日本キリスト教団 鈴鹿教会 命の言葉

「命の言葉」は礼拝説教の概要です。

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2023年12月31日
降誕節第1
東方の学者たち 
   最初にイエス・キリストの誕生を祝いにきたのは東方の占星術の学者だとマタイは伝えています。
 「彼方の国から」を歌いましたが、英語の歌い出しは We three kings of Orient are(私たち東方の3人の王は)です。西洋の伝統の中で「3人の王」になってしまったのですが、元は「占星術師たち」で人数は書いてありません。贈り物が黄金・乳香・没薬の3つなので3人ということになったのでしょう。
 ところで、イスラエルの伝統では夢や幻はありますが、星を見て何らかの行動を決断するという習慣(星占い)はありませんから異教の習慣です。「占星術の学者たち」と訳されている言葉はギリシア語でマゴイ(複数)、ラテン語でマギですが、語源はペルシアの宗教の中で祭司の職に就き、天文学ないし占星術に携わっていたメディアの一部族の名前で、そこから特に東方出身の天文学者、夢を解き明かす者、占い師がマギと呼ばれる(wikipedia)とのことです。
 彼らはエルサレムでヘロデに面会し、また祭司長や律法学者たちとも面会し、自分たちがユダヤにきた理由を説明しました。けれども王もユダヤ教指導者たちも一般市民たちも、キリストの誕生を祝うことはおろか確かめに行くことすらしませんでした。むしろ市民たちは政情不安を危惧し、ヘロデはイエスさまを亡き者にしようと考え、同年代の男の子を皆殺しにします。罪の恐ろしさを感じると共に、そのような罪さえも赦すイエス・キリストの十字架の愛をを思います。
2023年12月24日
降誕前第1
待降節第4主日
告知 
  「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」(ヘブライ10:1)
 今日はクリスマスです。クリスマスという言葉は「キリスト+ミサ」=「キリストの祭」という意味で、キリストがこの世に来られたことを祝う祭です。一つの宗教の教祖さまの誕生祝いではありません。ユダヤ教の律法が成し得なかったこと、私たちを完全な者とするために来られたのです。
 ヘブライ人への手紙10:5~10ではイエス・キリストが世に来て行われたことの本質を、詩編40篇を引用しながら短い言葉で言い表しています。「焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえ」は旧約聖書の律法の定めです。エルサレムの神殿では毎年大祭司がイスラエルの民のためにこれを執り行っていました。しかしそれは形骸化してきます。国家と宗教が一体化すると信仰は形骸化する傾向があると言えます。王の力を国民や周辺の国に誇示するための壮麗な礼拝が行われるのです。神はそのような礼拝、犠牲を喜ばれません。イエス・キリストが来られたのは国家的礼拝では失われた「神の御心」を行うためでした。神の御心は「愛」です。神があらゆる人々を愛しておられ、そのために独り子なる神を人として地に送られた。それがイエス・キリストです。この方は私たちが失ってしまった完全を取り戻すために、自らを献げられました(10節)。クリスマスの喜びは、キリストの犠牲により完全な人とされることの感謝です。
2023年12月17日
降誕前第2
待降節第3主日
先駆者 
  「主の日」と呼ばれる日は、神が決着を付ける日、あらゆる人の罪を裁く日として恐れられています。人は神の前に立つ時に、この世での地位も財産も名誉もすべて自分を飾り立てるものなしで自分の素をさらさなくてはなりません。神に対して自慢できることは何一つありません。ただ、犯した罪の数々が律法によって明らかにされています。それ故に「主の日」は裁きの日、わが身は高熱で燃える炉に投げ込まれる滅亡の日と恐れられていました。
しかし、神はいきなりその日を来させるのではなく、預言者=神の言葉を伝える者を遣わすと約束されました。
 エリヤは預言者を代表する者です。高い山で主が白く輝いた出来事、そこにいたのはモーセ(律法の代表者)とエリヤ(預言者の代表者)でした。今日の箇所では、エリヤのように神の言葉を語る者たちが神によって立てられ、御言葉が世界中で告げられると理解すれば良いでしょう。今日、全世界に教会が建てられ、神の言葉が語られています。この預言は既に成就しています。説教は人々を終わりの日に備えるようにと促します。しかし、それで救われるわけではありません。人を決定的に救うのは義の太陽とたとえられているイエス・キリストです。冷え切った心をとてつもない熱量で温め、人々を愛の行動へと促す力のある方です。キリストにはいやす力があります。そして癒し主であるイエス・キリストも既に来て、私たちを癒してくださいました。感謝して躍り出し、跳び回りましょう。
2023年12月10日
降誕節第3
待降節第2主日
旧約における神の言 
 イスラエルの王と書かれているのはアハブ(在位BC869-850)です。ユダの王はヨシャファト(在位BC873-848)です。イスラエルとユダはソロモンの死後に分裂したのですが、ある時には対立し、ある時には連合していました。ちょうどこの時はイスラエルとユダが連合してアラム(ダマスコ)と戦いました。22章を読むとアラムが敵としているのはイスラエルで、ユダは相手にされていません。当時ユダ王国はイスラエル王国に従属していたようです。
 ラモト・ギレアドはイスラエルの重要な町ですが、アラムに奪われていたのでイスラエル・ユダ連合軍で取り返そうとしたのです。この時ヨシャファトはアハブに神の御心を尋ねるよう進言します。400人の預言者が戦いの成功を預言しますが、ヨシャファトはこの預言者たちの言葉に納得せず、他に預言者はいないのかと尋ねます。ミカヤの名が挙げられました。しかし、彼は王の気に入る預言をしないので嫌われ招集されなかったのです。アハブは渋々ミカヤを招集します。家臣がミカヤに他の預言者同様戦勝を預言するよう言い含めます。
ミカヤの返事は上記の14節でした。ミカヤは家臣に言われた通りに言いますが、もちろん本心ではなく、アハブもそれはわかっていました。そして本当の神の言葉が告げられます。
・二人の王の信仰の違いに注目しましょう。政治的にはアハブが上位ですが、信仰的にはヨシャファトの方が明確です。
神の言葉を軽んじたアハブは流れ矢によって死にます。
あなたは聖書の言葉をどう受け止めますか?
2023年12月3日
降誕前第4 待降節第1主日
社会事業奨励日 
 預言者はイスラエルの歴史を振り返ります。4~5節:ヤコブ・ヨセフの時にエジプトへ行きました。ところが王朝が変わるとエジプトはイスラエルを迫害しました。BC722年にはアッシリアが北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国は滅亡は免れたものの大きな痛手を負いました。そしてBC587年ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、主だった人たちはバビロンへ連行され捕囚となりました。こうした事態を「主の名が常に、そして絶え間なく侮られている」ととらえています。神は御自身の民の神であることを知るようになる。それはつまり神の名=神が何者であるかを知ることになるということです。
 「『見よ、ここにいる』という者」、英語の聖書では "It is I" となっていますが、出エジプト記で神さまがモーセを召した時の自己紹介「わたしはある」"I am who I am." を連想させます。この方、あらゆる存在の根源であるお方が御自身を表してくださいます。そこに平和と救いがもたらされます。
 シャローム=平和ですが、私はヘブライ語の先生にシャロームというのは泉の水が湧き上がるように力に満ちている状態だと習いました。現代のイスラエルという国のやり方を見ているとその力は武力です。しかし神は武力でも経済力でもない仕方で実現します。ここではまたそれが明確に示されていませんが、神御自身が御子イエス・キリストにおいて痛みを引き受けることによる平和と救いです。
2023年11月26日
降誕前第5主日
収穫感謝日・謝恩日 
 預言者エレミヤは北からの災いを預言し続けていました。北からの災いとはバビロニアのことです。それは「神の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」すなわち国民を導くべきの王や政府の人々、あるいは祭司や預言者たちが堕落し、国民を正しく導こうとしないからでした。王も祭司や預言者も神の言葉に真剣に聞こうとはせず、根拠のない救いや平和を国民に説いていたのです。それはあたかも神風が吹くから大丈夫だと言って無謀な戦争に突き進んだ国のようです。現実はエルサレムは破壊され、民はバビロンへと連れて行かれることになります。「バビロン捕囚」紀元前587年、エレミヤの預言は現実となりました。
 けれども神はこのような指導者たちを放置しては置かず、罰すると言われるその一方で、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせ、新たに立てる牧者に牧させると約束します。
 その日には「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」
 この若枝、63番を歌いましたがエッサイの株から出たバラと言われています。彼は正義と恵の業を行うと約束されています。イエスという名は旧約ではヨシュアと書かれていますが「主は救い」という意味です。イエスさまこそが救い主、私たちを治める王です。
2023年11月19日
降誕前第6主日
救いの約束(モーセ) 
 族長物語は、神の恵みの選びを語りつつ、イスラエルの民がエジプトに移り住むようになる事情を語ります。それはエジプトから出てカナンへ行く旅の物語の準備でした。エジプトからカナンへの旅において(創世記のような族長ではなく)イスラエルの民全体が神の業を目の当たりにし、神との契約(律法)を結びます。
 ヨセフがエジプトに奴隷として売られ、ファラオに次ぐ権力者にまで上りつめることができたのは、当時のエジプトの王朝がヘブライ人と同じ西アジアにルーツを持つ民族だったからと考えられています。やがて王朝が変わるとヘブライ人は脅威と見なされ、強制労働を課せられたり迫害され、挙げ句の果てに男子が生まれたら殺せという命令がでました。
