバをギリシア神話の主神であるゼウスと呼び、主に説教したパウロをヘルメスと呼んで、バルナバの方が格上と見なしていたようです。
 18世紀のメソジスト運動初期にジョージ・ホィットフィールドという大変雄弁な説教者がいました。彼が説教すると会衆が説教に引き込まれて大声を出すので、教会は彼に教会での説教を許可しなくなりました。すると彼は道端で説教するようになったのです。一方ジョン・ウェスレーの説教は読んでみてもおもしろい説教ではありません。しかし、メソジスト教会を建て上げていったのはウェスレーの説教の方です。パウロの説教もそのようなものだったのでしょう。人間的な演説の技法で説得する雄弁術ではなく、聖霊によって霊的なことを語るものでした。そうでなければ神のことを知ることはできません。神の救いの業=キリストの十字架と復活は人間的な知恵にとっては愚かなことでしかありません。ただ聖霊による時にのみ、キリストの思いを抱くことができます。
 2024年8月4日
聖霊降臨節第12主日
信仰による勝利
世とは何か 「世に打ち勝つ」ということが今日の聖句のテーマになっています。世に打ち勝つというと、例えば日曜授業参観事件や靖国神社問題のように私たちの信仰生活を妨げる社会のあり方と戦うことを連想されるかもしれませんが、別の本質的な事柄があります。
聖歌508番に「うき世の風と波にもまれて」という歌があります。世と教会の関係はしばしば嵐の海と小舟にたとえられます。私たちは今にも教会がつぶれてしまうのではないかと恐れてあたふたしています。しかしイエスさまはどうしてるか?舟の中で高いびきで寝ています。イエスさまにとっては、大したことないことだったようです。海を叱ると静かになりました。
世に勝つとは 世(ギリシア語のコスモス)という言葉はほとんどヨハネの独占です。この手紙2:15「世も世にあるものも、愛してはいけません」。しかしヨハネはこの語をいつも敵対的に使っているわけではありません。有名なヨハネ3:16は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。
神の愛によって罪の力に打ち勝つ ヨハネはどのように打ち勝つかについて、兄弟愛を指摘しています(1節)。兄弟愛はキリスト者の掟(2節)です。そうすると4節の「世に打ち勝つ勝利」とは兄弟を愛することができない心を指しています。すなわち、キリストの価値観に従えばキリストにある兄弟姉妹は皆愛する者なのに、それをできなくする力が働きます。これに打ち勝つことが求められています。
2024年7月28日
聖霊降臨節第11主日
聖餐 
 パリ・オリンピックが行われています。オリンピックは古代ギリシアの都市オリンピアで行われていましたが、オリンピアやスパルタのあるペロポネソス半島はほとんど島のような形で、わずか6キロ幅の狭い部分でギリシア本土とつながっています。その狭い接続部にある交通の要衝がコリントです。
 パウロは49~52年にかけて第2回伝道旅行を行いましたが、コリントに約一年半滞在し、その時にできたのがコリント教会です。
 コリントは大都市で賑わっていましたが、道徳的な問題もあり、それは教会をも蝕んでいました。1章には教会内の派閥の争い、5章にはみだらな人々について、8章には偶像に供えられた肉など、さまざまな問題について書かれています。
 パウロはそれらの問題について、一つ一つ解きほぐしながらどう対応すべきかを書いていますが、その起点になるのが、聖餐、つまりイエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったということです。23~25節に主イエスが聖餐を制定された言葉が記されていますが、この手紙は55年頃書かれ、福音書よりもずっと前に書かれたものです。パウロは聖餐によって「主の死を告げ知らせる」のだと言います。そう、クリスチャンは主の死を告げ知らせる者です。27節以下の文言は、主の十字架に感謝し、悔い改めの心をもって聖餐に与るべき事を語っています。来週聖餐式ですが、このことを思い起こしましょう。
 2024年7月21日
聖霊降臨節第10主日
命の糧
  ローマの信徒への手紙14章は新共同訳聖書では前半に「兄弟を裁いてはならない」、後半に「兄弟を罪に誘ってはならない」という小見出しがつけられています。今日の朗読個所は前半の終わりあたりから後半ですから、この両方を念頭に置いておくとよいでしょう。
 パウロの時代のクリスチャンとして肉を食べることが良いか悪いかということが問題になっていたようです。というのは、肉が店頭に並ぶ前に異教の神々に献げられるからだそうです。パウロは偶像の神々などは実在しないのだから、何を食べても問題ないと考えていました。けれどもある人にとっては偶像の神々を受け入れることになると感じていました。食べ物に限りません。私の出身教派は飲酒はダメです。韓国のある教派は禁酒は教理だと聞きました。けれどもパウロは「クリスチャンのくせにあんなことをして…」と裁いてはならないと言います。それぞれの信仰の実践を尊重すべきだというのです。どちらにしてもキリストへの信仰の故だからです。 後半では、人をつまずかせてはならないと言っています。パウロの信仰によれば、何を食べても問題ないのです。けれども肉を食べることが、あるクリスチャンをつまずかせることになるのであれば、その行為は兄弟愛に反することになります。そんなことなら食べない方が良いのです。 神の国は飲食の問題ではなく「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」食べる人、食べない人、飲む人、飲まない人、裁きあったり軽蔑したりせず、共に平和を作り出すことを求めたいものです。
 2024年7月14日
聖霊降臨節第9主日
破局からの救い
 『スザンナ・ウェスレーの祈り』より
 さいわいなあなたのみこころにゆだね、
  そこにとどまり、全き力を見いだします。
  あなたの忠実なあわれみも。
 賛美の歌に囲まれて、
  すべてを贖い主におささげします。
 恵みの奇蹟を語り告げ、
  栄光のために生きるのです。
(メソジストと呼ばれる人々のための賛美歌集 326)

 ああ神よ、自分の人生を振り返ってみると、そこには苦しみよりはるかにまさったあわれみが、痛みよりも喜びがあることを見いだします。ありがとうございます。確かに肉体的な弱さや痛みのために苦しみましたが、そのような時にも安らぎを得ることができました。あなたの全きいつくしみは私の苦しみのうちに働いて、霊的で永遠なる喜びをもたらしました。私は強情で、すぐに目の前のことに心を奪われ、あなたの御霊に不忠実な者です。そのために、人生の苦しみから得るはずの益を刈りそこなったこともありました。わたしがしてきたことに対する言い逃れや愚かな反抗にもかかわらず、あなたは決して私を捨て去ることをなさいませんでした。このことを心から感謝します。主よ、あなたに栄光がありますように!