 あるレビ人の夫婦に男の子が生まれてしまいました。しかし助産婦は王の命令に従わず、ちゃんと出産させました。両親はもちろん隠して育てましたが、隠しきれなくなると、籠に入れてナイル川の茂みに隠しました。それを見つけたのは、エジプトの王女でした。王女も父王の命に従わず、自分の子どもとして育てました。しかも、乳母には実の母親を付けたのです。このような非道な命令にも関わらず、命を大切にする人々によってモーセは命を失わずに済みました。王女は「川から引き上げた(マーシャー)からモーシェー」と名付けましたが、イスラエルの民をエジプトから引き出す者として神が遣わした器でした。彼の名は彼が主から託された業を示すものです。
2023年11月12日
召天者記念礼拝 
  初めに「召天者」という言葉について。亡くなった方についてのキリスト教の信仰は「身体のよみがえりを信ず」です。霊魂だけが身体から抜け出して天へ行くということはありません。身体のよみがえりは、キリストが再び来てこの世界が終わり、新天新地(天国)が出現し、新しい身体を与えられてそこに入れられます。従って今は天国も地獄もなく、亡くなった方は「眠っている者」と表現されます。「召天者」は私たちの信仰によって世の終わりの出来事を先取りした表現です。
 今日読まれたヘブライ人への手紙11章は旧約聖書に登場する信仰者たち(16人以上)の列伝です。ことに遊牧民であったアブラハムの生涯は文字通り旅の生涯でした。父に連れられて古代文明都市ウルを去り、ユーフラテス川を遡上し、シリア北部のハランに定住しますが。父の死後は神に言われてそこを去り南へ向かい、カナンからエジプトの間を家畜の群れと共に旅し、故郷であるウルへ戻ることはありませんでした。彼らの住居はどこに行っても次の地へ旅立つまでの仮住まいでした。
 彼らの生涯は約束の地を目指しての旅立ったと言えましょう。ヘブライ人への手紙の著者はそれを「天の故郷」と呼んでいます。そんな人々の熱望を神は受け止めて下さり、彼らのために「都(ポリス)」を用意してくださっています。私たちも世を去ったこれらの方々と共に、天の故郷を目指して日々の歩みを進めましょう。
2023年11月5日
降誕前第8主日
堕落 
 創世記3章は神にアダムとエバが神の言葉に背き、最初の罪を犯したことを描きます。
 1章の終わりには「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。3章でエバをだます蛇も神の良い(野の生き物で最も賢い)被造物であり、善悪の知識の木ももちろん良いものだったはずです。被造物それ自体は決して悪くないのです。地震や洪水も人の住んでいないところでは災害とはなりません。
 蛇の言葉は微妙です。善悪の木の実を食べても「①死ぬことはない②神のように善悪を知るものとなる…」。彼らは食べても死ななかった。彼は930年も生きました。だから①は当たってます。②は元々神は御自分に似たものとして人を造られたのですから、神のように(全く同等とは言ってない)善悪を知るものとなっても不思議ではありません。
 ここでの問題は蛇でも木でもなく、人と神の関係です。人が神に対して従うか従わないかに絞られます。彼らは従わないという選択をしました。けれどもその結果は、目が開かれ(これは「神のように」だろうか?)自分たちが裸であることを知り、腰をイチジクの葉で隠しました。それまで隠す必要を感じなかったのに。また蛇との関係も敵対的なものになりました。
 こうして罪の結果は神との関係、人との関係、自然との関係にヒビが入ったのです。彼らはエデンの園から追い出されたのですが、それは被造世界の調和を破ったことが招いた結果であるというべきでしょう。それでも神は人と世界を救おうとキリストをお遣わしになります。
2023年10月29日
降誕前第9主日
創造 
 日本基督教団が採用している主日聖書日課は、英国のJoint Liturgical Group(合同典礼グループ)が990年に発表したものですが、クリスマスの準備期間を従来のアドヴェントよりも長く9回の日曜日を含む期間としています。今年は今日がクリスマス9週前に当たります。今週から創造、堕落…と神と人の物語が振り返られます。
 今日は天地創造の物語が主題となっています。つい先頃、教理の学び会で創造者なる神について学んだところで、出席された方は復習になります。
 「初めに、神は天地を創造された」ということは創造前には天地がなかったことになります。「無からの創造」と言われますが、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」ので、深淵・水がありました。混沌とは秩序がない状態です。無秩序の世界に秩序を生み出すことを意味しています。創世記1章が書かれたのはバビロン捕囚期とされています。国が滅び神殿という拠り所がなくなったユダの民がバビロンの地で新しい秩序を見出してアイデンティティーを形成していったことが創造物語に反映しています。
3点だけをここに記しておきます。第一は神が神自身でないもの、すなわち他者を作りだしたこと。第二は言(ことば)による創造、私たちはこれを愛による創造と言い換えても良いでしょう。第三は造られたものはすべてよいものとされ、祝福されました。他者性と他者を祝福する神の愛に焦点を当てて創造物語を読みましょう。
2023年10月22日
聖霊降臨節第22主日
天国に市民権をもつ者 
  ヘブライ人への手紙11章は「信仰の列伝」と呼ばれています。創世記4章のアベルの献げものから始めてイスラエルの偵察隊を匿った遊女ラハブ(ヨシュア記2~6章)まで、信仰によって生きた人々を物語り、32節以下でさらに多くの信仰者の名を挙げています。
 信仰に生きた結果、どうなったか?35節前半までは「国々を征服し…死んだ身内を生き返らせてもらいました」といいことが書いてありますが、35節後半からは「拷問にかけられ…石で打ち殺され、のこぎりで引かれ…」と酷い目に遭っています。しかしそんな目にあっても信仰に生き信仰に死ねたのは「更にまさったよみがえりに達する」ことが約束されているからです。
 ヘブル書の著者は旧約の信仰者たちは神に認められてはいるものの完全ではなかったと言います。それに対して私たちは完全な状態に達するのだと言います。旧約の人々と私たちの違いはイエス・キリストを知っているかどうかです。旧約の人々は神の言葉による約束や律法によって信仰の道を走り通しました。それはでこぼこがあったり、あるいはどこが道なのかわからなくなるような所もあったでしょう。それに対して私たちの道はイエス・キリストが通られた道です。イエス・キリストによって切り拓かれた道です。一人一人のコースは違うかもしれません。しかしその先には主イエスがおられます。大事なことはそのイエスから目を離さないことです。信仰は彼によって始まり、彼によって完成します。
2023年10月15日
聖霊降臨節第21主日
審きの日 
 パウロは紀元49年か50年頃に始めてヨーロッパに渡り、マケドニア州フィリピで伝道し(使16章)、ヨーロッパ初の教会ができました。フィリピの信徒への手紙はそれから10年余り経った頃にローマの獄中で書かれました。宛先が「監督たちと奉仕者たち」となっています。監督は現在の用語では司教・主教ですが、フィリピという一つの町に複数の主教がいることはありませんから、ここでの監督は長老(現在の用語で牧師・司祭)を指します。奉仕者は現在の用語で執事・助祭(使6章)です。
 フィリピの信徒たちは物心両面でパウロの伝道を助けました(Ⅱコリ11:9)。パウロは喜びをもって、神に感謝しフィリピの人々に感謝し祈っています。その祈りは9節以下に記されています。「知識と洞察力」を身に着けること。その目的は「愛がますます豊かになる」と共に「本当に重要なことを見分けられる」力を持つこと。そして「キリストの日」に備えて「清い者、とがめられるところのない者となる」ことです。「キリストの日」はⅠコリ1:8でも「主も、あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」とされています。このような約束があり、それを待ち望んで生きているから、クリスチャンを「聖なる者たち」ということができるのです。待ち望んで生きるとは、寝て待つことではありません。パウロは「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」(Ⅱコリ7:1)。
私たちの主体的な応答が求められています。
2023年10月8日
聖霊降臨節第20主日
弱者をいたわる 
 パウロの(名による)手紙は13ありますが、その中でフィレモンへの手紙は章分けがなく25節のみ(ユダの手紙と同じ節数)です。新約学者松本卓夫は「パウロの手紙の中には、この手紙程度の長さのものはたくさんあったであろう。しかしなぜこの手紙だけが正典として残ったのであろうか。相当な重要性があったに違いない」(『ピレモン書注解』1928年)と述べています。
 内容は、かつてフィレモンの所にいて(フィレモンに迷惑をかけたが)、今はパウロのもとにいて名前通り「役に立つ」者となっているオネシモをフィレモンのもとに送り返すにあたって、オネシモを兄弟として迎えてほしいという要望です。
 一般的な解釈は次の通りです。オネシモはフィレモンの奴隷だったがフィレモンのもとから逃亡した。やがてパウロのもとで信仰を持ち、パウロの手助けをするようになったが、パウロは元々の所有者であるフィレモンの許可を得るためにこの手紙を書いた。
 世真留教会の臼田宣弘牧師は、フィレモンは家の教会(2節)の牧会者で、オネシモはその教会にいたが、フィレモンのもとを去って、やがてパウロの手伝いをするようになったと理解します。
 いずれにせよ、フィレモンとオネシモの間には何らかのトラブルがあったことは確かですが、パウロはオネシモの非を赦して迎えるよう頼んでいます。オネシモはやがてエフェソの主教になったと考えられています。
2023年10月1日
聖霊降臨節第19主日
金持ちと貧者 
 新約聖書には何人かのヤコブが出てきますが、この手紙のヤコブは主の兄弟ヤコブと考えられています(ただし多くの学者は主の兄弟ヤコブの名を使って別の人が書いたと考えている)。主の兄弟ヤコブはエルサレム教会のリーダーで律法を大事にする人でした。8節以下にそのことがうかがえます。しかしそれ以上に、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」というイエス・キリストの福音が提示されています。
 ヤコブはこの福音に関わる具体的な問題を提起しています。「あなたがたの集まり」とはどのような集会でしょう?この時代にはまだキリスト教の教会堂は存在しません。ことにエルサレムのキリスト者たちは土曜日にユダヤ教の会堂で礼拝し、日曜日にはイエスを信じる者たちだけで誰かの家に集まって夕食会(その中で聖餐式)をしていました。おそらくそのような家庭集会の場のことでしょう。
 6節で「あなたがたは、貧しい人を辱めた」と言っているので、2節は実際に起きた事と見て良いと思います。現代の私たちの教会ではどうでしょう?貧しい人に対してぞんざいな扱いはしないとしても、地位の高い人に対しては他の人たちよりも丁重なもてなしをするかもしれません。丁重な扱いが悪いのではありません。誰に対しても神が愛をもって作られた人格として丁寧に対応したいものです。
2023年9月24日
聖霊降臨節第18主日
世の富 
 教会の戦いは、時の権力者による弾圧との戦いもありますが、多くの場合、教会の内部から出てくる異端的な教えとの戦いです。
 今日の個所では金銭の欲が問題とされています。9月10日の礼拝でよまれたコリントの信徒への手紙2ではパウロがコリントの教会から謝儀を受け取らなかったことが問題とされてました。献金額の多さ、謝儀の多さは教会の熱心さの証しであるかのように思われがちです。確かにそういう部分もないわけではないかと思います。しかし同時にそこには健全な福音から外れていく落とし穴が待ち受けています。主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)と教えられました。キリスト者はただ神に仕える者です。
 それは「主イエス・キリストの健全な言葉」「信心に基づく教えにも従」う道です。ところが信心(信仰)を利得の道と考える人々がいます。あたかも信仰をドラえもんのポケットのように考えます。けれどもそれは、神を自分の利益のために利用することであり、神に仕えることと真逆です。
 信仰は神にあって「満ち足りることを知る」ことです。私たちは裸で生まれ、裸で地に帰ります(ヨブ記1:21)。究極的には「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」。信仰者が求めることは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和です。そのような生き方こそが永遠の命です。
2023年9月17日
聖霊降臨節第17主日
新しい人間 
  「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」とヘブル書12:14(口語訳)に書いてあります。そこで、さまざまな聖会や修養会に行ったり、修行をしたりする人がいます。しかし今日の所では「あなたがたは聖なる者とされている」と明確に言われています。
聖なる者とは「神に属する者」です。この世の基準による倫理的・道徳的属性を身に着けていることとは別のことです。大胆に言えば、性格的な弱さを持っていて流されやすい人は罪を犯しやすい傾向があるかもしれませんが、それでもキリストによる救いの中にあるならば、聖なる者なのです。
 「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」ているから「聖なる者」なのではありません。聖なる者なのだからそれらを身に着けるよう勧められているのです。この順序は重要です。十戒も神がイスラエルをエジプトの奴隷から救い出したという事実が先にあって、だから「他に神があるはずがない」と続きます。
12節に続いて、赦し合うこと、愛の絆が全てを完成させること、キリストの平和で心が支配されること(この平和に与ることが教会に招かれた目的!)が求められます。この平和のうちに生きる者の口からは感謝と賛美が出てきます。
「詩編と賛歌と霊的な歌」によって神をほめたたえること、私たちが神を歌うには多様な歌で讃えることが相応しいのです。私たちの会話にも行為にも神への感謝が滲み出るように!
2023年9月10日
聖霊降臨節第16主日
十字架を背負う 
 ガラテヤの信徒への手紙はローマの信徒への手紙と並んで、パウロの思想が最もよく表れている手紙です。特にこの手紙では異邦人キリスト者と律法について述べられています。
 先週、パウロの使徒性を否定し、パウロの伝えた福音とは異なる福音を伝えてコリント教会を混乱させた偽使徒たちがいたことをお話ししましたが、ガラテヤ教会でも同じです。
 彼らはイエス・キリストの十字架の死の意味をよく理解せず、キリスト以前の道、すなわち律法を守ることによって神の前に義とされることを異教から回心した人たちに要求しました。その象徴的なことが割礼です。人は割礼を受けてユダヤ人、律法の民となります。そして割礼を受けた者であることが彼らの誇りでした。
 パウロは、律法は人の罪深さを教えるけれど人を救うことはできないと教えました。ただ、イエス・キリストの十字架の死──それはユダヤ人に対しても異教徒に対しても、人の罪を引き受けての死でした──だけが人を救いうると教えました。
 イエス・キリストが十字架に死んだことで、彼を信じる者はキリストと共に十字架に死んだのです。世がキリストをはりつけにしたので、私もはりつけにされたのです。こうして世に対して死んだ者はキリストにあって新しく創造された者となります。新しく創造された者が「神のイスラエル」です。律法によって己の義を立てようとする者はもはや神のイスラエルではありません。己の義を捨てて、キリストの十字架をのみ誇ることにしましょう。
2023年9月3日
聖霊降臨節第15主日
神からの誉れ 
  「自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか」はやや理解しにくいかもしれません。しかし、パウロがコリント教会から報酬を得られず天幕作りで生活費を稼いでいるのは伝道者として無能だからだ、という非難があったようです。パウロの反対者たちは雄弁によって信徒たちの財布の紐を緩めさせることをもって良い説教としていたようです。そうして立派な教師として振る舞うのです。
 11節も変わった言葉です。「わたしがあなたがたを愛していないからだろうか」。このようにパウロがコリント教会で無報酬で福音宣教しているのはコリント教会を愛していないからだろうか、というのです。ある人によれば、カリスマ的でカルト的な指導者のもとにいれば、そのような心理的状態に陥ることがあるといいます。
パウロは何を言われようとも、彼のやり方を変えるつもりはないと言います。彼を陥れようとする偽使徒たちがいるからです。
 13節以下は彼らに対する厳しい批判の言葉になっています。「サタンでさえ光の天使を装う」サタンが黒い装束で槍を持っていると思ってはいけません。いかにも善であるかのように装っているものです。また、私たちはそのようなものにだまされやすいという面もあります。それ故に「霊を見分ける」力が必要です。
 何よりも、イエスさま自身がへりくだって、決して自分はキリストである・王である・神であるなどとは言われなかったことを思い出しましょう。
2023年8月27日
聖霊降臨節第14主日 
【聖書アプリ】  
聖書を持ち運ぶ、重いですね。私が前にいた教会では教会に置いておく聖書と、自宅に置いておく聖書を持っている方が多かったです。私は高校~大学生の頃、電車の中で聖書を読むことが多かったので、小型の聖書を持ち歩いていました。今も車の中に薄型横書きの聖書があります。しかし、歳を取ってくると小さい聖書は字が読めなくなってきます。
 そんな時に便利なのがスマートフォンやタブレットの聖書アプリです。たいていのアプリは文字サイズが変更できますので、見やすい大きさに設定できます。YouVersionというアプリは新共同訳があり、読み上げてくれます。新改訳2017の場合は「聴くドラマ聖書」がおすすめ。これも無料で、「大和田伸也さん、奥田瑛二さん、井上芳雄さんをはじめとする有名俳優、声優が出演」しています。
 聖書研究用に多くの言語の聖書や辞書・注解書と連動させることのできるアプリもあります。ただ聖書本文は新共同訳もあるのですが、辞書や注解書などは英語のものになってしまいます。
2023年8月20日
聖霊降臨節13主日
信徒セミナー 
  【教派の流れ】東海聖会報15号より
 日本基督教団は1941年、日本のすべてのプロテスタント教会が合同した教団です。当初は35の旧教派を11部に分けていました。ウェスレーに由来を持つ教会は第2部:メソヂスト3教団、第6部:日本聖教会、第7部:日本伝道基督教団(日本イエス・キリスト教会など7教団が合併)、第8部:日本聖化基督教団(自由メソヂスト、ナザレン等4教団の合併)、第9部:きよめ教会、日本自由基督教会。第10部:日本独立基督教会同盟会など、第11部:救世団。
 1942年6月26日、旧ホーリネス教会の教職96名が治安維持法違反で検挙され、ホーリネス弾圧が始まります。201教会と63伝道所は解散させられました。教団は解散させられた教会主管者や廃止となった伝道所代表者に自発的辞任を勧告し、その他の両部教師に謹慎を命じました。これらの教団の処置に関して、1986年の第24回教団総会で「旧6部・9部教師および家族、教会に謝罪し、悔改めを表明する集会」が催され、後宮議長が「謝罪と悔改めの表明」を述べました。
 戦後、教団を離脱して旧教派を再建したりした教会が相次ぎましたが、教団に残った教会も多くあり、伝統を掲げてグループを形成しています。ウェスレーの伝統を継ぐ教会のグループとしては、ホーリネスの群、活水の群、更新伝道会(メソヂスト系)があり、それぞれ独自の活動をしながらも協力し合っています。特にホーリネスの群は自前の神学校を持ち、更新伝道会はウェスレー研究会を開催し、活水の群はバックストンの伝統を堅持しています。
2023年8月13日
聖霊降臨節第12主日
主の来臨に備える 
  テサロニケとマケドニア州、アカイア州の位置は聖書の後ろの地図「9 パウロのローマへの旅」で確認できます。陸上交通でも海上交通でも重要な場所で、パウロの時代にはマケドニア州の州都として栄えていました。パウロとシラスはここで数週間伝道し、多くの人がイエスをキリストと信じましたが、同時に多くのユダヤ人がパウロの妨害を始めたため、テサロニケから退き、ベレヤを経てアカイア州のコリントへ行きました。やがてテモテがテサロニケの様子をパウロに報告し、それを聞いて書いたのがこの手紙です。