アーメン。
 2024年7月7日
聖霊降臨節第8主日
復活の希望
  「彼ら(最高法院)の中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです」(24:21)とパウロは弁明しています。パウロが最高法院でこう叫んだことで最高法院は混乱しました。なぜならサドカイ派は「復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めてい」たので、議場は復活支持派と反対派の激論になり、心配したローマ軍の千人隊長によってパウロは兵営に連れて行かれたのでした。サドカイ派を中心としてパウロ暗殺が企てられましたが、千人隊長はそれを知り、夜のうちにカイサリアに向けて護送し、総督フェリクスの裁判を受けさせたのでした。
 さて、パウロは『ナザレ人の分派』と呼ばれる派の一員であり、その信仰内容は「先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ」「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」を抱いていると述べています。しかもこれは告発する者たちも同じだと言っています。
他者に対して「分派」とか「異端」とか決めつける前に彼らと自分たちとの違いは何かをよく検証すべきでしょう。
 パウロは「良心」という言葉を使っていますが、「信徒の友」7月号p77で古賀博師は良心とは「神さまのみ心を共にすることであり、神さまの方を常に見つめて歩むこと」と解説しています。パウロと最高法院の議員たち、同じ信仰を持っていると言いながらも、良心においてはだいぶ違うのではないか?自分自身は?
 2024年6月30日
聖霊降臨節第7主日
生命の回復
 今日の福音書では主イエスがカファルナウムで一人の役人の息子を生き返らせた話を読みます。そこでは「しるしを見たから信じる」のではなく「主の言葉を信じる」ことの幸いが強調されています。
 使徒言行録9章36節以下では、ヤッファに住む一人の女性をペトロが生き返らせたことが書いてあります。ヤッファは現在では、テルアビブ・ヤフォというイスラエル第2の都市で各国の大使館などがある事実上の首都になっています。聖書の時代にはヨナも使った港があり、現代は国際空港のある諸外国への玄関口になっています。
 この女性の本名は分かりません。アラム語でタビタ、ギリシア語でドルカス、日本語に訳せばかもしか(ガゼル)と呼ばれていた女性です。彼女は「たくさんの善い行いや施し」と言われていますから貧しい人々への援助だと考えられます。金銭の援助もさることながら、彼女はその賜物を用いて、数々の上着や下着を作っていたということなので、それもまた貧しい人々への奉仕として行われていたのだと考えられます。
 ペトロはタビタの死を聞くと、すぐにヤッファへ行きます。彼は遺体が安置してある部屋に入り、タビタの遺体と二人きりになり、ひざまずいて祈りました。ペトロ自身の力ではなくイエス・キリストの名の力によってタビタはよみがえりました。タビタの死ぬ前の生き方と、よみがえりとは多くの人々に主を証ししました。
2024年6月23日
聖霊降臨節第6主日
異邦人の救い 
 割礼のある者(イスラエル=ユダヤ人)は異邦人を「割礼のない者」と呼んで神から遠い者、神に敵対する者と考えてきました。
 しかし、キリストはこの両者を一つにしました。14節以下に神から遠く離れていた異邦人と、神の選びの民イスラエルが、キリストにおいて敵意の壁が取り壊されて一つにされたことが語られ、これこそがキリストの平和であるといわれます。ここで見逃しではならないのは、「キリストの血によって」(13節)、「ご自分の肉において」(14節)、「十字架を通して」(16節)と、言葉を替えてイエス・キリストの自己犠牲が強調されていることです。キリストの平和はキリストの犠牲による平和です。
 この平和の内容は、
・ユダヤ人と異邦人の敵意という壁の撤廃
・規則と戒律ずくめの律法の廃棄
・両者を一人の新しい人に造り上げる
・一つの体として神と和解させる
ということであり、その結果、
・両者が一つの霊に結ばれ神に近づく
・異邦人はもはや聖なる民、神の家族となる
・使徒や預言者を土台とし、イエス・キリストを要石として、人々が組み合わされて成長した神殿の中に組み込まれている。
ということです。
 「あなたがたは」という複数形に注目。信仰者個人個人というよりも、信じる者たちが編み合わされた教会を指しています。教会を神のおられる所とするのは聖霊の働きです。
2024年6月16日
聖霊降臨節第5主日
父の日
天のエルサレム 
 6月第3日曜は父の日です。1909年米国ワシントン州スポーケンに住むSonora Smart Doddさんは、教会で母の日の説教を聞いて男手一つで6人の子どもを育てた父親に感謝しようと、教会で父に感謝する会を開催することを地元の牧師会に要望します。翌年6月にこれが実現したのが最初の父の日です
 ヘブライ人への手紙12:18~21は出エジプトの旅の途中、モーセとイスラエルがシナイ山で体験した出来事を指しています。22節以下ではこれと比較して私たちイエス・キリストを信じる者の幸いを語ります。シナイでの体験が恐ろしいものだったのは、神の聖さに対して人の罪があまりにも深いものだったので、神の前に出ることがかなわないためです。イスラエルは燃える火、黒雲…など恐ろしいものと接していたのですが、…対して私たちは新しい契約の仲介者であるイエスと彼の血にアプローチすることができます
 シナイ山では神ご自身が語りました。十字架では神の独り子が語っています。預言者たちや使徒たち(そして牧師・司祭)のような地上で神の言葉を語る者を拒んで滅びを招くとするなら、ましてキリストの言葉を拒む者は!