 パウロは妨害者たちによって、テサロニケの教会が消滅してしまったのではないかと心配しましたが、むしろ模範的な教会になっていました。それどころか、テモテやその他の人々によって彼らの信仰が各地の教会に知らされていました。パウロはそれを喜んでいます。
 福音は聞くことから始まります。聞いて偶像を離れてまことの神に立ち帰り、日々神に仕える生活に入ります。それで終わりではなく、御子が天から来られるのを待ち望むようになる。この希望が日々の生活の力になります。
 信仰者を襲う敵として虚無があります。サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」が現代人の虚無感を描いています。けれども、聖書的なキリスト来臨への待望は、信仰にリアルな体験をもたらすものです。
2023年8月6日
聖霊降臨節第11主日
隣人 
  ローマ12:9~21に新共同訳は「キリスト教的生活の規範」という小見出しを付けています。キリスト教的生活とは愛による生活です。「愛には偽りがあってはなりません…兄弟愛をもって互いに愛し」と始めて、その後には数々の具体的な愛の行為の勧めがあります。
 また、この段落は「善」を強調しています。冒頭で「悪を憎み、善から離れず」、そして最後は「善をもって悪に勝ちなさい」と締めくくっています。
 具体的に見ていくと、対人関係においては、(10)兄弟愛、尊敬。(13)聖なる者たちを経済的に支えること、旅人をもてなすこと。(14)迫害者のために祝福を祈ること。(15-16)共感すること。(19-20)復讐するのでなく、むしろ敵対する者に親切にすること、などが上げられています。10節には「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」16節「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と書かれています。上から目線で人を見ることを戒めています。
その線では「聖なる者たちの貧しさを自分の者として」や「身分の低い人々と交わりなさい」が該当します。
 18節の「できれば、せめてあなたがたは」という表現に平和の難しさをパウロがよく知っていたことが現れています。新改訳2017では「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」と訳しています。世界平和に貢献するなどというと難しそうですが、自分の近くの人を隣人として愛することをできるよう祈りつつ力をいただきましょう。
2023年7月30日
聖霊降臨節第10主日
苦難の共同体 
  「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」。義とは正しいことですが、ここで言うのは世で言う正義ではありません。献金の所で歌いますが「神の国と神の義を求めなさい」の義、つまり神との関係における正しさです。人々との関係は大切ですが、人を恐れて神の御心に背いて生きるなら、やがて神の怒りに遭うでしょう。しかし善い行いに熱心であるなら神さまからも人々からも祝福されるでしょう。もし、善行によって人から悪口を言われたり、邪魔されたりしたしても、悪を行って神さまに苦しめられるよりは良いのです。そしてキリストにある私たちの希望について、たずねられたら答えられるように用意しておきましょう。
 18節以下は難解な部分です。「肉では死に渡されたが、霊では生きる者とされた」とは?19節と4章6節は死んだ後でも救いを得られるという「セカンド・チャンス論」を主張する人々の根拠として用いられるところでもあります。コリント一15:29には「死者のために洗礼を受ける人たち」がいたことが出ています。パウロがそれに賛成していたか反対していたかは判然としませんが、紀元1世紀の教会ではそういうことが行われていました。
 本題に戻ると、18節以下では、キリストが正しくない者たちのために苦しんだこと、このキリストの苦しみがその死と復活を通して私たちを救うことを強調しています。22節、キリストが天で神の右におられることは、私たちが苦難を乗り越えて希望に生きることの根拠です。
2023年7月23日
聖霊降臨節第9主日
女性の働き 
  今日示された聖書はフィリピの教会にパウロが宛てた勧めの言葉の最初の2節です。その前に上に書いた1節があります。
 「主によってしっかりと立ちなさい」。人の立場はさまざまです。職場での立場もいろいろでしょうし、家庭で、地域で…、一人の人でもいくつもの立場を使い分けています。パウロは「主によって」立つことを命じています。これは教会での立場だけのことではありません。人生のあらゆる領域でキリストに贖われた者としての生き方が求められています。
 二人の女性の意見に対立があったようです。具体的なことはわかりません。またパウロはどちらが正しいとも言いません。ただ「主において同じ思いを抱く」ことを求めています。
この二人が対立を超えて同じ思いに立つために欠かすことができないのが「真実の協力者」の働きです。対立している二人を傍観したり、片方を捨てるのではなく、二人を支えることです。この二人はかつてパウロと共に福音のために戦ってきました。今は意見の対立がある二人ですが、それでもパウロにとって「喜び、冠である」人々です。
 教会での女性の働きは、実に大きなものです。女性が説教をしたり、聖礼典を執行することを認めない教会もありますが、そのような教会も女性なしで回っていかないでしょう。主イエスの時からそうなのです(ルカ8:1~3)。
 二人の女性がパウロの勧めにどう応えたか、自分ならどうするか考えてみましょう。
2023年7月16日
聖霊降臨節第8主日
キリストの心 
 今日の個所の1節、罪に陥った人を「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」はなかなか難しいことです。相手の誤りを指摘し、何が正しいことかを主張することは比較的難しくないかもしれません。けれども「柔和な心で、立ち帰らせる」のは難しいことです。相手を怒らせたり困らせたりしたなら、それは自分自身が誘惑に陥ったことになるでしょう。パウロは互いに重荷を担いなさいと勧めます。この言葉は主イエスの律法学者・ファリサイ派についての言葉、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4)を連想します。律法学者・ファリサイ派はいつも正しいことを言っている。主イエスもそれを認めています。でも彼らには愛がないのです。兄弟の重荷を担う、そこに愛があるとパウロは言います。キリストの律法は愛し合うことです。
 3~4節はうぬぼれを戒めています。高慢になることを戒めています。会社や地域での地位、教会でのお役目、さまざまなものが高慢の種になります。けれどもそれらは神の恵みによるものです。
 5節で自分の重荷を負うことを言って、続けて6節で御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物を全て分かち合いなさい、と続きます。レビ人が嗣業を持たなかった事と関係があると思います。
 7,8節、何を蒔いたかが収穫に直結します。
「善を行う」とは愛に基づく行為です。それは心の中の笑顔から始まります。
2023年7月9日
聖霊降臨節第7主日
三重地区講壇交換 
 エキュメニカル運動について
 歴史的な経緯から多くの諸教派に分かれているプロテスタント教会が、一致を目指そうという運動で、「世界教会一致運動」と訳される。20世紀初頭にこのような考えをもったプロテスタント各派の指導者らは1910年、エディンバラにおいて世界宣教会議を開催、その流れから1948年、「世界教会協議会」(WCC)が生まれた。WCCを基盤とした「エキュメニカル運動」は、信仰的にはリベラル(自由主義的)な傾向が見られたため、福音派の多くは加わらず、別に聖書的な福音信仰に立った一致の道を求めて世界福音同盟やローザンヌ運動に加わった。WCCにはプロテスタント以外に東方正教会も加盟しており、ローマ・カトリック教会とはエキュメニカルな交流・対話を続けている。冷戦時代に旧共産圏諸国の政府寄りの政策をとったWCCの政治的傾向、他宗教との対話路線の行き過ぎ、フェミニズム神学への傾倒などに対しては、批判の声も内部にあり、正教会は脱退の動きを見せている。一方でWCCは、従来関係の薄かった福音派、カリスマ・ペンテコステ派とも交流の道を探っており、一部のペンテコステ教会には加盟の動きもある。
[Word of Life] https://www.wordoflife.jp/より
2023年7月2日
聖霊降臨節第6主日
すべての人に対する教会の働き 
  今日の聖書の個所の直前の2~3節も読んでおきます。割礼を受けていない者と一緒に食事をする(交際する)ことはユダヤ教徒にとって、してはならないことでした。ペトロはイタリア隊のコルネリウス隊長のところに数日間泊まっていましたので、このことが問題とされたのです。そこでペトロはヤッファで祈りの時に見た幻とカイサリアにコルネリウスを訪ねた時の事を証しました。
 彼が見た幻は、天から風呂敷が下りてきてその中に入っているものを調理して食べろと言うのです。けれどもそれらはどれも律法で食べることを禁じられたものばかりです。ペトロは「清くない物、汚れた物は食べられません」と断ります。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と返事がありました。
 こういうやりとりがあって、コルネリウスの使者がやってきます。ペトロは使者に案内されてコルネリウスを訪ねます。
 そしてコルネリウスと集まった親類や友人たちにイエスの死と復活、イエスによる審判と罪の赦しを語り始めます。すると聞いている人たちに聖霊が降りました。そこでペトロは彼らに洗礼を受けるように命じました。
 教会に相応しい者、相応しくない者。私たちは自分の判断で決めてしまってはいないでしょうか?神は私たちを超える方です。
2023年6月25日
聖霊降臨節第5主日
個人に対する教会の働き 
  「ここをたって南に向かい…」。サマリアのリバイバルをペトロとヨハネに任せてフィリポは南へと向かいます。「たって」は「起きて・復活して」とも訳せましょう。サマリアを出たフィリポは任地を失った牧師的状態かもしれません。彼は「寂しい道」を歩いていました。新改訳2017では「荒野」と訳されています。荒野は主イエスが試練に遭い打ち勝った場所です。