 シナイ山では山全体が振動しましたが、次には天体全体が揺り動かされます。これは「揺り動かないものが存続するために、被造物が取り除かれる」ことになります。揺り動かない御国をもつことの感謝をもって神に仕えましょう。
 2024年6月9日
聖霊降臨節第4主日
信仰の道
 聖書には三位一体を直接言う個所はありません。けれども今日の個所なども三位一体につながる箇所と言えます。
 御子と結ばれている=イエスがメシア(キリスト)であると公に言い表す者は父なる神とも結ばれていると断言しています。
 初めから聞いていたこと=1:1~4参照。命の言葉であるイエス・キリストにとどまることが永遠の命であるとヨハネは語ります。これらを否定する者は偽り者です。
 偽り者は私たちのそばにやって来て言葉巧みに私たちを惑わせようとします。そのようなときに私たちが頼るべきは、人間の知恵ではありません。「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」。御子から注がれた油とは聖霊を指しています。御子イエス・キリストが天に昇り、御父と共におられた聖霊をお降しにになりました。聖霊は弁護者であり、慰め主であり、導き手です。この方は御子から私たちに注がれたとされています。東西教会の分裂の原因となった議論に聖霊発出論争があります。「聖霊は父から出て、父と子と共に礼拝され」というギリシャ語原文をラテン語に訳した際に「聖霊は父と子から出て…」としたのが原因でした。聖霊は父から出ますが、御子を通して私たちに与えられます。今日のところでは油と表現されています。私たちをキリストの香りを放つ神の子とする香油です。
 2024年6月2日
聖霊降臨節第3主日
神の民の誕生
 ニコデモ、ファリサイ派でサンヘドリン(ユダヤの議会)の議員でした。彼はイエスの所によるやって来ました。「夜」をどう取るか、ある人は「イエスを訪ねたことを人に見つからないように」と解釈します。別の人は「昼間は多くの人がイエスの周りにいてゆっくり話すことができないから」と解釈します。どちらも可能性はありますが、この日のイエスとの出会いがニコデモに大きく影響を与えたのは確かです。彼は7章でイエスに対して正当な裁判をすることを要求します。また、19章の葬りの場面では十二使徒たちが皆逃げてしまった中で、同僚議員のアリマタヤのヨセフが用意した墓に、ニコデモが用意した没薬と沈香を混ぜたものを用いて二人で葬ったのです。あたかも敵だらけのように見える議会にもイエスの弟子がいることは私たちを力づけます。
 今日の主イエスとニコデモの問答は新生についてです。「新しい生き方をしなければ天国に行けない」と言われてニコデモは「老人には新しい生き方などできない」と言うのです。確かに年を取ってから新しいことを身につけるのは難しい。最近は何でもスマホアプリで行えるようになりましたが、便利なようで、しかしスマホが使えない人には何とも不便です。
 水と霊とによって生まれるとは、キリスト者になるということです。洗礼者ヨハネは水の洗礼を授けましたが、キリストは聖霊によって洗礼を授けます。従って教会が行う洗礼は水をかけて完了ではなく聖霊の洗礼のしるしです。同時に水の洗礼は永遠の命へのしるしを付けたものであり新しい生き方への招きです。
 2024年5月26日
三位一体主日
真理の霊
 前の段落では避けるべき事として次のことが挙げられています。高慢→妬み、中傷、言い争いを引き起こします。
 求めるべき事は正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和が挙げられます。(信心と信仰はどう違う?他の訳では信心は敬虔と訳されています。つまり信心・敬虔は神・キリストへの私たちの態度、信仰は神・キリストをどのような方と信じるのかです)。
 パウロは「信仰の戦いを戦い抜け」と言います。戦って誰かを打ち負かすのでしょうか。信仰の戦いというのは、他者をやっつけることではなく、自分の内側での戦いです。イエスさまがピラトの面前でどのようになさったかがお手本としてあげられています。イエスさまはピラトから「お前はユダヤ人の王なのか?」と問われ、「わたしの国はこの世には属していない」と答えられました(ヨハネ18:33-36)。主イエスは権力を持つことではなく、真理を証しするために来られました。真理の証し者に徹することで永遠の命を得なさいとパウロは勧めています。
 パウロは愛弟子テモテに対して「神の人よ」と呼びかけています。聖書の中で「神の人」と呼ばれているのは、モーセ、エリヤなど預言者がいます。文字通りの意味で「神の人」というのはガブリエルですが、天使はさて置いて、ここでは「神の人」とは「神に召された奉仕者」と理解するのが適切でしょう。
 私達は自分で決断して洗礼を受け信仰の道に入ったのですが、それも選びの内です。
 2024年5月19日
聖霊降誕日
聖霊の賜物
 今日はペンテコステ、日本語では五旬節といいます。ユダヤ教の穀物の収穫を感謝する祭り。過越祭から50日目なので五旬節です。しかしキリスト教にとっては収穫感謝よりももっと大切な意味があります。
 それは天にお帰りになったイエスさまに代わって三位一体の第3位格である聖霊さまが地上に来てくださったことです。聖霊さまについて、今日読まれた箇所でイエスさまはいくつかの特徴を挙げておられます。「弁護者」、ギリシア語ではパラクレートス、傍らに立つ者という意味です。サタンが私たちの罪をあげつらって訴えるときに、聖霊が私たちの横に立って弁護してくださるイメージです。「真理の霊」、何が本当のことか、神が私たちに与えようとしておられることを示し、悟らせてくださいます。
 イエスさまは、18~21節でご自身と私たちの一体性を語っておられます。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節) しかしその前に聖霊さまと私たちの一体性が語られます。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるから」(17節)。