そんな場所でキリストの福音が知られていない地の人との出会いが用意されていたのです。
 フィリポはエチオピア宮廷の宦官に出会いました。生殖器を切除することで高い地位を得ていた人です。女王の全財産を管理していたと言いますから、創世記でファラオの全財産を管理したヨセフのような身分です。彼はエルサレム神殿へ行きましたが、中には入れません。満ち足りないものを覚えたのでしょう。聖書を手に入れ、帰りの馬車の中でイザヤ書53章を読んでいました。フィリポはこの宦官の馬車に乗り込んでイザヤの預言したメシアは十字架で死に、3日目に復活したイエスであることを解き明かしました。
 それを聞いた宦官は言います。「ここに水がありま…。」新共同訳本文は37節がありませんが272ページにあります。「真心から信じておられるなら…」「イエス・キリストは神の子であると信じます」。これは初期の教会の洗礼式の定型文だと思われます。
 洗礼を受けた宦官はフィリポが消えた後も喜びと平安に満たされ帰国しました。エマオに向かいイエスに出会った弟子たちのように。
2023年6月18日
聖霊降誕節第4主日
キリストを信任する教会 
  エルサレム神殿の「美しい門」に座って乞食をしていた足の悪い男を、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って男の右手を取ると彼は躍り上がり歩き出しました。さっきまで歩けなかった男が躍り上がっているのを見て人々が集まってくるとペトロとヨハネは、「あなた方が殺したナザレのイエスこそ救い主だ」と説教を始めます。それを聞いてイエスさまを信じた男が五千人もいました。二人は捕らえられ翌日裁判に付されます。
 逮捕の理由はイエスが復活したと宣伝していたからでした(4:1-3)。しかし裁判ではいかなる権威によって乞食の足を癒したかという問題に変更されます。逮捕したのは復活を否定するサドカイ派ですが、裁判では復活を信じるファリサイ派の議員もいるので、復活の有無は争点にできないのです。しかし、使徒たちにとってはどちらでも同じ事でした。
 「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名による」。そしてイエスこそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』と詩編118:22を引用し、イエスの名の他に救いはないと断言します。誰もが知っている足が動かなかった男が現に歩き回っているので、議会はペトロとヨハネを処罰することもできず、今後イエスの名によって語ってはならないと脅すのみでした。しかし、炎の舌(聖霊)を受けた使徒たちの唇を止めることは出来ません。
 2023年6月11日
聖霊降臨節第3主日 
教会の一致と交わり
 ペンテコステの日、120人ほどが集まっていると一人一人に聖霊が降り、その物音で集まった人々にペトロが説教をすると、3000人ほどの人々が洗礼を受け教会の仲間に加わりました。ペトロの説教は先週読みました。今日はそれを聞いた人々のことを読みましょう。
◆イエスがキリストなら、私たちはどうすべきか
①悔い改める=イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただく
②悔い改めたなら:賜物として聖霊を受ける
主が招いてくださる者 誰にも与えられている
③つまり、邪悪なこの時代から救われなさい
◆洗礼を受けた人たちの生活
=使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心。
・財産を売り必要に応じて分け合った
 →隣人愛によって互いに助け合う
・毎日心を一つにして神殿に参る
 =教会の公の礼拝に熱心に参加
(当時はユダヤ教の中の一派)
・家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事=聖餐式はイエスと12弟子の過越の食事が起源。食事の中でパンとぶどう酒が取り上げられ、主の体、主の血として与った。
・神を賛美 これら全てが神を賛美すること。
週1回でなく毎日、仕事前か仕事後。
◆その結果 
民全体から好意を寄せられ、日々救われる人々を仲間に加え一つとした。
2023年6月4日
三位一体主日
教会の使信 
 聖霊が弟子たちに降った時、大きな音がしました。それに驚いて多くの人々が集まってきました。その人々に11人を代表してペトロがヨエル書3章と詩編16篇を引用して語りかけます。
 ペトロはまず、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」に、聖霊が降って皆がさまざまな言葉で語り出したことは、ヨエル書3章の成就であると語りました。
 続いて、「イスラエルの人たち(神の民)」に語ります。十字架にかけられて死んだけれども復活したナザレのイエスさまこそが、神から遣わされたメシア、救い主だと証しています。
 イエスさまが十字架にかけられて死ぬことは神さまが定めた計画の中にありました。イエスさまは死ぬことで死からの解放、復活を成し遂げられました。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった」とペトロは言います。そして詩編16篇を引用します。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない。」
これはイエスさまに関するダビデの預言だとペトロは解説します。
イエスさまを嫉み憎む人々による恐ろしい罪の行為すらも、神さまは救いの行為になさいます。教会はこのように罪を逆転し、どのような罪人をも救ってくださる神さまの恵みを語り伝えています。
2023年5月28日
聖霊降臨日
聖霊の賜物 
 先週のマタイ28:19で主イエスは使徒たちに「行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」と命じられました。使徒言行録1:8では「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と告げられました。
 今日の個所では聖霊が降り、弟子たちはさまざまな言語で神の偉大な業を語り出しました。これを聞いたのは①あらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人、②ユダヤ教への改宗者ですから、一応ユダヤ教徒に限定されているようですが、その人たちの出身地は中東、ギリシア、北アフリカという広範囲ですから言語も多様です。人々は皆自分の母国語で福音を聞いたのです。使徒言行録を読み進めていくと、ユダヤ教徒だけでなく異邦人=異教徒もこの福音を聞き、洗礼を受けるようになります。
 弟子たちがさまざまな言語を語り出したのは聖霊の働きですが、福音を聞いて弟子に加わるのもまた聖霊の働きです(使徒10:44-48)。その記事では「皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた」とあります。聖霊の賜物は選ばれた民、割礼を受けたユダヤ教徒しか受けられないと思っていたのです。
 しかし、創世記12章は神がアブラハムを選ばれた時に、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されました。神の祝福と救いは全人類へと開かれています。イエス・キリストの贖罪の死と復活を通して世界の人々が、一つの信仰によって無すがれるようにと聖霊は働き続けています。
2023年5月21日
聖霊降誕節第7 昇天主日
キリストの昇天 
  今日朗読された箇所は「大宣教命令」と呼ばれ、教会の使命が記されています。「行って、①すべての民をキリストの弟子にすること。②彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること、③使徒たちにに命じておいたことをすべて守るように教えること」です。
 ①は人をキリストと関係ある者とすること=伝道、②はそのしるしを付けること=儀礼、③はキリスト者としての生活を形成すること=教育・訓練を表します。
 これは具体的な教会の働きですが、その権能はイエス・キリストにあります。彼は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから…」と言います。天と地に関するキリストの権能として教会は伝道・典礼・牧会を行います。決して牧師や長老の個人的力量によってなされるものではありません。教会全体が祈りのうちに活動していくべきものです。
 「命じておいたことを…」教会の教えは、古くからのものを語ります。次々と新しいもっともらしい教えが生まれてきますが、惑わされてはなりません。ヨハネは「あなたがたが初めから受けていた古い掟」を「新しい掟として」書きますが、それは「互いに愛し合いなさい」というものです。キリストが私たちを愛したように私たちも愛し合う。このことに尽きます。使徒たちの教えを守れということですから、私たちは教会の伝統に対して目を開かねば成りません。聖書の字面から一足飛びに私たちの生活には行かないのです。2000年の教会の歴史の中でどう読まれ、どう生かされて来たかを紐解くことで私たちの信仰生活は祝福されていきます。
2023年5月14日
復活節第6主日
信仰に報いる主 
 ローマ軍の百人隊長がイエスさまに使いを出して頼み事をしました。頼み事の内容は「死にかかっている部下の病気を治すために来てほしい」。部下思いの隊長です。それだけではありません。この伝言を引き受けてイエス様のところへ行ったのはユダヤ人の長老たちです。彼らがこの役を引き受けたのは、命令されたり脅されたりしたのではなく、心から隊長と部下のためを思ってです。これはユダヤ人と駐留ローマ軍の関係として珍しいことかもしれません。百人隊長はユダヤ人のために私財を投じユダヤ教の会堂を建てたのです。ローマでは政治家たちはしばしば私財を投じて公共的な建物や道路を作ったようです。それによってクリエンティス(クライアント、支持者)の心を掴み選挙に勝つためでした。でも、ユダヤ人に対してでは票になりません。