 聖霊さまが私たちと一緒に、私たちの内におられることによって、私たちとキリスト、さらに父なる神さまとの一体性が保証されます。父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊との一体性、そこに真実の平和がもたらされます。
 2024年5月12日
復活節第7(昇天)主日
キリストの昇天
 イエス・キリストはよみがえって死に打ち勝ちました。しかし40日ほど地上で弟子たちに現れた後、天に昇って行かれました。なぜ永遠に地上にいてくださらないのでしょうか?なぜ天に昇られたのでしょうか?
 先週は被造物である人間の体を持つ主イエスの代わりに聖霊を降し、私たちを通して主の働きを継続するためであることを見ました。
 今週は私たちを神のもとに迎えるため、ということについてです。
・心を騒がせるな 主が逮捕されたとき、ペトロは「イエスの弟子なんかじゃない!」と3度も言ってしまいました。どこまでも主イエスについて行くと心に決めていたのに!ペトロはそんな自分に動揺しました。また、イエスの弟子であることがバレてしまって今後どうなるのか?という懸念もあったでしょう。そんなペトロの心を見透かしているかのように主イエスは「心を騒がせるな」と言います。
・神を信じ、イエスを信じる 1節は14章全体にかかっていますが5節のトマス、8節のフィリポの問いへの答の総括でもあります。
・私たちの居場所 父の家には住む所がたくさんある。そこをイエスさまが私たちのために用意してくださり、しかも迎えに来てくださる。
5節以下のトマス、フィリポとの対話を見ると、私たちは既に神を見ていること、主イエスを見た者は神を見ているのだと言われています。ここには私たちが神と共に永遠に生きる確かな約束があります。イエスへの信仰の恵みです。
2024年5月5日
復活節第6主日
キリストの勝利 
 今週は9日がイエス・キリストが天に昇られたことを記念する昇天日です。そして来週は昇天礼拝とも呼ばれる礼拝です。今日読まれたヨハネ7:32~39は来週の朗読箇所なのですが、誤って今日の予告に載せてしまいました。そこで2週続けてキリストの昇天が何を私たちにもたらすかを主の言葉に聞きましょう。
 33節「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」が天にお帰りになることの予告です。当時の常識では、生きている人は皆やがて死に、陰府に降るのです。死んだ人が天に昇るという思想は旧約聖書にはおそらくありません(ヨブ記には復活思想の萌芽のようなものが見られますが)。弟子たちがこの予告の意味、また続く「見つけることができない」とか「来ることができない」ということの意味を理解できなかったのも当然です。
 肉体をもつ人である神イエス・キリストが天に昇られると、天から聖霊が送られてきます。人間としての独り子なる神は、人間としてその命をすべての人のための犠牲となさいました。次にはユダヤとガリラヤだけでなく、すべての人にその犠牲の効果が発揮されるようになる必要があります。主イエスが天に昇って(栄光を受けて)、次いで聖霊が主を信じる者たちに降ると、命の水が湧き上がります。聖霊は生きた水の川として一人一人を永遠にうるおし続けます。(ヨハネ4:14)
2024年4月28日
復活節第5主日
労働聖日 
 イエス・キリストの福音は聞き心地の良い言葉を聞かせてくれるものではありません。それに対する私たちの決断を促すものです。受け入れるのか拒むのか、選択を迫られます。それによって私たちのあり方が明らかになるようなことば、それが福音だということができます。
 世は主イエスを迫害しました。当時のローマで最も残酷な刑と言われた十字架にかけて主イエスを迫害しました。人々が主イエスを迫害したのであれば、イエスの弟子をも迫害するであろうといわれています。
 この福音書冒頭に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)ということばがあります。闇はすべてを覆い隠します。しかし光はすべてを明るみにさらします。
闇の中ではっきりしなかった罪を明らかにします。人間を照らす光である主イエスが地上に来られたことにより、人々の行い、振る舞いが明らかになっています。主を迫害した「人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる」。裏返すと、人々からどう見られるかは、私たちが何者であるかを明らかにする光でもあると言えましょう。
 キリスト者はこの世では迫害されるだけなのでしょうか。主はそうではないと言われます。「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」。その霊は私たちを通して証しをなさるのです。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいた」に注目しましょう。これは永遠の恵みです。
 2024年4月21日
復活節第4主日
弟子への委託
  主イエスはペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねます。「この人たち以上に」をある注解者は直前の大漁の記事を踏まえて「漁以上に」と解釈します。そうであるなら、漁師に戻ろうとしているペトロに主イエスの羊を飼うために主に従うことを求めているということになります。また、翻訳通り「他の弟子たちよりも」であるなら、使徒たちの中での序列第1位(教皇権)を確認することと取れます。