 イエスさまの心を動かしたのは多額の会堂建築献金ではありませんでした。長老たちの願いに腰を上げて百人隊長と部下のところへ向かおうとしたイエスさまのもとに、次の使い、今度は隊長の友人がやってきました。「来なくていいからひと言『治れ』と言ってほしい」というのです。自分はイエスさまを自宅に招くほどの者ではないとへりくだります。その上で…、ローマ軍部隊の隊長として、彼は上官の命令には忠実に従います。また彼の部下に命令すれば、部下は命令通りに行います。だからイエスさまが「治れ」と言えば病気は治るはずだというのです。百人隊長はイエスさまの霊的権威を完全に認めていました。ここに隊長の信仰が表れています。
2023年5月7日
復活節第5主日
神の子の自由 
 12節に「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、17節に「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。掟と命令はどう違うのか?と感じるかもしれませんが、12節は律法や命令を意味する名詞エントレー、17節は「命令する」という動詞エンテロマイです。意味の違いはありません。ギリシア語の旧約聖書では「律法」をエントレーで表現していますから、「互いに愛し合いなさい」はキリスト教の律法です。律法というのは8月に信徒セミナーで来ていただく予定の大頭眞一先生の表現を借りれば「神と共に歩く歩き方」を示すものです。実際、ここでもイエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。イエスさまが命を捨ててまで私たちを愛して歩まれた、その歩みを人々と一緒に歩みなさいということです。
 そのためにイエスさまは「主と僕」(トマスが復活したイエスさまに出会った時「私の主、私の神」と呼んだことを思い出します)という関係を超えて、友となってくださいます(福音讃美歌432, 聖歌493,519 )。主従関係と友人関係はどう違うでしょうか?私たちには神の御心が啓示されているので友なのです。
 私たちは自分で決心してクリスチャンになったと思っています。自分が決断することは大事なことです。けれども実はその決断も含めてキリストが私たちを選んでくださったのだということです。「互いに愛し合いなさい」という命令が不可能なものでないのはそのためです。
2023年4月30日
復活節第4主日
労働聖日 
 食べることは私たちが生きていく上で書かすことができない重要な行為です。医学の発達のおかげで自力で食べられない人でも生きられるようになっていますが、本来生き物としては食べるものを得られなくなったら食べられず、食べられなくなったら死にます。人は食べものを得るために働き続け、食べ続けるものです。エジプトを出たイスラエルが荒れ野で食べ物がなくなった時に神は毎日マナを降らせてイスラエルが食べることができるようにしてくださいました。人々はイエスに同じようなしるしを見せてくれと求めました。しかも「いつも」ですから毎日です。
 イエスの答は「わたしが命のパンである」でした。パンも水も一度食べ、飲んでもやがて飢え、渇きます。しかし、イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じる者は決して渇くことがないと約束されました。
 イエスが「命のパン」であるとはどういう意味か?それは、イエスは復活の命を持つ方であり、その復活の命を、イエスを信じる者に与えることがイエスの使命です。
復活の命とは、死を経験しそれを乗り越えた命ですから、永遠の命です。それを信じる者に与えると約束されているのです。
37節に「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」とあります。何という愛でしょうか!言い換えると、教会とはそういう場所です。
2023年4月23日
復活節第3主日
復活顕現2 
 先週読まれた箇所に、イエスさまが復活された朝、婦人たちが墓に行ったところ、遺体がなく、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたことが書いてありました。また、二人の弟子がエマオへの旅の途上、イエスさまと共に歩いていたことが書いてありました。二人がエルサレムに戻ると、主がシモン(ペトロ)に現れたという話で持ちきりでした。
 それにもかかわらず、その続きである今日の個所では、そこに本当にイエスさまが現れると「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。話に聞いていたのに実際に起こると受け入れられないのです。死んだ人が生き返る、それはいくら考えてもあり得ない話なのです。それなのに、弟子たちの目の前には確かにイエスさまが立っている。亡霊が現れたとしか思えませんでした。
 そんな弟子たちにイエスさまがおっしゃったことは「あなたがたに平和があるように」です。
日常会話の翻訳としては「こんにちは」が相当する普通の挨拶ですが、このシーンでは弟子たちの驚き・戸惑い・恐れを見越して「平安あれ」と語りかけられています。
 この箇所でもう一つ重要なことは「手や足を…触ってよく見なさい」、「焼いた魚を…彼らの前で食べられた」。主イエスは肉体をもって復活したことを強調しています。イエスは弟子たちの「心の中」だけに復活したのではありません。この肉体をもったイエスの復活が、私たちの復活の確かな保証となっています。
2023年4月16日
復活節第2主日
復活顕現 
  クレオパともう一人の弟子は主イエスの死後、エルサレムを去ろうと歩いていました。彼らは「行いにも言葉にも力のある預言者」イエスが最高法院によって死刑にしてしまったことに落胆していました。「イエスは生きておられる」という天使のお告げがあったという話は耳にしましたが、彼らの理解を超えることでした。
 話しながら歩いていると、途中から別の旅人が話に加わって、(旧約)聖書全体からイエスについて苦難を受けて栄光に入ることを語りました。二人はそれがイエス本人とは気がつきませんでした。話に引き込まれた彼らは一緒に泊まるように旅人に勧めます。
 彼らがイエスに気付いたのはパンを裂く行為でした。聖餐においてイエスが私たちに立ち現れることを示しています。そしてイエスの聖書解釈(旧約全体はメシアがイエスであることを指し示している)を知る時に私たちは心を燃やされ、生きる希望を与えられます。
2023年4月9日
復活日
キリストの復活 
  十字架はキリスト教会のシンボルになっています。十字架は神の独り子キリストが私たちの罪を負って死んだことのしるしです。私たちはキリストの死を洗礼によって自分のものとして受け取ります。キリストの十字架の死と共に罪人である私たちも死んだとされるのです。
 けれども十字架によって罪に対して死んだことは、キリストにある救いの入口です。キリストの復活にあやかって私たちも新しい命を生きる。ここにキリスト教の目的があります。極端に縮めれば「キリスト教信仰とは『生きる』こと」です。正確に言えば「罪から解放されて生きる」ことです。このことからキリスト教倫理の大原則が12節以下に展開されていきますが、別の機会に譲り、今日はこれから行われる洗礼式の恵みを確認し、各々が受けた洗礼を思い起こし新たに加えられる仲間を歓迎致しましょう。
2023年4月2日
四旬節第6主日
十字架への道 
神の独り子イエスは犯罪者たちの一人として十字架にかけられました。ユダヤの議員たちは失敗した救世主としてイエスをあざ笑いました。兵士たちはユダヤ王になろうとして失敗した男としてイエスを侮辱しました。
 そのような状況をルカは暗黒として描きます。昼間のいちばん明るい時間帯であるにも関わらず、「太陽は光を失っていた」というのです。神が人を救うために送られてきた救い主は失敗したように見えるのです。イエスはもはや何の努力もしません。努力のしようもないのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。けれどもこれこそが救いの大本です。
 あらゆる人がイエスを侮辱する中で二人の人が違う反応をしました。共に十字架にかけられた内の一人と、ローマ軍の隊長です。周囲の人々に惑わされず、イエスが神の子、救い主であることを認め、告白しました
2023年3月26日
四旬節第5主日
十字架の勝利 
  「ぶどう園と農夫」のたとえ。実にひどいたとえ話です。しかしこのたとえは何をたとえているのかを見ていきましょう。ある人(主人)は神です。ぶどう園は神の国(イスラエル)です。
けれども農夫たち(イスラエル)は主に背き続け、使い(預言者)たちを迫害し、挙げ句の果てに主人の独り子(イエス・キリスト)をも殺してぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとしました。主人はそれを許さず、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の者たち(異邦人)に与える。
 直前の洗礼者ヨハネについての問答とつながっています。最高法院の人々は洗礼者ヨハネを無視していました。ヨハネは救いの道ぞなえをする者として神から遣わされていた人でしたが、彼の警告は重んじられることなく、やがて領主ヘロデによって殺されてしまいました。そして神の独り子も殺されることになります。
 「隅の親石」は詩編118:22の言葉です。私の大学時代の友人森田恭一郎牧師は、この言葉には3つの意味があると言います。
1.詩編での意味「もうダメだ、捨てられたと思っていた時に救われた」という感謝。
2.ユダヤ人に捨てられたイエスが救い主。これは使徒4:4やⅠペトロ2:4も参照。
3.イエス・キリストを親石として「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Ⅰペトロ2:5)。
 神はユダヤ人に捨てられた石であるイエス・キリストを隅の親石として、異邦人である私たちに神の国イスラエルである教会へと招かれました。これができあがるためには多くの石が適材適所で用いられることが必要です。
2023年3月19日
四旬節第4主日
主の変容 
  イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて山に登られました。祈りに没頭するためです。イエスさまの輝きはそのような中で神さまの栄光を現すものでした。
 ペトロが「小屋を三つ建てましょう」などというトンチンカンなことを口走りました。彼はその時はこの出来事の意味がわからなかったようですが、このことは彼の信仰とミッションに決定的な影響を与えました。ペトロの手紙二1:16~21を読んでみましょう。