主イエスは3度「わたしを愛するか」と尋ねますが2度目まではアガパオーという動詞で尋ねます。聖書の中では神の愛を表すのに使われる動詞です。しかしペトロはフィレオーという動詞で答えます。これは友愛を表します。3度目は主イエスもフィレオーで尋ねます。神の愛で愛しきれない私たちに主イエスが譲歩してくださっているようです。3度というのはペトロがイエスさまを知らないと言った回数です。そうして、主の羊を飼う(キリストの教会を牧する)という大切な務めを託してくださいます。
 2024年4月15日
復活節第3主日
復活顕現(2)
 イエスさまはマグダラのマリアたちに「ガリラヤで会える」と言いました(マタイ28:7)。弟子たちはそれを理解してか、いやおそらく理解できないまま、ともかくガリラヤの漁師に戻りました。その晩、一晩中漁をしたけれど収穫はありません。そこに主がやって来て舟の右側に網を降ろすように言い、その通りにすると大漁になりました。そこで初めてイエスさまであるとわかりました。ルカは大漁の物語をペトロたちがイエスさまの弟子になるきっかけとして描きましたが、ヨハネは復活後のこととして描きます。他の福音書では「人間をとる漁師にしよう」と言われますが、実際に彼らが伝道者として立つのは聖霊降臨後です。主は彼らに人間をとる漁師としての使命を与えると共に、豊かな糧を備えていてくださいます。パンと魚の組み合わせは6章の「五千人の給食」の出来事を思い起こさせます。主への確信が強められます。
 2024年4月7日
復活節第2主日
復活顕現(1)
 今日の個所で主は「平和があるように」と3度言われます。1度目は手とわき腹を見せて十字架に架かられた方であることを示しました。弟子たちに平和が訪れ彼等は喜びました。
2度目は世の人々の罪を赦すための派遣の言葉と共に。主の十字架と復活は世の罪を除き平和を作り出すものです。そのために教会は遣わされています。罪が赦されずに残るために私たちは遣わされているのではありません。赦すためです。その使命のために聖霊を受けます。(教会の霊としての聖霊)
弟子たちに主が現れたとき不在だったトマスは、仲間たちの「主を見た」という証言を信じません。これが普通です。けれどもトマスの平和は復活の主を信じることによってもたらされました。「わたしの主、わたしの神よ」。先週のマグダラのマリアと同じように個人的な告白となっています。「見ないのに信じる人は、幸いである」という主の言葉は、私たちに向けられた言葉です。パウロ以後のキリスト者は肉体の目で見なくても、主イエスを見ることができます。
 2024年3月31日
復活日
キリストの復活
 日曜日は主の日・主日などと呼ばれます。これはイエス・キリストが復活した日だからです。日曜日のことを安息日と呼ぶ習慣もありますが、それは聖書的ではないと考えます。
安息日は天地創造を6日で終えた神が7日目に休まれ、人間も6日働いて7日目に休むようにされたことに由来します。従って週の7日目が安息日です。ユダヤ教徒は今日も州の7日目=土曜日に仕事を休み礼拝をします(キリスト教でもSDAセブンスデー・アドヴェンティスト教会は土曜を礼拝の日とします)。
 イエス・キリストは週の初めの日(日曜)の早朝に復活され、その後も日曜毎に弟子たちの前に姿を現しました。そこでキリスト教成立前のキリスト者は土曜はユダヤ教の礼拝に参加し、日曜にキリスト者だけで集まってイエス・キリストを礼拝(聖餐)していたのです。日曜が休日になったのはローマがキリスト教国になって以後で、休みでなくてもキリスト教の礼拝は日曜日に行われていました。
 今日の聖書の個所にはマグダラのマリアによる二つの報告が記されています。まず「主が墓から取り去られました」遺体が盗まれたという報告です。ペトロとヨハネが墓に駆けつけ確認し、復活するという主の言葉を信じて帰りました。第2は「わたしは主を見ました」です。彼女が自分に語りかけられた方が主イエスであることを知ったのは「マリア」と名前を呼ばれた時でした。主はマリアに神のもとに上ることを告げます。それは聖霊降臨につながります。
また復活の主に最初に出会い、人々に主の復活を告げ知らせたのは女性でした。
 2024年3月24日
四旬節第6・棕櫚の主日
十字架への道
  イエスさまが逮捕された時、弟子たちは皆逃げてしまいました。しかし、二人の弟子は後をつけて裁判が行われる大祭司官邸までやって来ました。一人はペトロ、もう一人は名が伏せられていますが大祭司の知り合いで、彼のコネで二人は中庭に入ることができました。
 ところが門番の女中にイエスの弟子ではないかと見とがめられ、否定します。中庭にいる人々は寒かったので炭火で暖を取り、ペトロもその中にいましたが、一緒にいた人々がペトロにイエスの弟子だろうと言いました。ペトロは再び否定しました。今度はペトロに片耳を切り落とされた男の身内の者が、その時の目撃証言をしましたがペトロは三度、自分はイエスの弟子などではないと否定しました。彼は13:37では「あなたのためなら命を捨てます」とまで誓いましたが、主は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告されました。その通りになりました。
 ペトロは本気で「命を捨てます」と言ったのですが、いざとなると保身が先に立つのです。それが私たちの姿ではないでしょうか。神を愛し隣人を愛せと言われても、やっぱり自分がかわいい。そんなペトロを、私たちを、主は受け入れてくださり、十字架にかかられました。
礼拝堂入口の濵﨑先生が描かれた絵の主イエスのまなざしをご覧ください。
 2024年3月17日
四旬節第5主日
十字架の勝利
 過越祭はユダヤ人にとって最も重要な祭です。イスラエル人がエジプトでの奴隷から解放された記念の祭です。エジプトでの辛い経験はイスラエル社会の中にいる異邦人とどのように付き合うべきかについての律法に現れています(レビ19:34)が、その精神は主イエスの時代のユダヤ人に生きていたかどうか?彼らは異邦人との接触を穢れと認識していました。