 ペトロは山での体験を語ります。「キリストの威光を目撃した」「この声を聞いた」。目でも耳でも確認したのです。キリストの栄光の姿と天からの声です。それは神秘的な体験でした。神秘的な境地を体験したという信仰者は多くいるかもしれませんが、ここで大事なことは神秘的な体験(幻視・幻聴)で終わるのではなく、モーセとエリヤ、即ち「律法と預言者」=(旧約)聖書によって検証されています。イエス・キリストの栄光は創世記から始まる神の救いの物語(歴史)の中に位置づけられています。だからペトロは聖書の預言を自分勝手に解釈してはいけないと戒めます。歴史とは出来事の羅列ではなく、解釈です。自分勝手な解釈ではなく旧約時代からの伝統的な解釈を教会はユダヤ教から受け継ぎ、キリスト教の伝統を形成してきました。そこに聖霊の働きを認めることが即ち「聖書は聖霊の感動によって成る」という私たちの教団の信仰告白です。このペトロたちの信仰に連なって、私たちもまた礼拝で救い主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ます。
2023年3月12日
四旬節第3主日
受難の予告 
 人々はイエスさまを洗礼者ヨハネとかエリヤなど偉大な預言者の再来と噂していました。主は弟子たちが御自分をどう思っているか尋ねます。真っ先にペトロが「神からのメシア(キリスト)」と答えました。けれども実はほかの人たちの答とそれほど違うわけではありません。エリヤはバアルの預言者たちと対決して勝利しました。洗礼者ヨハネも領主の結婚を律法に背くものだと厳しく非難しました。当時の人たちのメシア(キリスト)に対する期待は、異教の国であるローマへの従属をやめ、神の国としてのイスラエル回復を実現することでした。
 イエスはそのような期待を込めてエリヤや洗礼者ヨハネの再来とみなされていたし、弟子たちの多くもそう信じてイエスに従ってきたのだと思います。
 しかし、主イエスは22節以下でそのようなメシア観を打ち砕くようなことを告げます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する。…自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
十字架は最も重い罪人に対して課せられる最も残酷な処刑方法です。主の十字架の場面では多くの人々が十字架を見て嘲笑いました。主の弟子たちに対しても、そのように生きよと命じられています。
 キリストの十字架を見上げる時、自分の姿を重ねて見ることができます。かっこいいヒーローではなく、苦難の僕に自らを重ねましょう。
2023年3月5日
四旬節第2主日
悪と戦うキリスト 
 今日読まれた福音書は難解な話を含む二つの段落です。
 まず「ベルゼブル論争」と言われるもの。イエスさまはさまざまな悪霊を追い出していました。当時の考え方では、障がいは悪霊によると考えられていました。聖書はそうした当時の人々の考え方を受け入れた上で書かれています。イエスさまの行為は、人の状態を正常なもの、本来あるべき姿へと(とりわけ神さまとの関係において)正しくしていく活動です。ところがある人々は表面に見える現象(この場合は物を言えなくする霊を追い出し、口がきけるようになった)だけをみて、「このような奇跡は更に強い悪霊の頭の力を使っているのだ」と評したのです。しかし、イエスさまの奇跡は神の国の到来を告げる「しるし」です。
 24節から26節もある意味で変なお話しですが、おそらく次のような意味です。
 イエスさまは人の中に住み着いた悪霊を追い出しておられます。悪霊を追い出したなら、その代わりにイエス・キリストに住んでいただかなければなりません。ところがイエス・キリストを単なる病気治しの先生としか思わず、魂の奧にお迎えせずに、魂を空き屋のままにしておくと、追い出された悪霊が「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て」再び住み着いてしまい、前よりも悪くなるのです。イエスさまは神の国の到来を告げ知らせているのです。ただ肉体の病気や障がいを治してもらうのではなく、自分を神の国のものとして最も強い霊=キリストの霊=聖霊に住んでいただきましょう。
2023年2月26日
四旬節第1主日
荒れ野の誘惑 
 イエスさまは洗礼者ヨハネのもとを去り、ガリラヤで伝道を開始されます。その前に受けなければならなかったのが悪魔の誘惑でした。
人間的な弱さのゆえに誘惑されたのではなく
“霊”によって荒れ野を引き回されたのです。この40日はエジプトを脱出したイスラエルカナンの地に入るまでに経験しなければならなかった40年間の彷徨を指しています。神の民はただ救い出されただけではなく、訓練を受けて神の民とされていくのです。同じようにイエスさまも神の独り子だから自動的に救い主なのでなく、人間として苦しさの中を通らされて救いの道を切り拓く者となりました。
 悪魔は3つの誘惑をしました。第一は食べ物です。人(以外の動物も)は誰でも食べないと生きられません。けれども肉体を維持するだけでなく霊的な次元を満たすものが必要です。神さまの口から出る言葉です。神の言葉を求めることが大事です。第二の誘惑は何を神とし、誰を拝むかです。この世の権力と繁栄は悪魔の手にあり、悪魔がそれを差配している。だから悪魔を拝めば利益に与れる。けれどもイエスさまは、利益になろうとなるまいと拝むべきは神だけだと断言します。第三の誘惑は安全の問題。神さまは本当にあなたを守れるか?前2つの誘惑にイエスさまは聖書の言葉をもって応えました。今度は悪魔も聖書の言葉を根拠にして誘惑してきます。けれども、イエスさまの答はまたもや聖書でした。聖書に記された神の言葉は、信仰と生活の唯一の規範として、私たちを悪魔の誘惑から守ります。
2023年2月19日
降誕節第9主日
奇跡を行うキリスト 
 ルカ9章冒頭でイエスさまは12使徒に悪霊に打ち勝ち病気をいやす力と権能を授けて周辺の村々に派遣しました。彼らは使命を果たして帰って来ました。イエスは弟子たちを連れてベトサイダという町に退かれます。働きの後に退くことは大切です。退くことを英語でリトリート(数日間住み慣れた土地を離れて、仕事や人間関係で疲れた心や体を癒す過ごし方)と言います。使徒たちに必要なことでした
 ところが、人々はそんなイエスさまの思いをよそに自分たちの求めを満たしてもらおうとイエスさまを追いかけていきます。主はその求めを拒まず、神の国の教えを説き病人をいやしていました。使徒たちは休憩が必要でした。人々を解散させるよう求めました。するとイエスさまは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。五つのパンと二匹の魚を彼らが人々に配ると五千人の人々がみな満腹したというのです。五千人の人々に5つのパンと2匹の魚で何ができる?という使徒たちの疑問は最もです。しかしもっているものをすべて用いる時に、自分の力以上のことを神が起こしてくださいます。鈴鹿・亀山のクリスチャンは伝道のために少なすぎるでしょうか?今いるクリスチャンを神は用います。そればかりではありません。人々が満腹して余りが十二籠になったのは12人が籠を持って集めたからです。主イエスの奇跡ですが、それは12使徒によって行われました。あなたも主の器です。
2023年2月12日
降誕節第8主日
いやすキリスト 
 今日読まれた福音書には二つの癒しの物語が記されています。一つ目は重い皮膚病を清くした話、もう一つは中風で寝たきりの男を立ち上がらせ歩かせた話です。特に後者の場合イエスさまははじめは病気のことはおっしゃらず、「人よ、あなたの罪は赦された」と、罪の赦しを宣言しています。このことが居合わせた律法学者やファリサイ派の人々を怒らせました。なぜなら、罪の赦しは神にしかできないことだからです。通常罪を赦してもらうためには、犠牲となる動物を携えて神殿に行き、祭司がその犠牲の動物を祭壇に屠り、赦しのための儀式を行うのです。そうした儀式をすっ飛ばし罪の告白すらもしていない男に、友情にあふれる友達が連れて来て、屋根に穴を開けるという非常識な手段で癒そうとしてもらったからという理由で罪の赦しを宣言するなど考えも及ばないことでした。確かにイエスさまが当たり前の教師であれば彼らのいう通りとんでもないことです。けれどもイエスという方がただの聖書の教師ではなく救い主であるということをわからせるために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。
 そう考えると前半の皮膚病の件は、ただ単にただれて汚かった皮膚がきれいになったということではないでしょう。イエス・キリストがいやすのは、皮膚だけではなく、その人の全体です。彼自身をきよめてくださった、きよい人間としてくださったことを意味します。「救い主・きよめ主・癒し主・王の王・主の主」(聖歌520)
 2023年2月5日
降誕節第7主日
教えるキリスト
  主イエスは多くの場合、たとえを用いて人々に神の国の福音を語りました。たとえ話はわかりやすいのでしょうか、わかりづらいのでしょうか。イエスさまがお語りになるのは福音ですが、それは必ずしもわかりやすいものではありません。人々は救い主を待ち望んでいましたが、救い主イエスさまが来られても、救い主であると認めず殺してしまいました。けれどもその死が救いを、しかも契約の民であるユダヤ人とそうではない異邦人を共に救う業となったというのはわかりにくいことだろうと思います。
 今日の福音書では農夫が種を蒔きます。種蒔きの方法もいろいろで、雲仙普賢岳の災害の後、当時の島原ボランティア協議会の宮本会長(造園業)たちは飛行機で種を蒔き、溶岩や火砕流で灰色に覆われた山肌を緑化することを考えました。今はドローンを使っての田植えも行われているそうです。
 イエスさまの時代のユダヤの種蒔きは手に種を取り豪快に蒔いていたようです。風に乗って畑の外にも落ちたようです。同じ種でもどんな土壌に落ちたかで生育には差が出ます。
ここでの話は福音の聞き手が問題になっています。弟子たちには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえで語るのは「 『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるため」だというのです。
 あなたは福音に対しどんな土壌でしょうか?福音の真理を聞く耳を持っているでしょうか?
 農夫である主は絶え間ない努力をもって土壌を改良しようとしておられます。
2023年1月29日
降誕節第6主日
新しい神殿 
  6:14の「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」はしばしば信者でない人と結婚してはいけないことの根拠として使われます。しかし、パウロはコリント第一の手紙7章では「ある女に信者でない夫がい…る場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされている」と言っています。
 私たちの多くはキリスト者ではない家族と暮らし、仏教の法事に参列し、キリスト教信仰とは無縁の職場で働いて、そこには神棚があったりします。そうした場にあっても、キリストを知らない人たちの信仰や思考に取り込まれるのではなく、キリストの福音にしっかり立ってすべての人にキリストの光を照らしていくことが求められています。
 もちろん、一族みんながクリスチャンで、職場もキリスト教の企業だという人もいます。それは大きな恵みですが、そういう人は少数です。
 7:1では「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」とありますが、決して未信者との関係を断つことを意味していません。そうではなく、神は生ける神の神殿として教会をお建てになり、教会の交わりを住みかとなさいました。教会の交わり(教会というのは建物や組織ではなくコミュニティ=交わりです。)で神と100%の交わりを保っているなら、信者でない家族との生活の中でも、自らを清め、むしろ信者でない家族をも聖なる者とする(Ⅰコリント7:14)ことになります。
2023年1月22日
降誕節第5主日
宣教の開始 
 今日読まれた箇所の前、14,15節はイエスさまがナザレに帰る前にガリラヤ各地の会堂で教え、力ある業を行い尊敬されたことを記しています。ナザレの人々もそのうわさを聞いていました。ついにイエスさまはナザレの会堂の講壇に立たれました。その日の朗読箇所はイザヤ書61章でした。
 続いて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と語られました。
ナザレの会衆は「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たのですが、他の町と違うのは彼らはイエスの親兄弟、子供の頃を知っていました。ヨセフの本当のこでないことも。だからこの驚きは複雑なものです。イエスさまはそんな彼らの心を見透かして自己中心的な人々の思いを指摘されました。彼らはイエスさまがナザレのために益になることをしてくれると期待したのですが、イエスさまはエリヤがイスラエルではなく、フェニキアのサレプタのやもめに遣わされたこと、エリシャが重い皮膚病を癒したのはシリアの将軍ナアマンだけだったことを挙げました。
 これを聞いてナザレの人々は態度を一変させ、イエスさまを崖から突き落とそうとしたというのです。預言者もイエスさまも多くの奇跡を行いました。それは神の言葉を証しするものです。ところが私たちはそこから神の言葉を聞くのではなく、自分の利益を求めようとしているのではないでしょうか。キリストが、使徒たちが、牧師・司祭が遣わされたのは、個人的利益のためでなく神の民を愛によって整えるためです。
2023年1月15日
降誕節第4主日
最初の弟子たち 
 イエスさまは漁師の舟を借りて湖の上から岸辺の人々に話をされました。これは大学やホールの階段状の部屋に相当します。
 話が終わった時に主は漁師たちに沖に漕ぎ出して漁をするように言いました。イエスさまは大工の倅で漁業は素人です。素人がプロに指示をしたのです。漁師たちは一晩あれこれやってみたけど不漁でした。ペトロたちの偉いところは、プロの誇りを捨てて素人のイエスさまの言葉に従ったことです。その結果大漁になりました。ペトロの舟だけでは入りきらず、仲間の舟を呼んで網を揚げると2艘の舟が魚でいっぱいになりました。
 ペトロはビックリしてイエスさまの足もとにひれ伏して「わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言いました。これはイエスさまを単なるラビではない、神の聖なるお方だと感じ取ったからでしょう。ヤコブとヨハネも同様でした。イエスさまは「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。彼らは全てを捨ててイエスさまに従いました。
 人間的な知恵では教会は成長しません。いや、さまざまな工夫をして人が多く集まったり献金が多く集まることもあります。けれどもそれは本当の意味でのキリストの教会から離れて行くことになりかねません。聖霊に導かれた伝道が成される時のみ、本当の意味での教会が形づくられます。けれどもそれは一筋縄ではいきません。主イエスの伝道も使徒たちによる伝道もさんざん苦労をなめることになります。そうして全世界の人々に福音が満たされていくことになりました。
2023年1月8日
降誕節第3主日
主の洗礼 
  教団の教会暦では、今週は降誕節第3主日ですが、一般的には公現(顕現)後第1主日とされます。教団の教会暦は期節をシンプルにすることを重視しているのでクリスマスとペンテコステを中心として、それぞれの前後に分けています。この欠点は公現日の重要性が埋もれてしまうことだろうと思います。
 今日の朗読個所は「民衆はメシアを待ち望んでいた」という言葉から始まります。洗礼者ヨハネにその期待がかかっていました。けれども彼は「自分はメシアの履物のひもを解く値打ちもない」と否定しました。
 多くの人がヨハネの宣教によって悔い改め、洗礼を受けました。イエスさまもその一人でした。鈴鹿教会で洗礼を受けると鈴鹿教会の信徒になります。もう少し大きく言えば日本基督教団の信徒になります。ですからイエスさまもヨハネから洗礼を受けてヨハネ教団の信徒となったことになります。やがてヨハネが逮捕され、指導者を失ってイエスさまは故郷のガリラヤへ戻り宣教を開始したようです。
 さて、イエスさまが洗礼をお受けになった時天が開け聖霊が鳩のようにイエスの上に降ってきました。それと共に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきました。これはイエスさまだけの特別なことと思われるかもしれませんが、すべてイエスさまを信じるてバプテスマを受ける人には、聖霊が降り、「神の子どもとなる特権」(ヨハネ1:12新改訳2017)が約束されています。このすばらしい恵みを自分のものとしましょう。
2023年1月1日
主の命名日 元旦 
  教会暦は主イエスのご生涯を一年に割り振って、主の歩みを追体験するものです。12月25日を主の誕生の祝日とし、誕生7日後(1月1日)は割礼&命名の日です。1月6日は公現日(顕現日・栄光祭)救い主が異邦人に現れたことを祝う祭りで東方の博士たちと結びつけられています。ここまでが「クリスマス期間」となっています。次週は主が洗礼をお受けになったことを記念する主日です。
 生後8日目、律法に従って割礼を受け、慣例に従ってその日イエスと名付けられました。ヘブライ語でイェシュア、日本語の旧約聖書ではヨシュア、意味は「ヤハウェは救い」です。普通のありふれた名です。ですから大人になってからは他のイエスと区別するために「ナザレのイエス」と呼ばれます。しかしこの名は両親や親戚が選んだのではなく天使に指示された特別な名でした。まさに主の救いを体現する人物となったのです。
 出産後33日が過ぎ、マリアの清めのため、また幼子を主に献げるため、一家は神殿に行きます。そこでシメオンという老人に出会います。彼はイエスを抱き「これで安心して死ねる」と言いました。イエスは「万民のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」だというのです。また、女預言者アンナも「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話し」ました。
 こうしてまだ生まれたばかりのイエスが何者かが祭司や律法学者ではなく、敬虔な年老いた男女の信仰者によって証しされたのでした。


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