 過越祭には世界各地からユダヤ人がエルサレムに集まります。また異邦人も集まってきます。異邦人がどれほどユダヤ教の神を信じていたのかは不明ですが、イエスさまに会いたいという異邦人もいたようです。彼らの希望を聞いたフィリポは困ってアンデレに相談、2人でイエスさまに伝えました。
 イエスさまの答えは答えになっていないように見えます。ご自分が栄光を受ける時=受難の時が来たというのです。天からの声は他の福音書では3人の弟子と高い山の上にいた時に聞こえた声とされています。ここでは弟子以外の多くの人々もいたとされていますが、彼らには雷鳴のように聞こえただけでした。そして主の十字架がこの世への裁きであることが解き明かされます。同時に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と語られます。イエスさまに会いたいと言ってきた数名のギリシア人、彼らも主イエスのもとへ引き寄せられるのです。「すべての人」と言ってもイエスのもとに引き寄せられるのを拒むことは可能です。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさいと、主の招きは私たちの決断を促しています。
2024年3月10日
四旬節第4主日
香油を注がれた主 
  24日は棕櫚の主日、受難週に入ります。31日がイースター。今年はこの日にコロナの期間中お休みしていた餅つきを行います。
 ベタニアはエルサレム近郊の村で、イエスさま一行はこのマルタとマリアの家に泊まってエルサレムに往復したようです。11章では彼女らの弟で病死したラザロをよみがえらせたことがファリサイ派と祭司長たちの危機感を募らせ、イエスさまを指名手配しまいた。その後、イエスさま一行はまた彼女らの家に行きました。マルタはもてなしのために忙しく立ち働いていました。ラザロは弟子たちと共に食卓に着いていました。
 マリアはナルドの香油を1リトラ持ってきてイエスの足に塗って自分の髪で拭きました。ナルドはおみなえし科の宿根草、漢方では甘松香というそうです。リトラはリットルの語源ですが体積・容積ではなく重さの単位で、1リトラ=328gです。アマゾンでナルドの香油の値段を調べたら15mlで4500円ほどでした。仮に水と同じ1cc=1gであれば10万円近い値段です。イスカリオテのユダのいう300デナリオンであれば、労働者の300日分の給料で年収ほどになります。それを全部イエスさまの足にかけてしまった。マリアはどういうつもりだったのでしょう?おそらく何も考えていなかったのだと思います。もったいない、無駄なことというのはその通りでしょう。しかし、イエスさまはマリアの行為をとがめません。「葬りの日のため」の準備として感謝をもって受け取られました。経済的な価値ならユダの言う通りでしょう。けれどももっと大事なことをマリアはしました。
 2024年3月3日
四旬節第3主日
受難の告知
  直前のヨハネ6:52からの段落でイエスさまは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃいました。この言葉に多くの弟子たちが躓きました。明治にプロテスタントが日本に入ってきた時には「ヤソは人肉を喰らい、人の生き血をすする野蛮な宗教」と言われたそうですが、今でも主イエス・キリストの体と血に与る聖餐の意義は理解しにくいのではないかと思います。
 今日の箇所63節では「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われますが、この言葉によってまた多くの弟子たちが離れ去っていきました。
 それでは理解できればイエスさまから離れなかったのでしょうか?残った12弟子はイエスさまを理解していたのでしょうか?残念ながら必ずしもそうとは言えません。
 シモン・ペトロが素晴らしい信仰告白をしました(68~69節)。けれどもマタイ16:17ではペトロに信仰を与えたのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とイエスさまはおっしゃっています。主はさらに12人の「中の一人は悪魔だ」と指摘なさいました。イスカリオテのユダは、イエスさまは自分が期待したメシアではないということをいち早く理解していたのだと思います。だからイエスさまを銀30枚で売り渡したのでしょう。
 イエスさまを知るには、人間の理性・思いを超えた聖霊の働きに委ね、神の霊の言葉として主の教えと業とを示していただくことです。
2024年2月25日
四旬節第2主日
メシアへの信仰 
 「病や障がいは罪(業(ごう))の結果だ」という考え方は宗教を問わずにあります。古代のユダヤ教にもありましたし、比較的最近では「エイズは性的な罪の結果」と考えるキリスト者もいました。ヨハネ9章では通りがかりに出会った生まれつきの盲人は本人の罪の結果か、親の罪の結果かというという議論があり、主イエスはどちらも否定し、この盲人を通して神の業が現れるためだと言って、盲人の目をいやしました。ところがファリサイ派の人々はこの日が安息日であることを問題にしました。安息日の律法を守らない者が神から来た者であるはずがない。そう言って彼の目を開いたのが誰であるかを問いました。彼らは安息日の律法を守るとは「何もしないこと」でした。神から来た者でなければあんなことはできないと考える人もいました。しかし主イエスの論点は明確です。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4、ルカ6:9)と問うています。安息日であろうと無かろうと愛に生き、平和を作り出すことが神の御心に適うことだと主イエスは教え、そのように行動しています。
 ファリサイ派の人々は盲人だった本人に、またその両親にしつこく問いただします。本人の答えが9:25です。難しい議論はわからない。しかし、目が見えなかった者が今は見えているこの事実。しかし肉体の目は見えていても霊的な目、神を見る目のくもった宗教者!
2024年2月18日
四旬節第1主日
荒れ野の誘惑 
 先週の水曜からレントに入りました。レントは復活までの主日を除く40日の期間で、その初日が「灰の水曜日」です。四旬節の初日に、前年の四旬節で使った棕梠の枝や十字架などを焼いて灰にし、その灰で額に十字を描いたことが由来です。この期間は悔い改めの期間であり、洗礼の準備の期間でもあります。
 主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その後、ヨハネが捕らえられるとユダヤを離れて故郷ガリラヤへ戻り、独自の宣教活動を始められます。しかし、その前に、40日間の断食とサタンによる試みの時を経ることになります。サタンによる試みは3つでした。
①「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスさまは本当に神の子なのか?神の子なら神と同様全能では?しかし大事なことは超能力や食糧問題よりも神の言葉によって生きることだと主イエスは答えました。
⑤「神の子なら、飛び降りたらどうだ…」今度は詩編91の言葉を使って誘惑します。サタンは聖書をよく知って悪用します。この時飛び降りる必要はありません。神は信頼すべき方で神を試してはならない。これも聖書の言葉によって主イエスは答えました。
③「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」サタンの本性です。人を神から引き離して自分の支配下に置こうとします。主イエスの答えは申命記6:13です。サタンに打ち勝つための答えはすべて聖書に記されています。
 2024年2月11日
降誕節第7主日
信教の自由を守る日
奇跡を行うキリスト
 「五千人の給食」の話は四福音書全てに記されています。主イエスは湖を舟で渡って向こう岸へ行きました。おそらくカファルナウムからベトサイダへでしょう。マタイによると洗礼者ヨハネの死を聞いて一人で祈るために退いたのです。またマルコによると、宣教活動から帰ってきた弟子たちを休ませるために退いたのです。ところが多くの人々が主イエスを追いかけてきました。病人や数々の悩みを抱えていた人も多かったでしょう。主は一人で祈ること、あるいは弟子たちを休ませることを断念せざるを得ませんでした。
 この人々は5章でベトザタの池にいた病人やその他多くの病人を主イエスがいやした「しるし」を見てついて来た人々です。そして今度は五千人もの人を五つのパンと二匹の魚で満腹にした「しるし」を見て、イエスを「世に来られる預言者」と認め、王にするために連れて行こうとしました。
 けれども、残念ながら彼らはしるしを見て信じはしましたが、正しく信じる事ができませんでした。6:66では弟子たちの多くがイエスを離れたとかいてあります。それでも、確かに彼らは主イエスが分け与えたパンを食べたのです。彼らが食べて余ったものが12籠いっぱいになったとあります。福音が全世界に広がることを指しています。「少しも無駄にならないように」。こうしてユダヤの民衆が余した福音は全世界の民に開放されていきました。
 2024年2月4日
降誕節第6主日
いやすキリスト
 今日の個所、4節がありません。翻訳の底本とした古い写本にはないのですが、他の写本を見ると「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」というのがあり、これが3節後半と4節になっています。この記述からは間歇泉のように感じられますが、この池は元々温泉ではなく、紀元前8世紀に雨水を貯めるために作られ、紀元前200年に拡張されました。そして紀元前1世紀に癒しの泉とされたものです。従って、3節後半と4節は紀元前1世紀以後の伝承だと思われます。
 ここで歩けない人をイエスさまが癒しました。それが土曜(安息)日だったので、ユダヤ人たち(律法を重視する人たち)が怒ったのですが、それはイエスさまが病人を癒したからではなく、癒された人がイエスさまの言葉に従って床を担いだことが「労働」として咎められたのです。
 床を担ぐということは、自分の居場所に責任
を持つということでしょう。この言葉は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)を思い起こします。イエスさまに従うことは、一方では「自分を捨てる」ことであり、他方では、「自分の十字架を背負う」ことです。一方ではイエスさまに委ねることであり、他方では主体性を持って行動を選択していくことです。ここに信仰のダイナミズムがあります。
2024年月28日
降誕節第5主日
教えるキリスト
チャールズ・ウェスレーの賛美歌
快楽も富もほめことばも、
 とらわれの私の魂を迷わせません。
追い求めてきたものをみな、引き渡します。
私はあなたに、ただあなたに、従います。
私の求めはみな捨てて、
 みこころしか知らないことに決めたのです。
from A Collection of Hymns (1780) 323

スザンナ・ウェスレーの祈り
 ああ神よ、この信仰が私たちの生活を台無しにしてしまうほど、私たちを憂鬱にさせたり、気難しくさせたりしないことを、感謝します。信仰のない世界は人々に喜びや慰めを与えることができません。この世での楽しみは、私が心悩ませた結果得たものです。しかしその喜びですら、あなたの恩恵によっているのです。私が気難しくなったり、不機嫌になるのは、信仰によるのではありません。それは信仰に欠けているからです。。自分の失敗によって、気落ちしないように助けてください。そればかり考えて、無駄な時間を過ごすことがありませんように。それよりも、全き救い主に対して、私自身が誠実になることを覚えることができるようにしてください。確かな信仰によって、イエス・キリストのいさおしに依り頼むことができますように。心からの努力をしてあなたのみこころに従うことができますように。アーメン。
2024年1月21日
降誕節第4主日
宣教の開始
  ヨハネはイエスさまの最初の奇跡として、水をぶどう酒に変えた事を取り上げています。
 おそらくイエスさまの母マリアはこの婚礼で接待役を担当しています。「婦人よ(女よ)、わたしとどんなかかわりがあるのです」は冷たい対応に読めますが、皇帝アウグストゥスがクレオパトラに呼びかけた言葉も「女よ」だそうですから決してぞんざいな扱いをしているわけではなさそうです。「わたしとどんなかかわりが」は直訳は「私とあなたにとって何かあるか」で、二人の関心の違いが示唆されています。マリアは婚宴の接待役としての関心ですが、イエスさまは十字架(わたしの時)を見据えています。関心の違いを指摘しているけれど拒否ではありません。だからマリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。イエスさまはマリアの叫びにも応えています。
 水には多様な意味がありますが、ここでは律法で定められた清めに用いる水がめです。イエスさまはその水がめに水を満たすように言い、さらに満たした水を汲んで世話役に持っていくよう指示しました。それはぶどう酒に変わっていました。この奇跡は「世の罪を除く神の小羊」の犠牲による救いを象徴するものです。また、このぶどう酒は聖餐式において分け与えられるキリストの血をも暗示しています。
ユダヤ教的清めからキリストの犠牲による全ききよめへと置き換えられているのです。
2024年1月14日
降誕節第3主日
最初の弟子たち
  今日の個所は2つの段落になっていて、前半は洗礼者の弟子だったアンデレともう一人が主イエスの弟子になり、アンデレはペトロを主のもとに連れて来たこと。後半は主イエスがフィリポを召し、フィリポはナタナエルを主のもとに連れて来たことが書いてあります。いずれも弟子となる人と主の会話が記されています。
 アンデレたちの場合:彼らがイエスについていくと主は「何を求めているのか」と尋ねます。
あなたなら何を求めますか?マタイ6章では「何よりもます、神の国と神の義」ですね。彼らは主が泊まるところを知りたかった。主のもとに留まる(新改訳2017)ことを望みました。15章では主は「わたしの愛にとどまりなさい」と言っておられます。アンデレへの主の答えは「来なさい」です。英語の聖書を見ると“come and see”(来て見なさい)となっています。アンデレは兄弟シモンに「メシアに会った」と言って彼を主のもとに連れて来ます。
 フィリポの場合:彼は主に呼ばれて従いました。フィリポもナタナエルに主のことを告げます。旧約で預言されているのはナザレのイエスだ、と。しかしナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。確かに救い主はベツレヘムから出るのであってナザレからではありません。そのナタナエルを主は「まさにイスラエル人」と評しました。彼らはそれぞれに驚きをもって主に従いましたが、後にはもっと偉大なこと=主の復活と昇天を見ることになるのです。
2024年1月7日
降誕節第2
イエスの洗礼 
  諸報告に書いたように教会暦では1月1日は主イエスの命名日として祝われますが、教団では行事暦として「元旦礼拝」で、実際日本の多くのプロテスタント教会は「元旦礼拝」が行われます。これは日本の国民的宗教行事「初詣」をキリスト教に持ち込んだものと考えています。6日は公現日、元来は主イエスの洗礼を祝う日、後に東方の博士の礼拝を祝う日になりました。クリスマスの飾りはこの日迄。
 今日の聖書「世の罪を除く神の小羊」は教団口語式文の礼拝順序Ⅲで3回唱えるようになっています。普段は「イエス・キリスト、救い主」と言っても、祭壇上の犠牲の小羊の姿を連想することはないでしょう。しかし洗礼者ヨハネは30歳程の主イエスを見て、弟子たちにそう告げました。来週の箇所ですが、ヨハネの二人の弟子がヨハネの言葉を聞いてイエスの弟子になります。この部分は他の福音書とは異なります。福音書記者ヨハネは洗礼者ヨハネの証言に焦点を合わせているからです。洗礼者の証言は更に続きます。
 「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者は年長でイエスは年下、でも「わたしよりも先におられた」というのは福音書冒頭の「初めに言があった」を受けています。そして洗礼者ヨハネの活動はこの方と出会い、それを証しするためだったと述べます。
 この方は父なる神と共に初めからおられ、聖霊と共にあり、人々に聖霊による洗礼を授ける方、神の子であると洗礼者は証しします。

2023年「命の言葉」
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